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三.わたしは「食べかす」

 札幌の明星みょうじょう百貨店に勤めていた七葉が、東京郊外にある本店へ転勤を言い渡されたのは、つい半月前のことだ。


 新卒二年目、幹部候補生というわけでもない七葉の東京への配置換えは、異例中の異例と言っていい。


 きっかけは、職場でのトラブルだった。

 社内恋愛で三角関係に巻き込まれたのだ。


「篠森さん、ちょっといい? 話したいことがあるんだけど」


 ある日の終業時間。

 七葉を会議室に連れ出したのは、三期上の先輩社員・東堂理華とうどうりかだった。


 仕事のミスで叱られるのだろうか。でも、何も思い当たらない。そもそも理華とは所属部署が違うため、普段は殆ど話したことがないのだ。


 戸惑う七葉に向かって、理華は自分のスマートフォンを突き付けた。


「これ、どういうことか説明して」


 スマートフォンの画面を見て、口から心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。

 そこには七葉と、付き合いはじめたばかりの恋人・後藤慶一ごとうけいいちの写った写真が映し出されていた。


 昨日のデートの別れ際、慶一の愛車から降りるとき、呼び止められて話をした。そのときの写真だ。

 しかも、画像は七葉の背後から撮られているので、唇を重ねているようにも見えてしまう。

 まさか、撮られていたなんて。

 しかも、なぜ無関係の理華が画像を持っているのか。


「答えて、篠森さん。あなたと後藤君、どういう関係なの?」


 腰に手を当てて問い詰める理華は、くるくると巻いた長い髪が人目を惹く派手な美人だ。それが今、怒りの形相で七葉をにらみつけている。


「お、お付き合いしてます」


「いつから」


「先月から、です。あの、後藤さんから告白されて……」


 しどろもどろに答えると、理華の眉がますます吊り上がった。


「嘘はやめてよ。そんなわけないじゃない。彼、わたしと結婚するんだから」


「え……!?」

 

 言葉の意味が、一瞬、本気で理解できなかった。


 ・

 ・

 ・


 慶一に出会ったのは、三か月ほど前のこと。

 お気に入りの喫茶店で、続けて何度か顔を合わせたのがきっかけだった。

 

 職場近くで五十年ちかく営業しているという老舗喫茶店。

 休日に一人で訪れては、珈琲と昔ながらのフルーツサンドを味わい、本を読む。それが七葉にとっての一番の贅沢だった。


 店の客たちは、七葉と同じように、それぞれの時間を大切に過ごしている人が多い。

 常連客は互いに顔を覚えても言葉を交わさないのが普通だが、ある日、会計のタイミングが一緒になったときに慶一のほうから声をかけてきた。


「よく会いますね。きみ、明星百貨店の人でしょ。俺も。先週の消防訓練で隣のチームだったよ」


「えっ、そうでした!?」


「うん。俺、後藤慶一、バイヤー。よろしく」

 

 慶一が右手を差し出す。握手を交わし、自然な流れで会話が始まった。


「いいよね、この喫茶店。珈琲も美味いけど、俺は特にここのフルーツサンドが大好きなんだ。いずれ北海道物産展に入ってもらいたいなって考えてて」


「いいですね! きっと人気が出ると思います」 


 それをきっかけに、喫茶店で会うたび話をするようになった。

 ふたり一緒のテーブルで同じメニューを一緒に食べるようになると、心の距離は急速に近づいていった。


 五歳年上の慶一。

 食べることと動物が好き、という点が、自分と似ていると思った。少し気が弱くて、優柔不断なところも。


 水族館に誘われて、慶一の運転する車でドライブに出掛けた。

 有名な喫茶店に連れて行ってもらい、名物だというパフェを食べて、たくさん笑った。

 その帰りに「好きだ」と言われ、交際が始まった。


 七葉が学生の頃、両親が離婚した。母には父の他に親しい男性がいた、と聞いている。

 親と同じ失敗をしたくないという思いが強かったから、付き合う相手には慎重になってしまっていた七葉にとって、慶一は初めての「彼氏」だった。


 三回目のデートまで、慶一は手も繋いでこなかった。

 奥手な自分を気遣ってくれていると感じた。どんどん惹かれていった。


「来週また二人で出かけようね。次は何を食べたいか考えておいて」


 別れ際、そう言って慶一は笑った。

 ――あれから、まだ一晩しか経っていない。

 ついさっきまで幸せで、夢心地だったのに。


 呆然とする七葉の前で、理華は慶一に電話をかけた。

 顔面蒼白で飛んできた慶一が、「婚約者」に向かって「二度と浮気はしません」と頭を下げるのを見て、言葉も出なかった。


 どうやって家まで帰ったか、覚えていない。

 夜おそく慶一に電話をしてみたけれど、彼は出なかった。メッセージを送っても既読にならない。


 振られたのだ。いとも簡単に。

 いや、付き合ってさえいなかったのか。慶一にとって、七葉は「浮気相手」に過ぎなかったのだから。


 それだけでも、傷つくには充分だったのに。

 事態はさらに、ややこしい方向へ転がった。

 

 理華の父は地元の名士で、百貨店の顧客の中でも最上位とされる人物だった。その父親が、可愛い娘に恥をかかせた七葉をクビにしろと職場に怒鳴りこんできたのだ。


 陳腐な三角関係は職場じゅうに知れ渡るところとなった。

 そもそも理華は自ら「篠森七葉に婚約者を盗まれそうになった!」と言いまわっていたのだから、隠しようもなかったが。


 上司は七葉に自主退職してほしかったに違いない。

 けれど、七葉にだって生活がある。すぐに再就職できるとも限らない。

 苦しい家計のなかから短大まで行かせてくれた祖父母のことを考えると、簡単に「辞めます」とは言えなかった。


 やがて七葉に辞令が下った。東京郊外にある本店への転勤だった。


 住宅手当などは特にない。給料も変わらないから、家賃の高い東京への転勤は生活が苦しくなることを意味する。嫌なら辞めろということだ。


 職場では同期さえも遠巻きで、口をきいてくれない。

 百貨店は女性の多い職場だ。先輩社員の婚約者を横取りした(ことになっている)七葉は、すっかり魔女扱いされている。

 もう、居場所はどこにもなかった。


 札幌店での最後の出勤日。

 引継ぎを終え、化粧室の個室にいたとき、先輩社員たちのグループが話しながら入って来る物音が聞こえた。


 個室の中にいるのが七葉とは誰も思っていないのだろう。

 化粧直しのために手洗い場を占拠しながら、かしましく話している。


「篠森さん、とばされたって!」

「しっかし後藤くんも、なんだって婚約者と同じ職場の女に手を出すかね? たしかに篠森さん、ちょっと可愛いけどさ」

「若いってだけでしょ。あの子から誘ったって聞いたよ? おとなしそうな顔して怖いよねえ」

「後藤くんのほうだって、つまみ食いよ、つまみ食い。結婚前に、パクッとね」


 きゃははは。

 かん高い嬌声が遠ざかっていく。


 静かになったところで個室を出た。

 誰もいない化粧室で、壁の鏡を見る。

 土気色の顔をした自分が、うつろな目でこちらを見返していた。


 ――つまみ食いよ、つまみ食い。

 聞いてしまった陰口は、頭の中で渦を巻いて響き渡る。何度も、何度も、大音量で。


「……っ」


 気が付くと、その場にしゃがみこんでいた。

 いままで、不思議なくらい涙は出なかったのに。堰を切ったように両目から溢れて止まらない。

 

 ーー恋をしたことで、別の女性を傷つけた。

 ーー母親と同じ轍を踏んでしまった。

 ーー想いを通わせたと信じた相手が、自分を好きではなかった。


 悲しかった。そして、虚しかった。

 自分が本当に、食い散らかされた食べかすになったような気がして。



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