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二.見上げる影

 駅前の賑わいから少し外れた住宅街の一角に、七葉が部屋を借りたアパートはある。


 四階建て最上階のワンルーム、オートロックつき。

 古いなりに内装はリフォームされており、日当たりも悪くない。

 社会人二年目、二十二歳の七葉の月収で支払い可能な家賃で、こんな部屋が見つかったのは奇跡だと思う。


「家賃が割安なのにはそれなりの理由もありますよ」


 部屋探しの際に同行した不動産屋の男性は、内見の際にこう言っていた。


「掘り出し物物件には違いありませんが、まず築浅ではありません。エレベーターはついていませんし、近くにカフェもコンビニエンスストアもありません。最近は徒歩五分以内の距離にコンビニがない物件は嫌だとおっしゃるお客様が多くて。特に若いかたは」


「たしかに……」


 デメリットもそれなりにあったが、なにしろ急な転勤だ。

 たった一日で住まいを決めなければならず、同じ予算で他に紹介された部屋は職場から遠いか、近いけれど驚くほど狭いかの究極の選択。

 エレベーターやコンビニがないくらい、なんでもない。

 買い物は駅前のスーパーがあれば十分と割り切って、七葉はこの部屋を借りることに決めた。


 アパートの周囲は、もっと背の高いマンションか、古くからの住人のものと思われる住宅が立ち並んでいる。

 近代的な高層建築と、庭付きの日本家屋が隣り合っていたりもするわけだ。少しアンバランスな印象が、逆に東京らしいとも思う。


 すぐ近くに小さな祠があることに気づいたのは、荷物の運び入れが終わり、引っ越し業者のトラックを見送った後のことだった。


 建物の間に埋もれるように、ちんまりと佇む祠。


(何が祀られているんだろう……)


 そっと覗いてみると、中にオーソドックスな狐の石像が鎮座してるのが見えた。

 祠と同様に、像も綺麗に掃除されている。

 規模はささやかながら、付近の住民に大切にされていることが伝わってきた。


「近所に越してまいりました、篠森七葉しのもりななはです。どうぞよろしくお願いいたします」

  

 挨拶代わりに手を合わせてみた。

 かといって、七葉は特別信心深いわけでもない。

 子供の頃によく遊びに行っていた祖父母の家の近くにも、同じような祠があったことを思い出したのだ。

 やはり狐の像が祀られていて、その前を通るたび、幼い七葉に祖母は言った。


『いいかい、ナナちゃん。お狐様は神様のお使いだからね、ちゃんとご挨拶するんだよ』


『うん、おばあちゃん』


 七葉が育った地域は稲作が盛んだったこともあって、近所の人たちもみな祠を大切にしていたし、秋にはお祭りも行われていた。

 一緒に手を合わせたり、時には野の花を供えたりしたことは、今でも懐かしい思い出だ。


 今日も狐の像の前を通過しながら、小さく声に出してみる。


「帰りましたー」


 この時間になると通行人の姿もまばらだ。特に今夜は他に人影もなく、誰かに聞かれる心配もない。

 部屋に帰っても一人。

 ただいまを言う相手は、物言わぬ石像くらいしかない。


 ―――疲れたな。


 思い足取りで四階までの階段を昇る。

 部屋に入ると、床に積まれたままの引越し用段ボールの山が出迎えてくれた。

 荷ほどきをする気力は、今日も湧いてきそうにない。

 いちばん上に積まれている箱には、愛用の小さな炊飯器が入っているはずだ。けれど。


(荷解きは今度の休みでいいかな。ご飯、炊かないし)


 こうやって、先送りを繰り返している。

 カーテンを閉じようと窓辺に向かい、何気なく下を見たとき、七葉の心臓が大きく跳ね上がった。

 反射的に体が動き、叩きつけるような勢いでカーテンを閉める。


(今のなに?!)


 アパートのすぐ前に、誰かが立っているように見えたのだ。

 ついさっき七葉が建物に入ったときには、周囲に人の気配などなかったのに。


 何より不気味だったのは、その人影が微動だにしていなかったこと。

 入って来るでもなく出て行くでもなく、ただじっと、アパートの方を向いて立っているだけだったのだ。

 しかも、七葉の部屋の窓を見上げるような格好で。


(ふ、不審者!?)


 通報するなら確かめないと。

 震える手で数センチだけカーテンを開け、下を覗き見る。


(……いない)


 人影は消え去っていた。


 念のため部屋の明かりを点けて、もういちど確認してみたが、やはり誰の姿もない。どんよりとした闇が地面に溜まっているだけだ。


 見間違いだろうか。でも、さっきは本当に姿が見えた気がした。

 驚いてすぐにカーテンを閉めてしまったから、男か女かも定かではない。

 ただ、夜の暗がりの中でも、ほんのり明るい色彩が目に残った気がした。ピンクとかベージュとか、そんな感じの色だったような――


『心当りある?』


 橋の上で、見知らぬ青年に言われた言葉が脳裏に甦る。


(まさか)


 さっきの一件とは無関係だ。心当たりも何も、東京には知り合いさえいない。


 それに。

 不思議なことに、窓の下に佇んでいた人物の顔が、まったく印象に残っていない。

 目撃したのは一瞬とはいえ、まるでそこだけ黒いモザイクがかかっていたかのように、何も思い出せない。


(……もう、考えるのやめよう)


 カーテンを閉め、七葉は思考を停止した。 

 どうせ見間違いだ。

 考えるのも面倒だった。自分の中で、これ以上ネガティブな案件を増やしたくない。


 ……失恋した。

 ……信頼も名誉も失った。友達も、築き上げてきた生活も、夢も。

 もう、じゅうぶん。


 胃のあたりが、きゅっとしめつけられる。


『ちゃんと食えよ』


 あの青年は言ったけど。

 今夜も、何も食べたくない。


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