十二、生者の世界へ帰る道
喫茶店から出た七葉と義経を、どよめきと歓声が包む。
店の入り口付近には、いつのまにか人だかりができていた。
「ちょっ……なに、この人たち!?」
義経に手を握られていなければ、店の中へと駆け戻っていただろう。
なぜなら待ち構えていた面々は、普通の人とはとても思えない空気を漂わせていたからだ。
いちばん前で着物を着ている男性は、肌が緑色だ。しかも口元が異様に尖っている。
(河童? 河童なの!?)
そのとなりには、さっきまでの義経と同じように、獣の耳と尻尾を生やした男の子。パーツの色や形からいって、狸のようだ。
(狐の義経がいるんだから、狸のあやかしもいて当然か……いや、当然っていうのかなこれ?)
一見、普通の人間と変わらない体つきの人々もいる。
が、花魁風の着物を着た女性は妙に首が長い(明らかに七葉の三倍はある)し、顔の皮膚が白い鱗で覆われている男性が混じっていたりと、どこかに強烈な非日常感を纏っているのだ。
(もしかして、この人たちみんな、あやかし?)
悲鳴をあげなかった自分を誉めてあげたい。
義経と久楼の変化を目の当たりにしたあとゆえに、多少の耐性がついたらしい。
「雁首そろえて何だよ、お前たち」
「義経がお嫁さんを連れてきたって聞いたからさ、見に来たんだ」
怪訝そうに尋ねる義経に、狸の耳の男の子がニヤニヤと答えた。
「は? 嫁!? 違うって、誰がそんな……お前か小毬!」
「えー、あたしは、ヨッシーが生身の女の子と一緒にいたって話しただけよぉ。あのこがヨッシーのお嫁さんになってくれたらいいわねーとは言ったけどぉ」
人垣の足もとから現れた三本尾の黒猫が、ピンク色の舌をちょろりと出して言う。
店に入る前に話しかけてきた猫又・小毬だ。
(やっぱり喋ってる……よね)
何度見ても聞いても、この猫は喋っている。あやかしなのだから、喋るくらいで驚いてはいけないのかもしれないが。
子供の頃に聞いた昔話に出てくる猫又は、とても恐ろしかった。
小毬は体が小さいせいか、接していても恐怖感はない。むしろ可愛いらしいくらいだ。
七葉と繋いでいた手をパッとほどき、義経は真顔で説明した。
「こいつはそんなんじゃない。憑きもの落としのために玖楼の店に連れてきただけだ」
「それだけ? 本当に?」
「本当だって。取り憑いてた死者を彼岸に送ったから、よりしろになってた娘は此岸に帰す」
聞いた一同が、いっせいに落胆の溜め息を吐いた。
「なーんだ、ようやく義経にも春がきたと思ったのに」
「まあ、妖狐の嫁になろうって娘さんなんか、今時なかなか見つからんわな」
「次の春は百年後かねぇ……」
「いやー、今まで一度もなかったんだから二百年後かも」
「やめろ、俺が全然モテないみたいだろうが!」
いじられている義経は気の毒だが、皆が彼を好ましく思っていることが伝わってくる。
真っ赤になって怒る義経の隣で、失礼にも七葉は笑い出してしまった。
「お前まで笑ってんなよ! 行くぞ!」
「う、うん」
人垣を掻き分けるように歩きだした義経を慌てて追う。
七葉を見上げて、猫又の小鞠が微笑んだ。
「お嬢さん、また来てね。あわい町に」
あわい町。
それがこの地区の名称なのだろうか。
はじめて聞く地名のような気がする。引っ越してきたばかりで、七葉はまだ東京のことをよく知らない。
……いや待て。
そもそもこの町へ来るとき、七葉と義経はビルの壁面に取り付けられた朱色の扉を開けて、中に入ったはずだ。
では、ここは屋内か。
全天候型テーマパークのように頭上の空はスクリーンで、天空にかかる月も瞬く星も作り物なのだろうか? そうとは思えないけれど――。
「じゃあね、此岸のお嬢さん!」
「またねー」
あやかしたちに見送られ、七葉は義経の背中を追った。
「東京にこんなところがあるなんて、知らなかった」
思わず漏れた呟きに、前を行く義経の赤いシャツの肩が上下に揺れた。苦笑している。
「あわい町は、あわい町。東京だけど、地図にはないよ」
「地図に、ない?」
「あわいってのは、狭間って意味さ。見てみな」
いつのまにか二人は、通りをまたぐ巨大な門の前に立っていた。
寺院の正門にあるような瓦屋根つきの立派な門だった。朱赤に塗られているため、神社の鳥居も連想させる。
足の下の石畳は、門の手前で唐突に途切れていた。
その向こう側には、濃い霧がたちこめている。霧は何層にも重なった白いベールのように視界を遮り、一寸先も見えない。
「大門だ。ここをくぐれば此岸に出る。此岸ていうのは、お前たちが普段暮らしてる生者の世界だ。この世とか現世とか呼ばれてる」
続いて義経は振り返り、ガス燈に照らされた通りのはるか先を指差した。
「この道の向こう、町の反対側にも大門がある。その先が彼岸。愛実は、そこへ渡ったんだよ」
「彼岸……って」
義経は答えなかった。謎めいた笑みだけが返ってくる。
意味を察した七葉が、一瞬言葉を失ったときだ。
義経が、ぴょん、と跳ぶように門の外へと踏み出した。その姿が白い霧の向こうに見えなくなる。
「よ、義経!?」
ひとり門の内側に残され、不安になって呼びかけた。
すると霧の中から義経の腕が伸びて、再び手首を掴まれた。そのまま、グイ、と門の外へ引っ張り出される。
「わっ!?」
次の瞬間、七葉は見覚えのある景色の中に立っていた。
コンクリートの壁に囲まれた暗い道。
七葉の住むアパートから、そう遠くない場所にある小路の奥だった。