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十一、あやかし喫茶へ、またいつか

 七葉の前に、すっと白いハンカチが差し出された。

 手渡してくれたのは、久楼だ。

 髪の毛の色も瞳の色も漆黒に戻っている。先ほどまでの翼ある鬼の姿は夢だったのかと思うほどだ。


「あ……ありがとうございます」


「七葉さんは優しいひとですね。あなたに縋りたいと思った愛実さんの気持ちが、よくわかります」


「そんな……わたし、彼女に何もしてあげられませんでした」


「それは違う」


 義経が言った。やはり彼も人間の姿に戻っている。


「お前が愛実をこの店まで連れてきた。愛実の魂が悪霊にならずに彼岸へ渡ることができたのは、お前がいたからだ」


「その通りです。七葉さんに見送ってもらえて、愛実さんは嬉しかったと思いますよ」


「……ありがとうございます」


 少し躊躇いながら、あやかしたちの言うことを謙遜せずに受け止めた。

 もしも二人の言う通りなら、七葉も救われる。

 

「もうそろそろ帰ったほうがいい。送ってやるよ」


 席を立ちながら、義経が促した。

 アナログ式の腕時計を見れば、文字盤上の針は午後十一時を大きくまわっていた。


「ほ、ほんとだ、帰らなきゃ。明日は早番だし!」


 弾かれたように席を立つ。


「おい、いきなり現実的だな」


「ええ、社会人なので!」


 感心した顔の義経に、七葉は力強く頷いた。

 夜は短い。働く女子は家に帰ってから寝るまでに、やらなくてはならないことが山ほどあるのだ。


「ご来店、ありがとうございました」


 喫茶店のマスターの顔で玖楼が会釈する。


「ごちそうさまでした。あの、お会計……」


 バッグから財布を取りだそうとする七葉を、久楼は笑顔で制する。


「結構ですよ。先ほどの小豆善哉は愛実さんにお出ししたものですから」

 

「でも、食べたのはわたしの体ですし。それに、すごく美味しかったです」


 実際、七葉は久々に美味しいものを食べた気分になっていた。

 ここのところ、まともに食事をしていなかった。

 久楼が出してくれた小豆善哉は、愛実の悲しみだけでなく、飢えていた七葉の体も温かく癒してくれたのだ。

 

 久楼の表情が綻んだ。


「それは良かった。人にはそれぞれ事情があるでしょうが、決して自らおろそかにしてはいけないことのひとつが、食事をすることなのですよ。どうか、しっかり食べて、生きてください。命あるものとして」


「命あるもの……」


 久楼は深く頷いた。


「失礼ですが、お店に入ってきた七葉さんを見て、すぐにわかりました。もう何日も、生きるための食事をしていないのだと」


 図星だった。久楼に言われるまで自分でも気づいてさえいなかったけれど。

 東京に来てから。いや、もっと前――失恋して以来。

 七葉は、食べることをおろそかにしていた。恋を失い、中傷に傷つき、生きる意欲が薄れて、だから何も食べたくなくなって。


 仕事中に倒れてしまわないよう、無理やり口に入れていたのはゼリーやシリアルバーなどの栄養補助食品くらい。

 この数か月、七葉にとって、「食べること」は生きるためでなく、働き続けるために最低限のエネルギーを補給するルーティンに成り果てていたのだ。


 黙り込んだ七葉にむかって、茶化すように義経が言う。


「ホント、さっきまでのお前ヤバかったから。半分死人みたいに真っ青な顔してさ、あんなんじゃ寄って来るのはおかしなもんばっかりだ」


「そういう言い方はやめなさい、義経」


 玖楼が嗜める。

 睨まれた義経は「おっかねえ」と肩をすくめた。長く生きているという割に少年のような態度だ。


「……けれど、彼の言うことも一理あるんです。心と体の飢餓が続くと、悪いものに憑かれやすくなります。愛実さんの魂を弾き出すためには、あなた自身の飢えを癒やす必要があったのですよ」


 宥める口調で久楼が補足する。


「いいから、今日のところは奢られときな。もともと久楼が趣味でやってる店なんだから」


「趣味?」


「そ。久楼こいつ、隙あらば勝手に振る舞ってくるから。そもそもお前、オーダーしてないだろ」


 言われてみれば、その通りだった。

 あの小豆善哉は、誰にも頼まれていないのに久楼が勝手に運んできたものだ。

 今になって気づいたのだが、テーブルの上には支払いのための伝票はおろか、メニューすらない。


 久楼はなぜ、愛実の魂が欲しているものがわかったのだろう。

 ひょっとして、死者の心が読めるのだろうか?

 

 死者を彼岸に送る「鬼」だという玖楼。

 この店で彼は、此岸を去る人が最期に食べたいものを提供しているのかもしれない。

 それは、とても優しい「見送り」なのではないかと思う。今まで考えていた「鬼」のイメージとは全然かけ離れてしまうけれど。

 

 七葉の心の内を知ってか知らずか、眼鏡の奥の目尻を下げて、久楼はにこりと微笑んだ。


「そういうわけで、代金は頂戴しません。そのかわり、もしもご縁がありましたら、またいらしてください。そこにいる義経も喜ぶと思います」


「よ、余計なこと言うなって」


 義経が何故か慌てたように遮る。


「おや、何が気にさわったんだい?」


「……やなやつだな、お前。まぁ、俺の縄張りで彷徨ってた死者を送ってくれたことに免じて、今日のところは許してやる。じゃあな」


「義経、七葉さんを家まで送っていくんだよ」


「わかってるって」


 ぶっきらぼうに言い捨てた義経が、来たときと同じく強引に七葉の手首を掴み、出入り口の扉へと向かう。


「あ、あの、ありがとうございました!」


 店を出る間際、なんとか久楼に声をかけた。

 言われたとおり、またいつか、この店に来たいと思ってしまっていたのだ。

 乳白色のシャンデリアと石油ランプの炎が揺れる店内を背景に、玖楼が頷く。


「どういたしまして。次は当店自慢の珈琲をご馳走します」


「はい……!」


「ほら、帰るぞ」


 義経が七葉の手を引いて急かす。


 入り口に取り付けられた鐘がカランコロン、とレトロな音で唄い、『純喫茶ひかり』の扉は閉じた。


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