一.謎の担当者
その日の勤務を終えた篠森七葉が「それ」に出くわしたのは、百貨店の裏にある従業員通用口を出てすぐのことだった。
街灯に照らされたアスファルトの上に、動物らしき影が佇んでいる。
(……犬?)
大きさでいえば、そのくらいだった。でも違う。
金色の毛に覆われた体、先だけが黒い四本の脚、ふわっと太い尻尾。
(……狐だ!)
一匹の狐が、至近距離からこちらを見上げていた。
七葉と目を合わせながら真正面までやってくると、後足を折って、お座りの姿勢をとる。金色の瞳が、街灯の光を受けてキラリと輝いた。
(ここ、街の中心部なんだけど)
こんな人通りの多い場所で、狐に出会うなんて。
生まれ故郷の北海道でも、そうあることではなかった。
ましてや、ここは東京都心。野良犬や野良猫さえも滅多に見かけないのに、まさか野生の狐がうろうろしているとは。
思いもよらぬ事態に固まる七葉を、狐は、じっと見つめてくる。
心なしか何か言いたげな表情だ。気のせいにきまっているのだが。
数秒のあいだ見つめあったあと、狐は小首を傾げ、四本の足でふたたび立ち上がった。
七葉に尻尾を向けて、表通りのほうへと歩き出す。
すいすいと器用に通行人の足元を抜けていく狐。
追い越された人たちは見向きもしない。
都会の人とはかくもクールなものか、それとも狐など目に入ってもいなくて、存在に気づいていないのか。
もういちど、光る目でこちらを振り向いて、金色の狐は雑踏の向こうに姿を消した。
(珍しい体験をしてしまった気がする……)
東京のビルの谷間で生き抜いている狐。
今の自分より、よっぽど逞しいと思ってしまうのは、それだけ七葉が疲れているということなのか――。
呆然と立ち尽くしていた七葉のトートバッグの中から、長閑なメロディが響いた。
バッグを肩からおろし、スマートフォンを取り出す。
画面に浮かんでいた文字は「おばあちゃん」。
北海道にいる祖母からの電話だ。
(……どうしよう)
声を聞きたい。でも、受信のスワイプをすることができない。
着信音は三十秒近く続き、やがて、あきらめたように静かになった。
画面は時刻表示に戻る。
午後七時三十分。
見上げた夜空は晴れていたが、星は数えるほどしか見当たらない。地上の灯りが強すぎるせいだ。
九月の風は、温かいとも冷たいとも言い難い温度でビルの間を吹き抜けていく。
秋がほとんどない、といわれる北海道で育った七葉には不慣れな感覚だった。
スマートフォンをしまい、通りに出た。
途端に人並みに飲まれそうになる。街は今、ちょうど帰宅ラッシュの時間だった。
交差点で信号が変わると、大勢の人がいっせいに動き出す。
「あ、ごめんなさい」
桜色のコートを着た若い女性にぶつかりそうになって、慌てて避けた。
(気を付けて歩いているつもりでも、これだもの……)
この都会で、自分はまっすぐ歩くことさえできないらしい。
そう考えて、また気分が落ち込む。
特に反応がない相手にぺこりと頭を下げて、急いで道路を渡り切った。
いつもつかまる信号機の横の細長い立て看板には、叫ぶようなフォントで大きな文字が書きつけられている。
【注意!! 死亡事故発生現場】
この場所で、不幸な事故があったことを知らせる看板だった。
添えられている日付は、二年前のクリスマスイブ。華やかな街が、いつもよりさらにキラキラと輝く夜だ。
この看板の横を通るたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられる気がする。
ただ、足を一歩進めたら、感傷も人並みに飲まれて消える。
この街では、ひとつの考えに捕らわれている時間はない。目の前のことで精いっぱいだ。毎日、毎日。
いまから電車に乗る。路線がいくつも存在することも、満員電車の混雑にも、まだ慣れない。
駅に向かいながら、七葉はまたひとつ、ため息をついた。
職場の最寄り駅から電車に揺られ、混雑が和らいだ頃に七葉が暮らす地区がある。
電車を降りたあと東に向かって少し歩くと、二車線の橋が架かる大きな川が横たわっている。
七葉が借りたアパートは、橋を越えた先にあった。
橋の中ほどにさしかかったとき、もういちどスマートフォンが鳴った。
新着メッセージが一件。
さっき電話をかけてきた祖母からだった。
『ななちゃん元気? 東京の暮らしはどう?』
『友達できたかい』
やや経ってから、もう一件。
『電話して』
簡単な文章だが、祖母の気持ちは痛いほど伝わって来る。
急な転勤で札幌から東京へ引っ越して一週間、電話の一本も寄越さなければコールバックもしない孫娘を案じているのだ。
不器用な七葉は、歩きながらスマートフォンを弄るのが苦手だ。
一瞬迷って、道の端へ体を寄せる。帰宅する人の波で、広い橋の上は、この時間でも人や自転車の往来が多い。
欄干付近で立ち止まって、返信メッセージを打ちこんだ。
『元気元気 東京は快適だよ!』
『これから職場の友達とご飯にいくの。だから今日は話せません。ごめんね』
嘘だ。
友達なんて、一緒にご飯なんて嘘。
転勤以来、職場の人間とは殆ど喋っていない。業務上どうしても必要な会話のとき以外、彼らは七葉と話そうとしない。
だけど。
(そんなこと、おばあちゃんに言えない。心配かけたくないもの)
幼いころに家を出た母、仕事で忙しい父に代わって、七葉を育ててくれた祖母。
なつかしい声を聞いたら、気持ちが崩れてしまいそうな気がする。堰を切って本音が溢れてしまう。
帰りたい。
東京なんて嫌い。
何を食べても美味しくないし、どこへ行っても人がいっぱいで落ち着かなくて、だけどわたしはひとりぼっちだよ、と。
ーー東京に来てからこっち、七葉は一度も祖母に電話をしていない。
文章だけなら、強がれるから。都会で元気に働く孫娘を演じて、安心させてあげられるから。
メッセージはすぐ既読になり、祖母からのコメントが返ってきた。
『よかったね』
『友達と美味しいもの食べてね』
(おいしいもの、か)
そういえば、今日のお昼は何を食べたんだっけ。
あ、栄養補助食品のシリアルバーか。半分残してしまったけど。
朝は何も食べていない。昨日の夜もそうだった。疲れている筈なのに、何も食べる気が起きなくて。
少し前まで思ってもみなかった。食べることが大好きだった自分が、こんな日々を送ることになるなんて。
いってきます、と送信したところで、急に周囲の気温が下がった気がした。
(やっぱり風邪ひいちゃったかな)
最近、こんなことがよくある。
突然ひどい寒気に襲われ、震えがとまらなくなるのだ。
(もうちょっと厚着してくればよかった)
ぞくぞくする冷気にカーディガンのボタンを留め、仕事用に一本にまとめていた髪をほどいた。肩下まで伸ばした髪がストール代わりになってくれるようにという意図だ。
歩きだそうとしたところで、ふと左側に誰かの気配を感じた。
視界の端に、長い髪が見えた。女性だ。
(どうしてこの人、こんなに近くに立つんだろう?)
そんな疑問を感じるより早く、その「誰か」が、ドンと勢いよくぶつかってきた。
「わっ!?」
思いがけないタイミングで押されたせいで、大きくバランスを崩す。上体が欄干を乗り越える。
重心が後ろに傾き、踵が浮いた。
(落ちる!!)
黒い川面が視界いっぱいに広がる。
いままで感じたことのない恐怖に陥ったそのとき、誰かに強く片腕を引かれた。
グイ、と強く引き戻される感覚。
次の瞬間、七葉の体は橋の上に転がっていた―――なにか温かいものを下敷きにして。
うう、という呻きが、すぐ下から聞こえる。
「え? ええ!?」
慌てて上体を起こし、事態を確認する。
うつ伏せの七葉に組み敷かれるような格好で、若い男性がアスファルトの上に横たわっていた。
「ご、ごめんなさい!」
「謝らなくていいから、さっさと立ってくれない?」
「はいっ」
苦しげな声で訴えられ、四つん這いの姿勢で青年の体の上から降りる。
抱き付いているというか柔道の寝技というか、とにかく一刻も早くこの異常事態を脱しなくては。
「大丈夫ですか!?」
「そりゃこっちの台詞だよ。あっぶねえなぁ」
七葉の体重から解放された彼が、大きく息を吐いて立ち上がった。
倒れた拍子に打ったのか後頭部に手をやったあと、その頭を軽く振る。金色に近い茶色の髪が、街灯の光を弾いてさらさらと揺れた。
「ぼーっとしやがって、気をつけろよ」
「すみませ……」
「だから謝らなくていいって」
不機嫌そうに言いながら、青年が手を差し伸べる。助け起こしてくれるつもりのようだ。
条件反射のようにその手につかまると、彼は背中に手を添えて、七葉が立つのを補助してくれた。口調とは裏腹に、仕草はなかなか紳士的だ。
混乱した頭で状況を整理する。
橋からは落下せずに済んだ。それはこの青年が引き上げてくれたからで、ただし勢い余って二人は折り重なって地面に倒れこんでしまい、彼の体をクッションにした七葉は無傷で……。
「ほら、これ」
青年が、地面に落ちていたスマートフォンを拾ってくれる。
「ありがとう、ございます」
橋の上に一定間隔に据えられた街灯のおかげで、周囲はじんわりと明るい。
お礼を言いながら、七葉は目の前の若者をまじまじとみつめた。
年の頃は、二十代前半くらい。七葉と同じくらいか、もしかしたら少し年下かもしれない。
ちゃんと立って向かいあってみると、彼の身長がとても高いことがわかった。百六十センチない七葉の頭が、彼の肩と同じくらいの位置にくる。
痩身の長躯に纏っているのはシンプルなシャツとジーンズ、足元は黒いスニーカー。明るく染めた髪の色や服装から、勤め人には見えない。大学生といったところか。
一見どこにでもいる、いまどきの男子だ――ただ、その容貌には、正直なところ目が惹きつけられた。
(すごい、美人……!)
二重瞼がアーチを描く大きな目、高く通った鼻筋。
芸能人でも、なかなかいないレベルの美形だ。
怖いくらい整った顔立ちなのに、不思議と人懐こさも感じさせるのは、その瞳に宿る豊かな表情のせいだろうか。
(さすが東京……こんな美形の男の子が普通に歩いてるのね)
思わず見入ってしまい、真正面から目が合う。
色素の薄い瞳に見つめ返され、七葉は慌てて視線をそらした。
スマートフォンに目を落とす。画面が割れてでもいたらと怯えたが、カバーを着けていたのが幸いして本体は無傷のようだった。
「よかった、壊れてない」
無意識に安堵の台詞が漏れる。二か月前に買い替えたばかりの機種なのだ。
青年が呆れたような声を出した。
「そんなもんより命の心配をしろ。あやうく夜の川にダイブするところだったんだぞ。歩きスマホとかいうの? 大概にしとけよ」
「お、お言葉ですけど、歩きスマホはやってません。通路の端に寄って、立ち止まって操作してました」
「端だろうが真ん中だろうが往来でやることじゃないって言ってんの。まったく最近の若いやつは口ばっかり達者だな」
まるで老人が子供に説教をするような調子で言われ、思わずカチンときた。
往来で立ち止まった七葉も悪かったが、衝突したのは相手もよそ見をしていたからではないのか。
「あのう、助けていただいたのに恐縮ですけど、あなたとわたし、年齢同じくらいじゃないですか? それに、ぶつかってきたのはそっちでしょ」
「は? 俺じゃねえよ」
「そんな、わたし確かに押されて……ん?」
いや、待て。
誰かに突き飛ばされたのは確かだ。
でも――体が接触する直前、ちらりと見えた衝突の相手は、髪が長かったはず。短髪の彼とは別人だ。
では、この少々口の悪い青年は、橋から落ちそうになっていた七葉を引き戻し、あげく衝撃吸収マットになってまで助けてくれた恩人ということになる……か?
「か、重ね重ねすみません、勘違いでした……」
しおしおと謝る七葉に、わかりゃいいんだよわかりゃ、と青年がつぶやく。
「なぁ、お前、何か心当りある?」
「心当り? 何の?」
彼の言わんとしている意味がわからず、七葉は聞き返した。
ぶつかられたことに対して、だろうか。
それなら単なる偶然だろう。そもそも彼に指摘されたとおり、立ち止まっていた七葉にも落ち度がある。もしかしたら、相手もよそ見をしていたかもしれないが。
「そっか。なら、いいや」
いいやと言いつつ、彼の表情は納得がいかなそうだ。
七葉の姿を上から下まで見て、目を細める。
それからなぜか、彼は右手で七葉の左肩をぽん、と叩いた。
「とりあえず、これで家までは大丈夫だから」
「はぁ……」
何が大丈夫なんだろう。励ますにしても、やり方が若干時代錯誤な気がする。
七葉が戸惑っているうちに、
「まっすぐ帰れよ。あと、部屋に入ったら今夜は外に出ないほうがいい。ついてくるかもしれないから」
「ついてくるって……何が?」
「じゃあな」
質問には答えず、青年は踵を返して行ってしまおうとする。
「あの!」
思わず大きな声で呼び止めていた。
振り返った彼に、七葉はもういちど頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
街灯の真下に立つ彼の姿が、妙に光ってみえる。
気のせいか、瞳まで髪の毛と同じ金色に輝いているようだ。間近で見た双眸は、カラーコンタクトを着けているようには感じなかったけれど。
「いいんだよ。俺はお前の担当者だから」
「はい?」
「いや、なんでもない」
補足はない。代わりに少し心配そうな笑顔をつくり、彼は言った。
「ちゃんと食えよ」
どきりとした。
初めて会ったのに、最近の暮らしぶりを見透かされたような言葉。
ほんの短いひと言が胸に刺さって、うまいリアクションが返せない。
言い淀んでいるうちに、青年は軽く片手を上げて、今度こそ七葉に背中を向けた。
(なんだったんだろう、今の)
聞き間違いだろうか。初対面の相手に、「お前の担当者」と言われるなんて。そして「部屋から出るな」とアドバイス。
……冗談にしても謎だ。
足早に遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、
(あれ? 寒くない)
あの猛烈な悪寒がおさまっていることに、ようやく気づいた。