悲しい朝
最後の夜は明け、また新しい朝をむかえた。二人は少し無口で、淡々と旅館での朝を過ごしていた。そう、今日がどんな日か互いにわかっていたから・・。旅館を出るとすぐに私は裕ちゃんにお願いをした。
「裕ちゃん、あそこに連れてって」
「どこ?」
「いつも二人で行った砂浜」
「あそこかぁ・・」
「ダメ?」
「ううん。いいよ! 行こう」
誰もいない海岸線を走ると、小さな砂浜が見えてきた。車を降りると私は裕ちゃんの手を握り砂浜へと走った。
「おいおい、そんなに引っ張るなって笑」
二人は、いつかの少年と少女に戻っていた。
波の音、潮風、海の匂いがあの時の記憶を呼び起こす。
「うわぁ~靴が~!! やったなぁ!笑」
「アハハ! あっ冷たい!!」
私は裕也の手を掴んだまま海へと入った。そのまま二人ではしゃぎあった。そう、あの頃のように何も遠慮なく、気を使うこともない素のままの感情ではしゃぎあった。無心で、それでいて爆発的な解放感に包まれていた。本当に心許せる人、一緒にいて心安らぐ人、私の心は包みこまれ、もう離れられない。裕也の笑顔が私の本能をくすぐり夢中にさせる。キスやハグのような体の接触はない・・でも確かにエクスタシーを感じる・・神様・・許して・・私・・このまま・・
「アハハ笑 どうすんだよ笑 服も靴もびちょびちょだよ」
「いいじゃん! この天気だからすぐ乾くよ」
二人はお互いの姿を見て笑顔になった。40歳を前にした男女が、海で大はしゃぎしてずぶぬれになっている姿を客観的に見て、急に笑いがこみ上げたのだ。
少しはしゃぎ過ぎた二人は、服と靴を乾かしながら砂浜に腰を下ろした。
「ここ、ほんとよく来たな」
「そうだね~数え切れないぐらい」
「悩みがあったり、勉強に煮詰まったりした時には助けられたなぁ」
「原付バイクに二人乗りしてね~」
私が少しいたずらに言うと、裕ちゃんは、なんのことだかわからないって表情で誤魔化した。
「実は俺、よくここへ来てたんだよ。大人になってからも、仕事に悩んだり、自分に迷って歩き疲れたり、香織のことを思い出したりしたときに・・」
裕ちゃんは、沖のほうを見ながら話をしてくれた。
「ここに来たら、香織に会えそうな気がした。いつ来てもここはあの日のままなんだ。あんなに熱い思いがあったんだ・・消せるわけないよな・・香織・・あの指輪どうした? もう捨てちゃった?」
私は少し間をおいて答えた。
「今も大切に持ってるよ・・」
「そっかぁ・・ありがとう。それが聞けてほんとに嬉しいよ」
「裕ちゃん・・結婚してたって言ってたよね?」
「うん。してたよ・・どうした? 突然・・」
私はヤキモチ焼きだ。自分は結婚もし子供までいるのに、裕也のことには寛容になれない。裕也が『1度結婚をしたことがある』と言ったとき、心が動揺して胸がねじ曲がりそうだった「結婚とか当たり前じゃん」自分にそう言った。これだけ月日が経てば何もない方がおかしい。でも・・。ほんとに嫌な女。自分のことは忘れたかのように、詮索するなんて・・。人を好きになるってどういうことなんだろう・・急に裕也のすべてに嫉妬し束縛してしまう・・。
「どんな人だったの?」
「なんでそんなこと聞くんだよ・・」
「気に・・なったから・・いや・・その人がうらやましいなって・・」
「ただの歯医者さんだよ。虫歯の治療に行って出会ってね。だから、うらやましくもなんともないよ」
「いや、うらやましいよ・・本当なら、私が裕ちゃんのお嫁さんになるはずだったのになぁ・・なり損ねちゃったな・・ここだったよね・・」
裕也にはそれがどういう意味なのか、すぐにわかった。顔を少し赤くし
「そうだね。ここだったな・・」
「裕ちゃんがプロポーズしてくれた」
「あの時はまだ香織は17歳だったんだね」
「そうだよ。私の17歳の誕生日・・」
裕也は私の17歳の誕生日、この場所でプロポーズをしてくれた。
「いつになるかわからないけど・・必ず弁護士になって一人前の男になるから・・そしたら俺と結婚してくれないか・・ずっとずっと香織を守っていくから・・だよな」
それを聞いて私は『ドキッ』とした。人生は残酷・・現実は・・
「そう・・覚えてるんだ」
「当たり前だろ・・俺、本気だったんだから・・忘れるわけないじゃん」
「もう遅いよね・・」
「どういう意味だよ?」
私は『このまま・・このまま・・何処か遠くに連れてって』そう心の中で言った。私をこのまま奪い去って欲しい。心の叫びはなんて空虚なんだろう・・。家族はどうするの? 子供たちはどうするの? 感情的にならずに理性的になれば答えはひとつ・・もう遅い・・それが答えなんだよね。もうこれ以上、わがままを言って裕也を困らせるのはやめよう。
「なんでもない・・」
二人の間に少しの沈黙が続いた。
「ねぇ私たち、出会わなければ良かったのかな??」
やり場のない苛立ち、どうすることも出来ないない思いが、こんな棘のある言葉、心にも無い言葉になって出てしまった・・。
「馬鹿なこと言うなよ!」
裕也が声を荒げた。
「俺は香織に会えたこと、そんな風に思ったことないよ! 香織のことが愛おしくて、好きになり過ぎて、心が痛くて辛くて切なくて・・でもこの出会いに後悔なんてない! この出会いがなければ、今の俺もないんだよ・・」
裕也の目に涙が光るのが見えた・・。私、なんて酷いこと言ったんだろう・・本音ではそんなこと思ってもみないのに『ほんと馬鹿だ』裕也の気持ちを確かめたくて、軽はずみに言ってしまった言葉に後悔をした。
「裕ちゃん・・ごめん・・」
「どんな形になっても、俺の気持ちは変わらないよ! 例えどうなっても、どんなことがあっても、俺、香織を守るから!」
それを聞いて私は安堵した。ギスギスとした棘のある心は洗い流され、まるで春の温かい風に包み込まれるように癒されていた。また涙が止まらない。
「裕ちゃん、ほんとありがとね・・」
「また泣く~」
「裕ちゃんの涙にもらい泣きしただけだもん笑」
「えっ俺、泣いてないよ!」
そう言うと二人は笑顔になった。
それから数時間、のんびりとした時を砂浜で過ごした。
「あの大きな船動いてる?」
「うん、動いてるよ」
「目の錯覚かなぁ? 止まって見えるね」
「まるで人生みたいだな・・一年とか十年とかいうと長く感じるけど、確実に時間は過ぎていく。一日一日を過ごしているとよくわからない錯覚の中にいて、季節が変われば時間の流れを実感して時の流れを知る・・みたいな」
「裕ちゃんて、時々難しいこと言うよね」
私がそう言うと、裕也は困ったような表情をした。昔から思慮深いというか、洞察力に優れたところがあって、色々なことを奥深くかんがえているようなところがあった。それでいて少し野心家で、とても私のような平凡な女にはついていけないような、スケールの大きな人・・それでもいつも近くにいて、裕也の話すことをずっと聞いていたかった。それぐらいしか私には出来ないから・・今もそう・・ずっとずっと・・でも・・もう時間なんだよ・・『シンデレラ』でいられる時間も、もう終わり・・私は、勇気を振り絞り終わりのセリフを言った・・。
すっと立ち上がり、さりげなくお尻についた砂を払いながら
「そろそろ帰るね・・」
一瞬、裕也の顔が強張った・・
「うっうん・・そうだね・・」
このままずっとこうしていたかった・・裕也も同じ気持ちだったと思う。でも仕方ないんだよ・・これが二人の運命なんだよ・・
「裕ちゃん・・ほんと色々ありがとうね。ものすっごく幸せな時間だった。楽しくてあっという間に時間過ぎちゃった・・」
「俺の方こそだよ・・香織に会えてよかった・・こうして会えたこと、二人で過ごした時間、俺、一生忘れないから・・」
「うん、私も・・わがままばかり言ってごめんね」
「そんなのいいんだよ」
また泣きそうになった・・。だって裕也の表情が切な過ぎて
「また平凡な主婦にもどります笑」
私はあえて明るく言った。
「香織、幸せになれよ」
そう言うと、裕也は私の手を引っ張り少し強引に私を抱きしめた。軽いキスのあと、うつむきながらに、私は声にならない声で返事をした。
車に乗るとすぐに私は言った
「駅に降ろして」
「えっどうして? 家の近くまで送って行くよ」
「大丈夫だから、駅で」
裕也は困惑していたけど
「うん、わかった」
と返事をした。また、私の天邪鬼が出てしまった。1分でも1秒でも一緒にいたいのに、裏腹な言葉を言ってしまう・・でも許して・・帰ると決めた覚悟が無くなる前に、裕也から離れるしかないんだよ・・じゃないと私・・。
駅・・ここにはもう長い間来ることもなかった。20年の月日は本当に残酷なとこがある。昔から田舎で何もないところだったけど、今はもっと寂びれた状態だった。駅舎だけが改装され、この町には不釣り合いに真新しくなっていた。
ここで自転車を盗まれたり、友達と待ち合わせをしたり、色々なことをあった。そんなあの頃の思い出たちを懐かしむ間もなく駅に着いてしまった。
「ホームまで一緒に行っていいかな?」
「うん」
これでもう少し一緒に居られる・・そのことがとても嬉しい・・
「電車、あと20分後だって」
そう自分で言って、残りの時間に胸が苦しくなる。
「いつもは香織に見送ってもらったのに、まさか逆になるとはね」
「少しは見送る人の気持ちがわかって、いいんじゃない」
精一杯の強がりを言った。
ホームに向かう階段を下りると・・リアルな感情に襲われた! 歩みを進めたくない! 『裕ちゃん、私をこのまま帰すの? どこにも行くなって、もう離さないって言ってよ!』 二人の間にもう言葉はなかった・・。ホームのベンチに座り、手を繋いだ。互いの気持ちは手に取るようにわかるのに、本当のことは口に出来ない。心が痛い、痛くて痛くて切なくて・・でも愛おしい・・こんなにも人を好きになれるなんて・・こんなにも裕也を愛してるのに・・でも結ばれることはない・・願いは叶わないんだね・・。でも今はくよくよしたくない。今は今、この時間を大切にしなきゃ! もっと裕也を感じていたい。
「裕ちゃん」
私がそう言った時、無情にも『ブーブーまもなく2番線に電車が到着致します』ホームにアナウンスが流れた。心臓の鼓動が『バクバク』と鳴る。静かに立ち上がり前へと・・『踏切がカンカンカン』と鳴り、重い音を立てながら電車がホームに入って来る。もう息をするのも忘れてしまいそう・・私は最後に、どうしても聞いておきたいことを聞いた。最後の最後まで怖くて聞けなかったけど、このまま聞かずに離れることだけは出来なかった・・。
「裕ちゃん」
「うん?」
「また・・会えるよね?・・」
「当たり前だろ」
裕也は切なく答えた。電車の雑音があったはずなのに、その声はクリアで私の耳の中へと吸い込まれた。『プシュー』と音をたてながらドアが開く、きつく握った手が優しく離れる・・泣かないよ、私・・笑顔で別れよう・・そう決めたけど、裕也の悲しい顔を見るとそれは出来なかった『間もなく2番線より電車が発車致します』電車に乗り込み最後の瞬間・・もう扉が閉まる・・私の心は引き裂かれそうだった。ただ涙が溢れた・・『プシュー』と音がして扉が閉まる・・。その時、裕也の唇が少し開いた・・でも・・何を言おうとしたのかはわからない・・涙で潤む目を精一杯開いて裕也を見た。裕也の目にも涙が溢れていた『裕ちゃん、泣かないでよ・・』電車が動き出し、裕也が一歩二歩と歩く、私は手を伸ばそうとした。加速する電車の車窓から徐々に裕也が見えなくなっていく・・
「バイバイ・・裕ちゃん・・」
私はしばらくの間、その場所から動けなかった・・。




