プロローグ(4)
アミネの意識は再び肉体に戻っていた。
腕からの激痛が、森と溶け合った意識を現実に引き戻した。森の神が見せる美しい幻想に惑わされぬよう、シルメトの巫女は日々修練を行っていた。その一つが、覚醒の術。腕には無意識のうちにも、短剣が深く突き刺されていた。刃が肉をえぐり、あたりは鮮血に染まる。
――これはすこし、深く刺しすぎだな。
尋常ではないはずの肉体の痛みも、すでに一度、身体を抜け出た意識には、どこか遠く、夢の世界のできごとのように感じられる。自分の傷の様子さえ、他人事のように思われた。
むしろ、ひとたび結ばれた森の神の意識との一体感が、あまりに心地よかった。修練の成果とは言え、突然にそこから引き離されたことのほうが、深い心の痛みとなった。
しかし、木の枝に身を貫かれ、命を失った若い兵士の苦悶の表情が目に飛び込んできた瞬間、アミネの意識は、完全に戻ってきた。
あの、指揮官だった。
彼が、死んだ……。
自らの肉体の激痛とともに、抑えられないほどの怒りとなって渦巻き始めた。
許さない。
絶対に、許さない。
力あるものであろうと。
たとえそれが、神であろうと……。
アミネは心のうちに、まだ残る森の神の意識を捕らえた。
――その名を明かせ。真の名を、我に明かせっ。
アミネは自ら、神の意識を取り込んだ。
神の側から見えたのは、人の姿だった。
薄汚く醜悪な人の姿。それはイアの民。
鉄。
切り倒される木々。
飢え、衰えていく動物たち。
汚される水。
命を失う、土。
風は不浄を運び、火が森のすべてを焼き払っていく。
清めの名のもとに……。
そして薄汚く、醜悪な衣をまとった、不浄の人。
アミネ自身だった。
アミネの激しい怒りが、薄明かりの世界を大きくゆがめる。
そして炎の柱がいくつも立ち上がり、森の神を完全に取り囲んだ。
神は、ただ独りの娘の前に、為すすべもなく、炎で焼かれた。
太古よりこの地を統べてきた、楢木の神だった。
枝葉の焦げる音とともに、神の真名が音の塊となってアミネの元に飛び込んできた。
ふたたびアミネの意識は、現実の森に戻っていた。
無意識に入り込んで真名を明かしつつも、手には修練通り、神封の鏡を握っていた。
いざ、儀式の最後の段に入ろうとすると、木の神の声が、人の言葉、それも、イアの言葉でアミネに語りかけてきた。
(人の身で、神を封じる、そのようなことが、許されると思っているのか)
いつか聞いたのと、同じ問い。
だが、アミネは答えない。
先ほどまで笑顔を見せていた、若い兵士のむくろ。そっと唇を重ねると、アミネは血まみれの鉄鏡をかかげ、神の真名をそこに封じた。
あたりに漂っていた神気は、渦を巻きながら鏡に吸い込まれていく。
(身に宿いし力を用いることのできぬ、愚かな女よ。同じ過ちを繰り返し、おまえの民は、やがて森だけでなく、大地も殺すだろう。愚かなることを、忘れぬよう、身体に刻み付けてやる。苦しめ。苦しんで、わが言霊を思い出せ。思い出せぬ限り、苦しみつづけるがいい)
神の、最後の言葉だった。
――忘れるものか。
アミネは泣いていた。
何もかもが、離れていく。
そして、すべては、自ら招いた結果なのだ。
――忘れるものか。
アミネは手にした鉄鏡を、空に放つ。
赤い血の滴を散らし、きらめきながら鏡は舞い上がった。
「はっ」
傷つけることさえ難しい神封の鏡が、シルメトの気で粉々に砕け散った。
その瞬間、全身を貫くような激痛が走り、呪いが突き抜けていく。
だが、アミネにとっては、神の呪いも身体の痛みも、失ったものにくらべたら、どうでもよかった。
森は静寂につつまれた。
あたりには、折れた木の枝と、兵のむくろが散乱している。
先ほどまでの、森の命を運ぶ輝く光の流れは途絶えた。
風のそよぎさえ感じられない。
遠くから聞こえる水音だけが、変わらず、かすかに響きつづけている。
向こうで楢木の巨木が傾ぎ、地響きを立て、倒れた。
古き森の神が、また一柱、消えた。