第一章(9)
夢を見ていた。
それは、ずっとどこまでも続くもやに包まれた、銀色の世界。
アミネの周囲は、音に満ちあふれていた。
かすかな虫の羽音。小川のせせらぎ。軽やかに森を駆け抜ける、動物たちの足音。そして、大地に根を張る草木の力。天を吹き渡る風。そして大地へとこぼれ落ちる、光のきらめき。
風と、大地の間に繰り返す、生命の織り成す音が、聞こえてきた。
力強く、深い、たくさんの音が響きあう壮大な和声。
その中に、まるでおびえるようにか細い、それでいて耳障りな、かすれた音があった。
あたりの音と、一つにとけあいたいと願いながら、全くの異質として浮いてしまった旋律。それは、アミネ自身だった。一体になろうと、張り上げれば張り上げるほど、聞くに耐えないその音は、美しい響きをだいなしにしていく。
虫たちが消える。川の流れは絶えた。動物は死に絶え、草木は枯れ果てる。風は止まり、世界は闇におおわれていく。
嫌だ……。
こんなの、いやぁぁあっっ。
ふと気付くと、あたりは傾いた陽が木々の間からあたりを黄色く染めていた。やわらかな夕の光。遠くからは、ねぐらに戻る鴉の鳴き声。
全身が硬くこわばっていた。体の向きを少し変えようとしただけで、悲鳴を上げそうな痛みが走り、アミネは顔をしかめた。無理をして走り続けたせいだった。
木の根に引っ掛かり、倒れた時にねじってしまったのだろう。足首が火をもつように熱を持って腫れている。鎚でたたかれているような、繰り返す痛みがあった。
こんなだから、変な夢を見たのだろう。目尻には、まだ涙の滴が乾かずに残っていた。
なんとか起き上がろうとしていたアミネは、その動きを止めた。少し離れたところから、かさこそ、と、かすかな音が聞こえる。
――誰かいる。
それは明らかな人の気配だった。
全身に緊張が走る。
護身の武術は一通り修めたから、普段だったら自分の身を守るくらいはできるつもりだった。
だが、ほとんど自暴自棄になってここまで駆け続けたせいで、いまは身体がいうことをきかない。それに、武人のように、痛みの感覚を殺す訓練までは受けていなかった。くじいたで足は思ったとおりには動けないだろう。まだ治りかけの腕の傷も気になった。
どうしようもないほどに、愚かだった。おのれが絶対的に無力な状態にあるということが、身体を震えさせる。
武器と言えるものは、懐に忍ばせた短刀だけ。それは、身を守るというより、いざというときに自らの命を決するためのものだった。
とにかく落ち着け、と繰り返し自分に言い聞かせる。
「気づいたか」
視線を滑らせると、それは若い男だった。
彫りの深い整った顔つきに笑みを浮かべ、アミネの方に近づいてくる。
多少訛りはあるものの、流暢なイアの言葉で話しかけてきた。しかし、黒っぽい衣、蔓の巻いた小さな弓に矢筒、そして後ろで一つに縛っただけの長髪に怪しげな紋の入った頭帯といった風貌を見れば、森の蛮人、エナイシケだとすぐに分かる。
男はまるで小動物を生け捕りにするときのように、身を沈め、両手が空であることを示しながら、忍び足ですこしずつ、アミネとの距離を狭めてきた。
「安心してくれ。あんたを襲うつもりはない」
エナイシケの言葉を信用するほど、愚かではない。覚悟を決めたアミネの手は、そろそろと胸元へと伸びていく。だが、そこにあるはずの短刀は、なくなっていた。
アミネの顔色が変わった。
その様子に、若者も気づいたのだろう。戸惑うようなそぶりで口をひらく。
「悪いとは思ったが、あんたの持っている鉄は、あずからせてもらった。鉄は、森の怒りを招く。それに、今のあんたがもってると、どうにも危険だからな」
その一言には、おや、と一瞬、心に引っ掛かるものがあったが、短刀を盗まれた怒りの方が強く、それもどこかにいってしまった。
「かっ、返せ」
「いいや」
「ならば、さっさと殺せっ」
若者は、にやりと笑みを浮かべた。
「殺すつもりだったら、もうとっくにやっていたさ」