表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/14

09

 

 被害者は市内の大学生二人。

 最初の被害者同様、意識不明の重体。

 しかし前回と違う所もある。

 それは目撃者の存在だ。

 犯人は、顔までは判然としないものの女性だという。

 凶器については、刃渡り一メートルはあろうかという刀剣の所持が確認された。

 ただ、不可解な点が一つ。

 犯行現場の路面に残された、数か所の深くえぐられた様な跡だ。

 通り魔が所持していたのはあくまでも刃物。

 地面を掘削くっさくするような機材ではない。

 住宅街で起こった事件とあって、現場の映像はネットを通じて早々に出回った。

 まるで機械で切り取ったかのような亀裂と断面。

 アスファルトで覆われた地面である。

 砂場を掘り返すのとは訳が違う。

 これに関する情報は、今の所発表されていない。

 事件とは無関係のトラブルか。

 そんな憶測も湧いた。

 しかし周辺の住民からは、少なくとも事件直前まではなかった亀裂だという証言が出ている。

 また都市伝説の仕掛け人が傷害事件を起こしたのか。

 頻繁ひんぱんでこそないものの、こうした事件はたまにある。

 呆れながらも慣れたもの。

 世間の反応は、その様に落ち着いた。

 一方で、あかり達の間では通り魔がホルダーである事がほぼ確定した。

 問題は、何を基準に人を襲っているかだ。

 恐らくはこれからも、早ければ今夜にも出るだろう。

 昨晩の事件は、これから見回りという矢先に起きた。

 流石にそこから更なる犯行に及ぶ事はない。

 また、周辺を捜索する警官も多く自分達などはすぐさま補導される。

 以上の判断から、昨晩は朱とからすの二人は自宅待機。

 高い隠密性を有する道具を持つ雪村と七海が調査のため奔走ほんそう

 ここからは、二人が独自に得た情報である。

 とはいえ公表されている事に多少の補足が加わる程度だが。

 通り魔を目撃した女性は、被害者同様市内の大学生だった。

 どうやら彼女は偶然現場に鉢合わせた、という訳ではないらしい。

 まず、帰宅途中の目撃者に被害者二人が声を掛けてきた。

 早い話がナンパだ。

 彼らの軽薄な誘い文句を、あれこれ理由をつけてかわす。

 襲撃があったのは、内心うんざりしていたその時だった。

 突如飛来した何かが、片方の少年に当たる。

 後方を見ると、街灯を避けるように立つ人影。

 攻撃を受け激昂する少年達。

 更に何かが放たれる。

 それは後になって抉り取った地面の一部だと分かる訳だが、この時は不明のまま。

 頭部に直撃してうずくまる少年を見て、もう片方がひるんだ。

 通り魔はそこに切り込んできた。

 閃く白刃。

 長いスカート。

 見間違いかと思ったが、それは確かにスカートだったという。

 女装が趣味という訳でなければ、犯人は女性という事になる。

 混乱に拍車を掛ける、少年の苦悶くもんに満ちたうめき声。

 壁や地面に飛んだのが血であると気づいた時、目撃者の悲鳴もそこに加わった。

 ――次は自分だ。

 目撃者の女性はそう思ったらしい。

 しかし通り魔は、彼女の悲鳴を聞くとそのまま立ち去った。

 周囲の家屋から住民が顔を出すのを嫌ったか。

 具体的な理由は不明。

 それ以降に走り去る女性の目撃情報はなし。

 雪村達のまとめた報告に目を通してから、烏は少し呆れた。

 どんな調べ方をしたのか知らないが、まるで見て来たかのような内容だ。

 警察の聴取に立ち会ったと言われても信じられる。

 あの二人だからこそ出来た事だろう。

 更に、ホルダーの能力に関する情報もあった。

 抉り取られた道路の断面に、溶解の痕跡が見られたのだ。

 物体を溶かす。

 その効果は人体にも及ぶのか。

 用心に越した事はないだろう。

 思ったより長文だった。

 グループ内のチャットログには、リアルタイムに交わされた雑談も多く含まれている。

 結局昼休みの殆どを閲覧に要した。

 教室では気が散るので、中庭のベンチで昼食を取りながらの一読。

 本来であればながら食べはしない烏だ。

 今回ばかりは特例と自分に言い聞かせた。

 これらは何も、深夜の出来事ではない。

 しかし烏は自宅待機が決まった時点でスマホを放置していた。

 就寝も、いつもより早かった。

 意気込んでいた反動か、それは不貞寝ふてねに近かったかもしれない。

 だから朝に気付いてログを見て、その量にかなり驚いたものだ。

 ちなみに朱は日付が変わる辺りまでは会話に参加していた。

(楽しそう)

 中でも目を引く箇所は、雪村が二人にからかわれている部分だ。

 これはセクハラではないのか。

 読みながら、烏は一人いぶかしむ。

 共学のノリと言われればそれまでだが。

(男の子にセクハラ……)

 形容しがたい、新鮮な感覚だった。

 自分も少しやってみたい気がした。

 けしてやってはいけない気もした。

 ジレンマである。

「白鳥さん」

 下らない事を考えていると、自分を呼ぶ声。

 顔を上げるとクラスメートの浅田あさだ柚葉ゆずはという少女が立っていた。

「もうすぐ授業始まっちゃうよ?」

「あ、うん」

 失念していた訳ではないが、わざわざ声を掛けてくれたのだ。

 気にせず先に行けとも言いづらい。

 早々に食べ終えて横にまとめておいた、サンドイッチや菓子パンの袋と紙パックのカフェオレを持って立ち上がった。

「行こうか」

 横に並ぶと、彼女の方が頭一つ分高い。

 その長身が買われてバレー部に所属している。

 そして、先週船橋に襲われた女生徒の一人でもある。

 船橋が烏の自宅を襲撃する直前に連絡をくれたのも彼女だ。

 週明けに顔を合わせた時は、過剰な程の謝罪を受けた。

 それ程の罪悪感があったのだろう。

 烏自身、あれは仕方ない事だったと思っている。

 気に病む必要はないとそのまま伝えた。

 しかしそれも彼女にとっては大したなぐさめにならなかったらしい。

 自責の念とはそうしたものなのかもしれない。

 それ以降、何かと声を掛けられる事が増えた。

「大丈夫?」

 これも今週に入ってから何度目かわからぬ問いだ。

 烏は表向き、船橋から逃げ回った末に他校の生徒に保護された事になっている。

 実際は戦闘の疲労で殆ど寝ていただけだが、その辺りも精神的な疲労という事になっている。

「平気だよ」

 努めて気丈に笑って見せる。

 が、これも恐らく無理をしているかの様に映るのだろう。

 現に今も、柚葉は痛ましいものでも見る様に眉を寄せた。

「あいつ、早く捕まるといいね」

 ――それに関してはもう何の心配もないよ。

 言えればお互いどんなに楽だろう。

「うん」

 しかしここでは曖昧に応じるしかない。

「男なんて、みんないなくなればいいのに」

 それは流石に飛躍しすぎなのでは?

 思ったが、言えなかった。

 柚葉は本来物静かな少女で、間違ってもこんな事を言う人間ではない。

 困惑から、言葉に詰まった。

 あんな事件一つで――というといささか軽率な物言いになってしまうが――人はこうも変わるのだ。

 湧き上がる悲嘆を抑えて。

「みんながみんな、ああじゃないよ」

 自戒をうながせればという思いで。

「そうだね。ごめん」

 同意。

 しかしその手応えは、まるで硬質な壁に弾かれたよう。

 烏は暗い気持ちのまま教室に戻った。




 夜が更ける。

 これまでの通り魔の傾向から、人の多い駅周辺は巡回範囲から除外。

 住宅地、それも過去二件の出現場所を中心として行う事になった。

 それぞれ凡その場所が割り振られていたが、開始時間はまちまち。

 日没後すぐに出る者もいれば、夕食を終えてから出る者もいた。

 烏は後者。

「白鳥、今から出ます」

 既に包帯を全身に巻き付け、都市伝説モード。

 普通に歩き回っていたら補導されかねない状況だ。

 これが一番身動きがとりやすい。

 自分以外が通り魔と遭遇したら、速やかに急行する為の備えでもある。

 戸建てやマンションの上からの方が広く見渡せるというのもあるが。

 巡回中は連携を取るためにイヤホンマイクを付けて通話。

『了解』

『あいよー』

 通話のグループ内に雪村の名前はない。

 てっきり自分が最後かと思っていた。

『雪村なら飽きてバックレたよ』

「え?」

 七海の言葉に、耳を疑う。

 まだ付き合いは浅いが、そんな中でも雪村が一番取りそうにない行動だ。

『嘘だよ。私と七海が出たのと入れ替わりで夕飯食べに行っただけ』

 見兼ねた朱のフォロー。

「あ、そうなんだ」

 信じかけていた。

 七海とは、出会ってから数時間しか経っていない。

 その間、まともな会話は殆どなかった。

 それ故に吉成きなり七海という一個人の性格は全くと言っていい程掴めていない。

 例えばこんな状況で冗談を言うとは、思ってもみなかった。

 最大の障害は、紫の仮面に対する恐怖である。

 実は友達の友達でした。

 そうなんだ!

 その一言で済むのならどれ程楽であったろう。

 この一ヵ月で根付いたものは、容易に払拭ふっしょく出来はしない。

 しかしこれらは、あくまで烏の問題だ。

 殆ど一方的に押し付けている印象でしかない。

 七海にしてもいい迷惑だろう。

 彼女は至って友好的だ。

 なのに自分は割り切れず、わだかまりを持て余している。

 ひとえに申し訳なかった。

(早く慣れなきゃ)

 紫の仮面という得体の知れない怪人にではない。

 吉成七海という一人の少女に対してだ。

 屋根を伝って移動しながら、そんな物思いに耽る。

 現状では特に異常なし。

 ここ数日の事件のせいか、通りはいつもより閑散としている。

 実際の被害者が出たのが効いたのだろう。

 普段都市伝説目当てで出歩いている学生の姿も皆無といっていい。

 明日は我が身と誰しもが、夜遊び自体をやめていた。

 仕事帰りの大人がたまに通る程度だ。

 もしも誰かを見つけたら、まずその前後を確かめる。

 待ち伏せか、あるいは追跡者がいないか。

 どちらもなければ次の場所へ。

 ひたすらそれを繰り返す。

 この上なく地味な作業だ。

 意味を見失いそうになる程何事もない。

 七海達はともかく、烏としてはこれでいいのだ。

 犠牲は望んでいないから、何もないに越した事はない。

『ただいま』

 烏が割り振られた地域を一周した所で、雪村が戻ってきた。

『おかえり』

「おかえりなさい」

『遅すぎ。もう通り魔出ちゃったよ』

 もはや挨拶代わりと言っても良い七海の嘘。

 今回は烏も冗談として受け止められた。

『すぐに行くって言いたいけど、流石に二度も同じ手は食わないぞ』

 冷静な雪村。

 しかし烏が来る前に一度騙されたらしい。

『やるじゃんゆっきー。賢い。将来は学者さんかな?』

『馬鹿にしすぎだろ』

 呆れた様な声音。

『三十分前と同じ嘘に引っ掛かるようなら今すぐ病院だよ』

 その時の会話も少し聞いていたかった。

『パトカーの音も聞こえないし、メシの間に何か起こったって事はなさそうだな』

『暇だったからそっちの方も行ったけど、上から見た感じ問題なさそうだったよ』

 朱が言う。

『見に来てくれてたのか? 助かる』

『大した手間じゃないから』

『いや、でも結構距離あるし』

 いくら上空を移動出来るとはいえ、徒歩で端から端まで行くだけでも十分は掛かる。

 満遍なく見て回るとなれば更に数倍。

 二人分の範囲をカバーしようとすれば、それこそ大した手間になる。

『一分も掛からないよ』

『…………』

 沈黙。三人分の。

 そんな馬鹿なと言いたげな。

『うおっ』

 驚愕の声は雪村から。

『信じた?』

 次に朱。淡々とした。

『え、今の、靴?』

『そう。ちなみにただ飛ばしてるだけじゃなくてちゃんとそっちも見えてるから』

 烏には二人が何を話しているのか分からない。

 恐らくは七海も。

『佐倉、今どこ?』

『学校の屋上』

 そこは一応朱の担当区画だ。

 だが今しがた家を出たばかりの雪村に対して何かしたらしい。

『白鳥も見付けた』

「え?」

 現在地は学校からも雪村からもそれなりに離れている。

 反射的に首をめぐらせてみるが、それらしい人影はない。

(いや、本人は学校にいるんだっけ?)

 疑問符ばかりが浮かぶ。

 ――と、にわかに響く風切り音。

 頭上。

 見上げる――よりも先に飛来したそれが、目の前に制止した。

 ほのかに光を放つ、赤い短槍。

 その切っ先は、降りてきた時のまま下に向いている。

「……え。これ、朱ちゃんの?」

『うん』

 返事と同時に槍が去る。

 来た時同様一瞬だ。

 本来肉眼で追えるものではないその軌跡を、光の残像が僅かな時間映し出す。

「形が、全然違うんだけど」

 烏が夕方に公園で聞いたのは七海に関する事のみ。

 朱が三年前からホルダーであった話は一切聞かされていない。

『あぁ』

 朱もそれに気付いたらしいが。

『なんか、出来る様になった』

 ここで改めて一から説明しようという意志は、残念ながら欠片もなかった。

「そうなんだ」

 言われてしまえばそれまで。

 烏としては納得するしかない。

『七海どこ? さっきから探してるのに見つからないんだけど』

『あたしは影の中を移動してるから』

『影の中ってどんな感じ?』

『宇宙って感じ』

『何それ』

 烏にもよくわからなかった。

『真っ暗な中に出口の影から見える景色が沢山浮かんでて、あと重力がない』

『今度入れさせて』

『いいよ』

『あの、佐倉。ちょっといいか?』

『何?』

『もしかして、ずっとそれで探してた?』

『うん。自分で動くより速いから』

 それこそ桁外れの効率で回れるだろう。

 烏も移動速度には自信があったが、あれを見た後では跡形もない。

 烏でこれなのだ。

 完全に徒歩の雪村の心中は察するに余りある。

『そ、そっか』

 何とも哀愁あいしゅうあふれる相槌あいづちだった。

『雪村君の範囲も私が見て回ろうか?』

 朱としては、純粋な効率を考えて出た言葉だったのだろう。

『ぐっ』

 しかしそれは、少なからず少年の矜持きょうじを損なうものであった。

 殆ど戦力外通告だ。

『いや、俺一人だけ何もしない訳にもいかないから』

 そういう事なら、と自分の役割を放り出せる程雪村も横着な人間ではない。

『あっ』

 ここでようやく諸々の心情を察したらしい朱の声。

『そうだよね。よく考えたら、私も自分の持ち場で手一杯だし』

 手遅れな上に驚く程白々しかった。

「う、うん」

 雪村もあえてそこには触れない。

『雪村、自転車で回ったりしないの?』

 気まずい空気になりかけた所で七海の助勢。

『自転車はちょっと』

 含みのある渋り方。

『何で?』

『昔自転車ごと透明になって移動してたら、自動車にねられた』

『わお』

 運転手がいくら周囲に気を配ろうと、見えない相手は避けようがない。

 小回りが利くという程度で、歩いていても似た様な危険は付きまとうだろう。

 便利な能力である事に変わりはないが、思いもよらぬ落とし穴はあるものだ。

『それ、大丈夫だったの?』

『幸い軽い擦り傷と打撲で済んだ』

『勉強代としては安上がりだったじゃん』

『ほんとにな』

『あれ、ちょっと待って』

『ん?』

『誰かがこの辺で道具を使った』

『どこ?』

『えっとね――』

 七海の応答に、若干の間。

 恐らくは住所の表記された場所を探すための。

『あ、あった』

 そして告げられる現在地。

 烏からはそれなりに近い。

「そっち、行った方がいい?」

 おずおずと。

『いや、痕跡はあるんだけど、それらしい人影はないから平気』

『痕跡って?』

『あたしの仮面は道具を使った時に出る粉みたいなのが見えるんだよ』

『え、そんなの出てるの?』

『普通は見えないけどね。この仮面が探査に特化した道具ってだけで』

『じゃあ俺の姿も丸見え?』

『丸見えって程じゃないと思う。雪村自体は透明で、人型の煙として見える感じかな』

『そういうのもあるのか』

 厄介な道具もあるものだと言いたげに。

『後で検証してもいいか?』

『いいよ』

『それで、ホルダーは近くにいないの?』

『移動に道具を使ってたりすると足跡代わりになるんだけど、こいつはそうじゃないみたい』

『ちょっと使ってどっか行ったって事?』

 あまり意味のある行動とは思えないが。

『そういう事になるね。って朱なんで来たの?』

 靴を飛ばしたらしい。

『一応現場見ておこうと思って』

『ここだけど、見ての通り何もないよ』

『確かに』

『他の二人のために写真送るね』

 程なくして表示された画像は、何の変哲もない夜道である。

『上から軽く見てみたけど、それらしい通行人はいないね』

「その痕跡って、どのくらい残ってるものなの?」

『個人差はあるけど、大体五分前後』

かなでさんみたいに空間を移動するタイプかな』

 雪村の憶測に、暗い沈黙が降りる。

 だとしたらかなり厄介だ。

 雪村の様に姿を消せるのとはまた違う。

 その瞬間まで存在すらしていないのだ。

 流石に神出鬼没が過ぎる。

 そうなるともう犯人ではなくあらかじめ被害者に目星を付けておくしかない。

 しかし二件の犯行から割り出した傾向に、一体どれ程の精度があるだろう。

 偶然の一致に振り回される事は避けたい。

『でも犯人て確か走って逃げてなかった?』

『じゃあ違うか』

『単純に目の前で使わなかっただけって事も考えられるけどね』

『痕跡だけなら全く関係ないホルダーかもしれないし』

 結局この後も何事も起こらず解散。

 朱はあまり遅くなると妹が騒ぎ出すため。

 烏は両親の帰宅に備えて。

 雪村吉成きなりの両家は比較的放任主義なので時間の問題はないが、

『ノロマとのタッグはきついわ』

 あけすけな七海の言葉が雪村に刺さる形で続行ならず。

 世間的には烏を襲った暴漢は、まだ捕まっていない。

 そんな中で娘に夜間の外出を許す親がいる筈もない。

 聞き分けのいい娘である烏は、現在自室で大人しく勉強中、という事になっている。

 朱達に協力したい。

 かといって両親に余計な心配は掛けたくない。

 そんな烏の苦肉の策である。

 両親の帰宅前に、危なげなく先回り帰宅。

 動向は端末に届くメッセージで把握していたので容易ではあった。

 目的があった以上、徒労に帰した事は無念である。

 それが気にならないのは、親をあざむいたせいか。

 しかし失意を麻痺させていたのは罪悪感ではない。

 親に嘘をつく事も、夜に友人と出歩く事も、これまでにない経験だった。

 ありえない選択。

 いけない事をしている。

 その自覚が、むしろ少女の精神を高揚させていた。

 道具を受け取ってから、自分は随分と変わった様な気がする。

 変化の是非それ自体は、今の烏にはまだわからない。



 ――駄目。

 これは駄目。

 起き抜けに確信した。

 鏡に映る、倦怠感けんたいかんまみれの顔。

 いくら浮かれていても、この変化を許容してはならない。

 原因はわざわざ探すまでもない。

 寝不足だ。

 烏達は家に帰った後も、チャットに切り替えて取り留めのない雑談を続けていた。

 先日参加し損ねた悔しさもあったのだろう。

 零時を過ぎた辺りからうとうとしていた。

 それでも何だか寝てしまうのが勿体なくて、更に少しと引き延ばし。

 気付けばそこから四時間近く経過していた。

 最後の方は殆ど意識もなかったが、チャットのログは正確だ。

 何かの間違いではないのか。

 後から見返して愕然としたものだ。

 いくら何でも浮かれすぎだ。

 お陰で寝坊する所だった。

 いつもの習慣に引っ張られる形で起きたに過ぎない。

 あとアラーム。

 強烈な眠気を引きずっての起床。

 これもまた初めての体験である。

 普段なら日付の変わる一時間前には就寝している。

 辛いのは当然だ。

 たった一晩の夜更かしで幽鬼ゆうきの如く変わり果てた自分に、しばらく軽い自己嫌悪。

「……はぁ」

 重いため息一つ。

(酷い顔)

 実際の所、その美貌に生じたくもりなど些細ささいなものである。

 しかし烏にとっては許容しがたい汚点でしかなかった。

 ナルシストという訳ではない。

 寧ろ全く逆。

 元々自己評価が低いのだ。

 そして欠点を欠点のまま放置出来る性分でもない。

 だから何事においても努力はおこたらない。

 そうしなければ、まるで自分に価値がないような気さえする。

 不十分な自分を見て、周りの人々はどう思うだろう。

 考えるだけで身がすくむ。

 羞恥の度合いで言えば全裸で登校する様なものだ。

 これを機にメイクについて学ぼうとさえ思った。

 ちなみに学校を休むという選択肢はない。

 遊んで体調を崩すなど、到底許される事ではない。

 重い体を引きずるように身支度を始めると、携帯の通知音が鳴った。

 朱からだった。

『今日眠いから休む。うちには寄らないでいいよ』

「え……?」

 一瞬見間違いかと思った。

 何を言っているのかわからない。

 休む?

 どこを?

 学校を?

 なぜ?

 病気?

 違う。

 書いてある。

 眠いから。

 眠いから?

 眠いから学校を休む。

 眠いから学校を休む!?

 漸く理解が追いつくと、綺麗に眠気が吹き飛んだ。

「あわ、あわわわわ」

 普段なら絶対にしない様な狼狽うろたえ方だった。

(朱ちゃんが堕落だらくしようとしてる……!)

 烏は決めつけた。




「お姉ちゃんまだ起きなくていいのー?」

 中々降りてこないせいか、妹が声をかけてきた。

「具合悪いから今日は休む。頭痛い」

 本当は眠いだけだが。

「大丈夫? お薬持ってこようか?」

 基本的に疑うという事を知らない、素直で可愛い妹だ。

「もう少しして駄目そうなら飲むよ。ありがと」

「お大事にね。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 弱弱しい動作を意識しながら手を振って見送る。

 部屋の扉が閉まる。

 後はもう静かに瞳を閉じるだけだ。

(学校とかマジ無理。二度寝しよ)

 朱はゆるみ切っていた。

 よどみない意識の滑落かつらく

「お姉ちゃーん」

 かと思えば急速浮上を余儀なくされる呼び声。

 そこに一体どれほどの空白があったのか判然としない。

 声自体は妹のものである。

(え、もう夕方?)

 その割りに全く寝た気がしない。

「何?」

 毛布を被ったまま問う。

「白鳥さんが」

「は?」

(お見舞い?)

 ではない筈だ。

 烏には堂々と眠いから休むと伝えてある。

 加えて来なくていいとも。

 そこで朱は、まだ読んでない可能性に思い至った。

「今日は一人で行って貰って。吐きそうだし」

 寝ぼけていたせいか、先程と症状が違った。

 次の瞬間毛布が引き剥がされた。

「ちょっと――」

 抗議の視線を向けると、知らない女が立っていた。

(誰?)

 よく見たら烏だった。

 咄嗟とっさにわからなかったのも無理はない。

 三つ編みに眼鏡という、見慣れぬ恰好をしている。

(イメチェン?)

 数秒前の不満はどこへやら。

 今は新たに注ぎ込まれた困惑で満たされていた。

「朱ちゃん、起きて」

 有無を言わせぬ口調。

「ごゆっくりー」

 視界の端で、妹がそっと部屋の扉を閉めた。

 これで部屋に二人きり。

 心なしか怒っている様にも見える。

「いや、具合が……あれ、ライン見てない?」

 思い当たる節はない。

 寝起きのせいか殆ど頭が回らない。

 相手が怒っている。

 自分が何かしたのかもしれない。

 そう思うと他に考えられなくなった。

「学校、行こ?」

 なぜここにいるのか?

 とても聞けるような状態ではない。

「……はい」

 諾々だくだくと従う――前に若干の躊躇ちゅうちょ

「あの、着替えたいんだけど」

「うん」

 許可する、という言葉が続きそうな首肯。

 出ていく気はないらしい。

 諦めて烏の前でパジャマを脱ぎ始める。

「急いで。あんまり時間ないから」

 そうは言われても見られていると落ち着かないものだ。

 しかし既に気持ちで負けていたので一切の弁解が出来ず。

「はい」

 そそくさと着替えた。

 言われるままに洗顔と歯磨きを済ませる。

「あの、ご飯とか」

「そんな時間ないでしょ」

 ぴしゃりと言い含められる。

「はい」

 親に行ってきますを言う暇もなく連れ出された。

「これなら間に合いそう」

 時間を確認しながら。

 それでもいくらか歩調が速い。

「ちょっと待ってて」

 暫く同じペースで歩いていると、唐突に停止を命じられる。

「はい」

 言われた通りに動き、言われた通りに止まる。

 さながら烏のラジコンだ。

 そんな朱を差し置いて、烏は一人コンビニに入った。

 程なくビニール袋を手に戻ってくる。

「これ朝食。後で食べて」

「ありがとうございます」

 厳しいのか優しいのか分からず、困惑混じりに受け取る。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 結局終始主導権を握られたまま互いの分岐点で離別。

(なんだったの?)

 眠気は綺麗に抜けたが、疑問だけは残る朝だった。

 ちなみに雪村も朱同様時間ギリギリの登校。

 七海だけが堂々と数時間の遅刻をしてきた。




 烏に限界が来たのは、三時間目の途中だった。

 それまでは気合で何とか乗り切れたが、遂に集中力が切れた。

(もう駄目)

 これ以上は起きていられない。

 かといって教室で居眠りはしたくない。

 昼休みはもうすぐそこだが、諦めて保健室に向かった。

 眠いからというだけでベッドは借りられないだろう。

 そう思ってもっともらしい理由を考えていたのだが、許可はあっさり下りた。

 釈然としないまま横になりながら、心配そうな養護教諭の顔を思い返す。

(やっぱり酷い顔だったんだ)

 実際は教諭側が烏を通り魔被害にあった生徒の一人と認知していただけだ。

 つまり休ませたのは純粋な厚意である。

 被害妄想を枕に意識は途切れ。

 目を覚ましたのは昼休みが半分以上過ぎた頃だった。

「――え?」

 愕然がくぜんと上体を起こす。

 寝すぎた事より、まず起こして貰えなかった事に驚いた。

 事件で傷を負った生徒に可能な限り休息を与えたい。

 そんな養護教諭の思いやりは、皮肉にも一切伝わらなかった。

(授業終わったら起こせよ)

 あまつさえ、批難めいた感情さえつのらせていた。

 疲労のせいで若干攻撃的だ。

 養護教諭も食事か何かで出払っているのか、室内に人の気配はない。

「どうしよ」

 今から昼食を取るとしたら、急がなくては午後の授業に間に合わない。

 不貞寝もいいか、などとよこしまな考えもぎる。

 あまり時間もないので悠長に悩んでもいられない。

 ベッドを囲うカーテン越しに、扉の開く音が聞こえた。

「白鳥、いるか?」

 養護教諭と思いきや、声は担任のものだった。

「はい」

 烏のクラス担任は、そこまで厳しい教師ではない。

 態度次第でもう少し居座れるかもしれない、という打算が浮かぶ。

「開けてもいいか?」

「どうぞ」

 別に断る必要もないが、担任は本校において少数派の男性である。

 生徒とは言え異性に対する配慮は、少しでも誤れば糾弾きゅうだんまぬがれない。

 まだ二十代という若さの割には慣れたものだ。

 カーテンが開かれる。

 人並より整った容姿のせいか、実際生徒間の評判はいい。

「お、朝よりも調子良さそうだな」

 その言葉は少し刺さった。

(やっぱり酷かったんだ)

「はい」

 つとめて冷静な相槌あいづち

「午後の授業、出られそうか?」

 今すぐ担任を無視して食堂に駆け込めば、ギリギリ次の授業には間に合うかもしれない。

 しかし仮にも心配をして様子を見に来てくれた相手だ。

 無下むげにする訳にもいかない。

「いえ、まだちょっと」

 それなら授業が始まってから空腹を訴えればいい。

 ピークこそ昼休みだが、食堂自体はその前後でも利用できる。

「そうか」

 傷ましいものでも見る様に目を細める。

「無理しなくていい。あんな事があった後なんだ」

 あんな事。

 それは烏と周囲とで認識に若干の差がある。

 このせいで烏は無理をして気丈に振る舞っていると思われている。

 本当にどうという事はないのに。

 初めこそ役得として受け入れていたが、いい加減被害者ぶるのも気が引ける。

 これではまるで暴漢に襲われた幼気いたいけな少女だ。

(あれ?)

 冷静に考えてみるとその通りだった。

 最近隠し事が多いせいか、たまに妙な錯覚におちいる。

「白鳥の家は、共働きだったか」

「はい」

「一人で家にいるの、辛いか?」

「…………」

 またあらぬ誤解を受けている気がした。

 肯定すればそうだろうと気遣われ、否定すれば無理をするなと気遣われる。

 どうやってもこの包囲網から抜け出せない。

 一人でいるのが怖い。

 しかし我儘わがままを言って親を困らせたくはない。

 結果、無理をしてでも人の居る学校に来るしかない哀れな被害者。

 それはもう白鳥烏ではない。

 貼り付けられたレッテルのみで構成された虚像だ。

 正直、息苦しい。

「ご両親が帰ってくるまで、俺が一緒にいてやる事も出来るぞ」

 随分と親身になってくれるものだ。

 この時点では烏もまだ、素直に感心していた。

 それとは別に、勘弁してくれという思いも当然あった。

 家に居られても邪魔なだけだ。

「いえ、本当に大丈夫ですから」

「白鳥」

 おかしい事に気付いたのは、唐突に抱き寄せられた時だ。

「……あの」

(何してんのこの人?)

 しかしまだ自分の勘違いかもしれない。

 思いもよらぬ形での異性との接触に際して、烏はどこまでも冷静だった。

「お前が心配なんだ」

 まだ心のどこかで、これが純粋な厚意に起因した行動だと思っていたからだ。

「お前は、俺にとって特別なんだ」

 どうやらそれが幻想に過ぎない事が明らかになってきた。

「特別って、何ですか?」

「好きだ」

(どうしよう)

 こういった場合の対処は何が最善なのか。

 生憎と全く経験がない。

 経験のある学生の方が圧倒的に少ないだろうが。

 ここで烏も担任に好意を抱いていれば、何かしらの発展は見せたのだろう。

 しかし烏にとって担任はあくまで担任。

 教師の内の一人に過ぎないのが現実だ。

 身動みじろぎもせずに思案にふけったせいか、体を包む力が増した。

 満更でもないと思われたのかもしれない。

(きつい)

 体に掛かる圧力としての息苦しさとはまた違う。

 相手にとって都合のいい解釈をされ続ける事に対する感想であった。

 仕方ない。

 こんなものだろう。

 そうやって受け流せる限界が来ている。

 ここまで来ると嫌悪に近い。

「あの、苦しいです」

 押しのけたい気持ちを抑えながら、それだけ伝える。

「ああ、悪い」

 あっさり身を離す。

 拒絶の意志を示す事で、逆に抱擁ほうよう以上の行為に及ぶのではないか。

 そんな懸念もあったが杞憂きゆうに終わった。

 胸を撫で下ろしたのも束の間。

「じゃあ、仕事が終わったらすぐ行くからな」

「は?」

 何一つ終わってなかった。

(え、まだ家に来ようとしてる?)

 全く伝わっていない。

 ――これだけ言っているのに。

 思いかけて、まだ明確な言葉や態度を示していない事にも気付く。

 いくら言葉を選んだ所で、これ以上となると軽傷では済まない。

「いえ、あの、本当に平気ですから」

「白鳥、俺の前では無理をしないでいいんだ」

「えぇ……」

 その辺にしておけよ。

 内心半笑いで他人事ひとごとの様に思う自分がいた。

 こんなにも察しの悪い人間だっただろうか。

(恋は盲目ってこういう事?)

 未体験の烏にはピンと来ない話だった。

 出来れば致命的な言葉は避けたい。

 教師と生徒という関係に、無用な波風を立てたくない。

 しかしこの状況ではそうも言っていられないのも事実。

「あの」

「うん?」

 何でも聞くぞ、という穏やかな顔。

 言葉を選んで、慎重に。

「先生の事が嫌いです」

 出てきたのがこれだった。

 場数を踏んでいる訳ではないのだ。

 力加減など出来る筈もない。

「……え?」

 たちの悪い冗談でも聞かされた様な、引きった笑み。

「白鳥。どうしたんだ急に」

 いくら何でも一足飛びに嫌いは言い過ぎたか。

 あくまでも異性としては一切魅力を感じないだけだ。

「先生の事はとても尊敬していますが、とても残念です」

 精一杯のフォローのつもりだったが、気負い過ぎて棒読みになっていた。

 嫌いだと言った直後に尊敬はないだろう。

 せめて過去形にすべきだった。

 失敗した。

 しかし見上げる男の顔は、未だ唖然が揺らぐ事なく。

「う、あ」

 どうやらショックでそれどころではないらしい。

 これには寧ろ烏の方が驚かされた。

 この、悪く言えばセクハラ紛いの告白が成功すると、本当に思っていたのか。

 少なくとも可能性は見出していた。

 でなければこんな反応にはならない。

 だとしたらどこに?

 烏の中で、過去数か月に渡る担任との記憶がよみがえる。

 が、いくらさかのぼろうとそれらしいものは出てこない。

 何かしらの意図があって愛想を振りまいた覚えもない。

 勿論担任からも意味深な態度を取られた事はない……筈だ。

 少なくとも自覚としてはない。

 そんな相手に思いを告げて、一体どんな未来が待っていると思ったのか。

 考えるだに呆れるばかりの楽観である。

「もう教室に戻るので、どいてくれますか?」

 一向に動く様子がないので自分から出ていく事にした。

「あ、あぁ」

 よろよろと覚束ない動作で後ずさる。

「失礼します」

 事務的に告げて去る。

 保健室を出ると、すぐに養護教諭と出くわした。

「あれ、もういいの?」

「はい。お陰様で」

 戻ってくるならもう少し早くしてほしかった。

「また何かあればいつでも来なさい」

「ありがとうございます」

 そんな内心を伏せながら別れる。

 時間を確認すると次の授業までもう十分もない。

 まさか本当に担任を無視して食堂に駆け込む方がましだとは思わなかった。

 残ったのは精神的な疲労感と空腹のみ。

 完全に無駄な時間を過ごした。

(教室戻る前にジュースだけでも買おう)

 この時、烏はまだ知らなかった。

 後に訪れる悲劇の開幕ベルが、裏でけたたましく鳴り響いている事に。


切り所さんがわからずちょっと長くなってしまいました

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ