06
被害者は今野良太。十九歳。大学生。
今日の昼頃に公園管理者が負傷して倒れている今野を発見、通報。
病院に運び込まれたが意識不明の重体。
トイレ内の設備も破壊されていたが関係性は不明。
少年は何らかの事件に巻き込まれたのか。
一体何者に襲われたのか。
現在の所では不明。
それが帰宅後数時間で朱が集められた情報だった。
何かが起こっている。
「何見てるの?」
ベッドに寝転がりながらスマホを見ていると、妹が横に来た。
佐倉家は兄は別だが姉妹は同室である。
「今日公園であった事件」
朝に放置して出て行った件は、夕方に謝罪を済ませていた。
謝れば大概の事は許してくれる。
「犯人捕まった?」
「まだみたい」
犯人。
そう言われて真っ先に浮かんだのは、バットを持った少年である。
二人組のホルダー。
彼は人形使いの少年を今野と呼んでいた。
別人という可能性は低い。
片方が重傷を負わされ、もう片方の所在は不明。
仲間割れか、別の何者かに襲われたか。
帰り道、手口からして紫の仮面ではないと雪村は言った。
あれは痕跡を残さない、と。
しかしホルダーが一般人に襲われるとも思えない。
朱と烏を送った後、自分の方でも調べてみるとも言っていた。
雪村の能力なら、一般に公開されている情報以上のものが得られるだろう。
「暫くは危ないから夜出歩いちゃ駄目だよ?」
妹に腕と足を絡めながら言う。
「元々出歩かないよ。むしろお姉ちゃんでしょ危ないのは」
「最近はあんまり夜に出かけてないもん」
今日は出るつもりだが。
「そうだけどさ」
「先にお風呂入ってきな」
額にキスをしてから身を離す。
「はーい」
妹が部屋を出ると、朱は部屋着からトレーニングウェアに着替えて家を出た。
夜間に出歩く、これ以上ない口実。
制服や私服でふらふらしているより補導されにくいのもいい。
日付が変わるにはまだ数時間あるせいか、人通りもそこそこある。
その殆どが都市伝説を生で見ようと探し回る者達だ。
これらはランナーの出現以降、常に一定数いる。
夜間、日付が変わるまでがいわゆるゴールデンタイム。
それ以降は出現も目撃も一気に数が落ちる。
こうした現象の増加に伴い、警官の夜間巡回も増えている。
そうした人々の横を、素知らぬ顔で通り過ぎていく。
今野に何があったのかはわからない。
答えに最も近いのは、バットを持っていた金髪の少年である。
彼は今も自分を狙っているだろうか、と走りながら考える。
犯人か、あるいは今野同様被害者であるならそれどころではないだろう。
だがその憶測も、どれだけ当てにしたものか。
仮に犯人であった場合を考えてみる。
友人までもその手に掛ける人間が、道理に沿うとは限らない。
人の道から外れた者だ。
逸脱の程を測る術など朱にはない。
大別すると暴走か逃亡。
どちらにしても長くない。
長くはないが、その牙が朱の喉に届かぬ保証もない。
精々気を付けなくては。
何せ自分はこれから――。
「佐倉?」
駅の手前で、背後から声が掛かった。
思考と足を止めて振り返る。
誰もいない。
しかしここ数日ですっかり聞きなれた声。
「雪村君?」
「結構前から後ろで見えてたんだけど、別の人かと思って」
制服ではないし、夜間ではそんなものだ。
「制服の方が良かったかな?」
補導のリスクは増えるが。
「いや、駅周辺をうろつくだけなら大丈夫だろ」
何も期せずして鉢合わせた訳ではない。
今回の一件を、雪村はバットの少年の暴走とみている。
野放しにすれば被害が増えかねない。
ならば自分を囮に使う。
そう申し出たのが朱である。
初めは雪村も危険性を説いていた。
しかし帰宅時の護衛とやっている事は大差ない。
朱の気持ちは変わらない。
それがわかって雪村も折れた。
協力が得られぬ場合は単身で事に臨むと告げたせいでもあるが。
朱としても目の前の脅威は早めに取り除きたい。
怯えて待つのは御免だった。
話がまとまったのが夕方の帰り道。
一旦帰って、夜に駅で落ち合う約束をしていた。
「あれ。佐倉、靴は?」
「家に置いてきたけど」
「はああああ!?」
雪村にしては珍しく、声を荒らげた。
「え、なんで?」
「いや、見るからに無防備な方が、相手も油断するかなって」
引き気味。
「駄目だった?」
「万が一があるよぉ……」
大変気持ちの籠った言葉だった。
自らが万能でないと知る者の声。
まさかこれ程驚かれるとは思っていなかった。
流石に申し訳なくなる。
「ごめん。今からでも取ってこようか?」
靴を履いた所で逃げ足が速くなるだけだが。
「うーん」
若干の間が空く。
「……でもこの位の時間帯なら人も多いし何とかなる、かな?」
「保険で白鳥呼んどく?」
紫の仮面を見てから軽い暗所恐怖症らしいが。
「かわいそう」
「だよね」
夜回りの話自体は別れ際、烏も共に聞いていた。
その時も進んで参加しようとは、遂に言い出す事なく終えた。
「今日はこの辺軽く回ったら終わりにしようか」
「うん」
まずは駅周辺を一回り。
目立った騒ぎは無し。
移動。
少し離れた所から歓声。
「誰か出たかな」
歓声。
悲鳴ではない。
よって事件性なし。
「騒いでる奴らも楽しそうだし、スルーで」
移動。
高校の前を通過。
「そういえば、学校って全然都市伝説の噂聞かないね」
それなりの人数がいる割に静かなものである。
「まぁ、あちこちに自分の事知ってる人間がいる訳だしね」
生徒内にいると分かれば、特定されるリスクは一気に跳ね上がる。
「雪村君なんかそういうの関係なさそうだけど」
校内で透明人間が出るといった話は聞いた事がない。
「生徒の中にいるって思われるだけでも、ちょっとね」
道具を使う際は自分の生活圏とは距離を置きたい。
これは朱としても分からないではない。
奏達を見るに、これはそれなりに共通する心理なのかもしれない。
翻って、静けさにこそ浮き彫りとなる疑惑もある。
噂のない地域にあえて目を向ける者もいるだろう。
考えていると、いつもの公園が見えてくる。
見回りも殆ど終わりだ。
犯人は現場に戻ると言うが、まさか本当にいる筈もなく。
今日の収穫はなし。
そう思っていた所で、何者かの声が聞こえた。
大きいが、悲鳴ではない。
どちらかと言えば怒号に近い声。
「何だろ」
「行ってみようか」
音の向きから凡その位置を割り出す。
区画のせいで迂回は必須。
小走りで一分程だ。
警戒を緩める事なく現場へ。
「この通りだよね?」
いない。
「だと思うんだけど」
既に移動した後か。
期待がない分落胆もない。
近所の住人か通行人が突然叫んだだけとも考えられる。
「あ」
かと思いきや、前方に人影。
雪村がもしもに備え黙り込む。
それに気付いて朱も倣う。
背が低い。
違う。
座っているのだ。
闇に溶かした輪郭が、近づくにつれ鮮明になる。
灰色。
全身を覆っている。
その横に、同色の布の塊。
思い当たる人物は一人しかいない。
「……白鳥?」
呼んだ途端にぐらりと傾ぎ、止まる事無くそれは倒れた。
烏を保護してからは、それなりに目まぐるしい夜になった。
何があったかわからぬままに、ひとまず奏と千草に連絡。
目を覚ます様子もない中、それらしい外傷を治療。
包帯の下は着の身着のまま逃げてきたという恰好。
スマホ等の所持品はなし。
仕方ないので雪村が烏を背負い、朱と二人で家まで送り届けた。
恰好からも察しはついていたが、自宅が襲撃されたようで門前にパトカーと数名の警官の姿があった。
そして当然、朱と雪村も聴取に協力させられた。
とはいえ正直に答えるわけにもいかない。
言えたとして、知らない部分の方が多い。
朱と雪村は夜のジョギング中に倒れている烏を発見、という事にした。
烏は念のため病院へ搬送され、朱達は学生という事もあり程なく解放。
朱は家を出てから三時間程経っていたので、帰ってからとても怒られた。
烏の包帯は、一巻き程度の長さに戻ったので朱が預かった。
外傷もなく腕に巻く包帯を見て、大人達はどう思うか。
最悪処分されかねないと判断した結果である。
その旨のメッセージは夜の内に送信済み。
目覚めてすぐは焦るだろうが、暫くすれば気付くだろう。
とにもかくにも烏が目覚めぬ事には始まらない。
多くの疑問が停滞を余儀なくされた。
返信が来たのは翌日、土曜の夜。
目覚めたのは朝だが、すぐには家に帰れない状態だったらしい。
「それで、白鳥さんは何て?」
これはそこから更に二日後。
月曜の昼休みに、雪村と食堂での会話。
「土日でだいぶ回復したらしいから、放課後会って話すって」
烏の包帯も、その時に返すつもりで持ってきている。
「俺も行って良かったりする?」
「うん。お願い」
三日前の詳細を知らない朱達は、依然として船橋を警戒中。
暫く箸を進めながら沈黙がら降りる。
「そういえば佐倉って、中学の頃事故にあったんだって?」
朱自身、思いもしない角度からの質問。
「七海に聞いた?」
「いや、別の奴。ちらっとだけど。なんか最初の頃車椅子だったって」
朱の高校は地元から通う生徒はそれほど多くない。
しかし全くいない訳でもない。
同じ学年に車椅子の生徒がいれば嫌でも目にも付く。
誰かしら当時の事を覚えていても不思議ではない。
「事故にあったのは小学生の終わりくらいだよ。治るのに時間が掛かって、最初の一月くらいは乗ってたの」
それ以降は普通に生活していた。
「今更だけど、大丈夫なの?」
「後遺症とかはないよ」
「へへーいへーい」
声は雪村の背後から。
「七海」
「吉成?」
雪村の肩に腕組みした肘を乗せるように、背後から凭れ掛かる七海。
「最近ほんと仲いいねー。やっぱり付き合ってんじゃないのー?」
今後ずっとこんな事を言われ続けるのか。
「うん。付き合ってるよ」
そう思うと、朱は面倒になった。
「えっ!?」
一瞬唖然としていた七海だが、雪村の反応を見てすぐに察した。
「あ、冗談か」
「信じた?」
下手に否定し続けるよりも効果があると思ったのだ。
「ちょっと信じた。ていうか彼氏の筈の雪村が一番驚いてんじゃん」
「いや……いや」
わたわたしていた。
雪村がそこまで狼狽するとは、朱も思っていなかった。
「あの、何しに来たの?」
それでも容易に翻弄されまいと、何とか平静を装う。
位置的に七海の顔は雪村の頭上にあるので、首を捻っても視界に入らない。
「ここに来たのは別件だけど、さっき柳があんたの事探してたから、一応教えておこうと思って」
柳というのは雪村と仲のいい女子だ。
「え、マジ? なんだろ」
スマホを確認。
「連絡は来てないけど」
「行ってあげたら? 最近朱とべったりで他ほったらかしだし」
「べ、別にそんなべったりじゃないだろ……」
弁解の中に滲んだ仄かな焦り。
雪村自身、否定しきれない部分もあるらしい。
先に食べ終わると、トレーを持って席を立った。
「ごめん佐倉、またあとで」
「うん」
手を振って淡々と見送る朱。
空いた席に七海が座る。
意味深な笑み。
「何?」
「ん。ちょっと忠告」
「は?」
「最近雪村独占気味で、他の女子がちょっとおこだよ」
「……ホントに?」
ありありと浮かぶ、困惑の色。
「あれで結構狙ってる女子いるからね。うちのクラスに限らず」
「そうなんだ」
「朱の事よく知ってるのあたし位だし、たまに二人はどうなのって聞かれるんだよね」
「ちゃんと否定してくれてる?」
「安心してよ」
満面の笑みで。
「男には一切興味ないって言ってある」
「別の誤解招きそうじゃない?」
「ああいうのにはちょっと大げさに否定しといた方がいいんだよ」
「そうなんだ」
あからさまな嘘だが、朱は信じた。
「一人が気軽ってのは否定しないけどさ、悪く言えば孤立してるんだから、やっぱり周りの目は気にしないと」
面倒な連中の反感を買えば、途端に学校での生活は快適なものでなくなる。
ふざけている様に見えて、七海はそれらを憂いていた。
「気をつけます」
「何ならあたしらのグループに入る? みんないい子達だよ」
「いやいい」
即答だった。
「おいコミュ障」
「そ、そっちだって昔はそうだったじゃん」
ささやかな抵抗。
今の姿からは想像も出来ないが、昔の七海は内気な性格だった。
それが、途中から徐々にこうなっていったのだ。
「そうだねぇ。じゃあどうしてこんなに差が付いたんだと思う?」
簡単だ。
朱は距離を置いた。
七海は歩み寄った。
どちらも自発的に。
元々そういう性分だった、で済ませられない事を朱は知っていた。
遠巻きにでも、彼女の変化を見てきたから。
ただ、面と向かって認めるのは照れくさい。
「周りに媚びまくったから?」
熟考の末、という顔で首を傾げた。
「佐倉朱が雪村透の弱みを握って財布代わりに連れ回し、挙句性欲処理にまで使っているという風説を立てまくる準備がこちらにはあります」
「ごめんやめて」
テーブルの上に置かれた七海の腕を、それはそれは強く握った。
彼女のコネクションを考えれば、翌日には教師の耳に入る。
「冗談だよ」
祈るばかりである。
「まぁ、無理強いはしたくないからこの辺にしとく」
気を使わせている。
「ありがと」
それが分かっているから、多少なりとも気が咎めた。
その後、朱の完食を待ってから揃って席を立つ。
「あ、そうだ」
最後に一つ、と七海。
「面倒な事を避けたいなら、校内じゃ程々にしといた方がいいかもね。どっちがどっちを連れ回してるのか知らないけどさ」
放課後。
朱は公園への道を一人で歩いていた。
雪村はいない。
単純に七海の忠告が効いていた。
烏が二人きりで会いたいらしい、と偽って同行は取り止めにした。
確かに最近雪村を便利に頼り過ぎていた。
それでなくとも奏の忠告もあるのだ。
雪村には雪村の交友関係がある。
朱としても、彼らの輪を乱したい訳ではない。
公園に到着。
烏は園内中央の噴水広場のベンチに座っていた。
「ごめん。待った?」
「ううん。平気」
首を振る。
その顔色は思わしくない。
朱も横に座る。
「はい、これ」
鞄から取り出した一巻きの包帯を渡す。
「ありがとう」
受け取ると、包帯は独りでに解けて袖の中に入っていった。
「ごめんね。心配かけて」
「いや、それはいいけど」
あまり万全という風には見えない。
どちらかと言えば憔悴寄りの顔だ。
「今日はもう帰る?」
「平気」
再度首を振ってから、烏はあの晩の事を順に語り始めた。
時間は少し遡る。
三日前、朱達に送ってもらってからの話だ。
帰宅してからの烏の行動は毎日殆ど変わらない。
勉強→夕食→休憩→風呂。
風呂を済ませたら就寝まではその時次第。
勉強に費やす事もあれば、気晴らしに充てる事もある。
基本的に両親の帰りが遅いので、食事は全て自分で作る。
この日もそうだった。
夕食を済ませた後は自室で休憩。
白いキャミソールに短めのパンツという軽装で読書。
しかしいまいち内容が頭に入ってこない。
原因はわかっている。
朱が心配だった。
雪村がついているから安全ではあるだろうが。
未だに暗所恐怖症を引きずっている自分が恨めしい。
出来れば同行したかった。
そこに、携帯の着信音。
画面を見る。
浅田柚葉。
咄嗟に朱の顔が浮かんだが、学校の友人からだった。
クラスメートで、それなりに話す相手ではある。
ただ、夜間に連絡してくるのは初めてだ。
(急ぎの用かな)
画面をタップして通話に。
「は――」
『白鳥さん、ごめんなさい!』
挨拶する間もなく謝られた。
ちなみに謝られる覚えは全くない。
端末越しの友人は、酷く取り乱していた。
普段の落ち着き様を考えると、余程の事態に直面したか。
あるいは進行形で直面しているか。
屋外にいるらしく、通話には雑然とした周囲のノイズが混ざっていた。
こうした場合、相手の混乱に付き合う必要はない。
烏は相手を宥めながら、要領を得ない内容の話を頭の中でまとめていった。
彼女が言うには、その男に遭遇したのは部活帰りの道すがらだという。
その男、と言われた時点で嫌な予感はした。
もう殆ど日が沈んだ道を、部活の友人達と歩いていた。
多少暗くともいつも通りの道。
四人での帰路。
危険とは無縁の日常である。
そんな彼女達の前に、金髪の男が立ちふさがった。
外見からして、年は自分達よりも少し上に感じたという。
その男は、白鳥という生徒を探していた。
ストーカーか何かか。
――知りません。
一緒にいた先輩が前に出てそう言った。
仮に知っていても変質者に話す訳がない。
――失礼します。
その先輩が会釈と共に男の横を通り過ぎようとした。
男はその背を、ケースに入れていたバットを取り出して殴りつけた。
先輩が倒れるのを見て、後ろにいた三人は小さな悲鳴を上げる。
――知っている事があれば話せ。
バットを向けて、男はそう言った。
この時点で軽い恐慌状態に陥っていた彼女は、自分が烏の友人である事を話したらしい。
無抵抗な身の上だ。
それも無理からぬ事だろう。
自宅の場所まで聞かれたが、凡その位置しか知らなかった。
それでもいいと、男は言った。
番地を除く住所を告げると男は去った。
一時間程前の話だという。
その後も通報や聴取に気を取られて連絡が遅れたのだとか。
(まずい)
相手を安心させるため、通話越しには気にするなと繰り返す。
ただ、心の内に渦巻く焦燥は膨らみ続けていた。
金髪にバットとくれば思い当たるのは一人しかいない。
昨日のあの男だ。
それが、今なお朱に繋がる手がかりとして自分を探している。
幸い事件性を感じた警官がじきに烏の家にも来るらしい。
そこに関しては素直にありがたい。
ただ、事件から既に一時間が経過している。
表札を虱潰しに当たっているとしたらそろそろ危ない。
(警察、早く来ないかな)
思いと同時にインターホンが鳴った。
(……タイムリーすぎない?)
まだ謝り足りない状態の友人に断りを入れ、一旦通話を切る。
階段を下りてドアホンで確認する。
「あれ?」
映し出された画面には、誰もいなかった。
出るのが遅くて帰ったというのは考えづらい。
家の明かりは基本的にどこも点けたままだ。
この時間帯に外から見て留守と思われる事はまずない。
ただのいたずらで済ませるにはタイミングが良すぎる。
(警察よりも先にあいつが来たか)
自宅まで押し掛けるならドアの一つも破ってきそうなものだが。
かといって確認のために外に出るのも躊躇われた。
玄関を開けた瞬間に襲うつもりで隠れている可能性もまた、捨てきれないからだ。
であればわざわざ出ていく必要もない。
警察がじきに来るならなおの事。
更に両親の帰りも期待出来る。
ここは籠城一択。
鍵はどこも閉まっているので、今になって慌てる必要もない。
大人がどちらも間に合わず、窓や扉を破られた際はいよいよ外に出るしかないが。
夜道にはあまり出たくはないのだが、他に助かる道もない。
(その時は、朱ちゃんの家に行こうかな)
完全に撒いた後ならそれもいい。
(駄目)
頼り過ぎだとすぐさま自戒。
相手の都合も考えず押しかけるのは気が進まない。
駆け込み寺ではないのだ。
朱がどう思うかどうかではない。
保身を考えれば即刻頼るべきというのもわかっている。
それでも烏は割り切れない。
一方的な依存が嫌なのだ。
対等でありたい。
既に多大な迷惑を掛けてしまった相手である。
これくらいは自力で乗り越えたかった。
躊躇う理由は他にもある。
万が一これら全てがそうさせるための企みなのだとしたら。
考えすぎと安易に言い切る事も出来ない。
逃げ果せたと思い込み、相手を導く愚行は避けたい。
連絡くらいはしておこう、と階段を上る。
外を出歩くには服も着替えなくてはならない。
そんな事を考えながら自室の扉を開く。
瞬間、窓が割れた。
床に散らばる破片。
「…………」
不思議と驚きはなかった。
来るべきものが来た、という感覚。
冷静に状況を確認していく。
何かを投げ込まれた、という風ではない。
バットで叩いたにしては本人の姿がない。
割れた窓から外を見る。
いた。
隣家の屋根に佇む人影。
「いんじゃねーか」
部屋の明かりに照らされて薄く見える、野卑な笑み。
姿が見えた瞬間、腹に巻き付けていた包帯を全身に伸ばす。
この場で迎え撃つ……訳にはいかない。
「随分と探し――あ、おい!」
紐を伸ばして電柱に巻き付け、伸縮を利用し別の家屋に移る。
独自のワイヤーワークで更に隣の家へ。
「待てコラ!」
待つわけがない。
これ以上部屋を壊されたくないし、騒ぎも起こしたくない。
じきに両親も帰ってくる。
たとえ警官とすれ違いになっても、部屋を見れば異変に気付く。
そうなれば否が応でも騒ぎになる。
そこで包帯女が目撃されたとなれば、どんな憶測が飛ぶかわからない。
事件の詳細から、ホルダーの自宅と勘繰る者も出るだろう。
とはいえ、それ以前にバットの男次第という面もある。
困らせたいなら烏がホルダーであると喧伝するだけでいい。
朱の情報が欲しいならそれを盾に取って交渉も出来る。
そうしないのは腸が煮えくり返っているせいか。
あるいは元よりそうした頭がないか。
恐らくは烏だけしか見えてない。
本音を言えばこの場で叩きのめしたい。
しかしまだ相手の手の内も読めていない。
とにかく今は逃げるしかない。
と、渋々向けていた背に衝撃が加わる。
「っ!」
慌てて手近な屋根に着地する。
全身に巻き付けた包帯には関節を除き硬化を施してある。
肉体的な損傷は殆どない。
問題は後方。
振り返る。
追いつかれた――訳ではない。
相手との距離はまだ数軒分ある。
(飛び道具?)
手にしたバットで何かを打ち出しているいるのか。
それにしては正確過ぎる。
部屋の時と同様、投擲物の類が見当たらないのも気になった。
バット男がまた構える。
何の音もないスイング。
しかし何かが迫っているという危機感。
直感だけでその場から飛び退く。
目には見えない。
ただ、真横を掠める確かな風圧。
やはり飛ばしている。
恐らくは衝撃波の様な物を。
(それがあのバットの能力か)
わかっただけでも収穫である。
(射程も調べておこう)
屋根から屋根へ飛び移り、更に距離を取る。
途中、視界の端に小さな光の明滅を捉えた。
遅れて聞こえる、興奮気味の歓声。
夜間に都市伝説目当てで出歩いている人間だ。
通報の一つもあれば助かるが、期待するだけ無駄だろう。
すぐに注意を前方とバット男に戻す。
「……?」
烏は心中で首をひねる。
おかしい。
先程からそれなりに引き離すつもりで移動している。
ただ、その距離が一向に広がらない。
着地の度に振り返る。
するとあちらも同じ様に別の屋根に移っている。
烏や朱の様な能力ならともかく、人間にそれ程の身体能力はない。
となると、衝撃を飛ばす以外の能力があるか。
確認のため、一度足を止める。
「え?」
その光景を見て、愕然とした。
助走をつけての跳躍。
たったそれだけで隣家に飛び移っていた。
(あれも道具の恩恵……?)
何でもありかと呆れながら背を向ける。
裏を返せば自分にも出来る筈だが、今は試す余裕もない。
ひたすら移動を繰り返す。
合間に体を叩き、あるいは掠める衝撃は無視。
(そろそろいいかな)
数分に及ぶ逃走。
自宅からもかなりの距離を稼げた。
立ち止まって振り返る。
およそ五軒後方。
夜間のせいで見通しが悪い。
このまま続けていれば、いずれは撒けたかもしれない。
しかしもう、烏にそんな選択肢はなかった。
再度背を向ける。
今度はペースを落としての移動。
こちらの体力が尽き始めていると思わせるため。
わざと相手に追いつかせるため。
恐怖はない。
いや、少しはあるのかもしれない。
ただそれ以上に、湧きだす怒りが抑えられなかった。
昨日は朱達に止められたが、今度はあんなものでは済まさない。
それに、逃げた所で解決にはならない。
自宅まで襲撃するような相手だ。
諦めて自宅の前に待ち構えられても困る。
叩くならここ以外にはありえない。
垂らした糸が、イメージに従って鉄球に。
更に接近戦への備えとして、前腕に沿って盾を形成していく。
朱に敗れてから烏なりに改良を加えた形だ。
屋根を蹴る音が後方に迫ってきた所で振り返る。
今まさに烏のいる家に飛び移らんと空中を飛んでいる。
そこに、十分に回転させた鉄球を放つ。
避けようがないタイミング。
「ぐぁ!」
直撃。
夜道に叩きつけられる音が、思いのほか大きく響く。
これで終わりではない。
数か月はまともに動けない程度に痛めつけてから道具を奪う。
電線に包帯を巻きつけて烏も地上に降りる。
直前、男が寝そべったままバットを振った。
(どこに向かって)
――振っているのか。
答えは、強かに腹を打つ衝撃となって訪れた。
「っ」
呼吸が止まる。
男は確かに真上にバットを振っていた。
あのバットは衝撃を直線的に飛ばすだけではない。
軌道も変えられるのだ。
離れた場所からよく当たる筈だ。
地面に膝を突きながら確信を得る。
(まずい)
烏が蹲るのとは逆に、船橋は体を起こして立ち上がり始めている。
今から屋根に逃げようとしても間違いなく撃ち落とされる。
「…………」
一か八かだ。
相手が構えるのと同時に、雑な動作で鉄球を投げた。
ろくな回転も加えていない。
打ち返してくれと言わんばかりのスローボール。
「なんだそりゃ」
男が呆れた顔でバットを振る。
(掛かった)
苦しげな烏の顔に、わずかな笑みが浮かぶ。
バットが鉄球を叩く瞬間、硬化を解く。
「あ?」
ばらけた繊維が勢いのままに男の体に絡みつく。
そこから更に再構成して捕獲用の網を作る。
「ンだよこれ!」
焦った所でもう遅い。
もがいている間に手近な電柱のボルトに繋いでいたロープを掛ける。
(重い……)
引っ張って宙吊りにしようかと思ったが、中々持ち上がらない。
結局ボルトに括り付けて固定するのがやっとだった。
そして足元に転がる、人間大の蛹。
騒いでいてうるさかったので拘束をきつくしていたらそうなった。
まだ何か言っているが殆ど聞こえない。
隙間は殆どないのでその内酸欠にでもなるだろう。
何分持つかは知らないが、拘束を解くのは動かなくなってからでいい。
「はぁぁぁぁ……」
魂まで抜けてしまいそうなため息と共に、そのまま地面にへたり込む。
とてもここから殴る蹴るの追撃を見舞う気力は残ってなかった。
未だ消えない吐き気のせいもある。
しかしそれ以上に自分の不甲斐なさに打ちのめされていた。
(もっとスマートに決める筈だったのに……)
圧勝するつもりがこの体たらく。
殆ど引き分けの辛勝だ。
心情としては限りなく負けに近い。
もしかしたら、自分は弱いのかもしれない。
悄然と俯く。
そんな、気の緩みからだろうか。
男を拘束する繭が裂け、飛び出た腕に首を掴まれた。
十分過ぎる程の強度で締め付けていた筈。
馬鹿な、という思いで目を見開く。
骨ごと砕かんばかりの握力が、驚愕に拍車をかける。
まともに声も出せない。
「捕まえ、たぜ」
荒い息。
「白鳥ィ!」
バリバリと繭を引き裂きながら出てくる。
烏にはもう抵抗するだけの力はない。
――殺される。
そう思った。
しかし次の瞬間、男の胸に何かが刺さった。
「あ?」
己の胸を訝しげに見下ろす。
その姿が、一瞬で消失した。
(知ってる)
膝を突いて咳込みながら考える。
烏は同じ光景を、以前も見ている。
男の居た場所に、何か落ちた。
(指輪?)
しかし烏が気になったのはもう片方。
男に刺さった何かの方だった。
薄い黄色の棒のような物が、今なお宙に浮かんでいる。
長い。
初めは矢のような物が飛んで来たのかと思ったが、形状は槍に近い。
だが槍は独りでに浮いたりしない。
柄を辿っていくと、黒い布が揺れていた。
そこから突き出している。
(あ)
烏は、先程から続く既視感の正体に気付いた。
(やだ)
意志に反して顔を持ち上げる。
思ったよりずっと近い。
烏にとって恐怖の象徴。
紫の仮面が、そこにいた。
「ッ――」
烏の全身が強張る。
悲鳴を上げる事すら出来ない。
ただ見ている事しか出来ない。
首から下を黒いマントで覆っている。
突き出していた槍がするすると縮み、その中に消えた。
――紫の仮面は、人間を道具に変える。
あの槍で変えているのか。
自分も変えられてしまうのか。
震える烏を見下ろし、仮面は口元に人差し指を添えた。
静かに
騒げば保証の限りではない。
そう言われている気がした。
烏は震えたまま、頷く事すら出来なかった。
紫の仮面は屈んで落ちた指輪とバットを拾う。
そこで、おかしなモノに気づいた。
数メートル離れた街灯の下に、黒い犬がいた。
(え?)
一瞬見間違いかと思った。
咄嗟に確信が持てない程の異様な大きさ。
一般的な大型犬の倍以上ある。
熊と見紛う程の巨体。
だがここは、近くに山などない住宅地だ。
あんなものが街中を徘徊していれば大騒ぎになる。
あまりにこの場にそぐわぬ獣。
それが、真っ赤な舌を垂らしてこちらを見ていた。
(何、あれ)
見た事もない犬種。
(もしかして)
不意に閃き。
これも都市伝説か。
何者かが化けている?
だとすればいくらか納得できる。
紫の仮面との関係は?
「――消えな」
頭上からの声に、痙攣のような震えが走った。
「お前の餌はもうないよ」
いつの間にか立ち上がっていた紫の仮面の声だ。
女の声?
餌?
敵対関係?
恐怖の中に浮いては沈む疑問。
身長はそこまで高くない。
立ち上がる気力はないが、恐らく烏と同程度。
その言葉を理解したのか、黒犬は悠然と背を向けると夜の闇に溶けた。
直後、地面に沈む紫の仮面。
全てが消えた。
残されたのは、ズタズタの布切れと悄然と俯く烏のみ。
静寂に響く、背後からの足音。
「……白鳥?」
今一番聞きたかった声。
それは安堵からか。
振り向く前に、烏の意識も闇に呑まれた。
いつかルビをミスりそうで怖い