03
明らかにやりすぎだった。
暴行事件の供述で、カッとなってやった、というものがある。
そんなものは方便だ。
酌量を求めるための言い訳と、朱は冷めた眼差しでいた。
理性というものはそう簡単に手元から零れない。
その見識の浅はかさを、身をもって思い知った。
追い詰められていたから。
その弁解に正当性はない。
少なくとも、これまでの朱の尺度では。
体がぶるりと震えた。
怖かった。
易々と理性を投げ出す自分がひたすらに。
――もしもあの時、誰かが止めてくれなければ。
そこまで考えて、周囲を見回した。
「…………」
誰もいない。
だが、誰かいたのだ。
自分を止める声も、掴まれた腕の感触も覚えている。
(透明人間?)
いないとも言い切れないのがこのご時世。
敵ではない、ように思えた。
ここまで無防備な姿を晒しているのに何もしてこないのだ。
そこについては間違いない。
声には聞き覚えもあった。
ただ誰だかは一向に思い出せない。
錯覚か。
十分ありえた。
俯くと、視界に入る包帯女。
惨状と言っていい。
どこも顔中血まみれだ。
(グロすぎ……)
ここまでやる必要あった? と問いたくなる。
やったのは自分だが。
執拗な殴打によって腫れあがった顔は、原型を留めていない。
「ごめん。やりすぎた」
素直に謝る。
朱も負傷はしているが、とても痛み分けとは言い難い。
過剰防衛もいいところだ。
痕が残りそうな裂傷がいくつかあった。
「……平気」
鼻をすすりながら、震える声で。
返事は期待していなかったので少し驚いた。
同時に、意識がある事に対する安堵も。
(全然平気そうじゃないけど)
罪悪感を紛らわすためにも信じる事にした。
その時である。
グイ、と唐突に後ろから襟を引かれた。
「わ」
気が抜けていたせいか、踏ん張りも利かず倒れる。
左肩を庇って体を捻り、右から落ちた。
そう、落ちたという感覚が正しい。
まるで屋根に穴が空いて、そこに滑り込んだような。
衝撃を警戒して身が竦む。
ところが肩に触れたのは、予想に反して柔らかな質感。
絨毯だった。
左肩こそ痛んだが、それも大して気にならず。
(どこ?)
屋根の上から一転、自分が見知らぬ室内にいたからだ。
驚きと戸惑いが、共に半々。
広い。
教室と同程度の部屋である。
本棚やソファ、ベッド、テーブル。
他にも雑多な家具がいくつか。
奥にキッチンもある。
そして、目の前には二人の男女。
(あ、フード)
落ちた拍子に外れたらしい。
ここにきて今更被る理由もない。
片方の男はかなりの大柄だ。
厳めしい顔で両腕に包帯女を抱えていた。
その隣の少女は、見た所朱よりも年上だ。
切れ長の瞳が優しげな曲線を描いて、こちらは柔和な印象。
揃って朱と同じ高校の制服を着ていた。
どちらか、あるいはどちらも道具の所有者と見ていい。
包帯女の仲間か。
しかし敵意は感じられない。
そんな二人を目の前に、どうしたものかと思いあぐねる。
先に口を開いたのは切れ長の少女だった。
「こんにちは。平気? 立てる?」
差し伸べられたその手を取って立ち上がる。
「私は桧和田奏。こっちの大きいのが山吹一鉄。よろしくね」
「佐倉、朱です」
桧和田と名乗る少女は笑顔で頷き、山吹と呼ばれた男は目礼のみで応じた。
「山吹君、その子ベッドに寝かせてくれる?」
奏が言うと、一鉄は無言で従った。
包帯女が不安げな視線を寄こす。
あまりにも唐突過ぎる展開だ。
気持ちはわからないでもない。
自分を散々殴った相手に向ける顔でもないと思うが。
ベッドに横たえる際、一鉄が包帯女の靴を脱がせた。
「…………」
僅かな逡巡。
自らの武器を捨てるか否かの間。
朱は結局靴を脱いだ。
戦意がないと示すためにも。
そもそも相手にその気がないのだ。
いつまでも身構えている意味はない。
「あ、ここ玄関ないから、靴はあそこに置いといて」
奏が壁に掛けられた収納ボックスを指差す。
いくつもあるが、その殆どが空いている。
入れていいとは言われても、朱の靴も少なからず汚れている。
「…………」
迷った結果、中ではなく上に置いた。
「ちょっと待っててね。今手当て出来る子呼んだから」
奏が言うのと、突如開いた壁の穴から少女が入ってくるのは同時だった。
「来たよー」
ピンクのフード付きワンピースという、いかにも部屋着といった格好。
部屋にいる人間を順に見ていく。
「えーと、その子達を治せばいいの?」
「うん。お願い」
大まかな話は既に聞いているのか、確認だけして朱に手招き。
「診るからこっち来て座って」
「あ、はい」
言われるまま、ソファに腰を下ろす。
一見して医療に携わる人間には見えない。
歳も朱と大差ない。
「こっちの子は柏木千草っていって、怪我を治す道具を持ってるんだよ」
怪訝な顔の朱に気付き、奏が教えてくれた。
「あぁ、それで」
便利そう、というのが率直な感想だった。
「あ、佐倉朱です」
「朱ちゃんね。怪我したのはどこ?」
「左肩です。あと右手も」
後者の場合痛みはないが、先程から徐々に腫れてきている。
「酷い? 脱いで貰いたいんだけど、一人で脱げる?」
「ちょっと、難しいかもです」
少し動かすだけでもかなり痛む。
「手伝うよ」
「山吹君、皆の分のココア入れてくれる?」
一鉄は小さく頷くとキッチンへ移動。
奏がそれに合わせて折りたたまれたパーテーションを広げた。
何も全裸になる訳でなし、朱は男子に下着姿を見られるくらい構わなかったが、厚意は厚意として受け取る事にした。
千草と奏、二人の協力を得てパーカーとシャツを脱ぐ。
赤黒く、見事に腫れた左肩。
自分ではあまり見たくなかった。
「あー、これは無理かなー」
千草が状態を見た途端に渋い顔で匙を投げた。
「えっ」
話が違うと言いたげに、朱は思わず目を見張る。
「千草……怪我人で遊ばないの」
奏が窘めるのを見て、遅れて冗談だと気付く。
「いやーごめんね。私怪我は治せるけど、医者じゃないから見ただけじゃ何もわからないんだー」
医者でも一目で全ては分かるまいが。
「でも治せる事は確かだから安心してね。昔首を切り落とされた人も治したんだから」
それはもう治療の域を超えているのではと思った。
「まぁ嘘だけどねー。血も苦手だし、そんな修羅場絶対ヤだなー」
明るく言う。
「はあ」
適当に相槌を打ちながら、朱はベッドを見た。
現在血塗れの少女が横たわっているベッドを。
(あれ平気かな……)
朱の心配をよそに、千草は薄い緑色のストローを咥える。
見間違いかと思ったが、よく見たところで変わりはない。
その先端から、薄緑の無数の泡が噴出した。
ストローのサイズの割に一つ一つがやけに小さい。
蟹の泡を思わせた。
それらがあっという間に朱の肩を覆っていく。
少し冷たかった。
(色がキモい……)
まるで毒でも塗られているような気分。
痛みが引くのを感じると、それもどうでもよくなった。
続いて右手の甲にも一噴き。
「このまま泡が消えるまでそのままでいてね」
言って立ち上がる。
「ありがとうございます」
次々、とベッドの方へ行く千草。
「あー、これは……ふぅ」
先程と同じ冗談を言うのかと思ったら、突然膝から崩れた。
「え、何これ。血だらけなんだけど」
青ざめた顔で振り返る。
血に弱いというのは冗談ではなかったらしい。
「ほら、これ使って」
奏が慣れた様子で千草にアイマスクを付ける。
結局その後も殆ど奏の補助で治療に当たった。
「血がなきゃ、血がなきゃこんなの余裕だもん」
「そうね。そうね」
奏に支えられながらの帰還。
テーブルを挟んだ正面のソファに座る。
その頃には肩の痛みどころか、腫れも痣も消えていた。
肩と手を試しに動かしてみても、何の違和感もない。
(すごい)
疑っていたという訳ではないが、これで驚くなというのは無理だ。
回復速度が尋常ではない。
治ると言っても数日安静は覚悟していた。
「もう平気?」
シャツを差し出しながら奏が聞く。
「はい。ありがとうございました」
朱がシャツのボタンを留め終わるのを待ってから、奏が一鉄を呼んだ。
トレーに載った四つのカップがローテーブルに並べられていく。
それが終わると、再びパーテーションの向こうに消える。
最後の一つは包帯女の分らしい。
「さっきの泡で怪我を治した後は体力が落ちるから、暫くは無茶しないでね」
未だグロッキーな千草に代わって奏が言う。
「はい」
今の所体調に変化はないが、やはり反動の様なものはあるのだ。
「……あの」
声はベッドの方から。
見ると包帯女が上体を起こしていた。
ついでに顔の包帯を解いている。
幼さの残る美貌はあどけなく、朱は暫し言葉をなくす。
(こんなに可愛かったんだ)
素直にそう思った。
包帯で隠されてさえいなければ蹴る事さえも躊躇う程に。
(……いや)
流石にそれはないかと思い直す。
やらねばやられていた。
結局容赦しなかったろう。
暴力の範囲が顔から腹に移る程度の差だ。
見た所、傷が残った様子はない。
お陰で朱も罪悪感に苛まれる事はない。
千草に感謝した。
「もう起きて平気?」
「はい」
奏の問いに頷いて、ベッドからも降りる。
「ありがとうございました」
まずは奏と千草に。
「ごめんなさい」
次に朱に頭を下げた
奏達はにこやかに応じたが、朱は曖昧に頷くのみ。
仕掛けてきたのは彼女だが、やりすぎた負い目も少なからずある。
謝罪を受ける謂れはない。
「とりあえず座って。これあなたのココアね。名前も聞いていい?」
「白鳥烏、です」
促され、烏は朱の隣に座った。
「二人はいつ道具を貰ったの?」
「えっと、春休み中に」
先に烏が。
「……ゴールデンウィーク中に」
朱が遅れて答えた。
「どっちも前髪で目の隠れたお兄さんに?」
それはまるで、彼以外にもいるかの様な。
「そうですけど……」
「他に配ってる人がいたりするんですか?」
言い淀む烏に代わって問う朱。
「んー」
穏やかな顔が、数秒思案に暮れる。
「去年くらいから、他の人に貰ったって話が出ててね」
彼一人ではない。
寝耳に水ではある。
しかし同時に納得も出来る。
昨今の都市伝説騒ぎは一か所に限った話ではないのだ。
あちこちで与えているというのなら、複数いてもおかしくはない。
「私達も他のホルダー――道具を持ってる人をそう呼んでてね――と連絡取り合って探してはいるんだけど、どっちも全然見つからなくて」
探している人間が他にもいる。
見つけ出してどうするかは各々違う思惑もあるだろう。
それでも情報の共有というのは興味があった。
奏言う所のホルダーなど、野放図に暴れ回っているだけだと思っていた。
積極的な交流には今も抵抗がある。
けれど出来てしまった人脈を、進んで断つという程ではない。
「良かったら、二人とも連絡先の交換しない?」
この提案は朱にとって渡りに船だった。
「それは構いません、けど」
言いかけて、荷物は全て公園にある事を思い出した。
体感で三十分は過ぎている。
実際は一時間と言われても納得出来た。
(大丈夫かな)
今回は木の上に置いてある訳ではない。
地面に置き去りだ。
それも中身のはみ出たままで。
今度こそ持ち去られているかもしれない。
「どうしたの?」
言い淀む朱に気付いて奏が問う。
「いえ、荷物を公園に置いたままなの思い出して」
「公園て、さっき二人がいた家の近くの?」
「はい」
「あそこならすぐ行けるよ」
言いながら奏は立つと、朱達の背後に回る。
そして何の変哲もない壁に指を這わせた。
上から下へ。
ただそれだけで壁が割れ、円形の穴が広がった。
そこから覗くのは、紛れもなくあの公園である。
これが彼女の能力かと、朱は驚き半分に思う。
「うん。今なら周りに人もいないから出られるよ」
まるで未来人のひみつ道具だ。
ともすると、そういうオチもありえる気がした。
礼を言って外に出る。
確かに周囲に人はなし。
「このままじゃ目立つから、一旦ちょっと閉じるね」
奏がそういうと、穴は小さな亀裂程まで狭まった。
「戻ったら声掛けて」
「わかりました」
こちらも樹木に囲まれているが鞄を置いた場所ではない。
日が沈み掛けているため闇も濃い。
夜気の這い寄る時間のせいか、シャツ一枚ではやや肌寒い。
(パーカー着てくればよかった)
後悔を忍んで道を確かめる。
幸い場所はすぐ把握出来た。
小走りで目的地へと移動する。
烏を追った時のまま鞄は放置されていた。
横にある学生証と一緒に拾う。
軽く確認してみたが、中身が欠けた様子もない。
長居は無用とそそくさ亀裂に戻った。
「ありました」
「よかったね」
靴を脱いで部屋に上がると、穴は閉じて元の壁に戻った。
そのまま連絡先の交換も済ませる。
「困った事があったら、いつでも頼っていいからね」
いつの間にか復活していた千草が、得意げに胸を張った。
「……はい」
頷く朱の不請顔。
これは何も千草を軽視しての事ではない。
連絡先の交換に、烏も便乗してきたせいだ。
(――いやお前敵だろ)
おずおずとスマホを差し出すその顔に、ついつい本音が零れそうになる。
正直喉まで出かけた。
目的は何?
懐柔?
周りがやってるから?
同調圧力に屈した?
油断させた所で寝首を掻くつもり?
様々な疑念が駆け巡る中、表面上は淡々とあしらった。
その後は何という事のない雑談が続いた。
奏と一鉄は朱が通う高校の三年、千草が二年だという。
烏はその近くにある女子高の生徒で同年だった。
家は近い者もいれば離れた者もいる。
市内に住んでいるという点は全員共通。
ある程度互いの事を話し終え、ではそろそろと帰宅の流れ。
「喧嘩してた事、怒られるのかと思った」
奏達に見送られ、公園に出ると烏がそう言った。
これについては朱も同感だった。
拍子抜けもいい所である。
怪我の治療のみで解放など、都合が良すぎて不安になる。
「うん」
パーカーに袖を通しながら、朱は頷く。
烏には、既に包帯女の片鱗すらない。
腰まで伸びる長髪と、灰色のワンピース。
これは近所の女子高の制服である。
疑っていた訳ではないが、一応の確証も取れた。
奏達の意向については、今後知る機会も訪れるだろう。
何せ朱は同じ学校なのだ。
これきりという様な事はありえない。
「じゃ、またね」
園内に点在する街灯の下で別れを告げる。
烏に関してはもうあまり会いたくもなかったが。
「あ、あの、佐倉さん」
「何?」
まさかまだ靴をよこせと集る気か。
流石にないとは思いながらも気を緩めずに振り返る。
「あの、ごめんね。色々と」
「……いいよ」
謝罪はさっきも聞いたと言いたげに。
「それでね。もしよかったらなんだけど、私と友達にならない?」
「は?」
――いやお前敵。
呑み込んだ言葉が再度漏れかける。
可能な限り和解の意志は伝えた筈だ。
これ以上はない。
昨日の敵は今日の友というが、ほんの一時間かそこらで完全な和解など不可能だ。
手を取り合うには未だに深い溝がある。
あっさりと受け入れられるほど、朱は広量ではなかった。
自分に一つレッテルを貼れと言われたら、朱は迷わず小心者というラベルを選ぶ。
そういう性分なのだ。
躊躇う理由は他にもある。
仮にここでイエスと答えたとしよう。
しかし染み込んだ猜疑心は容易には落ちない。
そんな状態でまともな交友関係が築ける訳もない。
であれば今言える事は一つ。
「いや、もう友達いるから」
正直自分でも何を言っているのかわからなかった。
朱も混乱しているのだ。
異性に交際を申し込まれた訳でもなし。
それに友人に人数制限を掛けている人間などいない。
いたとして、それは余程の変人だ。
こんな言い分では、似た様な変人くらいしか納得しない。
「そうなんだ」
変人だった。
「え、友達は何人いてもよくない?」
変人ではなかった。
「だよね」
苦笑い。
不用意に今の本音を投げかけて、反感を買う真似は避けたい。
折角円満に済みつつあるのだ。
波風は立たぬに越した事はない。
よって朱がこの場で捻り出せる最善策は一つ。
「……ちょっと、考えさせて」
保留だった。
†
その少年は怯えていた。
「なんだよあれ、なんだよ」
頻りに後ろを振り返りながら走り続ける。
どうやら追われているらしい。
駅前の繁華街は、深夜帯とあって人の姿は殆どない。
けれど全くのゼロという訳でもない。
助けを呼べば、応える者もいるだろう。
しかしそうはしない。
少年は知っているのだ。
人に助けを求めても、何の意味もない事を。
今はとにかく逃げ続けるしかない事を。
追手を撒くため直線の長い道を避け、入り組んだ道、細い道を選んで進む。
どこに出るとも知れぬ道をひた走る内、四方をビルに囲まれた区画に出た。
散々走り、足も呼吸も限界だ。
もはや一歩も歩けない。
壁に背を預け、荒い呼吸で暗がりを睨めつける。
目が慣れず殆ど何も見えないが、こちらに迫る音もない。
(撒いたか……?)
実感が染み渡るにつれ、体から緊張が抜けていく。
脱力してそのまま地べたに寝転がる。
「はは……」
思わず笑みが零れた。
安堵から、ではない。
右腕の肘から先が消失していたからだ。
出血はない。
痛みもない。
感覚もない。
それが、どうしようもない現実感を希薄にしていた。
気が付けば、獣の荒い呼吸音。
真横にあった。
何一つ明瞭でない闇の中、猛る気迫が唸りを上げる。
不意に光が差した気がした。
何のことはない、剥き出しにされた白い牙だ。
不思議とそこに輝きを見た。
少年にとっては絶望の色。
そして最期に目にしたものは。
「はっ、駄目じゃん」
自分に向けて開かれた、鮮烈な程赤い口。
†