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02

 ――始まりはいつだったか。

 自分に妙な道具を押し付けた男の背を見ながら、佐倉(さくら)(あかり)は記憶を手繰(たぐ)る。


 あれはGW(ゴールデンウィーク)中の出来事だ。

 新しい学校。

 期待と不安の入り混じる慌ただしさも一区切り。

 連休初日、朱は一人で街に出ていた。

「あの、この靴いかがですか?」

 まさか自分に掛けられたとも思えずに、声を無視して通り過ぎた。

「あ、あの。ちょっと待って――!」

 制止の声に振り返る。

 その人物は、間違いなく朱に手を振っていた。

 細身で少し髪の長い、見た事もない男だ。

 後ろもそうだが、前髪も目が隠れる程長い。

 路上に広げたシートの上に、いくつかのアクセサリを並べていた。

 露天商という奴だろう。

(こんなの今までいたっけ)

 よく通る場所ではあるが覚えはない。

「何ですか?」

 よりによって自分に靴を勧めるとは。

 朱の瞳に怪訝(けげん)の色が浮かぶと、男は苦笑交じりに肩を(すく)めた。

「とっても、似合うと思って」

 言いながら、その手に赤いローファーを持って寄ってくる。

 正直気味が悪かった。

 朱は、いらないとかお金がないとか答えた気がする。

 この辺の記憶はどうも曖昧(あいまい)だ。

 必要とあらば悲鳴を上げようと、(すく)む体で身構えていた。

 その意気込みとは裏腹に、気づけば男は消えていた。

 路上に広げた荷物ごとだ。

 そして朱の手には、男の持っていた赤い靴。

 盗品を押し付けられただけなのでは。

 そんな懸念(けねん)を靴と一緒に抱えたまま、捨てられもせず持ち帰った。

 男は自分に暗示のような物を(ほどこ)していったのかもしれない。

 そう思ったのはかなり後だ。

 朱は催眠術などと言うものを、一切信じる口ではない。

 しかし、そうでもなければ自発的に履こうなどと思う筈がなかった。

 あの男にはそれが出来る根拠もあった。

 結果から言えば、朱はその靴を履いた。

 そして生活は一変した。

 今騒がれている都市伝説の元凶はあの男だ。

 少しして、そんな結論に至った。

 根拠はある。

 現在の朱は、地上から10メートル程上空に浮かんでいた。

 それだけだ。

 けれど十分と言えた。

 立っている、と行った方が正しいか。

 ウォーカーは壁を歩いていた。

 朱の赤い靴は、空中を歩く事が出来た。

 原理は分からない。

 ただ、何もない筈の空間を自在に踏めるのだ。

 階段を上るように。

 あるいは、梯子(はしご)を上るように。

 これは何なのか。

 なぜ自分に渡したのか。

 他にも聞きたい事は山ほどある。

 もう二度と会えはしないと諦めかけた。

 その露天商を見かけたのは――(さかのぼ)る事数分前。

 学校の帰り道だった。

 今の朱と同様に、空にゆるりと浮いていた。

 幸い向こうは気づいていない。

 このまま尾行するか。

 それはない、と出掛かった選択肢を引っ込める。

 周囲を見ても露天商に気づいた人間はいなかった。

 というか人通り自体が殆どない。

 珍しい事だ。

 しかし長くは続かない。

 彼がどこに向かっているにせよ、いずれ人目に付くだろう。

 少なからず騒ぎにもなる。

 そうなれば、素直に追わせてはくれないだろう。

 必ずどこかで姿を消す。

 あの時のように。

 地上の動向に関係なく、気まぐれに消える可能性だってある。

 時間がないと思った。

(さっさと捕まえなくちゃ)

 近くの自然公園に走り、人気のない木陰(こかげ)で赤い靴に履き替える。

 制服の上着を鞄に仕舞い、下に着ていた白いパーカーのフードを被る。

 使う事などまずなかろうと思いながらも備えておいて正解だった。

 登下校中に靴を履くのはこれが初めてだ。

 人目などどこにあるかもわからない。

 万が一素顔で空にいる時に、写真か何かを撮られたら……。

 現代のネット社会を(かんが)みれば、ろくな事にはなるまいと。

 そんな事は十代半ばの朱にも容易に察しがついた。

 身元が特定されたら、きっと様々な人間が押し寄せてくる。

 ランナー達との(つな)がりも、真っ先に追及される事だろう。

 何一つ知らされてなどいないのに。

 (むし)ろこちらが知りたい程だ。

 靴だって奪われかねない。

 朱にとってそれは最悪を意味する結末だ。

 初めこそ迷いもしたがもう遅い。

 ここに来て手放すつもりは微塵(みじん)もない。

 そこだけは一歩たりとも(ゆず)れない。

 人の届かぬ高さの枝に鞄を掛けて、枝葉を避けて空へ出た。


 ――そして現在。

(よかった。まだいる)

 用意する間に消えてしまわぬか、ただそれだけが気掛かりだった。

 何かあったのか、殆ど動いていないように思える。

 気まぐれに振り向かれても困るので、追いながら更に高度を上げていく。

 露天商の遥か頭上を取る。

 歩調を合わせながら降りていく。

 目に見えぬ何かを踏んでいるのだが、その足音はまるで響かず。

 男の頭部につま先が触れるかどうかの距離に来て、朱は少し迷った。

(どうしよう……)

 あちらが気づく様子はない。

 何と声を掛ければいいのか分からなかった。

 というか声を掛けていいのか。

 こちらの姿を見た途端に消えたりしないか。

 いっそこのまま頭を蹴り飛ばして昏倒させるか。

 公園の樹にでも括り付ければ流石に逃げられまい。

 待て、と思う。

 そうしたら彼はこのまま地に落ちる。

 とても無事で済む高さではない。

 かといって成人男性一人を(かつ)げるだけの筋力は、朱にはない。

 即座に逃げられないためには身動きを封じる必要がある。

 まずは後ろから羽交い絞めにし、更に足を蟹ばさみで腰に巻き付け――。

(痴女かな?)

 その光景を想像しかけて、()えた。

 拘束力はあるかもしれないが、圧倒的に間抜けな絵面である。

 そんな状態でさあ話せと言われても相手だって嫌だろう。

 没案を意識の外に投げ捨てる。

 行動力の割に計画性がなさすぎて少し自己嫌悪。

 どこか心に隙が生まれた。

 ――その瞬間。

 男の首が、ぐるりと回る。

「え?」

 驚きに思考が止まる。

 体は前を向いたまま、顔だけが物の見事に半回転。

 本来人間はその半分程しか回す事が出来ない。

 背後に向けられた顔が頭上を――朱を見上げる。

 それは、人形の顔だった。

 マネキンの質感。

 両目にぽかりと黒い穴。

 ――偽物。

 罠?

 誰の?

 断片的な思考とは関係なく、殆ど反射的に人形の頭部を蹴り上げる。

 人形の頭が吹き飛ぶのも気にせずに走り出す。

 迂闊(うかつ)だった。

 これは無関係の人間に対するものではない。

 間違いなく朱のような所有者を釣る疑似餌(ぎじえ)である。

 でなければ外見を露天商に似せる必要がない。

 持ち主は全てが見える所からこちらを監視している筈だ。

(見られた……見られた!)

 狼狽(ろうばい)を抑えて駆ける。

 最大の懸念(けねん)は、人形に徘徊(はいかい)以外の機能があった場合だ。

 次に協力者の存在。

 人形の相手をしている間に横槍が入ってはたまらない。

 敵意の有無は関係ない。

 自らが都市伝説たらんとする者は、この街にもいる。

 しかしそうした連中と慣れ合うつもりは欠片もない。

 なので逃げた。

 人形の持ち主を引き離せればそれでいい。

 ある程度走ってから振り返る。

 人形の位置に変化はない。

 体力の事を考えて少し速度を落とす。

(追ってこない……?)

 だからといって警戒を緩める朱ではない。

 いくつかのマンションを障害物として利用しながら更に遠ざかる。

 地上からの追跡も無視できないとはいえ、こちらはまだ楽だ。

 道なりにしか進めない相手に対して、朱は(さえぎ)られる事なく直線的な移動が出来る。

 後はもう余程の事がない限り逃げ切れる。

 勿論ランナーの様に例外的な機動力を持つ者もいるだろう。

 しかしそんな相手は空から見れば一目でわかる。

 そこからも警戒しつつ駆け回り、機を見て地上に降り立った。

 追跡は無い、ように思えた。

 だからといってパーカーのフードはまだ取れない。

 公園からはかなり離れてしまった。

 道すがら、何があるかもわからない。

(次からはもっと気を付けないと)

 呼吸を整えながら、肝に銘じた。



 尾行を警戒しつつ、三十分以上掛けて公園に戻った。

 当然と言うか空には何もない。

 空に浮かんだ人影は、痕跡(こんせき)すらも見受けられない。

 周囲は静かなものだ。

 道中に野次馬らしい者達の姿もなし。

 人形もあの後すぐに消えたのだ。

 待ち伏せは考えにくい。

 逃げ出した相手が再度戻るとは、根拠も無しに思わぬだろう。

(流石に帰ったか)

 広いのに閑散とした園内は、先刻よりもやや薄暗い。

 夕焼けはより強く。

 陰影はより深く。

 明暗の露骨な差異に目が(くら)む。

 正体の曖昧になる時間帯。

 ()彼時(がれどき)とはよく言ったものだと思う。

 ここまで来たら後少し。

 問題はなくともけして油断せず。

 影を選んで()うように木々の間を抜けていく。

 周りに人がいないのを確かめてから木陰に入る。

 今日は疲れた。

 走り回ったせいでもあるが、どちらかといえば精神的な疲労の方が大きい。

 さっさと家に帰って休みたかった。

(早く鞄を回収して……)

 木に登る。

 鞄が無くなっていた。

「――――」

 端無(はしな)くも、思考が止まる。

(え、別の木?)

 登る木を間違えたかと思いきや、すぐありえぬと首を振る。

 降りて確認するまでもない。

 ここで合っている。

(――盗まれた?)

 朱は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

 何かの拍子に下に落ち、それが誰かに拾われたのか。

 ありえぬ話ではない。

 しかしありえるとも言い難い。

 そんな不安定な置き方をした覚えもない。

 鞄の中には学生証やスマホも入っている。

 もし、悪意ある第三者に自分のスマホが渡ったら。

 その場合の悲劇を、朱は知っていた。

 主に映画によって。

 問題は「あ、これ映画で見たやつだ!」などと進研ゼミ感覚で得意になってもいられない所だ。

 スマホに入った個人情報が見られたら、それはもう大変な事になってしまう。

 大変な事に。

(……なる、のか?)

 混乱しすぎて逆に少し冷静になってきた。

 朱がスマホに入れている個人情報はそれほどない。

 連絡先は家族を除くと殆どない。

 カメラ機能は使わない。

 常用しているアプリもない。

 伏せたい過去も特にない。

 必然的に見られて困る事もない。

 前向きに考えると、たまたま公園を歩いていた誰かが、たまたま落ちている鞄を見つけ、善意で最寄りの交番に届けた可能性もある。

 楽観の過ぎた解釈ではあるが、今はそれらに(すが)るしかない。

 まずは確認だと歩き出す。

 中身が荒らされた状態でその辺に捨てられていない事を祈るばかりだ。

「こんにちは」

 後方からのその声に、肩がびくりと跳ね上がる。

 振り返ると、そこには全身を包帯で(おお)った人間が立っていた。

 一目見た途端に気付く異常性。

佐倉(さくら)(あかり)さん?」

 体格や声から、朱と歳の近い少女と知れた。

 片手に朱の学生証、もう片方に鞄を持っている。

 朱は答えず、内心で舌打ちをした。

 どう見ても都市伝説側の人間である。

 持ち去られたパターンの中でも、これは最悪のものだ。

「顔はよく見えないけど、これを取りに来たって事はそうだよね?」

 包帯女が、言いながら鞄を軽く持ち上げる。

「木に登る前もその恰好だったし」

 あの時点でも周囲には気を配っていたつもりだが、見られていたのだ。

「あの人形とは、グルなの?」

 短めに、それだけを聞く。

「人形?」

 小さく首を傾げてから。

「やっぱりあれ、偽物だったんだ」

 包帯女は納得したように(うなず)いた。

「私もどうしようか迷ったんだけど、丁度そこに佐倉さんが見えたから」

 僅かに露出した口に、小さな笑みが浮き上がる。

「都市伝説を見たのに、写真も撮らずに公園に駆け込むなんて、怪しすぎるでしょ?」

 言われてみればという感覚。

 たとえ些細(ささい)な違和感でも、それは正しい直感だ。

 大した洞察力(どうさつりょく)である。

 後は荷物を(あさ)りながらでも待てばいい。

 どこに行ったのだとしても、必ず取りに戻るのだから。

「帰って来るのが遅いから退屈だったけど、お陰で佐倉さんの事色々分かったよ」

「何の用?」

 勝手に鞄を調べておきながら友好的な話もないだろうが。

「佐倉さんの靴、私にくれない?」

「は?」

 思わず聞き返した。

「佐倉さんが貰ったのってその靴でしょう? さっき履き替えてたし」

「そうだけど」

 今更隠せる事ではないが、わかりましたと渡す気もない。

「駄目? 大人しく渡して貰えないなら力ずくになるけど」

 仕方ない、という風に持ち物を地面に落とす。

 それに合わせて朱も僅かに腰を落とす。

 黙って奪われるという選択肢は元よりなかった。

(やるならやってやる)

 そんな朱の機先(きせん)(くじ)くように、包帯女が後ろに飛んだ。

「またね」

 それは、異常なまでの跳躍力だった。

 軽い動作に反して数メートルは下がっている。

 そのまま地面には下りず、離れた木に張り付くように止まった。

 その動きに対する驚きよりも、朱の胸中を占めたのは圧倒的な焦燥(しょうそう)である。

 ――またね

 てっきりここで襲い掛かってくるものと、そう思っていた。

 しかし相手にそんな必要はないのだ。

 伸ばした手を横に向けると、包帯女がそちらに引き寄せられるように移動した。

 薄暗い森林区画から消えていく。

 名前も学校も、恐らく住所も知られている。

 後はもう、好きな時、好きな場所で奇襲を掛ければいい。

(――逃がしちゃ駄目だ)

 自宅の寝込みを襲うのでもいい。

 通学、あるいは帰宅の際に背後から。

 手段を選ばぬ脅迫という形なら、家族に対する暴行すらもありえる。

 その全てが一方的に行えるのだ。

 何せこちらは相手の事を、何一つとして知らないのだから。

 傷害事件が起きても、精々が相手の知名度が上がる程度。

 落ちた鞄に目もくれず、再び空へと駆け上がる。

 似た様に空に浮かんだ包帯女。

 伸ばした腕の穂先(ほさき)から、紐状の物が飛び出した。

 先にあるのは電柱だ。

 接触と同時に絡みつく。

 木陰から抜けたお陰でよく見える。

 全身を覆う、灰色の包帯。

 それを自在に伸縮させているのだ。

 器用なもので、伸ばし、掴み、引き寄せ、スイスイと遠ざかっていく。

 道を無視して移動する、その点だけは朱と同じ。

 しかし体に掛かる負荷はあちらの方が大きいだろう。

 速度にしても、無理なく追える範囲内。

 持久戦であれば朱の方に分がある。

 追い付く事はありえても、見失う事はないように思えた。

 とはいえあまり目撃者を増やしたくもない。

 出来れば手早く済ませたい。

 容易でないと知りつつも、そんな思いが芽生えてしまう。

 振り払うように駆け出す。

 先程人形から逃げた時とは比べ物にならぬ速度だ。

 朱の履く赤い靴は、何も空を歩けるだけではない。

 その気になれば普段の倍近い速度で走る事が出来る。

 滅多にしないのは単純にフードを押さえるのが面倒だからだ。

 軽く振り返った包帯女が、ぎょっとした様に動きを止めた。

 追いつかれると分かったのだろう。

 伸縮の反動を利用して、器用に戸建ての屋根に降り立つ。

 迎え撃つ気だ。

 判断が早い。

 包帯女の指先から垂れた紐の先端が丸みを帯び、膨張(ぼうちょう)するのが見えた。

 その先端を、手首の力で振り回す。

 お互いの距離はもう十メートルもない。

 朱はそれが、近づけばこれで殴りつける、という意思表示だと思った。

 その認識が、朱を後手に追いやった。

 包帯女はそれを、スリングと呼ばれる投石器の要領で放ってきた。

「っ」

 全力で真横に跳ねる。

 が、僅かに遅い。

 前方への勢いがついていたせいで殆ど斜めの回避となった。

 左肩が弾かれた。

「――ぎっ!」

 衝撃に振り回される。

 体が三回転したところで(ようや)く止まる。

 包帯女の投げてきた球体は、ただの繊維(せんい)素材の(かたまり)ではなかった。

 中に何か仕込んであるのか、あるいは硬度自体が変えられるのか。

 恐らくは後者だろう。

 そうでなくては移動の際も負荷に耐えかね千切れてしまう。

 あれではまるで鉄球だ。

 今すぐ泣き叫びたい。

 のたうち回りたい。

 だが出来ない。

 させてくれない。

 (つな)がれた紐によって引き戻された鉄球が、早くも包帯女の手元で回っている。

 ――二投目が来る。

 直撃でないというのにこの痛み。

 その事実はしかし、朱から戦意を奪いはしなかった。

 まず手近な壁として、(そば)にあった電柱の後ろに隠れた。

 リリースされた球体が硬質な音と共に電柱を大きく揺らす。

 遅れて砕けた破片が地面に落ちた。

(石も砕くのか)

 いよいよ鉄球と言って差し支えない凶器である。

 頭部に当たれば即死だ。

 上空は障害物がなさすぎる。

 朱は電柱を盾にしたまま地上へと降りた。

「ねぇ、もうやめない?」

 頭上から、そんな声が掛けられた。

 鉄球を垂らしたまま。

「その靴をくれれば、もう手は出さないから」

 命を()けてまで守るものでもなかろうに。

 言外(げんがい)にそう言っていた。

 それは、相手からすれば慈悲のつもりなのだろう。

「…………」

 朱は答えない。

 代わりに、降りた時に拾った電柱の破片を投げた。

 包帯女の鉄球が、一瞬(しぼ)む。

 かと思えば傘の様な展開を見せ、苦も無く投擲(とうてき)を防いだ。

「もう、知らないからね」

 傘の向こうで、冷然とした呟き。

 傘が畳まれ再び鉄球へと変じ、同時に回転を始める。

 三投目が敷地を区切る塀を砕く。

 初弾を受けたのが肩でよかった。

 足に受けていたら回避も接近もままならない。

 その時点で詰みだ。

 鉄球が戻るのに合わせて崩れた塀を飛び越える。

 相手の武器に欠点があるとすれば次弾までに掛かる時間だ。

 朱に勝機があるとすればその間にどれだけ近づけるか。

 家屋の壁に沿うように、半周掛けて屋根まで上る。

 接近するには家自体を障害物として使うしかない。

 包帯女は、覗き込むように階下を(うかが)っていた。

 背後を取った。

 塀の破片を握りこむ。

 振りかぶる。

 同時に察した包帯女が振り返る。

 構わず投げる。

 反射的に傘が展開される。

 咄嗟(とっさ)の判断としては申し分ない。

 自らの攻め手がこうもあっさりと受けられる事に、朱は内心快哉(かいさい)を叫んだ。

 投げた破片が傘に当たって弾かれた。

 ほぼ同時に、朱の足が傘の上部を踏みつける。

 投石は(おとり)である。

 数瞬、包帯女の視界を塞げればそれでよかった。

 足音は靴のお陰で響かない。

 気取られる事なく距離を詰めるのは、朱にすれば容易(たやす)い事だ。

「――ぁ」

 朱を見上げ、(ほう)けた様に開く口。

 いつの間に。

 包帯女の驚きが、瞳を通して雄弁に見開かれる。

 奇しくも人形の頭上を取った時と同じ位置取り。

 そして全く同じ様に、その顔を蹴り飛ばした。

「くっ」

 反射的に左肩を押さえる。

 先程の怪我で骨まで痛めたか、(たま)らず顔を(しか)める朱。

 満足に力の乗らぬ一撃だ。

 決定打にはなりえない。

 しかし効いてはいたらしく、踏み止まりもせずに倒れた。

 だからといって安堵する朱ではない。

 荒い呼吸でそこに(またが)る。

 無事な方の右手で、透かさず顔を殴りつけた。

 相手の反応など見ている余裕はなかった。

 単純に焦りから。

 自身の限界が近いというのもあったろう。

 何か言おうと呻く度、(さえぎ)る様に拳を降ろす。

 倒さなければ奪われる。

 倒さねば。

 倒さねば。

 倒さねば。

 その一心で殴り続けた。

 何度目だったろうか。

 振り下ろさんとした腕が、何者かに掴まれた。

「その辺でやめとけよ。死んじゃうぞ」

「っ!」

 そこで、やっと我に返った。

 解れた包帯。

 その隙間から(のぞ)く、()れた肉、()けた肉。

 どれも真っ赤に染まっていた。

 朱は呆然とそれらを見下ろす。

 ――ごめんなさい。

 途切れがちに呻くような声は、そう聞こえた。


ルビの匙加減が難しいです

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