Ⅶ.マリアンヌ=ランス=ジュエリアル
前回更新分より三ヶ月ほど経った頃のお話です。
ちょっとだけいちゃいちゃしかけてますが、ぜんっぜん大したことないですが、苦手な方はご注意ください。
本当に大したことしてないです……。
すきな男がいた。
その男はランチェスター公爵家の使用人――屋敷で住み込みで働く家令の息子だった。
母を早くに亡くしたため、「彼」もまた屋敷で暮らしていた。
やんちゃで生意気、けれど賢くて心優しい「彼」のことを、マリアンヌの父もまた可愛がっていた。
この国に四人しかいない公爵の位をもつ父は、領主は領民のために在るべし、という考えの人だった。
民がいるからこそ自分たちは生かされているのだと言い、屋敷で働く使用人たちのことも大切にしていた。
なれ合うことはせず、けれど寄り添いながら彼らのことをとても大事にしていた。彼らも父を慕い、敬い、尽くしてくれていた。
そういう父のことをマリアンヌは誇りに思っていた。
マリアンヌが三つのとき屋敷に現れた「彼」は、すぐ上の兄のミゲルの遊び相手だった。
それがマリアンヌが思いの外懐いたせいで、マリアンヌの守り役のようになっていった。
意地悪な兄と違って優しい「彼」のことが大好きだった。
ミゲルはいつもアリアの味方をするけれど、「彼」は絶対にマリアンヌの味方をしてくれた。
兄たちと同じように「マリー」と呼んで頭を撫でてくれる「彼」のことが、大好きだった。
二つ年上の、琥珀色の瞳をした優しい男の子。
男の子から少年、少年から青年へと変わっていく姿をずっと見ていた。
兄のように慕う心が恋心へと育っていく間、ずっと。
マリアンヌは「彼」のことがすきだったし、「彼」もまたマリアンヌのことをすきでいてくれるのだと信じていた。
身分が違うことはわかっていたしいつまでもいっしょにはいられないことは知っていたけれど、どうしようもなかった。
どうしようもなくすきだった。
だから告げた。
誰よりもすきだと。世界で一番すきだと。皇妃などになりたくない。いっしょに生きていきたいのだと。
いっしょに逃げてほしい。誰も知らない遠いところへ行こう。家も身分も何もかも失ってもふたりでいられるならそれでいい。何も要らない。すべて捨てられる。
そう告げた翌日、「彼」が結婚すると聞かされた。
相手は「彼」と同じくランチェスター公爵家に仕える使用人――料理長の娘。
「彼」より三つも歳上でたいして美しくも賢くもない、マリアンヌに勝るところなど一つも無い、冴えない女だった。
けれど彼女は「彼」に選ばれた。
婚約の報告をする「彼」の隣で気まずそうに眸をそらす彼女の顔を、引っ叩いてやりたかった。
あんなにも怒りを覚えたのは初めてだった。
マリアンヌはとても賢かったから、「彼」の真意などすべてわかっていた。
彼女を伴侶に選んだ「彼」は、本当は、マリアンヌのことを愛していた。
愛していたから彼女を選んだ。
公爵家の一人娘として生まれたマリアンヌが平民の生まれである「彼」と結ばれる未来など許されはしない。
何だかんだとマリアンヌに甘い父が許しても、貴族社会が許さない。マリアンヌが公爵令嬢であるかぎり。
「彼」と結ばれたいのなら、その身分を捨てなくてはいけない。
両親も、兄たちも、アリアもハンナも、生まれてからずっとよくしてくれている使用人たちも、みんな、全部。
けれどそうしてすべてを捨てて逃げたとしても、その先にあるものはきっと幸せなどではない。
何も持たないふたりが生きていく術など無いし、一人で着替えもしたことのないマリアンヌがそんな生活に耐えられるわけもない。
愛がすべてを解決するなんてそんなの、夢物語の世界だけ。世迷いごとだ。
けれどマリアンヌはそんな言葉には耳を貸さなかっただろう。
深窓の御令嬢のくせに我が強くて強引で思い切りのいいマリアンヌは、何をするかわからない。
「彼」を手に入れるためなら何だってする。
それがわかっていたから、「彼」はマリアンヌから離れるために偽りの結婚をすることにしたのだ。
マリアンヌのために、愛してもいない女を妻に迎え、愛してもいない女に自らの子を産ませ、愛してもいない女と添い遂げる未来を選んだ。
なんてつまらない男なのだろうかと思った。
そして同時に、許せないと思った。
彼女を選んだ「彼」のことも、「彼」に選ばれなかった自分のことも。
許せなくて、悔しくて、苦しくて、毎日泣いた。
あまりにも泣きすぎて目が溶けてしまうのではと兄に心配されたほどだ。
泣き続けて、とうとう涙が枯れる頃、マリアンヌは皇城に上がった。
この国で最も尊い男の妃になるため――この国で一番幸せになるために。
―・―・―・―・―
服の上からではわからない、鍛えられた胸に頬を寄せる。
しっかりと筋肉の付いた身体はマリアンヌの体温よりもずっと温かくて、二人寝の夜に心地よい。
身体をつなげない夜も、こうして触れ合っているだけで満たされる。
今この瞬間は、世界で一番幸せだと、そう思わせてくれる。
「ん……こら。やめなさい、マリア」
砂糖菓子よりも甘くとろけた声で咎められても、怖くもなんともない。
制止を無視してたくましい胸筋を指でなぞる。
彫刻のように美しい身体の熱がまた少し上がった。
「だめだと言っているだろう、悪い子だね」
肌の上をさまよう右手を取られ、指を絡めて抑え込まれる。
日に焼けた、マリアンヌよりも一回りも大きな手。
滑らかな手の甲とは対照的に、手のひらは剣を握った肉刺だらけだ。
その手が肌を滑ると、固くなった痕が時折引っかかって痛気持ちいい。
この世界でただひとりマリアンヌを好きにできるこの手が、たまらなくいとしかった。
「あら。わたくしは眠れなくて手持無沙汰なだけですわ。どうぞ陛下はわたくしのことなど気にせずお休みになって?」
「……こんなことをされて、眠れるわけないだろう」
「まぁ。こんなことって、どんなことですの?」
「マリア」
困ったように見つめてくる瞳の奥に情欲の色を見つけ、マリアンヌもまたうっとりと見つめ返す。
マリアンヌが側妃となって半年が経った。
その間ルーカスは、三日とおかずマリアンヌの元に通ってくれた。
一晩に幾度も身体を重ねる夜もあれば、ただ寄り添って眠るだけの日もある。
そのどちらのときもルーカスはマリアンヌを抱きしめて眠る。
夜のしじまに満たされる頃、ルーカスの腕の中がマリアンヌの世界のすべてだ。
誰もいないふたりきりの部屋の中で、何もかもさらけ出して生まれたままの姿で抱き合う。
それがこんなにも幸せなことだなんて、知らなかった。
女として求められる悦びを、このひとが教えてくれた。
「君はそうやって私を困らせてばかりだ」
「あら。そんなわたくしはお嫌い?」
「……ほらまたそうやって困らせる」
「ふふ」
「可愛くて仕方ないから、困るんだよ」
そう言った唇が落ちてくる。
意志の弱いルーカスのことが、マリアンヌも可愛くて仕方なかった。
日に日にすきになる。いとしさが募っていく。
本当は、片時も離れたくない。ずっとこうして触れ合っていたい。
何もかも投げ出して、欲望の海におぼれていたい。
「マリア……」
吐息交じりの声が肌を濡らす。
今夜ルーカスがこの部屋を訪ねて来たとき、今日は何もしないと宣言されていた。
マリアンヌはそれが面白くなかった。昼間に侍女たちの噂話を聞いてしまったから。
だから何とかしてルーカスをその気にさせようと目論んだ。
大人しく服を着たままベッドに入り、並んで横になり、明かりを落としたあとルーカスのことを「誘惑」した。
面白いほどあっさりとルーカスは陥落した。
けれどルーカスの手がマリアンヌの夜着にかかった瞬間、部屋の扉が四度叩かれた。
それはマリアンヌの至福の時間の終わりを意味していた。
「何だ」
ノックの音に、ルーカスは弾かれたようにマリアンヌから離れる。
部屋の外に問う声は、先ほどの熱の余韻すら無い。
残されたマリアンヌは、起き上がることさえ億劫で、だらんと腕を投げ出した。
もうマリアンヌのことなど忘れてしまったかのように、ルーカスは自ら部屋の扉を開ける。
こんな深夜に皇妃の寝室を訪ねてくることを咎めない。
「何だ」と尋ねたものの、ノック四回、それが意味することを、わからないわけがないのだ。
いついかなるときでも、たとえば愛し合っているさなかでも、ルーカスはその合図を優先する。
案の定、侍女か侍従か、訪ねてきた人物と一言二言交わしたルーカスは焦った様子を隠しもせず、マリアンヌの元へと戻ってきた。
続きをするためではない。形ばかりの謝罪のためだ。
もう何十回と繰り返してきたのだから、マリアンヌにだってわかっている。
「……どうかなさいましたか」
ほんの少し乱れた裾を直しながら、マリアンヌは身を起こす。
本当はこのまま再びルーカスをベッドに引きずり込んでしまいたいが、そんなことは不可能だということはわかっている。
フィジカル的にも、女としてのプライド的にも。
「……すまない。火急の用が入った。すぐ戻るが……先に寝ていてくれ」
すぐ戻るのにどうして先に寝る必要があるのか。
自分の発言の矛盾に、ルーカスはきっと気付いていない。
だからマリアンヌも気付かないふりをする。
「……承知しました、陛下。お風邪を召されぬよう、温かくして行ってくださいませ」
「あぁ……」
ありがとう、とマリアンヌの額にキスをして、ルーカスは部屋を出ていく。
ひどい男だ。
こんな中途半端に熱を灯して放置していくなんて。
扉が閉まるのを見届けて、マリアンヌは再びベッドに倒れこむ。
二人でも十分な大きさのベッドは、一人には広すぎる。
こうして一人置き去りにされることは、今日が初めてではない。
むしろ、予想はしていた。昼間、侍女たちの噂話を聞いたときから。
それを覆したくて抗ってみたけれど、結局はいつも通り。
ルーカスの行先なんて、わかりきっている。
彼の息子である第一皇子の元だ。
昼間、侍女たちが話していた。皇帝と皇子がお忍びでピクニックに出かけたから、皇子は今夜はしゃぎすぎて熱を出すかもしれない、と。
その予想は当たったのだろう。ノック四回。それは皇子が体調を崩したときの合図だ。
それを聞いたルーカスはどんなときも、何をおいても息子の元へと駆け付ける。
医療の知識など無いに等しい彼が行ったところで何の役にも立たないのに。
「……ばかみたい」
くだらなさすぎて、涙も出ない。
けれど泣けないことと哀しくないことは違う。
さみしい。くやしい。みじめで仕方ない。こんな屈辱、耐えられない。
けれど彼を失うことの方が、もっとつらい。
マリアンヌが誰より愛する夫には、マリアンヌよりも大事な人が二人もいる。
一人目は、彼の息子。まだ二歳になったばかりのこの国の第一皇子。会ったこともないし、顔さえ知らない。
けれどその存在はいつもマリアンヌの邪魔をする。
身体の弱い一人息子を、ルーカスは目に入れても痛くないほど溺愛している。
皇子のためならマリアンヌとの約束も平気で反故にする。
あとからいくら謝罪されてもお詫びの品を贈られても、事実は変わらない。後回しにされて傷ついた心はなかったことにはならない。
けれどマリアンヌには、その不満を口にすることは許されない。
幼い息子よりもマリアンヌを優先してと懇願するなんてみっともないし、皇妃として恥ずべき行為だ。
だから一度も口にしたことない。
きっとルーカスはマリアンヌが皇子に対抗心を燃やしているなんて、考えもしていないだろう。マリアンヌだって信じられない。
それでも皇子はまだましだ。
「妻」と「息子」で土俵が違うのだから、張り合っても仕方ないと言い訳も立つ。
マリアンヌが真に張り合うべきなのは皇子の生母、ルーカスの一人目にして最愛の妻、アンジェリカだ。
彼女がいるかぎり、ルーカスはマリアンヌのものにはならない。
今や「後宮」内でのルーカスの寵愛は完全にマリアンヌへ移ったと思われているが、事実は違うということをマリアンヌ本人は知っている。
ルーカスは、甘えているだけ。
行き場のない愛情を受け入れ、同じだけの愛情を返してくれるマリアンヌを傍に置くことで、自分の中の満たされない何かを埋めようとしているだけ。
人は、弱い生き物だから。
愛される心地よさを知ってしまえばもうそれを失うことに耐えられない。
他のぬくもりを知っているのに愛してくれないひとをただ愛し続けるなんて無理なのだ。
巷では仲睦まじいと思われている皇帝と正妃だが、実はその愛情はルーカスの一方通行でアンジェリカの方は夫にさほど興味が無いということに、マリアンヌは早い段階で気付いていた。
嫉妬をしないとか正妃の余裕とかそういうことではない。
アンジェリカは本当に、ルーカスに対して興味が無いのだ。
その証拠に、アンジェリカはルーカスのことを何も知らない。
好きな食べ物も、好きなことも、好きな花も。
マリアンヌが何を訊いても知らない、わからないとしか答えない。
挙句自分よりカーティスの方がルーカスに詳しいから、知りたいことがあるなら彼に訊け、とあしらわれた。
信じられなかったし、開いた口が塞がらなかったし、ルーカスが可哀想でならなかった。
ルーカスはあんなにも――初対面の小娘に無礼極まりない牽制をカマすくらいに――アンジェリカのことを愛しているのに、アンジェリカのことを一番すきなのに、どうしてわかってあげないのだろうかと腹が立った。
そして思った。
アンジェリカが要らないのなら、マリアンヌがもらってしまおう、と。
きっとそれは、同情であり打算でもあった。
マリアンヌはあまり自分の善性を信じていない。
父のような聖人ではないし、長兄のように清廉でもない。他人に優しくありたいと思ってはいるけれど、自分のために狡猾にもなれるごく普通の人間だ。
だからマリアンヌは、ルーカスがマリアンヌのことをすきになってくれるように一計を案じた。
アンジェリカの真似をして、アンジェリカがしてくれないであろうことをした。
何よりもルーカスのことを優先し、ルーカスの話に一生懸命耳を傾け、ルーカスの好きなものを知りたがり、ルーカスのしてくれることすべてに喜んで見せた。
ルーカスの妻になれて嬉しい、ルーカスのことがすきだと何度も伝えた。
ルーカスが喜びそうなことすべて口に出した。
ルーカスの望みには何でも応えたし、アンジェリカがしてくれないようなことを、何でもしてあげた。
そうして少しずつルーカスを篭絡していき、やがてルーカスはマリアンヌに夢中になった。
決して愛さないと言っていたくせに、マリアンヌを愛していると囁いてくれた。
すべてがマリアンヌの思惑通りだった。
なんて簡単で単純な男だろうかと笑いが止まらなかった。
――誤算だったのは、マリアンヌもまた、ルーカスのことを愛してしまっていたこと。
彼が笑うと、嬉しくなる。彼が哀しいと、マリアンヌまで苦しくなる。
彼が望むのなら何でもしてあげたい。
他の誰でもないマリアンヌが彼を幸せにしてあげたい。
そんなだいそれたことを願った報いだろうか。
マリアンヌに向けられる銀灰色の瞳が本当は誰を見つめているのか、慈しむような微笑みの奥に淋しさが隠れていることに、気付いてしまった。
ルーカスのことをいとしく想えば想うほど、彼が本当は誰を愛しているのか、誰に愛されたいと思っているのかわかってしまった。
マリアンヌの犯したもう一つの誤算。
それはルーカスのアンジェリカへの執着が予想よりもずっと昏く重いものだったこと。
愛情が一方通行でも、報われなくても、愛されないと知っているのにルーカスは、アンジェリカを愛することをやめられないのだ。
執着。妄執。陶酔。
ルーカスがアンジェリカへと捧げる愛は、マリアンヌの知るどんな愛とも違っていた。
いびつで、純粋で、倒錯的で、美しくて、禍々しくて。
かなわないと思った。
彼女がいるかぎり、ルーカスはマリアンヌを一番に愛することはない。
否、たとえいなくなったとしても、マリアンヌだけを愛することはないのだと悟った。
突きつけられた現実に、けれどもはやどうすることもできなかった。
ルーカスがアンジェリカを愛することをやめられないように、マリアンヌもまたルーカスに愛されない人生なんて考えられなくなってしまっていた。
マリアンヌは弱いから。
惜しみなく注がれる愛情を失うなんて耐えられない。
ルーカスからの愛を失うことが、今のマリアンヌには一番こわかった。
本当は、恥もプライドも捨てて縋り付きたい。
ルーカスを、マリアンヌだけのものにしたい。
マリアンヌのことを一番に、マリアンヌのことだけを愛してほしい。
そんなことを言ったら、きっと失望されてしまう。
側妃としてふさわしくないと、見限られてしまうかもしれない。
くやしい――くるしい。
アンジェリカよりもマリアンヌの方が、ルーカスのことをずっとずっと愛しているのに。
ルーカスの愛を失わないためには、今まで通り物分かりのいい妻を演じて、理想の側妃として振舞うしかない。
ルーカスがどれほど皇子を優先しても決して責めず、民の前でアンジェリカと寄り添う姿を遠くから見つめ、月に一度アンジェリカの元に通っていることに気付かないふりをして、次いつ来るかもわからない訪れをただひたすらに待つ。
そうすれば、今のままでいられる。何も失わずに済む。
けれどそれが、マリアンヌの幸せなのだろうか。
そうやって日々を耐える自分は一番の幸せ者なのだろうか。
わからない。考えたくない。わかりたくない。
ただ一つ確かなのは、今宵ルーカスがマリアンヌの元に戻ってくることはないということだけだった。




