Ⅴ.マリアンヌ=ランチェスター
前回更新分から二ヶ月ほど経った頃のお話です。
「……おかしい……」
「え!?も、申し訳ございませんランチェスターさま!何か不手際が御座いましたか!?」
「いいえ。貴女はよくやってくれていてよ、アルフォート嬢。腰掛け侍女にしては十分すぎるくらいに」
「ふえぇ……」
「強いて言うなら専属侍女でもないのに主人の独り言に反応することは越権行為ともとられかねないからお気を付けなさいな」
「はうぅ……」
「……お嬢様。年若い侍女を泣かせるのはおやめくださいと何度言わせるのですか」
「え?まぁ、ハンナ、どうしたの?そんな怖い表情して。あら?アルフォート嬢もどうしたの?そんな泣きそうな表情で……」
考え事をしていたマリアンヌは、ハンナの声で我に返る。
顔を上げると眉間にしわを寄せたハンナ=ロマと、瑠璃色の瞳を潤ませたアルフォート嬢ことヴェロニカ=アルフォートがこちらを見ていた。
二人がどうしてそんな表情をしているのか、今の今まで物思いに耽っていたマリアンヌには皆目見当もつかない。
だがマリアンヌは自分が考え事をしていると無意識に考えていることをすべて口に出してしまう厄介な悪癖があるということも自覚していた。おそらくはまた何か余計なことを言ってしまったのだろう。
「ごめんなさい、アルフォート嬢。貴女を傷付けるつもりなんてなかったの。ただ……。あぁ、わたくしったら、本当にだめね。いつもこんなによくしてくださる貴女に、何てこと……」
「そ……そんな……」
「本当にごめんなさい……」
「とんでもないです!そんな、ランチェスターさまが謝るようなことではありません!わたくし、もっと頑張ります!ランチェスターさまのお役に立てるよう、もっと……ッ」
「じゃぁ、許してくださる?わたくしのこと、嫌いになったりしない……?」
「もちろんです!」
「まぁ、よかった」
「……アルフォート嬢。もうお下がりいただいて結構ですよ」
「はい!」
ハンナに促され、ヴェロニカはうきうきと一礼して退出する。
部屋の扉が閉じられた瞬間、聖女然として微笑んでいたマリアンヌの表情が一瞬にして醒めたものになる。
「……あの子、あんなにチョロくて大丈夫かしら……」
マリアンヌは謝罪の際、具体的なことは何ひとつ言っていない。そもそも自身の発言の内容も、何に謝ればいいのかもわかっていなかったのだ。
そんなふわふわした謝罪でヴェロニカは何かしらを納得して出て行った。
「そのように俗な御言葉を使うことはお控えください。誰かに聞かれたらどうなさるんです」
「あら。こんな負けの見えてる次期側妃の部屋なんて、誰も訪ねてこないわよ。貴女と二人きりのときくらい、楽にさせてちょうだい。それでなくとも頭がお花畑の御令嬢のお相手をするのは疲れるんだから」
「お嬢様」
緑色の双眸を吊り上げるハンナに、マリアンヌは肩をすくめる。
とはいえ、今のはさすがに言い過ぎた。気心知れた乳母と二人きりで気が緩んでいるのもあるが、思った以上に「傷心」が尾を引いているようだ。
結婚式を一月後に控えた三月のある日、皇妃教育にいそしむマリアンヌは「宮廷」に与えられた一室で過ごしていた。もう二月の間、実家である公爵邸には帰っていない。
婚礼前の三ヶ月間、城下との接触を絶ち城内にて過ごすことは、皇族の婚約者、次期皇妃に課せられた義務だった。
城にいる間、身の周りのことはすべて城に仕える侍女たちがやってくれる。
通常皇妃が生家から連れて来られる使用人は一人か二人、多くとも三人で、他はすべて皇家の雇う宮廷侍女の中から選ばれる。
マリアンヌが公爵家から連れてきたのは、元々は乳母であり今はレディースメイドとして仕えてくれているハンナだけだ。
他は慣例通り宮廷侍女の中から八人が選抜され、もち回りで世話をしてくれている。
公爵家にいた頃と同様ハンナが常に傍で控えてくれているし、侍女たちも声をかければすぐにとんでくる。不自由は無い。
不自由は無いのだが、不満はある。
仮にも次期皇妃につけられている侍女でありながら、そのうちのほとんどは年若い少女たちで、仕事の粗が目立つのだ。
本人たちは一生懸命なのだろうが、はっきり言ってランチェスター公爵家で働くメイドたちに遠く及ばない。
付けられた侍女の中から気に入った者がいれば専属侍女に任じてもかまわないいと言われているが、誰一人として気に入らない。
おそらく許可した侍女長も、そんな者がいるとは思っていないだろう。
むしろ専属侍女に取り立てられて「後宮」に上がることになったら、困るのは彼女たち自身だ。
「宮廷侍女」と呼ばれる侍女たちの多くは貴族の御令嬢で、皇城に長く仕える気なんてない。宮廷に出入りする高位貴族の子息に見初められて結婚することが目的だ。
或いは先程退室したヴェロニカのように、次期皇妃とのパイプ作りか。
公爵令嬢と侯爵令嬢と言う序列から偉そうに振る舞ってみたものの、ヴェロニカはマリアンヌと同い年だ。在学中とりたてて交流は無かったが、アカデミーでは同輩だった。
マリアンヌが皇妃になることを知り、懐柔しようと父親のアルフォート侯爵が送り込んできたのだろう。
だが肝心の本人がアレでは、役目は果たせないだろう。
彼女の兄でありアルフォート侯爵家の嫡男は頭の切れる狡猾な人物だと聞いていたが、妹の方はそうでもないらしい。
侯爵令嬢としてはともかく宮廷侍女としての礼儀作法もなっていないし、簡単に言いくるめられてしまうチョロさは、今後海千山千の猛者がひしめく社交界を渡っていけるのかと、もはや心配になる。
「それで?正妃殿下とのお茶会で何か御座いましたか?」
「……」
「お気に召さないことがあったからといって周囲に当たるなんて、淑女とは呼べませんね。人のこと言えませんよ」
マリアンヌの好きなフレーバーの紅茶を淹れ直しながら、ハンナが言う。
マリアンヌが好きなのはアップルティーではなくアプリコットティーだと、何回言ってもヴェロニカは覚えない。
「アカデミーにいた頃からランチェスター嬢に憧れていたんです♡」とか言うくせに、マリアンヌの嗜好は全く把握していないのだ。
適当なことを言って、媚び方がいっそ清々しいなと呆れたが、ここ二ヶ月の言動から察するにどうやらマリアンヌに憧れているというのは嘘ではないらしい。
そうなってくるとますます意味が解らない。憧れているのなら好みくらいは把握しておくべきではないか。
頭の中がお花畑筆頭のヴェロニカに、マリアンヌは頭が痛い。
考えることは他にも山ほどあるのに。たかだか三ヶ月の付き合いの侍女にまで思考を割きたくない。
「……そうね。わたしも結局、礼儀知らずの小娘なのよ。正妃殿下には遠く及ばないわ」
ハンナの淹れ直してくれたアプリコットティーに口をつける。
ほんの少し甘酸っぱいフレーバーはマリアンヌのお気に入りで、わざわざ公爵邸から持ってきたものだ。
今日の正妃主催のお茶会――といっても招待客はマリアンヌだけだったが――でふるまわれたローズヒップティーよりも、こちらの方がずっと好きだ。
皇妃教育のためにマリアンヌが皇城に滞在している二ヶ月の間、二週間に一度程の頻度で正妃アンジェリカの開く「お茶会」に招かれていた。
数えるほどしか会ったことのないアンジェリカだが、今日も今日とて美しかった。
彼女に会うといつも、マリアンヌは何とも言えない気持ちになる。彼女と対峙するたびに毎回「負けた」と思わされるからだ。
容姿とか美貌のことではない。
女として何もかも敵わない。そんな気持ちにさせられる。こんなこと初めてだ。
けれど厄介なのは、マリアンヌは決してアンジェリカのことを嫌いではないということ。
だからこそ居心地が悪い。
「……正妃殿下がね」
「はい」
「すごく……お優しいの」
「はぁ……。いいことじゃありませんか」
「おかしいと思わない?正妃殿下にとってわたしって、いわば夫に合法的に手を出す泥棒猫なわけじゃない。『貴女なんか所詮陛下の御子を産ませるだけの道具よ。せいぜい身の程をわきまえなさい。陛下の御寵愛を得ようだなんて思い上がりも甚だしいわホホホホホ』くらい言われると思ってたのに、全然そんなそぶりお見せにならないのよね……」
「なんてこと考えてるんですか……」
「だからちょっとカマしてみたの。陛下のこと。どんな反応されるかなー、って」
「カマ……?」
「様子見っていうか、試したっていうか、まぁそんな感じ。『陛下ともっとお近づきになりたいんですけどどうすればいいと思いますかー』って」
「またなんでそんな喧嘩売るような真似を……」
「ちょっとした実験と検証よ。まぁあわよくばお二人の仲が何かしらどうにかなればいいかとは思ったけど」
マリアンヌの答えに、ハンナは頬を引きつらせる。確かに、あの瞬間、部屋の空気が一気に冷えた。凍った。「側妃(予定)が正妃に喧嘩を売った」と思われかねない質問だったと思うし、実際あの部屋にいたほとんどの人間はそう受け取っただろう。
ただ一人、アンジェリカを除いては。
「で、何ておっしゃったと思う?正妃殿下」
「……何とおっしゃったんですか」
今思い出してもいったいあれは何だったのかと思わずにはいられない。
けれど何度考えても、同じ結論にたどり着く。
『ディルク卿。今日のオペラの観劇、わたくしの代わりにランチェスター嬢に行っていただくことは可能かしら?』
『は?』
もっとルーカスと過ごす時間が欲しい、と言ったマリアンヌに、アンジェリカは少し考えるようなそぶりを見せたあと、淡々と尋ねた。
皇族女性としてマリアンヌの皇妃教育の講師を務めるアンジェリカは、公の場での印象と変わらず、常に冷静沈着、玲瓏として美しい。
顔を合わせた回数が両手の指の数を超えても、彼女が表情を変えるところを見たことがなかった。
「夫の婚約者」であるマリアンヌを前にしても少しも動じた様子はなく、物腰柔らかに丁寧に接してくれる。
淑女の鑑ともいえるその堂々たる姿は正妃としての――愛されている女の余裕のなせる業だろうか。
それでもマリアンヌ自らルーカスへの関心――側妃として以上の好意を抱いていること――をほのめかせば、何かしらの反応を見せるのでは、と思った。むしろそれこそがねらいだった。
それなのにアンジェリカは動揺などみじんも見せず、淡々と解決案を提示してきた。
思いもよらない「反応」に、マリアンヌの方が動揺してしまったほどだ。
『……可能ではございません。妃殿下』
そしてもう一人、反応を見せたのは普段アンジェリカに負けず劣らず冷静沈着な皇帝付近侍、カーティス=ディルクだった。
アンジェリカの問いに、カーティスは秀麗な眉の間に深いしわを刻んで答える。
口には出さないが、おそらく心の中では「何言ってんだコイツ」とか思っているだろうし、何ならマリアンヌも思っている。
ルーカスとの最初の謁見の日から、マリアンヌがアンジェリカと会うときは必ずカーティスが同席するようになった。
おそらくはルーカスの差し金だろう。マリアンヌがアンジェリカに危害を加えないよう見張っているのだ。
大事な――多忙を極める側近にそんなことをさせるなんて、どれだけルーカスがアンジェリカのことを大切にしているかが伺える。
そして当のアンジェリカは、きっと夫の心遣いなどちっとも意に介していない。
『けれどランチェスター嬢のおっしゃることは一理あるわ。婚礼式までにもっと陛下と過ごす時間を作るべきね』
『だからと言って……』
『わたくしとオペラに行く暇があるのなら、その時間をランチェスター嬢と過ごす時間に充てるよう、ディルク卿からも陛下に進言してちょうだい』
『……』
『そうね、今夜は警備や会場の都合もあるから仕方ないけれど、今後はわたくしに割く時間があるのならランチェスター嬢と過ごされた方がいいわ』
『…………承知しました』
まったく承知などしていない、苦虫を噛み潰したような表情でカーティスは頷いた。
侯爵であり皇帝付近侍たるものそのように感情を表に出すなど褒められたものではないが、これから彼の挟まる板挟みを思うと、無理もない、と同情してしまう。
アンジェリカからの「進言」を皇帝に伝えると確実にひと悶着起こるだろうし、その被害者は間違いなくカーティスだ。
初めての顔合わせであろうことかマリアンヌに向かってアンジェリカへの愛を表明したルーカスだが、その愛情は一方通行に思えてならない。
まさか、そんなことあるわけない、と思っても、アンジェリカと対面の回数を重ねるたび、疑惑は確信へと変わっていく。
「……『後宮』内にはね、一年中咲いている薔薇園があるんですって」
ポツリと、独り言のように呟いたマリアンヌに、ハンナは「左様でございますか」と答える。
皇城では、専属侍女だけが皇妃の「ひとりごと」に反応してかまわない。他の者は、名指しで話しかけられないかぎり決して応えてはならない。
己の存在を消して主人に仕えることが、侍女の務めであり美徳だった。
「どうして薔薇園だけ一年中花を咲かせているんですかって訊いたら、『陛下のお好きな花だから』って正妃殿下はおっしゃるの。でもね、本当は陛下は、薔薇なんて別にお好きじゃないんですって。陛下は、正妃殿下が薔薇をお好きだと思ってらっしゃるから一年中薔薇園を保っていらっしゃるんですって」
おしゃべり好きの侍女が教えてくれた。
一人では寂しいから付き合ってちょうだい、と殊勝にねだれば喜んでお茶菓子に手を伸ばした。半年前から宮廷侍女として働いている伯爵令嬢だった。
「次期皇妃」とつながりが出来てはしゃいでいたのか元々おしゃべりなのかはわからないが、訊けば何でも教えてくれた。
それが善意なのか悪意なのか、マリアンヌにとってはどうでもいいことだ。
「皇太子時代、陛下が正妃殿下に薔薇を贈られたら、正妃殿下はたいそう喜ばれたそうよ。それ以来陛下は、正妃殿下は薔薇がお好きなんだって思われて、ずっと薔薇を贈り続けているんですって。正妃殿下は正妃殿下で、こんなに毎回薔薇を贈ってくるんだから、陛下はよっぽど薔薇がお好きなんだって思ってらっしゃるみたい。……おかしいったらないわ。誰か訂正してあげればいいのに」
口の端が醜く歪んでいるのが自分でもわかった。
おかしいと言いつつ、うまく笑えない。
訂正してあげればいいと言いながら、きっとマリアンヌがその場にいても何も言えないだろう。
「……可哀想な人」
誰も彼も。
愛しても届かないルーカスも、愛されていることに気付かないアンジェリカも、愛してさえもらえないマリアンヌも。
みんなみんな、可哀想だ。
けれど、だからこそ勝機はある。
仲睦まじい夫婦と言われていたふたりだが、どうもルーカスの一方通行のようだ。
ルーカスも自覚しているのだろう。だからこそあのときムキになってアンジェリカへの愛を公言したのだ。
妻が自分に興味が無いことを知られたくなくて。
あれはきっと、ルーカスの心の裏返し。
ならばマリアンヌはそこにつけこめばいい。
愛されたいと嘆くルーカスの願いを叶えてやればいい。
もしもふたりが本当に相思相愛ならば、そこに割り込むことに罪悪感を覚えないでもない。
だが違うというのなら、遠慮する必要などない。
だってマリアンヌはそのためにここにいるのだから。
国一番の男に愛されて、この国で一番、幸せになるために。
初登場のヴェロニカ嬢は本編登場のロワル=アルフォート侯爵の妹です。
つまりはグレイスターたちの叔母にあたります。
語り手によって印象の変わるマリアンヌですが、結構早い段階でこういう性格なのは決まってました。
セレス様のいうような清廉潔白完璧聖女ではなく腹にいろいろ抱えていそうですが、別に国家転覆とかは目論んでないのでそこはご安心ください(?)
ちなみにマリアンヌの口がちょいちょい悪いのは、ミゲルの影響です。
子供のころ、武官学校に通い始めて下町言葉を使うようになったミゲルの真似をたまにしていたせいです。




