Ⅳ.アリア=ロマ
前回更新分のすぐあとのお話です。
あぁ、天使がいる。
それから女神も。
重い瞼を上げたアリアは、眼の前に広がる光景にそう思った。
「だって、こんな機会滅多に無いのよ?せっかくなら近くで見せてあげたいじゃない」
「それが余計なお世話だと言うんだよ。優しさは美徳だと思うけれど、根本的にお前の気遣いはズレているんだから、それを自覚しなさい」
「あら。わたしのそういうところが可愛いと思ってらっしゃるんじゃなかったの?」
「もちろんさ、可愛い人。お前のズレたところも突拍子のないところも思いこみが激しいところも根拠の無い自信に満ち溢れているところも思い切りがよすぎるところも、私はすべて愛しくて仕方ないさ。でもね、何度も言っているけれどアリアを巻き込むのはやめなさい。あの子はお前と違って繊細なんだ。陛下の御前は刺激が強すぎる」
「兄様ったら、昔っからアリアのことに関しては心配性よね。そう言うのって、過保護って言うんですって。鬱陶しがられても知らないから」
「何を言っている。アリアが私を鬱陶しがるわけないだろう」
「あのう……」
何だか揉めているらしい女神と天使に、意を決して声をかける。
本当は、あまり関わりたくないが、どう考えても原因はアリアのようなので、このまま寝たふりを決めこむわけにはいかなかった。
「あら。兄様が騒がしくされるから起きてしまったようよ。大体淑女が休んでいるお部屋に居座るなんて、紳士の風上にも置けませんわ」
「お前……ディルク卿にもそんな口のきき方したらしいな」
「あら。何か問題があって?」
「いや、それに関しては褒めてやろう。あの朴念仁相手によくやった」
「あの。どうしてミゲル様がここに……?」
「君が倒れたと聞いていてもたってもいられなくてね」
「はぁ……」
段々論点がズレていく二人に再度尋ねると、輝くような笑顔を惜しげもなく披露しながら女神――もといランチェスター公爵家三男のミゲル=ランチェスターが答えた。
何の答えにもなっていないが、彼とのこういったやりとりには日常茶飯事だ。
幼い頃からアリアはこの兄妹に振り回されてばかりだ。
「どこか痛いところは無い?アリア。貴女謁見の間から出た途端に倒れたのよ」
天使改めマリアンヌ=ランチェスターが尋ねながらアリアの顔を覗きこむ。その拍子に、金糸の髪がサラリと肩からこぼれ落ちる。
生まれたときから十六年間毎日見続けても決して見飽きることのない、輝くばかりの美貌。
どこか神々しいまでの美しさに、だから周りは勝手に騙される。
こんなにも美しい人はきっと、中身も清らかで崇高な人物なのだろう、と。
「ねぇ、兄様ったら貴女が倒れたのはわたしのせいだって言うのよ。酷いと思わない?だってまさか緊張しすぎると倒れることがあるなんて知らなかったんですもの。っていうかそもそもそんなに緊張するなんて思わないじゃない。たしかに伯爵家令嬢の貴女が皇帝陛下をあんなに間近で見る機会なんてこれまでもこれからも無いでしょうしだからこそ付添人として連れて行ったんだけど、そうは言ってもわたしの未来の旦那様よ?だったら貴女にとっても親戚みたいなものでしょう。そんなに緊張する必要無いわ」
「全然違うと思うぞ、マリー」
「あらどうして?わたしはアリアのこと妹のように姉様のように思ってるわよ?アリアは違うの?本当はわたしのこと嫌い?」
「嫌いなわけありま……っ」
「あぁっ、急に起き上がったら……」
とんだ茶番に、それでも反射的に反応してしまうのは幼少期――否、もはや産まれたときから刷り込まれている悲しき習性のせい。
アリア=ロマの人生は、この眼の前の天使、マリアンヌ=ランチェスターのためにあったといっても過言ではなかった。
先程マリアンヌが言った通り、アリアは伯爵令嬢ではなく伯爵家令嬢だ。
アリアの父は伯爵位はもっておらず、マリアの生家であるロマ家は男爵家なのだが、伯爵家の分家筋に当たるため、そう名乗ることを許されている。
そしてロマ男爵家の本家の伯爵家がランチェスター公爵家の親戚筋に当たる。
貴族といえど末席も末席、弱小貴族のロマ男爵家に唯一誇れることがあるとしたら、ランチェスター公爵家の縁戚に連なる家系であること。
そして三女が公爵家の長女と半月違いで生まれたことくらいだ。
幼い頃からアリアはそう父に言い聞かされてきた。
その縁のおかげでアリアの母、ハンナは公爵令嬢の乳母を仰せつかった。
ただの男爵夫人では分不相応、伯爵家夫人だから叶ったこと、らしい。
生後間も無いアリアを連れ、まだ幼い上の二人の娘を男爵家に残し、母は公爵令嬢に乳を与えるためにランチェスター公爵家の屋敷で暮らし始めた。
その公爵令嬢こそがこのマリアンヌ=ランチェスター。
アリアの天使だ。
否、天使の皮を被った小悪魔だ。
公爵や公爵夫人の計により姉妹のように育ったマリアンヌとアリアだが、物心ついた頃には既にアリアは、マリアンヌは自分とは違う存在だということに気付いていた。
美しさも賢さも纏う気品も、マリアンヌは何もかもが他の誰とも違っていた。
突拍子も無いいたずらも、無鉄砲な言動も。
何をしても許される、何もかもが思うがままの、特別な人間。
誰もが彼女を愛し、敬い、傅く。
そうあることが当然なように。
アリアも例外なく子どもの頃からずっとマリアンヌに振り回されてきた。
公爵家の庭の木の上に登って下りられなくなったマリアンヌのために庭師を呼びに行ったり、家庭教師の授業に飽きたマリアンヌの代わりに彼女のふりをして受けようとしてもちろんバレて叱られたり、マリアンヌが獲ってきた蝶々が鼻に止まって以来見るだけで嫌になったり、真冬の湖でスケートがしたいとごねるマリアンヌに付き合って氷の割れ目から湖に落ちたり、些細なことから結構な大事に至るまであらゆる被害を受けてきた。
そのたびマリアンヌの「ごめんなさいアリア。もうしないから。嫌いにならないで」という言葉に絆されてきた。
天使のように愛らしい「特別」な女の子が、泣きながらアリアに抱きつき、許しを請うのだ。嫌わないでと懇願するのだ。絆されないわけがない。
実際、マリアンヌは同じいたずらは二度はしなかった。
次から次へと新しい騒動――しかもよりパワーアップした――を引き起こすだけで。
マリアンヌの美点であり欠点は、頭の回転が速すぎること、行動力がありすぎること。
そして周りの人間がマリアンヌに対し甘すぎること。
公爵令嬢らしからぬ奔放さや破天荒さを皆が「マリーは賢いなぁ。可愛いなぁ」と容認してきたことだ。
しかし今回ばかりは止めると思った。さすがに。
誰かが止めさせると思った。
そう。
誰もが思ってしまったのだ。
自分以外の誰かが止めてくれるだろう、と。
だってまさか、本当にそんなこと実行するなんて思わない。
「皇帝陛下の麗しの御尊顔を一度でいいから近くで見てみたいものです」という軽口を真に受けて、婚約後初の顔合わせにメイドに扮した乳姉妹を連れて行くなんて。
「それはそうと。どうだった?陛下はアリアのお眼鏡に適った?好みだった?結婚してもいいくらい?お兄様たちとどっちが素敵?」
矢継ぎ早に投げつけられるマリアンヌからの質問に、アリアは再び眩暈がしそうになる。
そもそも先程の、皇帝への謁見の際の言動も何なのか。正直生きた心地がしなかった。謁見の間で卒倒しなかっただけ褒めてほしい。
おそらくその反動で、部屋を出たとたん意識を手放した。
その後マリアンヌが皇妃教育のために滞在している「宮廷」内のこの部屋に運びこまれたのだろう。
なぜミゲルまでいるのかはわからないが、騒ぎを聞きつけて様子を心配してくれたのか。
何だかんだ、ミゲルは幼い頃からアリアのことも妹のように可愛がってくれていた。
というより、マリアンヌに振り回されるアリアにいつも同情的だった。
「人の眩暈を『それはそうと』で片付けるな。しかも何だその質問」
「あら、大事なことよ。答えて、アリア」
「えぇと……あんなにも美しい御方がこの世にいらっしゃるのですね……。本当に光り輝いているのかと思いました……。あれ程までに美しい方と毎日顔を合わせては、いつか目が潰れてしまうかもしれませんね……」
「まぁ。それじゃぁつまり陛下が一番素敵な方ってことよね。そんな御方と結婚したら絶対、一番幸せになれるに決まってるわよね」
「お嬢様……?」
「ねぇ、そうよね」
「いい加減にしないか。どうしたんだ、マリー」
「ねぇってば、アリア」
「マリー」
ミゲルに窘められてなおも食い下がるマリアンヌに、異様な気迫のようなものを感じる。
それはうら若き乙女が結婚を前に情緒不安定になってしまうといった所謂マリッジブルーとも違うように見えた。
アリアの両肩を掴んだ手は、かすかだが震えていた。
尋常ならざる妹の様子に訝しみ、ミゲルはマリアンヌの両手をアリアの肩から外す。マリアンヌは抵抗しなかったが、表情は強張ったままだ。
「正直に言いなさい、マリー。お前、何のためにアリアを陛下の御前に連れて行った?本当はアリアのためなんかじゃないんだろう?アリアに何をさせたかったんだ?」
「……」
「マリアンヌ」
ランチェスター公爵家の三兄弟は、末っ子のマリアンヌを溺愛している。目に入れても痛くないほど可愛がり、甘やかしている、というのが周囲の共通認識だ。
けれどその当の本人マリアンヌの幼馴染であり長年四兄妹を傍で見てきたアリアは知っている。
三人の兄のうち、唯一ミゲルだけはマリアンヌに厳しい顔を見せることがある。
そして普段生意気な口ばかり聞いているマリアンヌも、そうなったミゲルには逆らえないということ。
「……だって……アリアは間違えないから……」
「は……?」
「だからアリアが大丈夫って言ってくれるなら信じられるの。わたしは幸せになれるって。だって、わたしは幸せにならないと……ッ」
「……お嬢様……」
美しい少女のどこか狂気じみた姿に戦慄した。
けれどもうこれ以上諫めることも気安めの慰めを言うこともできなかった。
アリアは、知っている。
ミゲルも、ランチェスター公爵夫妻も、公爵家の使用人たちも皆。
幸せを乞うこの少女が、本当は今、誰より不幸だということ。
あの日からマリアンヌはずっと、哀しみの嵐の中にいる。
逃れられない絶望の中、もがき続けている。
「だから言って、アリア。大丈夫だって。わたしは……」
「……やめなさい、マリー。もうこれ以上アリアを困らせるな」
「じゃぁわたしがつらいのはかまわないの!?」
「……ッ」
声を荒らげたマリアンヌに睨まれ、ミゲルは息を呑む。
妹の癇癪に驚いたわけではない。
世間では社交界の華、淑女の中の淑女ともてはやされているマリアンヌの本性が我儘で奔放なことは、ミゲルも知っている。
そしてミゲルがマリアンヌのそういうところごと愛しているのだということを、アリアは知っていた。マリアンヌの周りの誰もが彼女を愛し、彼女の幸せを願っていることも。
彼女のための幸せを守るために心を砕き手を尽くす。
それが彼女の望む幸せとは異なるということを知りながら。
「……ごめんなさい。どうかしていました……」
「……マリー……」
「きっと、自分でも気付かなかったけれど動揺しているのね。まさかあんなこと言われるなんて思わなかったもの。あんな、最初から、わたしのこと愛するつもりない、なんて……」
「お嬢様……」
白い手が顔を覆う。俯いた拍子に、輝く金糸の髪がさらりと頬を撫でる。
泣いているのかと思った。
決して泣かない人だということを知っていた。
「……マリー」
「……」
「……もし本当にお前が嫌がるのなら、父上はこの話を断るつもりだった。結婚一つで揺らぐような我が家ではないし、父上も兄上たちも、お前の幸せを何より願っていた」
むしろ彼らの父、ランチェスター公爵はこの結婚に乗り気ではなかった。
大切に大切に育ててきた愛娘を、どうして「皇妃」に差し出さなければいけないのかと、嘆いていた。
それはきっと、側妃ではなく正妃であっても同じだろう。
たった一人の男に、ただ一人の女として愛されてほしい。
それは親として当然の願いだ。
そしてマリアンヌ自身も初めは嫌がっていた。
皇妃になどなりたくないと。そんなものになるくらいなら誰とも結婚しないと。
そんな彼女が一転して頷いたのは、彼女の意地だ。
公爵令嬢としての矜持ではなく、女としてのプライド――執念のため。
端から見ればくだらないかもしれない。アリア自身、何度も止めようと思った。
けれどどうしても止められなかった。
これは、彼女の闘いだから。
「だがな、マリー。さすがにもう手遅れだ。今から嫌だと言ってももう、覆すことはできない」
「わかっています」
わかってるんです、と繰り返し、マリアンヌは顔を上げる。そこに涙の気配は微塵も無い。
夏の空に似た蒼い瞳に宿るのは、諦念ではなく覚悟。
「わたしは、わたしのためにここに来たんです。お父様やお兄様のためじゃない。世継ぎとか権力争いとかどうでもいい。わたしはわたしの目的を果たします」
「マリー……」
「お嬢様……」
「だって、同じなんですもの」
「……」
「ノアじゃなければ、誰だって同じよ」
そう言って美しく気高い公爵令嬢は微笑んだ。
それが、アリアがマリアンヌ=ランチェスターを見た最後だった。
アリアはマリアンヌの乳母であり幼少期のレオンハルトの侍女であるハンナの娘です。
マリアンヌとは乳姉妹として育ち幼馴染でもあります。
「マリア」と「アリア」では紛らわしいため、家族が呼ぶマリアンヌの愛称は「マリー」だという裏設定がありました。




