Ⅲ.ルーカス=ジュエリアル
ルーカスが側妃を迎えたのは、ブリティックスとの戦争が終わった翌年のことだった。
正妃を迎えてからまだ五年も経っていなかったが、非難の声は上がらなかった。
側妃の選定に正妃が積極的に関わっていたためというのもあったが、何より第一皇子であるアデルバートが病弱だったことが一番の要因だろう。
次期皇太子に何かあったときの保険を大臣たちは求めていたのだ。
ルーカスの「要望」は、彼らにとって都合がよかったはずだ。
ルーカスが側妃を迎えることに唯一反対する者がいたとしたら、アンジェリカの生家であるサルヴァドーリ皇爵家だろう。
新しく迎えた側妃の産んだ子が男児であれば、次期皇太子の外戚としての立場が危うくなる。普通はそんな事態避けたいはずだ。
けれどルーカスの予想通り、アデルバートにとっては祖父に当たるサルヴァドーリ皇爵は沈黙を貫いた。
それが国のためになるのならと、娘婿が他の女と子を生すことを受け入れたのだ。
ルーカスにとっては従叔父でもあるサルヴァドーリ皇爵がもっと権力欲にまみれた人間であったなら、他家から皇太子を出す可能性を許さなかっただろう。
ルーカスはこのときほど義父の公明正大さを恨んだことはない。
二代前の皇帝を祖父にもち、皇爵として生きる義父は、何よりも国の安寧と繁栄に尽力していた。
そしてアンジェリカの忠国心も清廉さも、間違いなく父親譲りだ。
高潔な父の背を見て育ったアンジェリカは常に凛として美しく、誰よりも正しかった。
彼女のそういうところが愛しいと思っていたのに、今はただ、空しかった。
他の妻など要らない。君を愛している。君に愛されたい。
そんなこと、言えるはずもなかった。
縋がり付いて愛を乞うなど、できるはずない。
つまらない、男のプライドだ。
それに第二皇子が必要なのは切実な現実だった。
気付けば自らの我儘を覆すことなどできない状況に陥っていた。
ー・-・-・-・-
「ギルベルト=ランチェスター公爵が長女、マリアンヌ=ランチェスターと申します。お目にかかれて光栄です、皇帝陛下」
朝の静謐な空気を震わすように凛として響く声で、十六歳の少女は奏上した。
この国の最高権力者を前にしながらの堂々とした態度は、若さゆえの根拠の無い自信の表れか、それとも侯爵令嬢としての矜持からくるものか。
どちらにしろ、ルーカスを見つめて微笑みさえ浮かべる少女は、「社交界の花」と謳われるに相応しい美しさと気高さを湛えていた。
彼女がアンジェリカがルーカスの側妃に選んだ女、四大公爵家ランチェスター家の長女、マリアンヌだ。
彼女のことは、噂程度にしか知らない。
宰相補佐官ギルベルト=ランチェスター公爵とその三人の息子たちが溺愛するランチェスター公爵家の末娘。
父親譲りの華やかな顔立ちで自身のデビュタントの際、ホール中の貴公子を虜にした今シーズン最も話題の令嬢。
ひとたび夜会に出席すればダンスの誘いはあとを絶たず、彼女と一言でいいから言葉を交わしたいと男たちが列を成し、ランチェスター公爵邸には連日贈り物や求婚状がひっきりなしに届くのだという。
「ジュエリアルの至宝」という賛辞もあながちおおげさではないだろうと思うほどに、確かにマリアンヌの美貌は抜きん出ていた。
太陽の光を細く縒り合わせてこしらえたような金糸の髪、それと同色の扇形のまつげ、なめらかな白皙の肌、なだらかに弧を描く知的そうな眉、澄み切った夏空のように蒼い大きな眸、咲き初めの薔薇のような頬、厚すぎず薄すぎない柔らかそうな形のよい唇。
顔のパーツ一つ一つの造りが精巧に作られた芸術品のように美しく、それらが寸分狂わず完璧な位置に配置されている。
非のうちどころの無い完璧な美貌だ。
だがその美しさも、ルーカスにとっては何の意味も成さない。
彼女のデビュタントの際も皇帝として祝福を授けたが、正直、あまり印象に残っていない。
あの日ルーカスはいつも通り、アンジェリカのことしか見ていなかった。
正妃として着飾った妻の美しさに心奪われていた。
ルーカスはいつだってこんなにもアンジェリカのことだけを想っているのに、どうして他の女を妃に迎えなければいけないのだろう。
自業自得だとわかっているからこそ、悔やまずにはいられなかった。
「……ランチェスター嬢」
「はい」
「城での生活は慣れたかな?何か不自由があれば遠慮なく言いなさい」
一週間ほど前からマリアンヌは皇妃教育のため皇城内の「宮廷」に滞在していた。
本来ならば登城したその日に謁見する予定だったが、ルーカスが何だかんだと理由をつけて逃げ回り、先延ばしにしていた。
自分が蒔いた種とは言え、妃となる他の女と会ったあとアンジェリカと顔を合わせることを考えると後ろめたかったためだ。
いい加減言い訳も尽き、しびれを切らしたギルベルトにせっつかれ、カーティスに首根っこを掴まれて渋々対面を果たしたわけだが、まだ十六歳のあどけない少女を前にすると、予想とは別の意味でいたたまれなくなった。
こんな幼気な少女をルーカスの我儘に巻き込んでしまったことが申し訳ない。
だからこそルーカスにできる償いなら何でもしよう、しなければ、と思ったのだが、当のマリアンヌは優雅に微笑む。
「御心遣い、身に余る僥倖にございます。皆様のお力添えのもと、つつがなく過ごさせていただいております。特に正妃殿下におかれましては、わたくしのような新参者にまで御心を砕いてくださり、本当に恐れ多いことにございます」
「……」
淑女の鑑のように優美な笑みと共に返ってきた、模範的な回答だった。
だがルーカスは彼女の口からアンジェリカの名が出てきたことに、不覚にも動揺してしまった。
マリアンヌを側妃に選んだアンジェリカは、彼女の皇妃教育までかって出た。
皇妃教育は専任の講師の他、皇族女性によって施される場合もあるが、今現在皇城内に「皇族女性」はアンジェリカしかいない。
ルーカスの母である皇太后は夫の死後「後宮」を出て離宮へと引っ込んでしまっていた。
そのため、アンジェリカの行動は正しいと言えば正しいのだが、ルーカスとしては気が気ではない。
アンジェリカが新参者であるマリアンヌに洗礼を浴びせるのでは、と心配しているのではない。むしろその逆だ。
「……正妃は、そなたにどんな話を?」
「陛下御傍に侍るための心構えや、宴での立ち居振る舞い、外国の大使や要人のおもてなしの作法など。次回は外遊にお供させていいただいた際の心構えについてご教授くださる予定です」
「……それは正妃の役目だ。そなたには必要ない」
「はい?」
「初めに言っておくが、私の『妻』はアンジェだけだ。
そなたには側妃として役目を果たしてもらう見返りに、願いは極力聞き入れよう。決して不自由な想いはさせないと約束する。だが私がそなたを妻として愛することはない。私が妻として心から愛するのは、正妃だけだ」
こんなことを、言うつもりなかった。
まだ十六歳の幼気な少女をルーカスの身勝手な我儘に巻き込んだことを、心底申し訳なく思っていた。
だから妻として愛することはできなくても、妃としての立場は尊重しようと決めていた。
もちろんその胸中をわざわざ打ち明けるつもりも無かった。
伝えても意味は無い、むしろマリアンヌの自尊心を傷付けることになることくらいは、ルーカスにだってわかっていた。
それなのに思わず口を突いたのは、マリアンヌが意図的ではないだろうが、ルーカスの不安を刺激したせい。
アンジェリカが第二皇妃の選定に加わると言い出したときから、ずっと不安だった。
アンジェリカがルーカスを他の女に押し付けようとしているのではないか、と。
外交の補助も視察への同行も、今はすべてアンジェリカがこなしている皇妃としての公務だ。
それをマリアンヌに教授しているのは、ルーカスから離れたいからなのでは、と。
酷い八つ当たりだ。
これはルーカスとアンジェリカの問題で、マリアンヌは少しも関係ないことなのに。
ルーカスの失言に、後ろに控えるカーティスはものすごい表情でルーカスを睨んでいたる。
見なくてもわかるくらい、「余計なことを言いやがって」と怒っている空気がひしひしと伝わってくる。
二つ歳上の幼馴染のカーティスは近侍というよりお目付け役で、ルーカスはことあるごとに叱られている。
物腰柔らかで口調も丁寧なのにあまり敬われている気がしない。
慇懃無礼という言葉はきっと彼のためにある。
ともあれ、我に返り己の失言をどう挽回しようと内心狼狽するルーカスは、失念していた。
デビュタントから一年足らずで「社交界の花」と謳われるようになった十六歳の少女が、見た目どおりの純粋無垢で人畜無害な人物であるはずがない、ということを。
「まぁ、それは困ります!」
怒るでも嘆くでもなく、マリアンヌはそう声高に叫んだ。
あまりにも予想外の反応に、ルーカスはあっけにとられる。
酷いと泣かれてしまっても仕方ないことを言った自覚はあるが、それにしても「困る」とはどういうことか。
「こ……困る……とは……?」
「わたくしは陛下に愛していただかなければ困ります。そのために御傍に上がるのですから」
「は……?」
自信満々に主張するマリアンヌに、ルーカスは自分の方がおかしいのかと不安になる。
しかしマリアンヌの付添人は彼女の後ろで頭を抱え蒼褪めているし、カーティスも言葉を失っているため、やはりどう考えてもおかしいのは彼女の方だ。
「そなたは……私を慕っているのか……?」
思春期の少年のようなルーカスの質問に、マリアンヌは目を丸くした。そんな表情をすると年相応のあどけなさが伺え、愛らしさが際立った。
生ける芸術とまで言わしめた美貌と生まれながらの溢れる気品で世の淑女たちを魅了してきたルーカスだがその実、女性との私的な交流は皆無と言ってもいい。
物心ついた頃には既にアンジェリカとの婚約が決まっており、幼少期の妃候補選定を兼ねた同世代の異性との交流会などは行われなかった。
ルーカス本人がアンジェリカに夢中だったため、そのようなものは必要なかったのだ。
年頃になり皇太子としてアカデミーに通い始めるとルーカスに憧れを抱いて思いあまる女生徒が現れたり、社交界デビュー後は夜会で一夜の情けを期待する淑女に迫られたりした。
なかには既成事実さえ作ってしまえばあとはどうにでもなると強行突破を試みる猛者もいたが、ただならぬ気配を察して駆けつけたカーティスに追い払われていた。
学生の頃からカーティスはルーカスのお目付け役且つ番犬であり忠犬だった。
そうして独身時代のルーカスの純潔は守られたわけだが、そのことを男として「もったいない」とは思わなかった。
火遊びは貴族男性の嗜みと言われるなか、ルーカスは一度としてアンジェリカ以外の女性に目移りしたことはなかった。
ルーカスの青春はすべてアンジェリカに捧げてきたし、他に女性を欲しいとも思わなかった。
だからこそ、アンジェリカ以外の淑女とこうしてまともに会話すること自体、もしかしたら初めてかもしれない。少なくともルーカスの記憶には残っていない。
人生二人目の女性がマリアンヌだったこと、ルーカスにとっては不幸と言うか、「災難」だったのかもしれない。
「いえ、特には」
「は……?」
「だって陛下とは今日初めてお話したんですもの。すきかどうかなんて、まだわかりませんわ」
「それなのに……私に愛されたいと……?」
「はい。もちろん、すぐにとは申しませんわ。おいおい、ゆくゆくで結構です」
「『おいおい』……」
マリアンヌの言葉に今度こそルーカスは言葉を失う。
目の前で悠然と振る舞う少女は、何もかもが完全にルーカスの理解の範疇を越えていた。
「口をお慎みください、ランチェスター嬢。不敬ですよ」
ルーカスより一足先に我に返ったらしいカーティスがマリアンヌを窘める。
いつも通りの鉄仮面に冷やかな声に並の令嬢ならすくみあがってしまうだろうに、マリアンヌはカーティスをキッと睨みつけた。
「不敬?夫に愛されたいと願う妻の心の何が不敬とおっしゃるのですか。幼気な乙女の純情がおわかりにならないなんて、さては貴方、独身ね!」
「な……っ」
「やめよ、カーティス。ランチェスター嬢も、落ち着きなさい」
罵倒なのか侮辱なのかわからないが、一足触発状態な二人をとりあえず諫める。
普段冷静な鉄仮面のカーティスが動揺を露わにするなんて珍しい。
ちなみにマリアンヌの予想は不正解で、カーティスは先年結婚し、もうすぐ第一子が生まれる予定なのだが。
「……ランチェスター嬢」
「はい」
「そなたが私の寵愛を求めるのは、私が皇帝だからか?」
「はい?」
「私を籠絡するよう父君たるランチェスター卿に命じられてきたか。望みは何だ?今以上の力を望むか、それとも皇太子の外戚の立場か」
「陛下」
「どちらにせよ、そなたらにとって私など皇帝としての存在価値しかないのだろうな」
まるで駄々を捏ねる子どものようだと、こみ上げる自嘲を押し殺す。
それは誰に向けた問いなのか。
わかっている。皇帝であるルーカスしか必要としていないのは、他でもない最愛の妻だということを―――
「そんなの当然ですわ」
「は……?」
「だってわたくしは、陛下ことをまだ何も知らないんですもの。……いいえ、陛下の皇帝としての御姿しか存じません。それなのに、どうやってそれ以外のところを愛せとおっしゃるの?」
「……」
「陛下。もしもそれがお嫌だとおっしゃるなら、わたくしにもっと陛下のことを教えてください。そしてわたくしのことも、もっと知ってくださいませ」
「そなたは……」
「マリアンヌですわ、陛下。
覚えておいてくださいませ。貴方様の妻になる女の名です」
幼気な乙女は悠然と微笑む。
艶やかな笑みは彼女を淑女にも妖女にも彩った。
この女が、ルーカスの妻になる。
その事実に、目眩がしそうだ。
「それからあとひとつ。父はわたくしに何も命じてはおりませんわ。ここにいるのはわたくしの意思です。陛下のことを知りたいと思うのも、愛されたいと願うのもわたくし自身の心なのです」
どこまでもダメ男なルーカス。
何だかんだ皇子様育ちなので自分本位なところ強めです。
そして久々登場マリアンヌは、少女時代から自由奔放です。
マリアンヌとカーティスの因縁?は初対面から始まってました。




