E.C.1020.03-2
長らく更新が滞っておりましたが、最終番外編スタートです。
皇帝を取り巻く人々の様々な胸の内のお話。
これまでの思わせぶりな言動の真意が明らかになったりならなかったり。
かなり長くなりますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
蒼白を通り越し、顔色を失った青年の背が扉の向こうに消えるのを見届けたカーティスはため息を吐く。
主の前で臣下としてあるまじき態度だが、これくらいは許してほしい。
「……どうしてあのようなことをおっしゃるのですか。あんな、心にもないこと」
尋ねても、主からの答えは返らない。
聞こえていないわけではない。叱られるのが嫌でわざと聞こえないふりをしているのだ。
それはつまり、叱られるようなことをした、という自覚があるということ。
カーティスは不敬を承知でもう一度ため息を吐く。
「陛下は相変わらずひねくれていらっしゃる。あんなことをおっしゃって、皇太子殿下が本当に身投げでもされたらどうなさるおつもりですか」
「……あの子にそんな度胸は無いよ」
カーティスの方を見ることなく、主はポツリと反論する。
声に力が無いのはバツの悪さからか、疲労のせいか。
三ヶ月前に公務中に倒れ床に伏して以来、主は日に日に体力が落ちてきている。
衰え知らずだった容色はどことなく精彩を欠き、顔色もよくない。
ただそれくらいのことで彼の美貌が損なわれることはない。
どのような状況でも、いつだってこの男は誰よりも美しく、圧倒的だった。
神に愛された至高の芸術品。
繊細で、完璧で、だからこそ皆勝手に騙される。
あれほどまでに美しいのだから、きっと心の内もそうなのだろう、と。
そんなわけない。
カーティスの言葉に皮肉げに口の端を歪める主は、病を得てなお美しく、どこまでも歪んでいた。
歪んでしまった。
ルーカス=ジュエリアル。
西大陸唯一の帝国の皇帝であるこの男に仕え、もう二十五年以上経つ。
出会いから数えれば付き合いはもっと長い。彼が八つ、カーティスが十のときに初めて出会って以来、人生の大半を彼の傍で過ごした。
彼の妃や子どもたちよりもずっと長く、彼のことを見てきた。
だからカーティスには、彼の考えていることが手に取るようにわかる。
ただし、共感は少しもできない。
「それに心にもないことではないよ。私はあの子に死んでほしいと思ったことはないけれど、あの子さえ生まれてこなければ、と思ったことは何度もある」
「だからと言って、わざわざ伝える必要など無いでしょう」
「やかましいな。お前もあの子の味方をするのか」
窘めると、途端に不機嫌になる。
まるで大きな子どもだ。身体ばかりが大きくなって、誰もがひれ伏す地位と権力を手にしたからといって、中身はあの頃から何も変わらない。
欲しくてたまらないくせに、手を伸ばすことができない。
拒絶を恐れ、けれど諦めることもできず、回りくどいことばかりする。
そうしているうちに本当に欲しいものを見失う。
憐れだと思った。
「……疲れておいでのようですね。少しお休みになられたらいかがです」
「そうやってすぐに人を病人扱いする」
「まごうことなき病人でしょう。あまり興奮しては御身体に障りますよ」
「……アデルも、このような心地だったのだろうな」
零れ落ちた呟きに、不覚にもカーティスは一切の動きを止める。
驚いてルーカスの方を見るも、視線は絡まない。
シーツの上に投げ出されたてのひらを見つめながら、この男は何を思っているのだろう。
「……皇太子として生まれなければ……私と正妃の子として生まれてこなければ、あの子にはもっと違う人生があったのだろうか……」
「……陛下……」
「私は結局、あの子に何もしてやれなかったのだな……」
呟きは、まるで懺悔のようだった。
臣下たちの間ではあまり知られていないことだけれど、今は亡き前皇太子のことを、ルーカスは誰よりも愛していた。
特別に想っていた。
愛していたから皇太子の地位を与えたし、愛していたから政権争いや無用な心労の無い離宮で過ごさせた。
彼が少しでも心穏やかに生きていけるように。
本当は傍に置いておきたかったはずなのに、一番可愛い盛りの、まだ十歳の愛息子と離れるのはルーカスにとって身を切るほどつらいことだっただろう。
そしてその苦渋の決断は、不幸にも皇城の中に波紋を生んだ。
アデルバートが帝都から離れたことで、臣下たちの間で「病がちの皇太子殿下は皇帝陛下に見限られた」という噂が立った。
「皇帝陛下は最愛の寵妃であった第二皇妃殿下の忘れ形見の第二皇子を皇太子に据えようとしているのではないか」とも。
太陽の女神と謳われるほどの美貌を誇り、その命と引き換えに皇帝の子を産んだ第二皇妃の人気は死してなお高かった。
結局皆、喜劇よりも悲劇が好きなのだ。
母を亡くして健気に生きる愛らしい皇子の姿に人々は胸を打たれ心を寄せる。可哀想な皇子を守らなければ、と。
アデルバートが皇太子として立派にセイレーヌを治めているという報告を受けても、あんな病弱な幼い皇子に領主が務まるわけない、実際は側近のいいように操られているのだろう、と信じようとしなかった。
人は皆、自分の信じたいものしか信じない。
それでも実際に第二皇子を皇太子に担ぎ上げようとする輩が現れなかったのはやはり、アデルバートの生母たるアンジェリカの存在が大きかったのだろう。
本人にそのつもりが無かったとしても、この国の№2である彼女に睨まれるようなことは皆避けたかったのだ。
後継者問題について、皇帝と正妃はそろって沈黙を貫いた。
第二皇子を皇太子に据えるという噂を公式的に否定することが悪手だということくらいは、ルーカスにもわかっていたようだ。
そもそもアデルバートを廃太子していないことがルーカスにとっては何よりの答えのつもりだったのだろう。
皇太子が皇帝になれないなんてそんなこと、あるわけないのだから。
歴代の皇帝のなかでも最強と謳われ戦神と讃えられるほど戦上手のルーカスだが、政の方はあまり上手くなかった。
周囲の人間は勝手に騙されて、カーティスたちも必死に隠しているが、臣下たちが思うよりずっとルーカスは単純で短絡的だ。
それこそアデルバートの方がよほど思慮深く賢明だった。
ルーカスが自分で考えて実行したことは、ほとんどの場合裏目に出る。
アデルバートのことも、元アメジア王女の第六皇妃ローズマリーのことも。
当初ルーカスは、ローズマリーのことを皇太子妃――アデルバートの妃とするつもりだった。
そのために理由をつけて彼女をアデルバートの傍へと送った。
いずれは結ばれるふたりに、ふたりだけの時間を過ごさせてやりたかったのだ。
ルーカスの目論みは一見功を奏したかに思えた。
多少の悶着はあったようだが、ふたりは周りの大人に見守られながらゆっくりと仲を深めていった。
定期的に上げられる報告やアデルバートの話を聞いては安堵するルーカスの姿は、滑稽な父親そのものだった。
しかし終戦から二年経ち、ようやくローズマリーの祖国アメジアの情勢も安定し、アデルバートの成人を待って婚儀を行えるようふたりの婚約を進めようとした頃、悲劇は起こった。
アデルバートが医師に、長くともあと十年生きられるかどうかわからないと宣告されたのだ。
同時に、もし長く生きられたとしても幼い頃から病がちだったアデルバートの身体は、皇帝の激務には耐えられないだろう、とも。
愛息の余命を告げられたルーカスの姿は、見られたものではなかった。しばらくの間は抜け殻のように過ごし、公務もままならぬほどだった。
あれほどまでに絶望し、打ちひしがれるルーカスを見たのは初めてだった。
本当に哀しいとき、人は涙すら流せないのだと知った。
アデルバートの余命について、診断した医師は固く口止めし、他にはアデルバートの生母であるアンジェリカと第三皇妃のセレスティアにだけは伝えた。
アンジェリカはともかくなぜ第三皇妃に、と思ったが、ルーカス一人では抱えきれなかったのだろう。
昔からアンジェリカはアデルバートに対し、母親としての関心が薄い。
いつの間にか、彼女は母や妻としてではなく、正妃として生きることを選んでいた。
母子の情よりも国母としての使命を優先する。そんな彼女には、ルーカスの絶望に寄り添うことなどできなかった。
だが今思えば、ふたりはもっと話し合うべきだった。
都合の悪いところを見ず、考えず、問題を先送りにした代償が、のちに更なる悲劇を招いたのだとしたら。
アデルバートの即位が難しいとわかっても、ルーカスは彼を廃太子しようとはしなかった。
アンジェリカの再三の進言にも耳を貸さず、その頃には皇城内でも第二皇子を支持する声が多く上がっていたのに、頑なに拒み続けた。
そのくせアデルバートとローズマリーの婚約の話を進めようともしなかった。
一見矛盾した行動だが、彼の本質を知っていればその思惑などすぐにわかった。
皇帝の妃となり皇帝の子を産んだ女性は通常、確固たる地位と財産を手にすることができる。
それは正妃でも側妃でも変わらない。
夫君たる皇帝が先に逝去したとしてもその財産を没収されるようなこともなく、また社交界においてもその地位は確立される。
しかしそれはあくまでも「皇妃」の話だ。「皇太子妃」には何の保証も与えられない。
それどころか、即位しないまま夫である皇太子が身罷れば皇籍から除外される。
そして生家に帰されるか、修道院に入られる。修道女となって亡き夫の冥福と国家の安寧を祈るために。
「皇太子妃」が産んだ子についても同様だ。
成人までは形ばかりの皇族としての地位を与えられるが帝位継承権は無く、成人と同時に臣籍降下しなくてはならない。
ただしそれは皇太子妃が国内の貴族女性や同盟国の王族女性だった場合だ。
属国の王女であるローズマリーにはそのどれも当てはまらない。
人質である彼女は、皇帝の子を産まなくてはならない。
ルーカスがローズマリーを皇太子妃にと考えたのは、皇太子がいずれ皇帝となるはずだったからだ。アデルバートが即位できないとなると、その前提が覆る。ローズマリーが皇太子の子を産んでも、何の意味も無くなる。
アデルバートが即位することなく身罷れば、ローズマリーは改めて役目を果たさなくてはいけなくなる。
皇帝、或いは次の皇太子の子を産む、という。
ばかげている。
父と子、或いは兄と弟両方の子を産ませるなど、禽獣の交わりにも似た因襲だ。
けれどそれは、それほどまでに皇帝の血が神聖視されているということだ。
敗国の王女の尊厳よりも、血の盟約を尊重するほどに。
だからルーカスは彼女を皇妃に迎えた。彼女の尊厳と未来を守るために。
それはアデルバートの望みでもあった。
自分がいなくなったあとも、ローズマリーが憂い無く暮らせるように、と。
ルーカスにとっては苦渋の決断だったはずだ。
それなのに、まさか彼女の方がアデルバートよりも先に逝くなんて思わなかっただろう。
こんなことならばふたりを引き裂くべきではなかった。
ルーカスは優しすぎる。
その優しさが空回りし、周りを不幸にしていく。
けれど紛れもなく、一番不幸なのはきっと彼自身だ。
ただひとつ、彼が心から求めた愛を得られなかったことが、すべての悲劇の始まりだった。




