E.C.1012.02-1
兄様御乱心の巻。
毎度毎度、亀更新で申し訳ないです…。
いったい、何が起こっているのだろう。
アデルバートの私室の扉の前で、セシルは立ちつくす。目の前に広がる惨状に、驚きすぎて声も出ない。
「こ……皇太子……殿下……」
「――ッ扉を閉めろ!早く!!」
「ひ……ッ」
怒気の籠った声に命じられ、小さく悲鳴を上げる。
従わなければ。そう思うのに、身体が動かない。
立ちすくむセシルの横をすり抜け、豪奢な意匠の扉を閉めたのは、アデルバートの近衛騎士のフェリックスだった。
「ジノ卿!なぜその女を追い出さない!?」
「ブライトナー嬢にはもう見られてしまっています。このまま締め出すのは得策ではないかと」
「……ッ。そもそもどうしてここにいる!?誰の許しを得て入った!?」
「こ……声が……大きい音……心配で……」
「サイラス卿。落ち着いてください。淑女を威嚇するなど、貴方らしくない。それよりも、殿下を」
「……ッ私に指図するな!!」
激昂するポールに対しフェリックスは冷静だが、セシルに向けられた一瞥は穏やかなものではない。
ただセシルを責めるよりも優先すべきはアデルバート、というだけなのだろう。
蹲り項垂れる主に近寄り抱き上げた。そしてそのまま奥の部屋――寝室へと消えていった。
一体、何が起こっているのだろう。
今セシルがいる部屋、アデルバートの私室は、まるで嵐のあとのような有様だった。
散らかっている、などという表現では生温い。
本棚は倒れて本や書類が床に散乱し、紅茶が入っていたのであろうティーカップは割れて絨毯にシミができ、ソファーの上のクッションは切り裂かれている。
賊にでも押し入られたのかと思うほどの惨状だ。
まさか。そんなはずはない。アデルバートにかぎって。
必死に否定しようとするも、これをやったのがアデルバートだということはおそらくは疑いようもない。
本当に賊の仕業ならば、近衛騎士であるフェリックスがあんなにも落ち着いているはずがないのだから。
「……それで、どうして貴女がここにいるのです」
少し冷静になったのか、フェリックスがアデルバート抱えて消えた扉を睨みながらポールが問う。
先程よりは幾分口調は丁寧だが、苛立ちを隠そうともしていない。
「……お部屋の前を通りかかったら、ものすごい音と叫び声が聞こえて……。皇太子殿下に何かあったのかと、心配で……」
「そもそもどうして通りかかったのです?貴女の担当場所ではないでしょう」
「……こ……皇太子殿下へのお目通りをお願いしたくて……サイラス卿を探しておりました……」
セシルの弁明に、ポールは忌々しげに舌打ちする。
アデルバートの元教育係で今は侍従として仕えているこの男――ポール=サイラスは、普段ならばそのような振る舞いは決してしない。
口数は少なくお世辞にも「気さく」な人物とは言い難いが、侍女や使用人に対して高圧的な態度をとったりはしない。
アメジア貴族のセシルのことも軽んじることはせず、紳士的に接してくれる。
そんな彼がこれほど取り乱しているのは、それだけこの状況が非常事態ということなのだろう。
ポールに弁明した通り、セシルはアデルバートへの面会の許可を求めて侍従室を訪ねようとした。
しかし辿り着く前、アデルバートの部屋の前を通りかかったとき、中から叫び声と何かが割れるような音、何か大きな物が倒れたような音が聞こえた。
一体何があったのか。アデルバートの身に何かあったのか。
考えるよりも先に身体が動いていた。
考えなしにアデルバートの私室に飛び込み、そうして今に至る。
どうして自分はいつも考えが足りないのだろう。軽はずみなことばかりしている。
「淑女を苛めて気が晴れましたか、サイラス卿。ブライトナー嬢を責めるよりもやるべきことがあるでしょう」
「ジノ……ッ」
寝室へと続く扉からフェリックスが戻ってきた。抱きかかえて運んでいったアデルバートの姿は無い。
「口の堅い者に部屋の片付けを。それから壁の修繕と新しい調度品の手配もお願いします」
「そんなことわかっている!!……殿下のご様子は……」
「とりあえずは落ち着かれたようです。今は薬を飲まれて横になっておいでです。念のため、ルーデン医師にも看ていただきましょう」
「……アッシェン嬢も呼ぶか?」
「いえ、医師の診断を待ってからにします」
「あの……」
二人の会話が一旦区切れたのを見計らい、セシルは恐る恐る口を開く。
「お掃除程度ですが……わたくしでよければお手伝いします……。お片付け……」
セシルの進言にポールは眉を寄せたが、騒動を知る人間は一人でも少ない方がいい、と採用された。
書類を整えたり紅茶の零れた絨毯のシミを抜いたりと力仕事以外に任された箇所を片付けていると、アデルバートのかかりつけの侍医ルーデンが訪れた。
起こされた本棚に散らばった本をしまいながら、本当にこれをアデルバートがやったのだろうかと、二つの意味で疑問に思う。
普段温厚で絵に描いたように穏やかなアデルバートが調度品を薙ぎ倒すほどに暴れるなんて想像できないし、ここまで部屋を荒らす体力があったのかということにも驚いた。
先月十八歳を迎えめでたく成人したアデルバートだが、ここ最近、以前にも増して頻繁に寝込むようになっていた。
先程見たときもぐったりしていたし、暴れた反動でまた熱を出したり体調を崩したりしないだろうか。
おそらくはフェリックスたちもそれを危惧してわざわざ侍医を呼んだのだろう。
そんなことを考えていると、再びフェリックスが寝室から出てきた。
侍医も続いて退室したため私室の外まで見送るつもりなのかと思ったら、なぜかセシルに声をかけてきた。
「ブライトナー嬢。殿下がお呼びです。こちらへ」
「はい?」
「何を……!?そんなこと許されるわけ……っ」
「殿下がお命じです」
異議を唱えようとするポールに、フェリックスは短く重ねる。
本来、離宮とは言え皇太子の寝室に一介の侍女など入れるものではない。ポールの制止は当然だ。
けれどフェリックスには有無を言わせない圧があった。
普段温厚で人当たりのいい彼にしては珍しいことだ。
「決してよからぬことを考えていらっしゃるわけではありませんし、私も立ち会います」
「それは……わかってますけれど……」
「貴女も殿下にお話があったのでしょう?」
さぁ、と促され、逡巡するも結局はフェリックスに従う。
初めて入るアデルバートの寝室は整然としていて、無駄な物が一切無かった。
ベッドとサイドテーブルとスツールのみ。花や絵画などの装飾品すら無い。
私室の方の惨状を見たばかりだからこそ余計に、殺風景にさえ思えた。
また、かつて主でさえ入ることはなかった寝室に足を踏み入れていることが、恐れ多いと感じると同時にうしろめたくもあった。
もはやつまらない感傷でしかないのだけれど。
「……失礼いたします、皇太子殿下」
御機嫌を伺うのもおかしい気がして、入室の宣言のみして礼をとる。
寝ているのかと思ったら、アデルバートは上半身を起こしてベッドのヘッドボードに背を預けていた。
診察のあとだからかタイを解き、シャツの胸元のボタンも幾つか開けている。
いつもの凛とした雰囲気からは想像もできない気だるげな姿に、何だか見てはいけないものを見てしまったような気分になる。
「……ブライトナー嬢……。見苦しいところを見せてすまないね……」
弱々しく謝るアデルバートは、憔悴という表現がこれほど相応しい様子もないだろうと思うほどぐったりして見えた。
「いえ……あの……大丈夫ですか……?」
とても大丈夫には見えないが、念のため訊いてみると答えは返ってこなかった。
代わりに「私に話とは?」と尋ねられる。
「……皇城から……書状が参りました。すぐにでも侍女として『後宮』に上がるように、と。……皇太子殿下がお口添えくださったのですか……?」
「……」
八ヶ月前にセシルの主が離宮を去ったあとも、セシル自身はアデルバートの厚意により離宮に身を寄せていた。
本当ならばローズマリーの「後宮」入りに合わせて帝都へ向かい、皇妃付侍女として「後宮」に上がる予定だったのだが、二ヶ月も遅れたのはセシル自身が流産のあとなかなか体調が回復しなかったためだ。
自分はどうなってもいい、早く主の元へ向かいたい。
そう懇願しても、アデルバートは頑として首を縦に振らなかった。
セシルのことをローズマリーに任されているのだと言われてしまえば、何も言えなかった。
命じられるままにアデルバートの元で侍女として働きながら、当初の予定よりもかなりゆとりを持ったペースでレベッカによる後宮侍女としての教育を受けていた。
何となく、アデルバートはセシルが「後宮」に上がることを渋っているように思えていたが、それでも逆らうわけにもいかず悶々と過ごしていたのだが、このタイミングでの招集に若干の違和感を覚えた。
それに「できるだけ早く」という催促も気になる。
そのため事の次第を問おうとアデルバートを訪ねたのだが、当のアデルバートはそれどころではないようだった。
信じられないが、やはり部屋の中を荒した犯人はアデルバートで間違いないようだ。
臣下たちに「もはや聖人」とまで評される品行方正な彼をここまでの凶行に走らせるなんて、本当に何があったというのだろう。
もしかして今頃俗に言う反抗期とやらがやってきたのだろうか。
衝動のまま触れるもの皆傷付ける、みたいな。
だからって部屋の調度品を薙ぎ倒すなんて。
普段温厚な人ほど振り切れると厄介というのは本当なのか。
或いは、人前では聖人然とした完璧な皇子様を演じているけれど、裏では日頃の欝憤を晴らすため物に当たりちらす非行少年だったりするのだろうか。
セシルも使用人たちも皆騙されているのか。
などと考えていると、アデルバートは、細く長く息を吐きながら、亜麻色の髪を掻き上げた。
露わとなった横顔は相変わらず、恐ろしいほど美しい。
けれど薄暗い部屋の中でもわかるほど顔色が悪い。
「……私の方にも帝都から報せが来ました。第六皇妃殿下が……ご懐妊された、と」
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
それでも自分が息を呑む音が聞こえたのだから、人間は無意識にでも呼吸できるようにできているらしい。
「第六皇妃殿下」。
それは他でもない、二ヶ月前皇帝に嫁いだばかりのセシルの主である元アメジア王女、ローズマリーの現在の身分だ。
昨年の十二月、十六歳の祝いを迎えてすぐにローズマリーは側妃――第六皇妃として皇帝に召し上げられた。
いずれは皇太子妃になるのだろう、という周囲の予想に反して。
「だから君には少しでも早く『後宮』に上がり、妃殿下にお仕えしてほしい。……勝手なことを言うようですが、初めての御懐妊や慣れない『後宮』暮らしで、きっと心細い思いをされているだろうから……」
そこまで告げ、アデルバートは視線を落とす。
髪と同じ亜麻色のまつげは震えるほどに長く、美しい。
けれどそれは普段の神秘的な美しさとは違って見えた。
シャツの襟元から覗く肌があまりにも白く艶めかしいせいか、どこか妖美にさえ感じられた。
「後宮侍女としての立ち居振る舞いも、レベッカのお墨付きと聞いています。何の心配も要らない。これからは妃殿下のために心を尽くしてお仕えするように……」
「わたしは、皇太子殿下のために何ができますか?」
「……え……?」
「何か、あの、何でも、もし、皇太子殿下が姫様にお伝えしたいことがあれば……」
何を言っているのだろうかと、自分でも思った。
今や皇妃――この国で最も尊い男の妻となったローズマリーに、皇太子であるアデルバートからの個人的なことばなど伝えていいわけがない。
これまでのふたりの関係を考えれば特に。
けれどそれでも、アデルバートのために何かしたいと思った。
だってきっと、この男以上にローズマリーを想ってくれるひとなんていないのだから。
「……君は……私が怖くないんですか?」
「え?」
「私は怖い。……知らなかったよ。自分にこんなにも激しい感情があったなんて」
怒りとか、嘆きとか。
そういった感情をずっと遠ざけて生きてきた。
強い感情を抱けば、目が曇る。常に公正に、冷静にあるために、何かを特別に想うことは避けてきた。
伏し目がちにそう語るアデルバートを見つめながら、この人はずっと、寂しかったのかもしれない、と思った。
誰からも愛される、特別な存在。特別であるがゆえに、誰からも理解されない。
何より彼自身は、特別なものを作れない。
可哀想だと思った。
そして同時に、アデルバートのローズマリーに対する煮えきらない態度の理由がわかった気がした。
彼はわざと思わせぶりな態度をとっていたわけではない。ただ戸惑っていただけなのだ。
それまでアデルバートには「特別」なものなど無かった。
臣下も使用人も領民も彼にとっては皆同じで、だから誰にでも同じように接していた。
きっと初めのうちは、ローズマリーも同じだったのだろう。
異国の王女であり客人である彼女に対し、皇太子として然るべき態度で接していた。
それは「完璧な皇太子」であるアデルバートにとっては造作もないことだったのだろう。
彼はずっと、そうやって生きてきたのだから。
それが崩れ始めたのは、ローズマリーが他の人間とは違う――彼女がアデルバートにとっての「特別」になったから。
アデルバートが、ローズマリーに恋をしたから。
「彼女に出逢って、私の世界は変わった。彼女が哀しむ姿を見ると、私まで胸が痛くなった。彼女が笑うと、私も嬉しくなった。笑っていてほしくて、彼女を苛むすべての憂いから守ってあげたくて、……大切だったんだ」
初めて聞かされるアデルバートの本音に、やりきれない思いがこみ上げる。
後悔にも似たもどかしさは、一体何に向けられたものなのだろう。
「……それほどまでに姫様を想ってくださっているのに、どうして皇帝陛下の元へと送り出されたのですか」
「……」
「姫様だって、皇太子殿下のことをお慕いなさっていたはずです。そのお気持ちに、気付いていらっしゃらなかったわけではないでしょう?なのになぜ……」
問い詰めながらも、セシルにだってわかっている。
ローズマリーの輿入れは、皇帝が決めたこと。アデルバートにはどうすることもできなかった。
けれどわかっていてもなお、思わずにはいられない。
すべては皇帝の心ひとつだというのなら、アデルバートになら皇帝の心を変えることができたのではないか、と。
レベッカや古参の侍女たちの話では、皇帝は長子であるアデルバートのことを溺愛しているのだという。
幼い頃、アデルバートが皇城で暮らしていた頃は毎日顔を見に来ていたらしいし、離宮に移ってからも一年に何度か視察と称して会いに来ていた。
二人で遠駆けに出かけたり、狩りを楽しんだり、セシルは遠くから見たことしかないが、遠目でも十分仲睦まじい親子に見えた。
そんなアデルバートの「お願い」なら、皇帝も耳を貸したのではないだろうか。
かつてローズマリーが祖国で父王に対し我を通したように。
だがアデルバートは何の抗議も反抗もなく皇帝の命を受け入れた。
結局はアデルバートもローズマリーよりも皇太子としての生き方や保身を選んだのだ。
少なくともあのときのセシルにはそう見えた。
「私では、ロゼを守り切れない」
静かな声だった。
けれど怒気を孕んだセシルの声よりも強く響いた。
「異国……それも属国出身の『皇太子妃』には、何の権限も後ろ盾も与えられない。『皇妃』となり子を産んで初めてその地位が保証されるんだ。……私の妃となっても、帝位に就く前に私が死んだらその立場は危ういものになる」
「そんなの……」
まだずっと、先の話だ。そんなもしもの話を今しても仕方ない。
そう反論しようとしたセシルの頭に、恐ろしい考えが浮かんだ。
まさか、と尋ねようとした唇が空回る。
昏い眸をしたアデルバートは、声にならないセシルの問いを自嘲のような笑みと共に肯定した。
「私はあと十年生きられるかどうかわからない」
「……ッ」
「医者に言われたよ。早くてあと数年、少なくとも、父上より先に逝くだろう、と」
「そんな……」
血の気が引いたのは、残酷な事実を言わせてしまった罪悪感のせいか、帝位継承にも関わる皇家の秘密を知ってしまったことへの危機感のせいか。
どちらにせよ、とんでもないことを聞いてしまった。
「……そんな表情をしないでください。自分の身体のことだ。何となく、覚悟はしていました。幼い頃のことを思えば、この歳まで生きてこられたことも奇跡なんだから」
「そんなに……悪いんですか……。どこが……」
「何がどう、という具体的な原因はわからなくてね……。だからこそ治療法も見つからない。できるのは、身体に負担をかけないよう心穏やかに過ごすことくらいです」
だからこそ皇太子でありながらアデルバートはこんな辺境の片田舎で過ごしているのか。
政に明るくないセシルにもわかるほど、アデルバートの政治的手腕は優れている。
成人前だろうと彼の才覚は帝都でも重宝されるだろうにどうして、と疑問ではあった。
けれどアデルバートは追いやられないがしろにされていたわけではない。
むしろすべては、アデルバートを守るためだったのだ。
皇帝は、皇太子としての責務よりも共に過ごす時間よりも、アデルバートの命の方が大事だった。
そんな父の気持ちも愛情も理解していたからこそ大人しく従っていただろう。
けれど、本当は、アデルバートは。
「……死ぬことなんて怖くなかった。むしろ、そうすればこの苦しみから解放されるのだろうかと考えたこともあったくらいです。だが私が死ねば哀しむ人がいる。父上も、レオン……弟たちも皆哀しむでしょう。それだけが申し訳なかった……」
だからただ、そのためだけに生きていた。
父を、弟を哀しませないように。医師や臣下たちが罰せられることのないように。
アデルバートは自分の命に対しては、何の執着も無かったのだ。
彼の年齢にそぐわぬ落ち着きも清廉さも、すべては諦念からくるものだったのだ。
自らの死を受け入れていたアデルバートにとってこの世は仮初でしかなくて、だからこそ言動は願望も欲望も孕むことはなく、どこまでも潔く見えていた。
一切の利己を持たなかったからこそ、理想の姿であり続けられたのだ。
「……それなのに、彼女に出逢って初めて死ぬのが怖い……彼女とともに生きたいと思ってしまった……」
語られる想いは、まるで懺悔のようだった。
恋をして、生きる喜びを知った。
そしてその恋が、アデルバートを再び絶望へと突き落とした。
「……一年前、父上に何を言われたと思う……?このまま彼女を皇太子妃として迎えるか、皇妃として父上の元に送るか選べ、だとさ。……なんて酷い御方なんだろうかと、初めて父上を恨んだよ……」
愛するひとを手放すか、愛するひとを自らの手で不幸にするのか。
皇帝がアデルバートに提示したのは結局のところその二択だ。
そのどちらかを、アデルバート自身に選ばせようとしたのだ。
それはきっと、皇帝なりの温情だったのだろう。
愛する息子に、せめて、と。
だが父の慈悲は、真綿で首を締めるようにアデルバートのことをじわじわと追い詰めていっただけだった。
「だが……父上は酷い御方だけれど、私はただの卑怯者だった。……どちらも選べなかった……」
だから委ねた。
何であれ、父の――皇帝の決定に従う、と。国のために最良の選択を、皇帝ならできるはずだから。
そうやって、アデルバートは逃げたのだ。
アデルバートの代わりに皇帝は、後者を選んだ。
帝国のために――アメジア王女である、ローズマリーのために。
「父上は約束してくださった。決して彼女を不幸にはしない。彼女のことを守ると。
……惨めだったよ。一番大切な女を守ることさえできない自分の無力さが」
そんなことない。
アデルバートに出逢って、ローズマリーは確かに救われた。
アデルバートの傍で過ごした時間は、ローズマリーにとって幸せ以外のなにものでもなかった。
自分のことが許せなくて、自分のことを責めて、明日がくることに怯えていたローズマリーが再び笑えるようになったのは、アデルバートのおかげだ。
アデルバートへの恋心が、ローズマリーを暗いところから連れ出してくれた。
ローズマリーのことを一番傍で見てきたセシルは誰よりそのことをわかっていたはずなのに、伝えることができなかったのは、ふたりに訪れた結末があまりにも哀しいものだったせい。
今更何を言っても何を知ってもきっと報われない。
救われない。
「……彼女の懐妊の報せを聞いて、頭が真っ白になった。……覚悟はしていたはずなのに。傍にいられなくても、彼女が安寧のなか暮らしていけるならそれでいいと、思っていたはずなのに。
……許せないと、思ってしまった」
「え……?」
ローズマリーへの恋心を語ったその口で、呪いのような禍言を吐いたアデルバートは、笑っていた。
今にも泣き出しそうな表情で、けれど美しいまでの微笑を浮かべていた。
ローズマリーが皇帝の子を身籠ったことは、裏切りなどではない。
彼女の立場上、白い結婚を貫くことはできない。むしろ子を産むために側妃となったのだ。
何もかも承知の上で、ローズマリーはアデルバートの元を去った。
初めてふたりきりで過ごしたあのほんのわずかな時間が、ふたりの終わりだった。
そんなことはアデルバートだってわかっているのだろう。
だからきっと、アデルバートが「許せない」のは、そのことではない。
「……私は……わかっていたんだ……。父上はお優しい方だから、妃となった彼女を守り、慈しんでくださるだろう。けれど決して、愛したりはしない。……たとえ彼女が父上を愛したとしても……」
どうしてそう言いきれるのか。
ローズマリーの心変わりは想像できても、皇帝にはありえないと断言する理由がわからなかった。
この期に及んで「息子の想いびとだから」などという生温い理由だとしたら、救いようのないお人よしだ。
「だから私は、彼女を父上の元へと送り出したのかもしれない」
「……?」
「父上の妃となれば、彼女はきっと幸せにはなれない。愛してもいない男の子を産むことと、愛しているのに愛してくれない男に抱かれること。きっとどちらにしろ、つらいことだと思ったから。
父上のことを愛しても愛さなくても、彼女は幸せになれない。……幸せになるなんて許せない……」
ローズマリーの懐妊を知り、アデルバートは気付いてしまった。
胸の奥底で息づく本当の願い。
彼女の「後宮」入りを聞いたときからずっと、思っていた。
自分のものにならないのなら、誰かのものになるくらいなら、いっそ不幸になればいい。
決して愛されない苦しみに、思い知ればいいと。
そんなことを願ってしまうほど、愛していた。
愛しているのにそんなことを願ってしまう自分が許せなかった。
父の子を身籠ったローズマリーも、愛していない花を手折った父も、醜悪さを心に飼っていた自分も、何もかもが許せなかった。
こみ上げる憤りを、空しさを何とかしたくて、衝動的に手当たり次第に暴れた結果があの部屋だった。
そんなことをしても少しも気は晴れなくて、また一つ、自分を嫌いになっただけだった。
アデルバートはずっと、自分のことが嫌いだったのだ。
何でももっていて、何も手に入れられない自分のことが。
「……幸せを願えない私を、狭量な男だと軽蔑するかい……?」
「……っ」
すべてを諦めたように力無く微笑んで尋ねるアデルバートに、頷くことも否定することもできなかった。
どうしてこんなときまで笑うのか。
微笑むたびに、彼の孤独は色を濃くする。
そのことに気付いていないはずないのに。
幻想めいた美しい微笑みに、セシルは皇帝の長子として生まれてきたアデルバートの業の深さを知る。
「彼女に出逢って、恋をして、初めて知ったよ。自分がこんなにも醜い人間だったことを」
ただ恋をしただけなのに。
自らの恋を懺悔のように語るアデルバードに何と言えばいいかわからなくて、セシルは零れそうな涙を必死で堪えていた。
皇帝がロゼを皇妃に迎えたのは、レオンへの嫌がらせじゃなくてちゃんと政治的理由があった、というお話です。
むしろ皇帝はこの頃レオンの想いを知らなかったのですが、そのへんの事情もまた書けたら……いい……な……。




