E.C.1019.05-2
時間は戻ってレオンハルト20歳の話の続きです。
最後に兄と会ったのは、言葉を交わしたのは、いつだっただろう。
長い廊下を進みながら、レオンハルトは考える。
記憶の中ではいつも穏やかに微笑んでいる兄とは、もうずっと長い間会っていないような気がした。
今年の春、例年通り皇帝の聖誕祭に出席するためアデルバートは離宮より帝都に戻った。
しかしその宴に出席することなく、床についた。
それから一月、病状は一向に回復の兆しを見せず悪化の一途を辿るばかりだ。
その一ヶ月の間、レオンハルトは一度も兄を見舞わなかった。公務を言い訳に、兄を避けていた。
それが臣下たちのくだらない噂話に拍車をかけると知っていながら。
「とうとう弟皇子にも見限られた」。
そんな囁きを耳にするたび、憤りと後悔、そして自責の念で気が狂いそうだった。
レオンハルトがアデルバートを見舞わなかったのは――会わなかったのは、兄に対する敬愛の情が薄れたからではない。
むしろ、幼い頃と何も変わらず兄のことを慕っているからこそ、会えなかった。
「兄上!」
部屋に入ると同時に、思わず叫んだ。
その声で部屋の中にいた人間の視線が一気にレオンハルトたちへと向けられる。
「レオン兄様……。姉上……」
部屋の中にいたのは、キャロライナと同腹の弟皇子のウィリアム。
それから皇太子付の侍従や侍女。
皇帝の姿も、アデルバートの生母である正妃の姿もどこにも無かった。
「兄上様ッ」
まるで悲鳴のような声を上げながら、レオンハルトの隣をすり抜けてキャロライナが兄の元へと駆け寄る。
その姿は、隣国の王太子妃でも誇り高き騎士姫でもない。
最愛の兄の身を案じる、ただの小さな妹だ。
「キャリー……」
数年ぶりに会う妹に、アデルバートは微笑みを浮かべた。今にも泣き出しそうなキャロライナに向けられるのは、昔と少しも変わらない、慈愛に満ちたしだった。
「やぁ……久しぶりだね……キャリー……。また一段と美しくなって……」
「兄上様……ッ」
「そんな顔をしないでおくれ……。可愛い顔が台無しだよ……」
病床に似つかわしくないことを言いながら、アデルバートは駆け寄ってきたキャロライナへと微笑む。
堪えきれなくなったのか、キャロライナはその場に崩れ落ち、アデルバートの胸へとすがりつく。気丈な「騎士姫」らしからぬ反応にアデルバートはかすかに目を見開くも、妹の背をそっと撫でた。
そして柔らかな微笑を、レオンハルトへと向けた。
「レオン……」
「兄上……」
「……君も……来てくれたんだね……」
そう言って、アデルバートはまなざしを和らげる。
記憶の中の兄のものと少しも変わらない笑顔を見て、レオンハルトは泣きたくなった。
それだけで、思い知らされる。自分はどうしようもなくこの兄のことが好きなのだと。
恋しくて、慕わしくて仕方ない。本当はずっと会いたかった。傍にいたかった。どうして今まで会わずにいられたのだろう。
幼い頃は少しでも長く、兄の傍にいたかったのに。
兄のいない世界なんて考えられなかったのに。
いつから、どこから変わってしまったのだろう。
何を間違えてしまったのだろう。
「レオン……」
「……はい」
「顔が見たいよ……。こちらへおいで……」
「……」
今にも消えてしまいそうな雪のように儚い声なのに、レオンハルトは抗えない。
呼ばれるままに兄の元へと歩み寄る。
「レオン兄様……」
アデルバートの枕元まで行くと、碧い瞳を涙で濡らしたウィリアムに場所を譲られる。
そしてすがるような声とともに、ウィリアムは背後からレオンハルトの服を掴んだ。
懐かしいな、と、こんなときなのに思った。
兄妹の中で最も快活で気性が激しいキャロライナとは対照的に、彼女の同腹の弟であるウィリアムには少々気の弱いところがあった。
姉に叱られるたびウィリアムはレオンハルトの後ろに隠れ、時にはレオンハルトにすがりついて泣いてばかりいた。
そんな弟を慰めるのは、いつもレオンハルトの役目だった。
抱き上げて、涙で濡れた頬にキスをして、時には膝を貸し、時には抱きしめて眠り。
ウィリアムが幼い頃、レオンハルトは彼を甘やかしてばかりいた。
ウィリアムが十を越える頃にはさすがにそのようなこともしなくなったが、成長してもおそらくレオンハルトはウィリアムにとって絶対的な味方だった。
怒らず叱らず、彼のすべてを受け入れ、甘えさせる。そんなレオンハルトにウィリアムもどんどん依存していった。
それは心酔といってもいいかもしれない。自分へと向けられる盲目的な信頼――或いは陶酔に、レオンハルトはすぐに気付いた。
だって、それはレオンハルトがアデルバートに向けるものと、まるで同じだったから。
自分の絶対的な味方であると信じて疑わない瞳。
愚かなまでに盲目的に兄のことを信頼し、依存していた。
ウィリアムにとってレオンハルトがそうであるように、レオンハルトにとってアデルバートは絶対であり、唯一だった。
その兄が、今、死神に攫われようとしている。
その事実を、この部屋にいる誰もが受け入れてしまっている。
誰あろう、アデルバート自身でさえ。
そのことに、愕然とした。
「レオン……」
色を失くした白い手が伸ばされる。
レオンハルトはその場に膝をつき、自らに向かって伸ばされた兄の手を両手で握った。
滅多に太陽の光を浴びることのないアデルバートの白い手は、驚くほど痩せてしまっている。
死の足音が、少しずつ、けれど確実に近付いてきている。
「すまない……レオン……。
私は、不甲斐ない兄だったね……。名ばかりの皇太子で、君に苦労ばかりかけていた……。君に、つらい思いばかりさせていたね……」
「何を……ッ、何をおっしゃるのです兄上……ッ。
兄上に尽くせることが、レオンの幸せにございました。兄上が、兄上がいてくださったから……ッ」
「……ありがとう……レオン……」
「兄上!!」
悲鳴にも似た声は、本当に自分の声なのだろうか。
もどかしくて仕方ない。
恨まれるのは、謝らなくてはいけないのは、レオンハルトの方なのに。
幼い頃はわからなかったことが、年を重ねていくうちに、少しずつわかるようになっていった。
病弱であまり政の表に出てこないアデルバートのことを中央貴族たちがあまりよく思っていなかったこと。
役に立たない「傀儡皇子」より、すべてにおいて優秀な「金の皇子」こそが、真に皇太子に相応しいのではないか、と囁き合う声があったこと。
兄の力になりたくて、兄に必要とされたくて手に入れた「完璧さ」こそが、兄の平穏を脅かしていたこと。
レオンハルトさえいなければ、アデルバートがここまで皇太子としての立場を危うくすることはなかったはずだ。
レオンハルトの存在が、彼に対する脅威そのものだった。
けれどそれでも、アデルバートは春の陽だまりのような優しさを与えてくれていた。
母を亡くし、父の愛も知らぬレオンハルトに、一番最初に家族の愛情を与えてくれたのは、他ならぬアデルバートだった。
彼を「兄」と呼べることだけが、レオンハルトの誇りだった。
アデルバートの存在そのものが、レオンハルトの光だった。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
「……レオン……。君は…あの御方に本当によく似ているね……」
「え……?」
「君の母君……マリアンヌ妃殿下に……」
「―――ッ」
兄の口から出た思わぬ名前に、レオンハルトは思わず息を呑む。
どうしてアデルバートがマリアンヌのことを知っているのか。
マリアンヌが亡くなったとき、アデルバートはまだ四つ。そのような時期にどうして第二皇妃との交流があったのか。
レオンハルトの困惑を表情から読み取ったのか、アデルバートはふとまなざしを和らげる。
「……私はね、レオン。幼い頃一度だけ、生前の君の母君にお会いしたことがあるんだよ……」
「え……?」
「君が母君のお胎にいた頃に……。
もちろんそのときはその御方が第二皇妃殿下だなどとは思いもしなかったけれど……初めて君を見たとき……すぐに気付いたよ……。彼女が君の母君だと……」
「どうして……」
「言っただろう……?君は妃殿下によく似ていると……。君は本当に、あの御方に生き写しだ……。
……それに……」
「『それに』……?」
「あの御方がおっしゃったんだ……。
これから産まれてくるこの子は私の弟でもある、と……。だからたくさん愛してあげてと……。
この子が寂しい思いをしなくていいよう、たくさん抱きしめてあげて、と……」
母はきっと、知っていたのだろう。
胎の子を産めば、自らの命が危うくなること。それでも産むことを選んだのは、皇妃としての使命からかそれとも、まだ見ぬ我が子への愛情からか。
レオンハルトにはわからない。
ただ確かなのは。
「……だから兄上は、私に優しくしてくださったのですか……?」
「え……?」
「私が母の息子だから……母との約束だから私を……っ」
「レオン……?」
一度も会ったことのない母の愛情より何よりレオンハルトが気になって仕方ないのは、兄の愛情の真偽だった。
今までアデルバートがレオンハルトに注いでくれた愛情はすべて、マリアンヌとの約束――遺言を果たすためでしかなかったのだろうかと。
命がけで産んでくれた母よりも兄からの愛情の方が大事だなんて、酷い息子だ。
けれどそれほどまでに、レオンハルトにはアデルバートしかいなかった。
それなのに。
「お兄様……!」
レオンハルトを呼ぶアデルバートの声を遮るように、扉が開かれる音が部屋の中に響き渡る。
反射的に振り返ると、入り口にはまだ十にも満たないばかりの幼い少女が立っていた。
真っ直ぐに伸びた亜麻色の髪、アメジストを思わせる紫の瞳、父親譲りの端正な顔立ち、母親と同じく触れると折れてしまいそうなほど華奢な四肢。
それらを有する美しい少女に、レオンハルトは見覚えがあった。
「クリスティーナ……?」
少女の名を、思わず唇に乗せる。
クリスティーナ=アメジア=ジュエリアル。今は亡き第六皇妃、ローズマリーが産んだ第四皇女で、レオンハルトにとっては異母妹にあたる。
しかしその交流は極めて浅い。
歳の離れた妹である彼女とは数えるほどしか顔を合わせたことはなく、また言葉を交わしたことも無い。
それはクリスティーナが普段、レオンハルトの暮らすジュエリアル城ではなく、アデルバートの管理する離宮で暮らしていたためだ。
ローズマリーの死後、クリスティーナの後見人はアデルバートが引き受けていた。
どんな心地だったのだろう。
アデルバートはどんな気持ちで、クリスティーナのことを傍に置いていたのだろう。
「クリス……」
「紫の皇女」の二つ名を持つ妹姫の愛称を呼び、アデルバートは微笑む。
その笑みを見て、なぜだろう。レオンハルトはこの瞬間のことを一生忘れないだろうと思った。
「お兄様……ッ」
クリスティーナは部屋の中に駆け込んでくる。
ローズマリーと同じ紫の瞳は、レオンハルトなど見ていない。
アデルバートしか、映していなかった。
「すまない……クリス……。君の成長を……もっと傍で見守っていたかった……」
「お兄様……、嫌……嫌です……。クリスを独りにしないでください……。おいていかないでください……ッ」
「独りではないよ……クリス、私は、どこにいても君の幸せを祈っている……。君を愛している。
たとえ……傍にいなくても……」
「お兄様……ッ」
アデルバートの言葉に、クリスティーナは悲鳴のような声を上げる。
知らなかった。
クリスティーナが、こんな声を出せるなんて。こんな表情をするなんて。
今年で七つになるクリスティーナの顔立ちは、母たるローズマリーにはあまり似ていない。
どちらかといえば父親似だ。
また真っ直ぐに伸びた亜麻色の髪もそれと同色の長いまつげも、父親譲りだ。
けれどアメジストに似た輝きをもつ紫の瞳だけは、ローズマリーとまるで同じだ。
めまいがした。
皇帝によく似た面差しをもつローズマリーの娘が、アデルバートにすがって泣いている。
一体何の冗談だろう。
「……レオン」
泣きじゃくる妹の頭を撫でていたアデルバートが、ふいにレオンハルトを呼ぶ。
静かな声だった。
この世界にこんなにも優しい音があるのかと思うほど、柔らかな声だった。
「レオン……頼めるだろうか、クリスたちのことを……」
「……はい……」
そう答える以外に、何を言えただろう。
頷くことしかできなかったレオンハルトに、アデルバートは満足そうに微笑んだ。
「……ありがとう……」
「兄上!?」
「クリス……。私は君を愛しているよ……。君は……愛されるために生まれてきたんだ……。
だから君も、ロビンのことを、愛しておやり……。私の分も、……君たちのお母様の分も……」
「お兄様……ッ」
「レオン……、キャリー……、ウィル……、そしてクリス……。ありがとう……。
君たちの兄に生まれ……私は幸せだったよ」
「兄上!?」
「お兄様!!」
「あとは……任せたよ……」
アデルバートは微笑み、静かに目を閉じた。
「これで……やっと君の元に逝ける……」
そう呟いたアデルバートはどこか幸せそうで。
色を失くした唇が声を伴わず動くのを、レオンハルトは確かに見た。
ただひとこと、「ロゼ」と。
【本編にたぶん出てこない設定 その①】
皇子や皇女は生まれたときに瞳や髪の色になぞらえた二つ名を与えられます。
三歳の誕生日を迎えるまでは、国民に公表されるのはその二つ名だけです。
一応同じ代では被らないようにつけられます。
アデルバート →銀の皇子(瞳)
レオンハルト →金の皇子(髪)
キャロライナ →緋の皇女(髪)
ウィリアム →碧の皇子(瞳)
クリスティーナ→紫の皇女(瞳)
あと翠の皇女・蒼の皇女・黒の皇子がいます。