E.C.1011.07-1
※流産の描写があります。苦手な方はご注意ください※
心にぽっかりと穴が空いたよう、なんて表現、戯曲の中だけだと思っていた。
心どころか腹の中までがらんどうになってしまったよう。
産まれるはずだった命とともにセシルの中のすべてが流れ出ていってしまったかのように思えた。
「……具合は、もういいのか?」
抑揚を押し殺したような、静かな声。
きっともっと他に訊きたいことはあるだろうに。
冷静で、理性的で、そういうところがすきだったのだろうか。
いや、そもそも自分はこの男のことをすきだったのだろうか。
今となってはもう、わからない。
「……迷惑をかけてごめんなさい」
「……」
「でももう、すべて終わったから」
安心させるよう笑いたかったけれど、上手く笑顔が作れなかった。
ベッドの中から彼――ロイを見つめる。
最後に会ったときから、随分髪が伸びた。
彼の妹分が街を出てからは切ってくれる人がいないからと伸び放題だったそれを整えるのは、いつからかセシルの役目になっていた。
見た目より細くて軋んだ褐色の髪。
どんな感触をしていたのか、もう忘れてしまった。
「……どうして……っ」
絞り出すような声で問い、ロイは項垂れる。
膝の上で握られた手が震えているのは、怒りのためか。
何にせよ、セシルのせいだということは間違いない。
「なんで言わなかった……」
「……何を……?」
「何もかもだ!アンタが帝都に行くことも、俺の子ができたことも、……その子が流れたことも……っ。なんで他の奴から聞かされないといけないんだ……っ」
もしもセシルがベッドの中にいなければ、「病人」でなければ、殴られていたかもしれない。
あるいは、首を絞められていただろうか。
押し殺したような声で投げつけられた問いに言い訳すらできなくて、ただ沈黙を返した。
数週間前、帝都への出立を控えた少し前にセシルは自分の中に新しい命が宿っていることに気付いた。
心当たりがない、などとは言わない。
むしろここ最近の体調不良の理由に納得がいったくらいだった。
妊娠に気付いたときに最初に頭をよぎったのは、「どうしよう」だ。
帝国貴族の爵位を得ていないこの状況で、むしろ得たあとの方が厄介か。どちらにせよ、不安定な立場の自分がただの平民であるロイとの未来など望めるわけがない。そもそも子どもができたと知ったロイはどうするだろう。面倒なことになったと、煩わしい思いをさせたら。
そんなことよりも、このことをローズマリーに知られるわけにはいかないと思った。
アデルバートやレベッカの口添えもあって何とか帝都への同行について首を縦に振らせることができたのに、妊娠を知られれば立ち消えになってしまうだろう。
身重の身体で無理をしてはいけない、自分の幸せを一番に考えて。
セシルのことを大事に想ってくれているローズマリーはきっとそう言う。
セシルにとっての幸せが「何」なのかも知らずに。
そんなことが容易に想像できたから、どうすればいいかわからなくて、誰にも相談できないまま時間だけが過ぎていった。
ただ一つ確かだったのは、セシルは少しも喜べなかったということ。
後悔と焦燥ばかりで、少しも嬉しくなんてなかった。
だからなのか。
その報いか。
芽吹いた命は、生まれることなく消えてしまった。
妊娠を隠したままローズリーの来都に同行したセシルはその道中、馬車の中で倒れた。
身を裂かれるほどの激しい痛みに襲われ意識を手放し、次に目を覚ましたときはベッドの中だった。
見覚えのない部屋をぼんやりと眺めていると、半泣きのミアの隣にいた医師に流産を告げられた。
ミアにはどうして言わなかったのかと詰られ、気付いてあげられなくてごめんねと謝られた。
自分のことのように心を痛めるミアに、心情を吐露することなんてできなかった。
口が裂けても言えるはずがない。
目が覚めて現実を突き付けられたセシルが抱えていた感情が、絶望ではなく安堵だったなんて。
これで何の憂いもなくローズマリーに仕えることができると思ったセシルに、母親になる資格なんて無い。
「……そういえば……どうしてあなたがここにいるの……?」
馬車の中で意識を失ったセシルはそのまま城に上がるわけにもいかず、アデルバートに与えられている皇太子宮に運び込まれたらしい。
アデルバート自身はレベッカやフェリックスたちと共に「後宮」に滞在しているが、医者を手配し身の周りの世話に、と下女を数人寄越してくれた。
アデルバート付侍女であるミアは目が覚めたときに心細いだろうからと自ら付き添いを申し出てくれたらしい。
余計な手間と心配をかけてしまったことを申し訳なく思うが、とにかく今セシルがいるのはセイレーヌではなく帝都だ。
それなのにどうしてロイがここにいるのだろう。
「……アデルから報せがきて、そのまま早馬で……」
「……馬に……乗れたの……」
「いいだろ、そんなこと。今はどうでも」
先程まで眠っていたせいか上手く頭が働かない。
ロイの言う通り、どうでもいいことを口走ってしまった。
それに尋ねたあとで結局ロイの質問を無視した形になってしまったことに気付いた。
ごめんなさい、と小さく謝ると舌打ちされた。
煩わしい想いをさせてしまったことを申し訳なく思う反面、苛立つくらいならば来なければよかったのにとも思った。
アデルバートにどう言われたのかは知らないが、馬鹿正直に会いにくる必要なんてない。
「……皇太子殿下は……わたしたちのことをご存知だったの……?」
わざわざロイに知らせたということは、そう言うことなのだろう。
だとしたら、いつから知られていたのか。
セシルはロイとの関係を、誰にも打ち明けられなかった。
ローズマリーにさえ知られないようにしていたけれど、ロイは違ったのだろうか。
わざわざアデルバードに伝えていたのだろうか。
「……あいつは何も知らなかったけど、侍女の誰かがアンタが俺の家に出入りしてるとこを見たことがあったらしい」
「……そう」
ロイの方から吹聴して回ったのでなければ、もう別にいいか、と思った。
色を好む男の中には、女性との秘め事を武勇伝のように語りたがる者もいるらしい。
ロイがそんな男だったら少し嫌だな、と思っただけだ。
何にせよ、もう「今更」なのだろうけれど。
「……?」
ふいに左手に熱を感じ、見るとセシルの手をロイが握っていた。
手の傷痕は、彼にとっての勲章だった。
その一つ一つに唇を寄せたこと、もう随分前のように思える。
「……いっしょに、セイレーヌに帰ろう」
「え……?」
「贅沢はさせてやれねぇけど、アンタ一人食わせてくことくらいはできる。……今回は、残念だったけど、いつかまた……」
「馬鹿なこと言わないで」
ロイの言葉を遮り、拒絶の言葉を返す。
何を言っているのか、理解できなかった。
この期に及んでロイがセシルといっしょになろうと望んでいることにも驚いたし、何よりセイレーヌはセシルにとって、帰る場所なんかじゃない。
「勘違いしないで。あなたとわたしでは、所詮生きる世界が違うの。わたしはもうすぐこの国の皇妃の侍女になるのよ。ただの田舎の硝子職人のあなたとは違うの」
「セシル……」
「気安く呼ばないで……ッ」
どうして。
今までだって、ほとんど呼んだことなんてなかったくせに。
普段は「アンタ」とか「なぁ」とか、そんなぶっきらぼうな言い方ばかりだった。
そのくせ閨の中では砂糖菓子のように甘い声で呼ぶから、なんて狡い男なのだろうかと思っていた。
ロイとの想い出はそんなものばかり。
たくさん話をしたはずなのに、思い返してみれば過去の話ばかりだった。
未来の話なんて、これまで一度もしたことなかった。
だってそんな必要なかったから。
「まさかあなた、本当にわたしとどうにかなれると思っていたの?あなたなんか、ただの暇つぶしよ」
震える唇を無理やりに開いて、酷い嘘を吐く。
他にどうすればいいのかわからない。セシルからロイに伝えられる言葉なんて無い。
セシルがロイに返せるものなんて何も無いから。
「あなただってそうだと思ってたから相手してあげただけなのに。これだから田舎者は嫌なのよ。思い上がらないで。あなたみたいな田舎者には、リリーさんみたいなのがちょうどいいんじゃない?今帝都にいるんでしょう?いい機会だし、一緒に連れて帰れば……」
「もういい」
「……」
「……もう、いい……。それが……アンタの答えなんだな」
そう言って、ロイの方から手を放した。
放されて初めて、自分が彼の手を振りほどいていなかったことに気付いた。
言っていることとやっていることがちぐはぐで、きっとロイにはセシルの本心なんてわかっているのだろう。
本当に、優しいひと。
だからこそ可哀想。
セシルみたいな女に利用されて、ロイは可哀想だ。
『行くとこねぇならうちに来れば』
『迷惑なんかじゃない』
『いいよ、アンタなら』
そっけなくて、ぶっきらぼうで、でもロイはいつも優しかった。セシルに優しくしてくれた。
その優しさに、セシルはつけこんだ。
だって、寂しかったから。
寂しくて、不安で、誰かに助けてほしかった。
セイレーヌで出逢った人は、皆優しかった。気さくで、親切で、セシルたちによくしてくれた。
だけど結局彼らにとってセシルたちは異国人で、それはセシルにとっても同じだった。
顔立ちも服装も習慣も食事も、何もかもが違った。
異なる文化で育った者同士、理解し合うことは至極難しい。
理解できなくても、理解できないのに、セシルは彼らに従うほかなかった。
知らない土地で知らない人に囲まれて送る慣れない生活は思った以上に心もとなく、苦痛だった。
彼らは決してセシルの「敵」ではなかったけれど、セシルの「味方」はローズマリーだけだった。
どれほど親切にされても、本当の意味では誰のことも信用できなかった。
常に喉元にナイフを突きつけられているような緊張の中、それでも主を守れるのはセシルだけなのだからと自らを奮い立たせていた。
セシルにローズマリーしかいないように、ローズマリーにもセシルしかいないのだと。
それなのに、セシルの葛藤など知らずローズマリーはアデルバートと心を通わせていった。
ローズマリーはこの国で、セシル以外に大切なものをつくる。
日を追うごとにローズマリーの世界がアデルバート中心に塗り替えられていく。
初恋に浮かれる主の姿に、けれどそれを裏切りだと責めることはできなかった。
ただ、どうしようもなく寂しかった。
セシルがいなくても、もうローズマリーは大丈夫?
主はもう、セシルのことを必要としていない?
本当は、皇太子相手だとかそんなことはどうでもよかった。
ただ、世界に一人置き去りにされたようで、寂しくて不安だった。
だからロイの手をとった。
寂しさを埋めたくて、ローズマリー以外にもセシルを必要としてくれる人がいるのだと思いたくて。
なんて身勝手で独りよがりだったのだろう。
セシルのエゴにロイを巻き込んで、傷つけた。
「……最後に、一つだけ聞かせてくれ」
どうして。
「最後」と言われたことに、なぜセシルが傷ついているのだろう。
そんな資格、セシルには無いのに。
「お姫さんについて帝都に行くって話が出たとき、アンタは俺のこと、少しも考えなかったか……?」
「……」
もしかしたらその質問は、セシルが一番訊かれたくなかったことかもしれない。
他のことならばいくらでも嘘が吐けたのに。
始まりは、確かに打算だった。
誰でもよかったのだ。寂しさを埋めてくれるなら。セシルを必要としてくれるなら。
けれど。
―――言えよ
―――思ってること、全部
―――アンタのこと、わかりたい
嬉しかった。
ロイのことばに、セシルは確かに救われた。温もりに満たされた。優しさがすきだった。
ロイの家でロイとふたりきり身を寄せ合って過ごした時間は、セシルにとって幸福だった。
それでも。
「……えぇ。ちっとも」
この答えは、嘘じゃなかった。
「後宮」行きをアデルバートに直訴したときもローズマリーを説得したときも、ロイのことを少しも考えなかった。
妊娠に気付いてようやく思い出したのだから、本当に薄情で、最低な女だ。
愛しいと、思うことは確かにあったはずなのに、結局はこんな風に切り捨てることができてしまうのだから。
セシルとロイの関係は、次の約束もできない曖昧なものでしかなかった。
すきだと言われたことはなかったし、言ったこともなかった。
いつ終わっても不思議ではない、薄氷の上に立っているような、危ういものでしかなかった。
だからふたりの未来について話し合ったことなどなかったし、考えたこともなかった。
考えるまでも、なかった。
最初からわかっていた。
セシルはロイとともには歩めない。
ロイよりも、自分よりも、大切なものは別にあった。
たとえ疎まれても遠ざけられても、ローズマリーへの忠誠は変わらない。
愛しくて、憎らしくて、どうしようもなく愛おしい。
他の何を犠牲にしても、彼女のために生きたい。
人を憎んでも、恋をしても、主よりも大切なものなんてない。
結局セシルはそういう風にしか生きられない。
「……そうか」
わかった、と呟いて、ロイは立ち上がる。
セシルはそれを仰ぎ見ない。視線さえ、追いかけることは許されないと思った。
それなのに。
「ごめんな」
「―――ッ」
ロイの謝罪に、思わず顔を上げてしまった。
「どう……して……」
「……」
「なんで、あなたが謝るの……」
「……すきになって、ごめん」
「……っ」
「すきだったよ、アンタのこと」
そう言い残して、ロイは去っていった。
追いかけることも、泣き喚くこともできなかった。
泣く資格なんてあるわけなかった。
【本編で出てこなかった設定】
当初の予定ではセシルはアデルバートが帝都に滞在している間はローズマリーについて「宮廷」に滞在する予定でした。
その間に「次期皇妃付侍女」への引継ぎを済ませ、皇太子御一行が離宮に帰るタイミングで一旦一緒にセイレーヌに戻り、レベッカによる侍女講習を受け、ローズマリーが結婚、「後宮」に入るタイミングで爵位を取得し、再び帝都に戻り後宮侍女として「後宮」に上がるというスケジュールでした。
ただ今回のことで若干予定が狂ったので、そのしわ寄せ(?)が次回更新分のお話になります。




