E.C.1011.06-2
亀更新申し訳ないです…。
セシル編は今回入れてあと4回で終了予定です。
頑張りますのでお付き合いいただけましたら幸いです。
どんなに悲しくても、どんなに打ちひしがれても、決して世界は終わらない。
何もかも消えてしまえばいいのに。
そう願っても、必ず朝は訪れる。
人はそれを希望と呼ぶけれど、本当にそうだろうか。
絶望とともに生きていかなくてはいけないなんて、この世界はなんて残酷なのだろう。
ー・-・-・-・-
「……ル。セシル。もう、セシルってば」
「え……?」
名前を呼ばれ、セシルは我に返る。
呼ばれた方を向くとそこには困ったような心配そうな表情をしたミアの姿。
どうやら先程からずっと呼ばれていたようだ。
「あ……ごめんなさい。どうかした?」
「もう。またぼんやりして。最近多くない?具合でも悪いの?」
「いえ……そういうわけじゃないんだけれど……」
否定しながらも、確かにここ最近、妙に倦怠感を覚えることが多い気がする。
それに何だかやたらと眠い。夜きちんと寝ているはずなのに、日中もやけにぼうっとする。
「でも顔色もあまりよくないみたい。体調が悪いならお医者様に看てもらった方がいいんじゃない?」
「うん……」
「まぁ……貴女の気苦労も仕方ないでしょうけどね」
「……」
ミアの言葉にセシルは無言で視線を落とす。
「気苦労」なんて言葉で言い表せるものではない。
だがそれに反論したところで何の意味も無いことはわかっている。
「あれからずっとお部屋に閉じこもっていらっしゃるみたいだけれど、大丈夫?」
「誰が」とは明言しない。しなくてもわかっている。
セシルが頭を悩ませ心を曇らせているのは、最愛の主――ローズマリーのことだ。
「お食事も、あまり召しあがってらっしゃらないんですってね。ますますお痩せになってしまいそう。心配だわ」
「……」
ミアの言葉に、きっと嘘は無い。彼女は彼女なりに、ローズマリーのことを案じている。
未来の「皇妃」の身体を。
二週間前、皇城からの使者――勅使だという青年が離宮を訪れた。
玉璽の捺された勅書を淡々と読み上げる青年が告げたのは、耳を疑う内容だった。
王女殿下を皇帝陛下の第六皇妃として迎えたい、と。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
少しも表情を変えない青年と蒼褪めるローズマリーを見て、冗談でも何でもないとわかった。
狂気めいた「勅命」は揺るぎようのない現実だった。
呆然としていたローズマリーは青年に返事を促されて我に返ったが、「返事」と言っても「是」と答えるしかない。
そんなことはローズマリーだってわかっていただろう。
それでも尋ねずにはいられなかった。
どうして、なぜ、自分は皇太子妃となるのではなかったのか。
蒼白になりながらローズマリーは青年に詰め寄った。
そんなにも取り乱すローズマリーを見るのは、アデルバートに首飾りを贈られたとき以来だったかもしれない。
必死に問うローズマリーに返る声は、どこまでも無慈悲だった。
すべては決まったこと、皇帝陛下の御意思なのです。
青年は少しも表情を変えず、淡々とそう告げた。
どうあっても覆らないその決定に、ローズマリーの顔が絶望に染まっていくのをセシルはただ見ていることしかできなかった。
結局、皇帝の勅命をローズマリーは受け入れた。
それ以外に道など無かった。
皇帝の意思は絶対で、誰にも覆すことはできない。
だが頭では理解できても心は追いついていないのだろう。
勅使が帝都へと戻ると、ローズマリーは倒れ、数日の間床に伏した。
以来起き上がれるようになってもずっと塞ぎ込んでいる。
表面上は毅然と振る舞い、帝都に移る――「後宮」に入る準備に追われているが、日増しに食は細くなり、夜眠れていないのか顔色も悪い。
嘆いたり弱音を吐いたりは決してしない。
けれど、だからこそ余計に痛々しかった。
アメジアの王女であるローズマリーが皇帝に嫁ぐことは、まだ公にはされていない。
だが人の口に戸は立てられない。既に離宮中の人間が知っていた。
ローズマリーは来月アデルバートとともに帝都へと向かい、そのまま「宮廷」に留まる。
その後半年間の皇妃教育を受け、ローズマリーが十六歳になる十二月に婚姻を結び「後宮」へと入る。
それは決して、誰にも覆すことのできない未来だ。
けれどそれでもセシルは思わずにはいられなかった。
一体、ここで過ごした一年間は何だったのか。
何のためにローズマリーはアデルバートの傍にいたのだろう。
最初から皇帝に嫁ぐと知っていれば、ローズマリーだってアデルバートに心を許したりしなかったはずだ。
アデルバートも父の妃になる女性に心を寄せたりなどしなかっただろう。
未来があると信じていたからふたりは寄り添い合ったのに。
どうして今更。
『こんなことを言ってはいけないんでしょうけれど、本当にお気の毒よね』
塞ぎ込むローズマリーを尻目に、離宮で働く侍女たちはそんな無責任なことを好き勝手口にしていた。
それは何に対する憐憫だったのだろう。
他に妻も子もいる男に嫁ぐことか。
二十も歳上の相手の慰み物になることか。
祖国を蹂躙した男の子を産まされることか。
きっとそのどれもがローズマリーを憐れむ理由に足るだろう。
だが彼女自身が嘆いているのはそんなことが理由ではない。
初恋の君と結ばれないこと。
ただそれだけが、ローズマリーの悲劇だ。
「来月の殿下の帰都に同行される御予定だけれど、大丈夫かしら。あのままじゃ途中でお倒れになってしまうんじゃない?」
「……」
「せめてもう少し召しあがってくださるといいんだけど……セシルもこのままじゃ気がかりなままよね」
「……えぇ……」
頷くも、ミアの言い回しに違和感を覚えた。
ローズマリーの傍で、ローズマリーのために心を砕くことは、セシルにとって当たり前のことなのに。
「新しくお仕えする方はきちんと王女殿下の御心に寄り添える方だといいわよね。第三皇妃殿下がお選びになるって話だからその辺も配慮してくださるとは思うけれど……。そうじゃないと、セシルだって王女殿下のこと、安心してお任せできないわよね」
「……何を、言っているの……?」
「え?」
「『お任せする』って、何、その言い方……。さっきから、どうしてそんな……」
セシルが、ローズリーの傍を離れるような言い方をするのか。
セシルの問いにミアは不思議そうに首を傾げた。
まるで、セシルの方がおかしいと言わんばかりに。
「だって……王女殿下が『後宮』に入られたら、それに貴女はついて行けないじゃない」
「な……」
「アメジアに帰るなりジュエリアルに残るなり、貴女の意思を尊重するつもりだと殿下はおっしゃっていたわよ?このまま離宮で殿下にお仕えしてもかまわないし、縁談を望むのなら整えるって……。殿下から何も聞いていないの?」
「皇太子殿下が……そうおっしゃったの……?」
「え……えぇ……セシル!?」
ミアの声に応えず、セシルは走り出す。
アデルバートを探すために。
「探す」と言っても心当たりはある。この時間ならばアデルバートは温室にいるはずだ。
帝都から使者が訪れてからも、アデルバートは以前と同じように過ごしている。
公務に勤しみ、花の世話をして、時折遠駆けに出かけて、定期的に城下を巡る。
以前と同じ。何も変わらない。
ただ、隣にローズマリーがいないだけで。
「―――皇太子殿下!!」
温室に飛び込むと、予想通りアデルバートはそこにいた。
セシルとともに温室内に風が吹き込み、亜麻色の髪を揺らす。
太陽の下では金に近い輝きを見せるその髪は、今はくすんだ銀に見えた。
アデルバートを見つけたものの、走ったせいで胸が苦しい。
倦怠感に加えて、最近やけに疲れやすい。
いったいどうしてしまったのだろう。
懸命に息を整えていると、大丈夫かと気遣う声が降ってきた。
声の主はアデルバートではなく近衛騎士のフェリックスだ。
アデルバートは、何も言わない。荒い呼吸を繰り返すセシルをただ見下ろしている。
「……皇太子、殿下……。わたしが……姫様について行けないって……どういうことですか……」
息が乱れて、胸が苦しい。
階段を駆け下りるなんていつぶりだろう。
ローズマリーが皇女に首飾りを奪われたとき以来だとしたら、まだ一年も経っていない。
あのときの衝撃を越えることなんてもう起こらないと思っていたのに。
途切れ途切れとは言えセシルの声が聞こえなかったわけはないだろうに、アデルバートは答えない。
いつもは穏やかに微笑んでいる彼の顔から表情が消えていた。
ゾクリとした。
あまりにも美しいモノに対し、人は畏れを抱く。
アデルバートに出逢って初めて知ったことを、いつの間にか忘れてしまっていた。
「……『後宮』に上がり皇族の方々にお仕えできるのは、我が国の爵位を持っている者だけです。貴女はそれに該当しない。だからです」
沈黙するアデルバートの代わりにフェリックスが答えた。
理屈としてはその通りなのだろうが、そんなの、納得できるわけない。
「そんなのどうとでもなるでしょう!?皇太子殿下はこの国の皇太子なんだから……ッ」
「口をお慎みください」
「……ッ」
「御自分が何を言おうとしているのかおわかりですか。これ以上は不敬に当たります。もうお下がりください」
「でも……ッ」
「ブライトナー嬢」
諫めるように名を呼ばれ、セシルは唇を噛む。
わかっている。
いつもよりフェリックスの口調が厳しいのは、「不敬」を咎めるためではないということ。
もしもアデルバートがローズマリーのために無理を通せばあらぬ誤解を招きかねない。
ただでさえ離宮で暮らすローズマリーは「皇太子妃候補」と目されていたのだ。
皇太子の「お手付き」だと、下衆な勘繰りを言い出す者もいるかもしれない。
たとえばアメジアの王女であるローズマリーが「皇妃」となることを面白く思わない者とか、皇太子であるアデルバートを陥れようとする輩とか。
これからローズマリーが行くのは、そういう場所なのだ。
アデルバートはそんなところにローズマリーを送り出そうとしている。
「……もうおやめ、フェリックス」
ままならなさがもどかしくて込み上げてくる涙を堪えていると、可哀想に思ったのか呆れたのか、ようやくアデルバートが口を開いた。
「ブライトナー嬢。私の立場では、今の君を次期皇妃の侍女として『後宮』に上げることはできません。……力になれなくて申し訳ありません」
それは形ばかりの謝罪に見えてならなかった。
セシルのことを「たかが侍女」と侮っているわけではない。
侍女でも下女でも平民でも、アデルバートはいつも誠意を持って接していた。
民のために在り、民に生かされていることを忘れてはならない、と口にしていた。
アデルバートはいつだって誠実で、清廉で、「正しかった」。
正道を歩むアデルバートは、理想の皇太子そのものだ。
「……じゃぁ、どうすれば『爵位』を頂けるんですか」
「え……?」
「『それ』があれば、姫様のお傍にいられるんでしょう?だったら私、そのためなら何でもします。だから……っ」
必死に喰らいつくセシルに、アデルバードは眉を顰める。
不快というよりはむしろ苦悶の表情だった。
アデルバートを困らせているということはわかっている。
彼にはセシルを「後宮」に上げることのできない理由があるのだろう。
きっと正当で、どうしようもない理由が。
けれどそんなの、セシルには関係無い。
セシルにとって何より大切なのは、ローズマリーなのだから―――
「……君を『後宮』に連れて行かないのは王女殿下の御意思です」
「え……?」
「彼女はもうこれ以上、君を自分の都合に巻き込みたくないとおっしゃっていました。だからこれまで君の爵位について、君に何も話さなかった。元より君をいつまでも傍に置いておくつもりはなかったんです。いつか君が、自分の元から離れられるようにと」
「―――ッ」
頭を何かで殴られたような衝撃だった。
ローズマリーがそんなことを考えていたなんて。
セシルを遠ざけようとしていたなんて。
「……姫様は……そんなにもわたしのことが疎ましかったのですか……」
「え?」
「本当は、わたしが姫様のお傍にいることを望んでいらっしゃらなかったんですか……?わたしのこと、本当は遠ざけたくて……」
幼い頃から、ローズマリーのために生きてきた。
美しくて、優しくて、最愛の主。
ローズマリーはセシルのすべてだった。
ローズマリーのために生きることが喜びだった。
ローズマリーの傍にいられるなら、他に何も要らなかった。
その想いに報いてほしいわけではない。見返りを求めたこともない。
けれどそれでも、最愛の主に疎まれていたのだとしたら。
そんなの、あんまりだ。
自分でも、血の気が引いていくのがわかった。
よほど酷い表情をしているのだろう。蒼褪めるセシルを見て、アデルバートが狼狽する。
「違う、そうじゃない。彼女は君のことが本当に好きです。心から大事に想っているし、君が幸せであるように願っている、と言っていました。」
「じゃぁ、どうして……ッ」
「だからこそ、君をこの国に連れてきたこと、自由を奪ったことを悔いていました。これ以上、彼女のために君が犠牲になることが耐えられない……。だからもう、君のことを解放してやりたいと……」
「どうして姫様のお傍にいることが『犠牲』になるんですか……ッ」
ずっとそのために生きてきたのに。
それがセシルのすべてなのに。
何ひとつ伝わっていなかったこと、何も理解されていなかったことが哀しくて悔しい。
声を荒げたセシルに、アデルバートは困惑したような表情を見せた。
アデルバートを怒鳴ったことで、フェリックスが気色ばむ。けれどその瞳には迷いが見えた。
一介の侍女が不敬だと、問答無用に捕縛することだって彼らにはできるのに、アデルバートはきっとそれを「よし」としない。
そういう主だからこそ、フェリックスはきっと。
「……ジノ卿にならおわかりいただけますよね……」
「……」
「私たちのような人間にとって、主にお仕えすることがすべてなんです。……それ以外の生き方なんて知らない……わからない……」
「……ブライトナー嬢……」
「今更姫様のお傍以外で生きてなんかいけない……ッ」
セシルの一番古い記憶は、三つのとき。
他のことなんてほとんど覚えていないのに、その瞬間だけは嘘みたいに鮮明に覚えている。
あの瞬間、セシルの人生は決まった。
十五年前。セシルの妹から遅れること一週間、アメジア王室に二人の王女が誕生した。
紫の瞳を持つ第一王女と、翠の瞳の第二王女。
生まれた双子姫にはそれぞれ別の乳母がつけられることとなった。
セシルの母は姉姫の乳母となり、誕生から一週間もするとセシルも姫との面会が許された。
母の腕に抱かれて元気に乳を吸う嬰児。
この子がセシルの未来の主だと告げられた。この子のために生きるのだと、命じられた。
けれどそんなこと、命令されなくともわかった。
出逢った瞬間、一目で悟った。
セシルはこの子――この方のために生まれてきたのだと。
「……わたしはずっと……姫様のお傍にいます」
「ブライトナー嬢……」
「だって皇太子殿下はもう、姫様のお傍にはいてくださらないのでしょう……?」
「―――っ」
セシルの言葉にアデルバートは息を呑む。
銀灰色の瞳に浮かぶのは、後悔と絶望。
あの日から、アデルバートはずっと哀しい眸をしている。
二週間前。
帝都からの勅使が去ったあと、ローズマリーとアデルバートはふたりだけで話をした。
四半刻だけという約束で、侍女や騎士の立ち合いも無く、初めて部屋でふたりきりになった。
きっとそれは、最初で最後の「温情」だった。
扉の外で控えていたセシルたちには、ふたりが何を、どんな話をしたのかはわからない。
ただ言い争う声は扉越しに聞こえた。
約束の四半刻を待たずにアデルバートは部屋から出てきたが、残されたローズマリーは泣いていた。
慌てて駆け寄ったセシルが何を言っても顔を上げようとはせず、静かに涙を流しながらうちひしがれていた。
セシルの横をすり抜けて出て行ったアデルバートもまた、見たことのない険しい表情をしていた。
怒りとも憎悪とも違う、言い表しようのない絶望を纏っていた。
皇太子として、王家の姫として教育を受けてきたはずのふたりがあんなにも感情的になるなんて、今までの彼らを見ていれば考えられないことだった。
それほどまでにふたりにとって衝撃的な宣告だったのだ。
それでもふたりは、突如訪れた悲劇を受け入れるしかなかった。
アデルバートが帝国の皇太子で、ローズマリーがアメジアの王女であるかぎり。
セシルがローズマリーの傍でしか生きられないのと同じように、ふたりもまた「そう」いうふうにしか生きられないのだ。
「……ブライトナー嬢の爵位授与の申請をしましょう」
痛いくらいの沈黙を終わらせたのは、アデルバートの静かな声だった。
亜麻色のまつげが一度伏せられ、次に銀灰色の瞳が現れたときにはもう、「いつもの」アデルバートだった。
「一番早いのは国内の貴族に嫁いで貴族夫人の身分を手に入れることですが、それだとのちのち厄介なことになりそうだ。一代限りの貴婦人の称号を受けられるよう私の方で手続しておきます。アメジアの方でも手続きが必要だから、おそらくは半年ほどはかかるでしょう。その間に後宮侍女としてのマナーをレベッカに習うといい」
「エイミス様に……?」
「彼女は元々私の母……正妃殿下付の侍女でした。皇族女性への仕え方……『後宮』での身の振り方を学ぶなら、彼女が最適でしょう」
「あ……ありがとうございます……」
思わぬ展開に呆然と礼を言うと、アデルバートは自嘲のように視線を落とした。
「……彼女のことを、よろしくお願いします」
自分の代わりに。
自分はもう、傍にはいられないから。
下位の者に頭を下げるアデルバートの声にならない声がそう聞こえた気がした。
【本編には出てこなかった設定】
皇族の近衛騎士・侍従・侍女は帝国の貴族しかなれません。
そのため他国の王族が皇妃として嫁いでくる際祖国から侍女や従者を連れてくる場合、彼らも一代限り帝国貴族の爵位を与えられます。
ローズマリーは当初輿入れではなくあくまで「療養のため」に来国したため「アメジアの王女」として滞在し、セシルも「アメジア王国の貴族」として「アメジアの王女」に仕えていました。
ちなみに近衛騎士・侍従・後宮侍女頭・教育係は当主でなくても任命時に一代限りの爵位を与えられます。
そのため次男のジャンやグレイスターも「ロード」「サー」、ステラは「レディ」の称号を持っています。




