E.C.1010.04-2
前回更新分の翌日のお話です。
「やはりまだ少し熱っぽいですし、今日は出歩かれない方が……」
「平気よ。昨日の夜、少し冷えただけ。心配性ね、セシルは」
「ではせめて今日は厚めのお召し物に致しましょうか」
「ありがとう、セシル」
気遣うセシルの言葉にローズマリーは小さく微笑んだ。
昨日の夜、床についたローズマリーは急に咳が止まらなくなり、朝になってもまだ少し熱っぽかった。
ローズマリーは特段病弱というわけではないが、疲れが溜まっているのだろう。心も、身体も。
それでも皇太子との約束を反故にするわけにはいかないと頑として譲らないのは、彼との「デート」を楽しみにしているから、というわけではない。
それが彼女にとっての義務だからだ。
夜着を脱ぎ、ドレスに袖を通すのを手伝う。
アメジアの物とは異なるこの国の装束は、皇城に滞在している間にすべて第三皇妃がそろえてくれた。
アメジアでは王室も一夫一妻制をとっているため「側妃」という制度は理解し難い。
アメジアでも身分の高い男性は妻以外の女性を囲うことはあるが、あくまでも愛妾、或いは愛人として扱われ、関係を公にすることはほとんどない。
万が一子どもが産まれても、養子として引き取られるか庶子として捨て置かれるか、どちらにしろ、母である愛妾には何の権利も与えられない。
決して妻にはなれず、日陰の身として生きていく。
だがジュエリアルでは皇帝の妃に限ったことではあるが、正妃以外の妻も「側妃」の地位を与えられ、きちんと皇妃として扱われる。
皇妃自身の能力にもよるが、一定の裁量権を与えられる場合もあるらしく、実際、皇城滞在中に身の周りの手配をしてくれた第三皇妃も、正妃を差し置き女主人のように振舞っていた。
でしゃばっていたわけではなく、それが彼女の役目なのだろう。
どこか冷たい印象のある正妃とは対照的に、第三皇妃は朗らかで溌剌とした、少女のように無邪気な女性だった。
「王女殿下は肌が白いから鮮やかな色がよく似合うわ」。
そう言ってドレスを選ぶ様子はなぜかとても楽しそうだった。
ドレスだけではない。装飾品もこの部屋も食べる物も、すべて彼らに与えられた物だ。
施され、囲われ、ただ生かされる。
それは何のためだろう。
セシルは、主のため。主がいてくれればそれでいい。
ローズマリーが憂いなく穏やかに過ごしてくれれば、それだけで生きていられる。
けれど、主は―――?
約束の時間の少し前に玄関ホールへと向かう。待っていたのは、亜麻色の髪に銀灰色の瞳をした十六、七ほどの少年。
背は高いがその年頃の少年にしては首や肩などはやけに細く、また肌も白いためか儚げな雰囲気を纏っている。
「姫君」
ローズマリーの姿を認めた少年は、柔らかに微笑む。それだけで場の雰囲気が華やぎ、明るくなった気さえした。
まるで彼自身が本当に光り輝いているのではないだろうかと思ってしまう、それほどまでに美しい少年だった。
初めて彼の姿を見たとき、セシルは彼が御伽噺の中から出てきた精霊か何かかと思った。
光の加減で銀にも金にも見える不思議な色の髪や月の光に似た銀灰色の瞳、精巧に作られた硝子細工のような繊細な美貌。
まるでこの世の理から外れてしまっているかのような美しさに、一目で目を奪われた。
そして同時に、畏怖すら覚えた。
あまりに美しいものを見ると人は畏れを抱くのだと、セシルはこのとき初めて知った。
「……お待たせしてしまい申し訳御座いません。皇太子殿下」
緊張で全身を強張らせているセシルとは対照的に、ローズマリーは優雅に礼をとる。
両手を胸の前で合わせて跪くアメジアの礼とは異なる、帝国の作法に則る完璧な淑女としての礼だ。
「いいえ。私が少し早すぎたのです。姫君とお話できる時間が待ち遠しくて」
紳士が淑女を口説くような台詞なのに、軽薄さは少しも感じられない。これが生まれ持った気品の為せる業だろうか。
高貴さが全身から溢れ出ているようなこの少年こそが、この国において二番目に高位の人物、皇太子のアデルバート=セイルヴ=ジュエリアルだ。
「……もったいないお言葉にございます」
「さ、参りましょう」
浮かれた様子など微塵も無く淡々と答えたローズマリーに、皇太子はそっと手を差し出す。ローズマリーは一瞬躊躇を見せるも黙って手を重ねた。
アメジアでは、親族でもない男女がみだりに触れ合うことははしたないとされていた。
淑女として王女として、ローズマリーはずっとそういう教育を受けてきた。
ローズマリーとともにセシルがこの国に訪れてから、早四ヶ月が経とうとしていた。
その間、ローズマリーもセシルもずっとアメジアと帝国の文化の違いに戸惑ってばかりいる。
襟ぐりの開いた鎖骨の見えるドレスや親兄弟以外の男性によるエスコートも、ローズマリーにとっては耐え難いものだろう。
けれど耐えるしかないということは、わかっていた。
そして戸惑いや不満を顔に出しても一瞥で流されるセシルと違い、ローズマリーはそれらを決して気取られてはいけない。
帝国に来て間もない頃、セシルたちは帝都にある皇城に滞在していた。
けれど一月も経たないうちに皇太子と共にこのセイレーヌへと住まいを移した。
帝都から馬車で一日かかる遠く離れたこの地は皇家の直轄領で、アデルバートは十歳の祝いを迎えたときに皇太子領として統治権を譲り受け、以来一年のほとんどをこの地で過ごしているらしい。
城下にある街はさほど広くなく、少し行けばのどかな丘や森が広がっている。
帝都とは比べものにならないくらい田舎なこの地にローズマリーが身を寄せることになった理由を、セシルたちは聞かされていない。
けれど何となく、予想はしていた。
皇太子に手を引かれたローズマリーにつき従い、中庭へと出る。
彼が育てたという薔薇に囲まれたテーブルセットには既にティータイムの準備がされていた。
「茶会」というこの文化もアメジアには無かったが、昼食のあと優雅にアフタヌーンティーを楽しむことは、この国では貴族の嗜みらしい。
本来ならば女主人が取り仕切るものらしく、皇城にいた頃も第三皇妃がよく開いていた。
「どうぞ、姫君」
皇太子に促され、皇太子付の侍女が引いた椅子にローズマリーは腰掛ける。
にこやかな皇太子と違い、侍女はにこりともしない。けれど彼女は彼女の仕事を全うしているだけだ。
だからローズマリーもねぎらいの言葉をかけたりはしない。
「昨日はお返事の御手紙をありがとうございました」
「……いいえ。こちらこそ、お招きありがとうございます」
「送ったあとで字のことに思い至ったのですが、姫君はもう文字を覚えていらっしゃったのですね」
「……『宮廷』でお世話になっていたとき、講師の方を第三皇妃殿下がご紹介くださいました」
「第三皇妃殿下の紹介ならば間違いないですね。そのドレスも、妃殿下がお選びになったものだとか。よくお似合いですね」
「……もったいない御言葉にございます」
「他に何か、困っていることや不自由はございませんか?」
「……御気遣い痛み入ります。けれど皆様よくしてくださっています。わたくしにはもったいないほどです」
微笑みながら次々と質問してくる皇太子とは対照的に、ローズマリーは表情を変えず淡々と答える。
ともすれば不機嫌ともとられかねない不遜な態度だ。
ローズマリーは、元々よく笑う子どもだった。
楽しいと笑い、嬉しいと笑い、哀しいと泣き、腹が立つと怒る。
感情豊かでくるくると表情の変わるローズマリーのことが、セシルは大好きだった。
そんなローズマリーが、この国に来て以来ほとんど笑わなくなった。
それはこの国の人間に敵意や警戒心を抱いているからではない。
ただ祖国に残してきた人々のことを思うと、笑うことさえ申し訳なくなる。
そう呟くローズマリーを見て、世界はなんて残酷なのだろうかと思った。
ローズマリーは何も悪くないのに。
誰も彼女を責めてはいないのに。
彼女だけが、自分を責めている。
反応の薄いローズマリーに、皇太子は怒ったりはしない。
ただ少し、困ったように視線を落とした。
だがそれも一瞬のこと。すぐに気を取り直したように明るい声で言う。
「今日は姫君にお贈りしたい物がございます」
「……わたくしに?」
「えぇ。レベッカ、こちらに」
侍女に命じて持って来させたのは、硝子で出来た正方形の箱だった。
蝶番で開閉できるようになっている蓋には繊細な細工が施されていた。
「どうぞ。開けてみてください」
「……拝見いたします」
皇太子に促されてローズマリーが蓋を開けると、中に入っていたのは首飾りだった。
中央に小さな紫色の宝玉――アメジストがついていて、シンプルだが一目で高価なものだとわかるものだ。
アメジスト自体はそう大きな物ではないが、控えめにあしらわれたそれは他の宝玉との調和も相まってかえって上品で美しい。
「これは……」
「アメジアから取り寄せました。貴女の瞳と同じ色をしている。きっと貴女によく似合うと思って」
「……ッ」
恥じらいも無く歯の浮くような皇太子の言葉に、セシルは耳を疑う。
一体どの口が、どういうつもりでそんなことを言うのだろう。ローズマリーもまた、隠しきれないほど動揺している。
一方皇太子は見開かれた紫の双眸を「歓喜」ととったのか、無邪気なまでに上機嫌だ。
「アメジアとは、本当に様々な文化が交わる国なのですね。とても興味深い。今回のことでいろいろな文献を読みましたが、水の上を走ったり霧のように消えることのできる人間がいる、というのは本当ですか?」
「……どう、でしょう……。そういう伝承はありますが、わたくしは実際に見たことはありませんので……」
「へぇ、そうなのですね。ますます興味深い。いつか実際に、この目で見てみたいです」
「―――ッ」
「そのときは……」
「……いい加減にしてください」
好奇心を隠そうともしない皇太子の言葉に、しかしローズマリーが返した声は冷たい。
華奢な肩が震えているのは歓喜のためではなく憤りのため。
これほどまでに憤りを露わにするローズマリーを、セシルは初めて見た。
「いったいどこまで我が国を侮辱なさるおつもりですか」
「え……」
「こんなものをわざわざ取り寄せるなど、皇太子殿下はどうして貴国と我が国が争うことになったのか、もうお忘れなのですか」
「……ッ」
陽の光を知らぬように白い肌は、いっそ蒼い。
憤りを湛えた紫の瞳を向けられ、皇太子はようやく自らの過ちに気付いたようだ。
美しく、賢く、心優しい帝国の皇太子は、けれど少々無神経なところがあった。
皇太子でありながら帝都での政や権力争いから遠ざかりこのような田舎でのほほんと暮らしている彼は、よく言えば純粋でおおらか、悪く言えば人の心の機微に疎い。
優しい人たちに囲まれて優しい世界で生きる優しい彼は、自らの優しさが誰かを傷付けるなどとは予想もしていないのだろう。
かつてのローズマリーと同じように。
優しさは善で冷酷さが悪ならば、善良なことが正しくて邪悪さが間違っているというならば―――世界がそんなにも単純ならば、きっと誰もがもっと生きやすいはずだ。
「こんな物のために、たくさんの民が死にました。こんな、たかが石のために、多くの犠牲を出した我が国王……わたくしの父を、愚かな君主と嘲笑っておいでなのですか?」
「違―――っ」
「わたくしはこんな物要らない……欲しくない……っ。それなのにどうして!?どうして貴方たちは……ッ」
華奢な拳がテーブルに叩きつけられる。
初めてだから、加減などわからない。並べられたティーセットが耳障りな音を立てた。
テーブルに額がつくほど項垂れたローズマリーの口からは、抑えきれない嗚咽が零れていた。
泣いている。
誰より大切な主が泣いているのに、セシルは立ち尽したまま何もできなかった。
皇太子や侍女たちも、項垂れて肩を震わせるローズマリーを呆然と見ていた。
ローズマリーが取り乱している理由は、きっと皇太子には理解できない。
けれどセシルにはわかる。
覚悟して訪れたこの国で、「人質」に対し、この国の皇族は驚くほど優しかった。
もちろん冷たい人もいた。「人形姫」と渾名し嘲笑う人や憐憫の眼差しを向けてくる人、侮蔑の言葉を投げつけてくれる人もいた。
けれどこの国の長である皇帝は優しかった。第三皇妃も親切にしてくれた。
共に離宮に移ってからは皇太子もいつもローズマリーを気遣い、優しくしてくれた。
綺麗なドレス、温かな食事、清潔なシーツ、美しい花、優しい空間。
「人質」であるローズマリーに、たくさんの物を与えてくれた。
ローズマリーが不自由なく生活できることにセシルは安心したが、その反面、優しくされればされるほど、どうしてこの人たちがセシルの祖国を蹂躙したのかと不思議で仕方なかった。
悔しくて、苦しくて――哀しくなった。
「姫君!?どうされました!?」
ローズマリーの激昂に呆然としていた皇太子だが、異変に気付いて声を上げる。
テーブルの上で震えていた拳は、いつの間にか胸を抑え、浅い呼吸を繰り返していた。
背も小刻みに震えていて、明らかに様子がおかしい。
「あ……ふ……ぁ……」
「姫様!?どうされました!?」
慌てて駆け寄るも、ローズマリーの身体が大きく傾ぐ。すんでのところでセシルの手をすり抜けていく。
「姫様―――ッ」
地にうち伏したローズマリーの姿に、セシルの絶叫が響いた。




