E.C.1009.08-5
突然の兄からの誘いに、レオンハルトは神話学の講義を中断し、急いで遠駆けの用意をした。
ジャンに何か言われるかと思ったが、予想に反し、教育係は馬や乗馬服を用意するよう侍女たちに命じただけで反対したりはしなかった。
まだ馬に乗れないウィリアムとキャロライナの昼寝の時間に二人は離宮から馬で東へ五里ほどのところにあるタリスの丘へと向かった。
身体が弱く、激しい運動は極力控えているアデルバートだが、決して運動神経が悪いというわけではない。
白の愛馬を颯爽と乗りこなす姿は、肖像画で見た若かりし日の皇帝の姿を彷彿とさせた。
丘の下に広がるセイレーヌの街は、美しい。
帝都のような華やかさは無いが、小さく人の姿が見える街が、レオンハルトは好きだった。
「私は、この丘から見るこの街の景色が一番好きなんだ」
「え……」
「?どうかしたかい?」
「あ……いえ……」
兄が同じことを思っていたことが、嬉しかった。
同じ景色を見て同じ想いを抱いたことが、幸せだった。
そう伝えたら、アデルバートはどう思うだろうか。
そんなことを考えたが、照れくさくて結局口を噤んだ。
「レオン」
「はい、兄上」
夕陽を受けて金に輝く髪を、紅く染まった横顔を、美しいと思った。
一年のほとんどをセイレーヌの離宮で暮らす兄と過ごした時間は、そう長くはない。
けれどレオンハルトは、アデルバートのことが大好きだった。
一つ下の気丈な妹やまだまだ甘えたい盛りの弟のことももちろん大切に想っているけれど、レオンハルトにとってアデルバートは特別だった。
兄の支えになりたい。兄に必要とされたい。
そのためだけにレオンハルトは努力を重ねてきた。
兄の傍にいられたら、兄の愛情を得られたら、きっと他には何も要らない。
ただそれだけで生きていける。
この頃のレオンハルトは、本気でそう思っていた。
「……アメジアにいらっしゃる父上からから書状が届いた」
「え……?」
「戦争が終わったと」
アデルバートはレオンハルトを見つめたまま、簡潔にそう告げた。
世界を二つに分ける――西大陸と東大陸を分かつファルジア海。
その海の中央に浮かぶ島国であるアメジア王国とこのジュエリアル帝国の戦争が始まったのは、つい三ヶ月前のことだ。
広大な海の中央に位置するアメジアは、西大陸と東大陸の貿易の中継地であり、東西の文化が融合した独特の文化を持つ国だった。
また、アメジアは、この国ではめったに手に入らない鉱物の産地でもあった。
美しい紫の色をした宝石、アメジスト。この国において紫は金、銀に次いで高貴な色とされており、またアメジストには魔除けの力もあると伝えられている。
そのため皇族や貴族といった上流階級の人間はアメジストを好んで蒐集しようとする。
それゆえアメジストの貴重な入手経路であるアメジアとの貿易は、ジュエリアルにおいて重宝されていた。
しかし先年、アメジアの国王が代替わりしたことで状況は一変した。
年若い新王は、ジュエリアルとの交易を縮小すると言い出したのだ。
世界屈指の大国であるジュエリアルにとっては、アメジアとの交易を廃してもその実、経済的な打撃はさほどでもない。
アメジストの入手が困難になることは大きな痛手ではあるが、しかしそれ以上に、大帝国としての誇りを傷付けられることを恐れていた。
神聖帝国であるジュエリアルが、東の小国に交易の主導権を握られるなど、あってはならない。
それゆえアメジアからの通告を受け入れられるはずもなく、話し合いは平行線のまま、ついに三ヶ月前、両国の戦争が始まった。
そのためレオンハルトたちの父、ジュエリアル帝も指揮官として戦地に赴いていたのだった。
ジュエリアル帝国において、皇帝は君主として民を導くとともに、指揮官として軍を率いる役目も担っていた。
特に現在の皇帝は十八のときに初陣を飾って以来、その戦歴は無敗を誇る歴代最強と呼び声高い「戦神」だ。
圧倒的な強さで周りの国々を倒し、その配下に治めてきた。
そんな「戦神」率いる西大陸最大の大帝国と極東の小さな島国の国力の差など歴然として、結果は火を見るよりも明らか。
世界中の予想通り、ジュエリアル対アメジアの戦争は短期決戦で幕を下ろした。
「アメジア国王が降伏したそうだ」
「では……」
「あぁ。様々な後処理を済ませたら、来月の半ばには父上もお戻りになられるそうだ」
「そう……ですか」
アデルバートの言葉に、レオンハルトは曖昧に頷く。
父が、帰ってくる。
そのことに対する感情を、レオンハルトは上手く言葉にすることができなかった。
けれど。
「だから私も、レオンたちとともに帝都に戻るよ」
「え……っ」
思いがけないアデルバートの言葉に、レオンハルトの声が思わず上ずった。
セイレーヌの統治を皇帝より任されているアデルバートが帝都に戻るのは、皇帝の誕生日や新年の祝いの時期くらいで、そのほかはほとんどこの離宮で過ごす。
だから今年も夏が終わりレオンハルトが帝都に戻ってしまえば、次は新年まで会えないと思っていたのに。
「本当ですか兄上!本当に、レオンとともに……っ」
「あぁ、本当だ」
柔らかに頷き、アデルバートはレオンハルトの頬にそっと触れる。
こうして兄に撫でてもらうことが、レオンハルトはとても好きだった。嬉しくて仕方なかった。
だから同じようにウィリアムのこともやたらと撫でて――キャロライナ曰く「甘やかして」しまうのかもしれない。
兄と同じことをしてやりたくて。
兄のように、なりたくて。
「嬉しいです、兄上。夏が終わっても、兄上と一緒にいられること」
「……あぁ、私もだよ。レオン」
夏が終わってもアデルバートと一緒にいられる。
レオンハルトは愚かなまでに純粋に、ただそのことを喜んでいた。
レオンハルトはいつも自分のことばかりで。
だから気付かなかった。
このときの自分を見る兄の眸に、酷く複雑な色が滲んでいたことに。
第1章終了です。