E.C.1019.06-4
セシル視点の番外編です。
今回更新分は第四章冒頭部でレオンとキャリーが話していたシーンのすぐあとのお話です。
部屋の扉を閉めながら、項垂れる細い背を見つめる――睨みつける。
最後に姿を見たときから、彼女は何も変わっていない。
横暴で、利己的で、自分が何より正しいと信じて疑わない傲慢な女。
「騎士姫」などと誉めそやされていい気になっていたあの女――キャロライナのことが、セシルは何より嫌いだった。
皇太子の部屋を出て長い廊下を進む。
「宮廷」の最北に位置し、かつて――十年前この国に訪れたばかりの頃主と共に過ごしていた部屋を、再び仮の住まいとして与えられた。
それが彼らの配慮なのか何なのか、セシルにはわからない。
そのようなことは、どうでもよかった。
「お帰りなさい、セシル」
「……っ姫様……」
部屋の扉を開けると、中にいた少女に声をかけられる。
いつもならばもう寝ている時間のはずなのに、セシルを見つめる紫の眸は少しも眠そうに見えない。
ベッドの中で大きめのクッションに背を預けて座っていたのはクリスティーナ=アメジア=ジュエリアル。
かつての主と同じ色の瞳をした彼女こそが、今のセシルの主だった。
「……まだ起きていらしたのですか」
「ロビンが目を覚ましてしまったから、本を読んであげていたの」
「姫様がですか?そのようなこと、侍女に申し付けてくださればよろしいのに。控えていた者は何をしていたんです」
「わたしがかまわないと言ったのよ。ロビンはわたしの弟。だったらわたしが面倒を見るのは当然のことよ。……お兄様もそう仰っていたもの」
「……姫様……」
隣で健やかな寝息をたてている第四皇子のロベルトの頭を撫でながらクリスティーナは言う。
まだ十にも満たない幼子でありながら、クリスティーナはやけに大人びた話し方をする。
否、話し方だけではない。
物心ついた頃からクリスティーナはとても大人しく、物静かな性格で、年相応に騒いだりはしゃいだりするところなど見たことがなかった。
成長した今も、まだ幼い弟が無邪気に跳ね回る様子を微笑ましそうに見守っていることの方が多い。
それはかつて「人形姫」と呼ばれていた頃の彼女の母と同じだ。
面差しは父であるジュエリアル皇帝にそっくりなのに、ふとしたときに母の面影が覗き、そのたびにセシルはたまらない気持ちになる。
「それよりも、皇太子殿下と王太子妃殿下とのお話は済んだの?」
「あ……はい……」
「そう」
半分だけとは言え血の繋がった兄と姉である彼らのことを、クリスティーナはそう呼ぶ。
親愛の欠片も感じられないが、きっとそれも仕方のないこと。
クリスティーナ自身が彼らからそのようなものを与えられたことなどないのだから。
クリスティーナのことを妹として扱い愛してくれたのは、ただ一人。
一月前に還らぬ人となった前皇太子のアデルバートだけだった。
皇帝と正妃の間に生まれた第一皇子である前皇太子は、クリスティーナにとっては異母兄になる。
父親である皇帝とよく似た容姿をもち穏やかで優しい前皇太子は、弟妹たちに慕われていた。
前皇太子自身、母親が違っても皆大切な弟妹で、宝物なのだと照れもせず言っていた。
弟妹たちが憂いなく暮らしていくことが、何よりの願いなのだと。
そんな前皇太子とクリスティーナが帝都から離れたセイレーヌ離宮で暮らすようになったのは、三年前のことだった。
クリスティーナの生母が身罷ったことで、国内貴族の後ろ盾の無い彼女の後見人を前皇太子が引き受け、共に暮らし始めたのだった。
暮らし始めて間もない頃は母を恋しがって泣いてばかりいたクリスティーナだが、献身的に世話をする前皇太子に次第に心を開いていった。
歳の離れた二人の兄妹は本当に仲睦まじく、まるで父娘のようだった。
母の異なる兄妹である二人は、周囲が驚くほどによく似ていた。
顔立ちや髪の色だけでなく、他者を思いやることのできる優しい心根や、花が好きで動物に好かれるところ。穏やかな話し方。灯すように微笑む表情。
元々の性情が同じなのか過ごした時間が二人を似せたのかはわからないが、幼くして母を亡くした末妹を、前皇太子は大切に慈しんでくれた。
一方で他の兄姉たちはクリスティーナのことをよく思ってはいないように見えた。
「後宮」にいる間も離宮に身を寄せるようになってからも、彼らは異母妹を顧みようとはしなかった。
彼らにとってクリスティーナの存在は疎ましいものでしかなかったのだろう。
アデルバート以外の兄姉たちは、決してクリスティーナと交流をもとうとはしなかった。
それはクリスティーナ自身の性格や人格に問題があったから、というわけではない。
すべてはクリスティーナ自身にはどうすることもできない、彼女の出自のせいだ。
今から十年前。
セシルたちが暮らしているこの国――ジュエリアル帝国は、とある小さな島国に攻め入った。
帝国の十分の一にも満たない国土のその王国は、けれど美しい自然と豊かな資源、多彩な文化を有し、王は民を愛し民は王を愛する幸福に満ちた国だった。
けれど豊かさは強さの象徴ではない。
世界一の武力を誇る帝国は、瞬く間に王国を侵略し、国を焼いた。
王は討たれ、首を挿げ替えられ、新たな王に帝国は、降伏の証として一人の姫を差し出すよう命じた。
宝石の瞳を有する、まだ十三歳の美しい姫。アメジア王国第一王女、ローズマリー=ヴィヴィアン=ルシア=シャムロック。
その姫こそが、クリスティーナの母親であり、セシルのかつての主だ。
終戦後、ローズマリーは人質として帝国に送られ、皇妃となり、クリスティーナを産んだ。
それは敗戦国の王室の女性としてはごく当然の、ありふれた結末だった。
王家の血を引く姫を差し出すこと、それは敗戦国にとっては忠誠の証であり、戦勝国にとっては人質であり戦利品。
そして生まれた子――両国の王家の血を継ぐ子は、和平の証であり、新たな人質だ。
祖国が裏切らない限り、その身は丁重に扱われる。
だがそのような建前があったとしても、戦勝国の民が自国に刃向かった敵国の王の娘のことを実際にはどう思うかなど、想像に難くない。
ローズマリーは皇妃となって以降、想像通りの扱いを受けてきた。
誰よりも美しく優しかった彼女のことを、この国の人間は「敗国の人形姫」と蔑み、嘲笑った。
なかでも第一皇女――今となっては隣国の王太子妃となったキャロライナは、ローズマリーのことを嫌っていた。
王太子妃が幼い頃、ローズマリーが皇妃となる前は謂れのない暴言や暴挙を散々受けた。
ローズマリーが黙って耐えることしかできないということをわかっていて彼女は、ローズマリーに対し酷く当たっていたのだ。
今更後悔したと言われても、許せるはずがない。
彼女がいくら懺悔したところで、ローズマリーは戻ってこない。
―――そんなこと考えれんのは、余裕のある奴らだけだろ
「彼」とそんな話をしたのは、いつのことだったろう。
揶揄するような口調に腹は立たなかった。
ただそう言われた瞬間、「彼」とは理解し合えないということを悟った。
セシルのことを「彼」は理解できないし、セシルもまた「彼」を理解することはできないということがわかってしまった。
―――それが……アンタ答えなんだな
寂しい眸をした優しい少年。
哀しくても苦しくても生きていくしかないと言っていた「彼」は、今どうしているのだろう。幸せでいるのだろうか。
差し出された手を、セシルは取れなかった。
自分よりも「彼」よりも、大切なものがあったから。
「……さぁ、姫様。姫様ももうお休みください。御身体に障ります」
クリスティーナから読んでいた本を受け取り、横になるよう促す。
振動で隣で眠るロベルトが唸ったが、目を覚ますことはなかった。
ロベルトはすこぶる寝つきがよく、夜中に目を覚ますこともほとんどない。
だから今夜クリスティーナが言ったように起き出したのなら、非常に珍しいことだった。
半年前に三歳になったばかりのロベルトの面立ちは、父親似のクリスティーナとは対照的に生母であるローズマリーによく似ていた。
帝国では珍しい漆黒の髪と紫の瞳のせいもあるだろう。
性格はやんちゃで我儘とローズマリーとは似ても似つかないけれど、姉想いの優しい子に育った。
クリスティーナのことが大好きで、何をするにも一緒にいたがる。
わがままを言っても癇癪を起しても、クリスティーナの言いつけだけはきちんと聞き、病がちなクリスティーナのことを常に気遣い労わる。
姉のことを、何より大切にしていた。
「でも眠くないわ。すっかり目が冴えてしまったもの」
セシルに促されて大人しく横になるも、クリスティーナは困ったように眉を下げる。
そんな表情をすると皇帝よりもむしろ前皇太子に似ていて、セシルは思わずギクリとした。
その年頃の子どもにしては華奢で小柄なクリスティーナは、生まれつき身体が弱かった。
季節の変わり目には必ず熱を出すし、激しい運動をした次の日も必ず寝込む。
そういうところも、前皇太子に似ていた。
だからこそあらぬ誤解――下世話な邪推をする輩もいた。
ばかばかしい。どこの王家も、病弱、或いは短命な者が生まれやすいのは同じだ。そんなこと、何の証明にもならない。
品性のない噂話を耳にするたびに、あの頃のふたりが穢されたような心地になる。
―――貴女の心からの笑顔が見たい。それが私の、何よりの願いです
―――誰より何より、君のことを大切に想うよ
優しい人だった。
春の陽だまりのように温かな人だった。
世間知らずで鈍感で無神経なところもあったけれど、純粋で誠実な人だった。
彼が傍にいてくれるのなら、ともに生きてくれるのなら、何の憂いも不安も無いと、愚直なまでに信じていた。
それなのに。
―――幸せを願えない私を、狭量な男だと軽蔑するかい……?
「……では眠れるまでセシルが何かお話をしてさしあげます」
漣のように引いては寄せる懐旧を、必死に振り払う。
だがクリスティーナから返る言葉は、セシルの努力を無に帰すものだった。
「本当?じゃぁ、お兄様のお話を聞かせて。お兄様がお母様と暮らしていらした頃のお話」
無邪気に強請るクリスティーナに、口にできない疑心が浮かぶ。
そんなはずない。
そんなわけないことは、セシルが一番よく知っているはずだ。
「……えぇ。喜んで」
敗戦国の王女として「後宮」ではないがしろにされていたローズマリーだが、けれどそれでも、優しくしてくれる人はいた。
温かな時間は確かにあった。
前皇太子は、ローズマリーに優しかった。
大切にしてくれた。
来国後数年の間、ローズマリーは帝都ではなく帝国の北部にあるセイレーヌ離宮に身を寄せていた。
セイレーヌは前皇太子の管理する皇太子領で、静養のために前皇太子もまた一年のほとんどをそこで過ごしていた。
薔薇の宮とも呼ばれる美しいセイレーヌ離宮で彼とともに過ごした二年間。
思えばあの頃が最も穏やかで幸せな時間だった。
セシルにとっても、きっとローズマリーにとっても。
「……では御母上と兄君が森に薬草摘みに行かれたとき、リスまみれになったお話をいたしましょうか」
「えぇ?何それ」
そんなことがあったの?とクリスティーナは目を輝かせる。
そんな表情をしていると、ローズマリーによく似ている。
そう思うのは、ただのセシルの願望だろうか。
たとえそれでもかまわない。
何度だって、話して聞かせる。
小さな主が望むのなら。
大切な主と過ごした、幸せな日々を。




