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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 或る侍女頭の内証
77/114

E.C.1019.05-7


時間軸的にはジャン視点の番外編の最終部のあとに入るお話です。

長いですが、お付き合いいただけると幸いです。



 揺れる馬車の中、ステラは壁に頭を預ける。

 向いに座るレティシャはちらりとステラを見たけれど、何も言わなかった。

 行儀が悪い、と叱られてしまうほどステラはもう若くも幼くもない。

 レティシャはステラがランドール侯爵家に嫁いだ際に当主であるアロイスがつけてくれたレディースメイドだ。

 後妻であるステラに対しいろいろと思うところもあるだろうが、よく仕えてくれている。

 今夜も唐突なステラの我儘に付き合い、文句も言わず馬車の中で待っていてくれた。

 壁にもたれたままステラはそっと右手に触れる。

 手袋越しでは感じるはずのない彼の熱が蘇ったような錯覚に陥り、その幻想を振り払おうときつく目を閉じた。


 かつての同僚との八年ぶりの再会は徒労に終わった。

 そもそも何のために、何をしに行ったのか、自分でもよくわからない。

 ただ、会いたかった。

 かつての主の話がしたかった。

 違う。

 ただジャンに会いたかった。



 ―――貴方にその瞳で見つめられるたび、気が狂いそうだった……っ



 それでもあんなこと、言うつもりなかった。言う必要など無かった。

 ジャンに放った言葉は紛れもなくステラの本心だったけれど、ただそれだけ。それ以上でも以下でもない。

 過去に戻りたいわけでもその先を期待していたわけでもない。


 「後宮」にいた頃、ステラは確かにジャンに心乱されていた。

 彼の視線が、仕草が、表情が、気になって仕方なかった。

 触れ合える距離にいながら埋まらない隙間がもどかしかった。

 けれど同時に安堵もしていた。

 物欲しそうに見つめてくるくせに決して一線を越えようとはしない彼との距離感が心地よかった。


 ジャンに恋をしていたのかと訊かれると、今でもよくわからない。

 彼に抱かれたかったわけでも、彼を自分のものにしたかったわけでもないけれど、ただ彼がそこにいてステラを見ている、それだけで満足できた。

 視界の中にジャンがいるだけで安心できた。

 求められているという事実だけで満たされていたから、それ以上は必要なかった。

 だから彼が他の女と関係を持つことに対して何とも思わなかった。


 どうしようもなく不毛で、ある意味不健全な感情だった。


 ジャンとともには歩めない。

 あの頃、互いの存在を意識し合いながらも頭のどこかではわかっていたし、今夜の再会はそんな予感をより確かなものにしただけだった。

 結局自分たちはレオンハルトを介してでしか関われないし、関わらない方がいい。

 ただの男女として触れ合えば、崩壊しかない。


 二人の関係を表すのに一番近い形容は「同志」。けれどその言葉は一番不似合にも思えていた。

 同じ主に仕え尽くしていた二人だが、同じ気持ちでないことはわかっていた。

 ジャンは主に対し、渦巻く複雑な感情を向けていた。愛憎なんて言葉では言い表せない、彼自身持て余すほどの強い感情だった。

 だから彼は、レオンハルトの元を去ったのだ。

 自らの刃が主に向く前に。

 主を己の狂気から守るために。


 そして同じくステラもまた、レオンハルトを守るために彼の元を去った。

 少なくともあのときはそう思っていた。


 あのときの選択が正しかったのか、今ではもう自信がない。

 一番つらいときに傍にいてあげられない。そんな未来が来ることを、あのときのステラは少しもわかっていなかった。

 ステラはもう、最愛の兄を喪ったレオンハルトの哀しみに寄り添うことも傍で支えることもできない。

 それを選んだのは他でもない自分自身だったのに。


 願わくば、彼の騎士が正しく彼を守れるように。

 ステラにできるのは、そう祈ることだけだ。



 ―――貴方がいれば、何か変わったかもしれないのに……ッ



 そんな風に責められて、ジャンはどんな気持ちだっただろう。

 きっと、理不尽だと思ったはずだ。言ったステラも、何の八つ当たりかと思ったくらいなのだから。

 ジャンがいてもいなくてもあれは起こるべくして起こった――避けられない悲劇だった。


 四年前の嵐の夜。

 第六皇妃暗殺未遂事件の裏で起こったもう一つの事件。

 実行犯の皇妃付侍女が確保され皇妃の無事が確認され他の後宮侍女の聴取が終わり、それでも「後宮」内の混乱は収まらぬなか、ステラはレオンハルト付の近衛騎士であるグレイスターに呼ばれた。

 主の前でもめったに表情を変えず、若い侍女たちの間では「クールで素敵」と密かに人気を博しているグレイスターは、苦悶の表情を浮かべながらステラにある頼み事をしてきた。


 レオンハルトと皇妃の密通の痕跡を消してほしい、と。


 一体何を言っているのかわからなかった。

 混乱のまま連れて行かれた皇妃の部屋の中を見ても、やはり理解できなかった。

 ただシーツの波の中で死んだように眠っていた皇妃の神々しいまでの美しさだけは、今もまだ覚えている。


 部屋の中で座り込んだレオンハルトによって途切れ途切れに語られた話を聞いてようやく理解が追いついた。

 そして同時に言いようのない後悔に襲われた。


 レオンハルトが幼い頃、異国から来た美しい少女に対して特別な感情を抱いていたことには気付いていた。

 興味、羨望、嫉妬、同一視。あらゆる感情の一番奥にあったのは彼女への恋心だった。

 けれどその恋は決して叶うことはなかった。

 叶うことなどあってはならなかった。

 幼い皇子の初恋は、暴かれることなくひっそりと消えていくしかなかったのだ。


 可哀想にと同情しながらも、仕方のないことだとも思った。

 あらゆる特権を与えられる代わりに、恋すら自由にできない。それが皇家に生まれた者の宿命だ。

 恋のためにすべてをなげうつには、背負ってきた時間が長すぎる。

 とはいえ高貴な身の上だろうと庶民だろうと、往々にして初恋とは叶わないもの。幼さが見せた幻想だ。

 世界が広がり新しい出逢いがあれば、レオンハルトも彼女のことなど忘れてしまうだろう、と楽観視していた。


 それが間違いだったのだ。


 孤独な人間の執着を、甘く見ていた。

 初恋の君が皇妃となっても、レオンハルト自身が婚約者を迎えても、彼の想いは変わらなかった。

 ただ隠すのが上手くなっただけ。

 誰にも気付かれないようゆっくりと根を張った感情は、嵐の夜に決壊した。


 気を失った皇妃の身を清めたときに目にした白い肌には、いたるところに紅い痕が刻まれていた。

 行為が合意だったのかどうかはわからないけれど、その数多の花弁がレオンハルトの狂気を表しているようだった。

 ―――いつから狂い始めたのか。どこからやり直せばいいのか、ステラにはわからなかった。

 ただもう、レオンハルトの傍にはいられないと悟った。


 主の非道な所業に失望したせいではない。

 皇族個人に忠誠を誓うことのできる騎士とは違い、侍女の雇用主は皇帝だ。

 万が一、二人の間にあったことを皇帝に勘付かれた場合、ステラはグレイスターとは違って口を噤むことはできない。

 レオンハルトの犯した罪を詳らかにしなくてはいけない。


 真実を知ってしまったステラに選択肢など無かった。

 「隠蔽」に加担しなければレオンハルトの身が危ない。

 加担すればステラのせいでレオンハルトの身が危険にさらされるかもしれない。

 どちらを選んでも破滅しかないのだ。


 こんなことに巻き込んだグレイスターを恨みに思う一方で、こんなことを自分以外の誰にも任せたくないとも思った。

 レオンハルトを守れるのは自分だけだという、妙な使命感にとりつかれていたのかもしれない。


 昔、「後宮」で働いていた頃、訊かれたことがある。

 幼い主に仕えることで自分の時間を、女としての幸せを消耗していくことに不満は無いのか、と。

 結婚し、子を産み育て家を守ることこそが貴族女性の幸せとされている社会の中で、自分の生き方が異端だという自覚はあった。

 よりよい結婚相手を探ために自分を磨き他者を蹴落とす少女たちを愚かだとは思わない。

 ただステラにとっての一番の幸せは、レオンハルトに尽くすことだった。

 そうすることで、ステラもまた救われていたのだ。


 無条件にステラを信じ、甘えてくるレオンハルトのことが愛おしかった。

 ステラの姿が見えないと泣きながら探されることが嬉しかった。

 この子はステラがいないと生きていけない。

 そんな錯覚さえ抱かせるほどのレオンハルトの執着が心地よかった。


 そうして気付いた。

 自分は誰かに必要されたかったのだと。

 ソフィアのことをどうしても嫌いになれなかったのも、リカルドのことがあんなにもすきだったのも、彼らがステラを求めてくれたからだ。

 きっとステラは求められることに弱い。

 必要とされることでしか自分に価値を見出せない。


 だから今、ここにいるのだ。



 馬車が停まり、しばらくして御者が扉を開ける。

 予定よりも随分帰宅が遅くなってしまったが、今日も夫の帰りは遅いのだろうか。

 先に眠っていて構わないよと言ってくれるけれど、ステラは毎晩夫が帰ってくるまで起きて待っている。

 夫が食事をとるのを傍で見守って、風呂上がりの夫のために寝酒のブランデーを用意して、明日は何時頃に帰るのかと訊くとわからないから先に休んでいてかまわないよと答えを返され、二人並んでベッドに入り、そうして独り眠りにつく。

 それがステラの日常だ。


「……奥様」


 先に降りたレティシャに呼ばれ、ステラはハッと我に返る。

 早く降りろと急かされているのかと思った。けれどエスコートの手は差し伸べられない。


「どうかした?レティシャ」

「旦那様が……お帰りになられているようです」


 顔を強張らせたレティシャの言葉に、ステラは息を呑む。

 ここ数週間、夫がこの時間に家にいることはなかった。

 だが同じく城仕えのアレックスも一旦は帰宅したのだ。夫も帰っていてもおかしくはない。

 ミーリック邸に迎えに来た馬車がいつもと違っていたのも、夫を城まで迎えに行っていたためだろう。


 大丈夫よ、とレティシャの肩に触れ、ステラは馬車を降りる。

 屋敷の中に入ると執事が待ち構えていた。いったいつから待っていたのだろう。

 気の毒に思う気持ちと申し訳ない気持ちが綯い交ぜになる。


「おかえりなさいませ、奥様」

「……ただ今戻りました」

「旦那様がお待ちです。お部屋へ、と」

「……わかりました」


 執事に促されるままステラは夫の部屋へと向かう。

 すれ違うメイドたちの視線に棘があるように感じるのは、きっときのせい。

 ステラにうしろめたいところがあるせいで、そう感じてしまうだけだ。

 形ばかりの女主人にも使用人たちはきちんと敬意を払い頭を下げてくれていて、ステラに目もくれないのだから。


「失礼致します、旦那様。奥様のお帰りです」


 執事の手によって開けられた扉の奥、部屋の中で待っていたのは蜂蜜色の髪に碧の瞳をした壮年の男。

 クリスタルのチェス駒をもてあそぶ姿は若々しく、とても五十を越えているようには見えない。

 彼はよく自らのことを「老体」と卑下するが、おそらくは大臣職の退任を申し出ても受理されないだろう。

 誠実で実直な人柄の夫は、皇帝からの信頼も厚い。


「お帰り、ステラ」


 ステラの姿を見て、アロイスは微笑む。

 碧の瞳が細められ、薄い唇が孤を描く。

 ただそれだけのことで、ステラはいつも泣きたくなる。


「……ただ今戻りました、旦那様」

「姉君のところへ行っていたんだろう?御加減はいかがだったかい?」

「健やかそうにしておりました。お胎の子も順調だと」

「それはよかった。けれど随分帰りが遅かったね」

「……ごめんなさい。途中で具合が悪くなって休憩していたの」

「アトリー卿の屋敷でかい?」


 間髪入れずの問いに、ステラは目を見開く。

 どうしてそのことを知っているのか。レティシャや御者を問い詰める時間など無かったはずだ。

 考えられるとしたら。


「……尾行けていたの……?」

「おいで、ステラ」


 ステラの問いには答えず、アロイスは優しく呼ぶ。


 妻の嘘を暴きながら、彼の声に責めるような響きは無い。どこまでも甘く優しい。

 それなのに抗うことはできず、ステラは夫の元に歩み寄る。


 ステラの手をとったアロイスは今まで自分が座っていた椅子にステラを座らせ、自らはその場に跪く。

 慣れた手つきでステラの手袋を外し、頬に寄せる。

 ステラの素肌に触れることができるのは、この男だけだ。


「……嘘をついてごめんなさい。余計な心配をかけたくなかったの」

「『心配』?」

「彼の家に行ったのは今日が初めてよ。会うのは……八年ぶり。昔の話をしたかっただけ。それだけよ。話をしたらすぐに帰ったわ」


 自分はこんなにも饒舌だっただろうか。

 すらすらと出てくる台詞はどれも言い訳めいている。

 何かあったわけではないが、何もなかったわけでもない。

 そんな後ろめたさがステラを早口にする。


「……謝るのは私の方だ、ステラ」

「え……?」


 まさか最近帰りが遅いのは、仕事にかこつけてどこぞに女を囲っているのか。

 夫に限って、まさか、そんな。

 自分のことは棚に上げて動揺するステラに、けれどアロイスの口から出てきたのは、まったく見当はずれの話だった。


「君はまだ若く美しい。こんな老いぼれの相手で君の時間を奪っていること、申し訳なく思っているよ」

「……旦那様……?」

「けれど私には君が必要なんだ。誰にも渡したくない。……たとえ君の心が私になくとも」

「……ッ」


 愛の言葉が、ステラを苛む。

 愛されているはずなのに、どうしようもなく、哀しくて淋しい。



 ステラがのちに夫となるアロイス=ランドール侯爵に初めて会ったのは、城仕えを辞める少し前だった。

 何かの用事で珍しく「宮廷」の廊下を歩いていたとき、声をかけられた。

 特別印象に残るような話はしなかった。

 窓から見えるキンモクセイが綺麗だとか、今日は天気がよくて気持ちいいとか、そんな話。

 それなのに、その日のうちに「後宮」に戻ったステラの元に求婚の文が届いた。


 出逢ったその日に求婚するなど異例だし、普通貴族同士の婚姻は家を通すものだ。

 いくらステラが成人して久しく女としては薹が立ちすぎているとはいえ、異例を通り越して非常識だ。

 どうせからかわれているに違いない。そんな人には見えなかったのに。


 小さな失望を覚えながらも届いた手紙を捨てられずにいると、翌日、義兄のアレックスに呼び出された。

 「宮廷」のサロンで面会という職権濫用も甚だしいが、相変わらず麗しい義兄から告げられたのは、ランドール侯爵家の当主から婚姻の申し入れがきている、という話だった。

 どうやらアロイスはステラに手紙を送ると同時にミーリック侯爵家にも正式に申し入れをしていたらしい。

 からかわれているわけではないとわかったものの、むしろ余計に困惑した。


 話を持って来たものの、ランドール侯爵家の令息ではなく当主(・・)からの求婚に、アレックスは難色を示していた。

 相手はステラより二十も年上で、初婚ではない。

 離縁ではなく死別だと言うが、前妻との間に生まれた長男はステラと三つしか変わらない。変わらないというか、むしろ向こうの方が年上だ。

 アロイスにはもう一人息子がいて次男の方はステラの一つ下で独身なのだから、そちらの方がまだ釣り合いが取れる。いくら適齢期を過ぎているからと言って、初婚のステラにとってはあまりに酷だ。

 ステラを傷付けないよう言葉を選びながらそのようなことをアレックスは言っていた。


 ミーリック侯爵家当主であるアレックスが難色を示したその婚姻が実現したのは、ステラが受け入れたからだ。

 アロイスからの求婚に返事を返す前、一度ランドール侯爵邸に招かれた。

 判断材料が乏しいなか性急に答えを求めることはフェアではないから、という説明に、出逢ってすぐに求婚してきたくせに誠実な人なのだと思った。

 誠実すぎる人なのだと、思った。


 通された二人きりの客間でアロイスは、ステラに求婚した理由を教えてくれた。

 亡くなった妻に似ている。

 それだけで、彼の息子たちや屋敷の使用人がステラのことをまるで幽霊を見たかのような表情をした理由がわかった。


 亡き妻のことを愛していた。今もまだ愛している。貴女と初めて会ったとき、妻が戻ってきたのかと思った。酷いことを言っているとわかっている。それでも妻によく似た貴女が他の誰かのものになるなんて耐えられない。決して不自由はさせないし、侯爵夫人としての役割も妻としての役目も求めない。後宮侍女を続けたいならそれでもかまわない。貴女の願いは何でも叶えるし、大切にする。だからどうか傍にいてほしい。


 懇願のような求愛にステラが頷いたのは、ステラが必要だ、ステラでなければだめだという言葉が心地よかったから。

 たとえそれが「亡き妻の代わり」だとしても、必要とされていることに安堵した。


 ステラの退職に同僚たちは酷く驚いていたが、実は結婚するのだと言うとすんなり納得された。

 本当は順番が逆、退職を決めたあとに結婚が決まったのだが、彼女たちにとっては些細なことだろう。

 引継ぎの間、一番骨が折れたのはメリエルの説得だ。

 辞めないでほしい。せめて式には呼んでほしい。そう言って盛大に駄々を捏ねた。

 揚げ句の果てに「殿下だってステラ様の花嫁姿見たいですよね!」とレオンハルトまで巻き込もうとしていた。

 結局レオンハルトと二人がかりで説得して何とか聞き入れてくれたが、レオンハルトが「私だって我慢してるんだからお前も我慢しろ!」と久しぶりの癇癪を起こしたのは驚いた。


 きっとレオンハルトは、ちゃんとわかっていた。

 ステラが城を去る本当の理由。

 グレイスターがレオンハルトの傍にいるのもステラがレオンハルトの傍から離れるのも、同じ理由だということ。

 他の誰が何を言っても、レオンハルトさえわかってくれればそれでよかった。



『こんなことを言う資格はないとわかっているけれど、それでも、ステラの幸せを祈っているよ……』



 城を去る前夜、そう言われた。

 ステラを抱きしめる腕はすっかり少年のものだったけれど、震えていた。

 抱きしめられているのに縋り付かれているようで、愛しくてたまらなかった。


 今までもこれからも、誰にも言えない秘密がある。ステラがレオンハルトを主と定めた最初の理由。

 母を知らず、父にも愛されなかった孤独の皇子。

 彼のことが不憫で、可哀想で、両親に愛されなかった自分の姿に重なった。

 憐れな皇子を慈しむことで幼い日の自分の孤独を埋められるような気がしていたのだ。

 そんな身勝手なステラを信じ慕ってくれたレオンハルトのために、ステラは主の傍を去る。


 城仕えを辞した三ヶ月後、アロイスとの婚姻が成立し、ささやかな式を挙げた。

 アロイスが二度目ということで、身内だけの慎ましやかなものだった。

 アロイスは気にしなくていい、もっと盛大にしてかまわないと言ってくれたけれど、豪華な式を挙げたくて彼と結婚するわけではないのだから不満など無かった。

 相変わらずソフィアはステラが可哀想だと嘆きジェシカは何だかぷりぷり腹を立てていたけれど、ステラはステラの役目を果たすだけだ。


 二人で過ごす初めての夜、夫婦の寝室でステラの手を包みながらアロイスは言った。


 こんな私の元に嫁いでくれてありがとう。大切にするよ。


 その言葉通り、アロイスはその夜ステラの身体を暴くことはなかった。

 その夜だけでなく、今日までもずっと。


 結婚して何年経とうと、子どもなどできるはずないのだ。

 愛していると告げるその唇がステラに触れることはない。

 慈しむように触れる手に愛でられることも。



「……どうしてそんなことを言うの」

「……」

「わたくしは、あなたの妻です。身も心も、あなただけのものです」


 最初は、誰でもよかった。

 ステラのことを必要としてくれるのなら、レオンハルトの元を去る喪失感を埋めてくれるのなら。


 けれど穏やかで誠実な人柄のアロイスの傍は存外心地よかった。

 ステラの話に頷き、微笑んでくれた。ステラの知らない話を聞かせてくれた。

 たくさん話をして、一緒に食事をして、たまに二人で出かけて、夜は並んで眠る。

 穏やかで温かな日々がアロイスの傍にはあった。


 彼はステラに亡き妻の面影を重ねていたようだけれど、妻と言うよりはむしろ娘に接するように慈しんでくれた。

 ステラもまた、満たされなかった幼少期の孤独を埋めるように、子が父を慕うようにアロイスに心を寄せていった。


 けれど次第にそれだけでは足りなくなっていった。


「……ありがとう、ステラ」

「旦那様……ッ」


 微笑むアロイスは、ステラのことばを少しも信じていない。

 こんなにも愛しているのに、その愛は届かない。

 これが今まで嘘ばかり重ねてきた報いだろうか。


「君が傍にいてくれて本当に幸せだ。……愛しているよ」


 夫の頬に触れた手が冷たくて凍えそうだ。

 この世界にこんなにもかなしい嘘があるなんて、知らなかった。



 ステラ視点の番外編「或る侍女頭の内証」終了です。

愛されたいと願いながらも愛情を信じられない孤独な女性のお話でした。

 いやぁ長かった…。結構端折ったつもりですが、これ番外編の分量じゃない…。

登場当初はただの侍女頭だったはずのステラですが、設定盛りすぎですね…。


次回はセシル視点の番外編を予定してます。

アデルとローズマリーの描写が多いので、今までよりは糖度高めになる……はず……たぶん……。


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