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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 或る侍女頭の内証
76/114

E.C.1008.09-1


 母が死んだのは、ステラが六つのときだった。


 元々は男爵家の生まれだった母は、本来ならば侯爵家に嫁げるような身分ではなかったが、彼女を一目で気に入った父が強引に進めた結婚だったらしい。

 それほどまでに母は美しい人だった。顔立ちはステラとよく似ていたが、ステラには無い華があった。

 そして何より彼女はアース・アイと呼ばれる珍しい瞳の持ち主でもあった。

 榛色の中に咲く、美しい向日葵。

 父はその美しさに魅入られていて、その瞳が娘たちの誰にも受け継がれなかったことに、酷く落胆したのだという。


 下位貴族の家に生まれ、あまり裕福ではなかった幼少期を送っていたであろう母は、その反動からか贅沢を好んだ。

 華やかな流行のドレスを何着も仕立て、しょっちゅう夜会へと出かけていた。

 父はそんな妻の贅沢を咎めようとしなかった。

 服も宝石も望むままに買い与え、美しく着飾る妻を見せびらかすことが好きだった。


 今思えば、母も父にとって蒐集品(コレクション)の一つでしかなかったのだろう。

 だから美しい妻を愛でるだけで、慈しもうとはしなかった。

 そしてステラには、母も自分にしか興味無いように見えていた。


 そんな仲睦まじい夫婦とは言えなかった二人が、こうして隣同士の墓で眠っている。

 どんな気分なのだろうかと思っても、死者に尋ねることなどもう、永遠に叶わない。


「……ジョージ従伯父(おじ)様」


 両親の墓の前に立っている男に声をかける。


 数年ぶりに会う従伯父の顔は、やはりどことなく父に似ていた。

 横顔を見てそう思ったのは、ステラが父の顔を正面から見たことがあまりなかったせいだろうか。

 優しかったはずの父はいつもステラではない他の何かを見ていて、家族にあまり関心を向けなかった。


「皆様、そろそろ屋敷に戻るようです。簡単ですが昼食をご用意しておりますので、従伯父様もどうぞ」

「……あぁ」


 頷くも、ジョージは動こうとしない。

 ステラの母、エライザが眠る墓の前から。


 数日前、ステラの父である前ミーリック侯爵のリディアンが息を引きとった。

 ソフィアの結婚を機に婿のアレックスに家督を譲った父はそのまま領地に引っ込み、少し早い余生を送っていた。

 何も無い田舎は、きっと彼には退屈だったことだろう。

 ここには華やかな社交場も美しい芸術品も何も無い。刺激の無い日々に、父は次第に心を病んでいった。

 ふさぎ込むことが増え、怒りっぽくなって周囲に当たり散らしたり、理不尽に怒鳴るようになった。

 そうかと思うと妙に機嫌がいい日もあった。

 元々が穏やかな人だった分周囲も戸惑い、扱いに困っていたのだという。

 外見も一気に老け込み、物忘れもひどくなり、眠れない日も増えた。

 一度帝都にある本邸に戻った方がいいのではないかという話が出た矢先のことだった。

 睡眠薬の過剰摂取による事故死の報せが娘たちの元に届いた。

 或いは自殺だったのかもしれない。けれど真相は闇の中だ。


 父の訃報を聞いてステラたちは領地に向かい、身内だけの葬儀をひっそりと済ませた。

 隠居後社交界から遠ざかり、それ以前から借金を抱え醜聞にまみれていた父にはもう、友人と呼べるような付き合いのある人間はほとんどいなかった。

 アレックスの実家、ランチェスター公爵家とのつながり目当ての人間を断ると、弔問客は数えるほどしか来なかった。

 親族も、父の両親は既に他界しているし、兄弟もいない。

 代表として父の従兄であるジョージがやって来た。ジョージの父である大叔父もまた、ここ数年は足を悪くしていて遠出が難しいのだという。


 ミーリック侯爵家の実権は既にアレックスに移っていたため、万事彼が取り仕切った。

 父が当主だった頃は大叔父がことあるごとに口を出してきていたが、ソフィアが迎えた婿はことのほか優秀だった。

 傾きかけた家を数年で立て直した若き侯爵の手腕に文句をつける者はいない。

 葬儀も様々な手続きも、彼の差配は完璧だった。


 葬儀が終わると屋敷まで戻る馬車を待つ間、弔問客たちは墓地の入り口に集まって世間話を始めたが、ジョージはその輪の中に入ろうとしなかった。一人墓の前に戻り、何をするでもなく立ち尽していた。

 けれどよく見ると、ジョージが立っていたのはリディアンの墓の前ではなかった。

 彼の眼前にあるのは、十五年前にこの世を去ったリディアンの妻、エライザの墓の前だ。


「雨も降りそうですし、戻りましょう、従伯父様」

「……そうだな」


 二度目の催促でようやくジョージは頷きステラの方に向き直る。


 見てはいけないものを見てしまったような気がして、ぎくりとした。

 ジョージが泣いているように見えたからだ。


「すまない、ステラ」

「え?あ……いえ、あの……」


 何についての謝罪なのかわからず口ごもる。

 もしかしたら深い意味など無かったのかもしれない。単なる場繋ぎ。

 そんなことにも思い至らないほど、なぜか酷く動揺していた。

 ステラの動揺を見透かしたのか、ジョージは少し、困ったように微笑んだ。


 ―――初めて見た。

 七年前に会ったときも、幼い頃に見かけたときも、ジョージはいつも怒ったような表情をしていた。


 そう。

 母といるときのジョージはいつも怖い顔をしていた。

 怒鳴ることこそしなかったが、疎ましそうに顔を背ける母に何かを説き伏せていた。

 母もまた、ジョージといるときはいつも不機嫌だった。

 ヒステリックに声を荒らげたり、泣いている姿を見たこともある。


 そういうとき、ジョージは黙ってエライザの癇癪を受け止めていた。

 怒鳴られても詰られても、黙ってそれを受け入れ、そして最後にはエライザを抱きしめた―――。


「……ッ」


 ふいに脳裏によみがえった光景に、息を呑む。


 どうして忘れていたのだろう。


 幼い頃、確かに見た。

 ジョージがエライザを抱きしめていたところ。


 あの頃は疑問に思わなかったが、そもそも(リディアン)の不在時に夫の従兄(ジョージ)(エライザ)を訪ねてくること自体不自然なのだ。

 そして思えばエライザが亡くなった途端、ジョージの足は遠のいた。


 それが何を意味するのか。二人はリディアンのいないところでいったい何をしていたのか。


 恐ろしい考えが、頭を過ぎった。

 同時に恐ろしい期待が生まれた。


「……まだ『後宮』で働いているらしいな」

「え?あ……、はい……。第二皇子殿下にお仕えしております」


 来月からは侍女頭に就任する予定だ。現侍女頭のハンナは高齢を理由に引退する。

 おそらくはレオンハルトの帝位継承権授与のタイミングでの人員整理だろう。彼女は「後宮」に長く居過ぎた。


「……お前は……私を恨んでいるだろうな」

「え……」

「無理やりアカデミーを辞めさせ、年端もいかない幼いお前を『後宮』に放り込んだ。本当ならそんな苦労せずとも侯爵令嬢として何不自由なく暮らせたはずなのに……」

「従伯父様……?」


 強い風がジョージの髪を揺らす。

 父の従兄であるジョージの髪は、ステラとよく似た色をしていた。

 祖父の代から仕えていた家令は、父とも母とも違うステラの髪の色は、母方の家系の先祖返りだろうと言っていた。

 男爵家である母の家には、平民の血も混じっていたらしい。褐色も灰色も、平民に多い色だ。


 けれど家令がどうしてそんなことを知っていたのか。代々ミーリック侯爵家に仕えていた彼が、エライザの生家に詳しいなんておかしくはないだろうか。

 わざわざそんな話を引き合いに出さずとも、こんなに近くに同じ色の人間がいるのに。


「……すまない、ステラ……」


 ステラの思考を遮ったのは、血の滲むような声だった。


 その場に膝をついたジョージに眼を剥く。

 淑女に愛を乞う以外に、紳士が跪くことなどあってはならない。


「や……やめてください、従伯父様。どうされたんですか急に」


 ステラを「後宮」に上がらせたことを、ジョージがそんなにも気に病んでいるとは思わなかった。


 あの日ジョージと父の間でどんな話が交わされたのか。

 ジョージの意図はいまだにわからないけれど、この件に関しては少しも気にしていない。

 むしろ感謝すらしているほどだ。跪いて謝る必要などない。

 やめさせようとしゃがみこんだステラは、けれど続く言葉に息を呑む。


「だがもしも言い訳が許されるのなら……お前を守るためだったんだ……」

「え……?」

「あのままお前をミーリックの家に置いていたら、あいつはお前を金のためにろくでもない男の元に嫁がせようとしただろう。実際あの頃、ネイサン伯爵から援助を条件にお前との縁談の話があった。当時の奥方との離縁が成立しお前が成人すれば後妻に迎えたい。それまでは花嫁修業を兼ねて別邸に住まわせたいと。そんなばかな話、到底受け入れられるはずがない。だがあいつは……」

「そんな……」


 ネイサン伯爵と言えば、ステラより四十近くも年上だ。

 今までに三度離縁しており、確か現在の夫人は四人目だったはずだ。また妻の他にも愛人も何人かいるという噂もある。

 金はあるが品は無く、若い娘が大好きで、屋敷のメイドはもちろん気に入れば宮廷侍女にも平気で手を付けるスケベジジイ、と以前モニカが毒づいていた。

 そんな男にステラを嫁がせようと――売ろうとしていたというのか。


「だからお前をあいつの手の届かないところに逃がそうとした。さすがに伯爵も、城の中までは手が出せない。家の恥ではあるが、第三者の目があればある程度の抑止力にはなる。

 父上を動かして、とりあえず借金についての体裁は整えた。だが放っておいたらあいつはまた同じことを繰り返す。早く隠居させ、大人しくさせる必要があった。だから侯爵……アレックス殿をソフィアに宛がった。

 すべてその場しのぎでしかなかったが、何かせずにはいられなかった。……あいつの……リディのせいでお前が不幸になるなんて耐えられなかったんだ……」


 ジョージの口から語られる真実は、ステラにとっては到底受け入れられるものではなかった。

 自分のためにジョージがそこまで奔走してくれたことに対する感謝よりも、父に売られそうになっていたことに対する衝撃の方が大きい。

 もちろん侯爵家に生まれたからにはある程度の政略結婚、人身御供となることは覚悟していたつもりだ。

 けれど父が自分の蒐集品(コレクション)よりもステラを手放すことを選んだなんて―――信じたくない。


「……もしもそのときわたくしがお父様の思惑通りネイサン伯爵の元へ行っていれば、お父様はわたくしのことを愛してくださったんでしょうか」

「何……?」


 ステラの問いに、ジョージが顔を上げる。


「それとも、それほどまでに愛してもらえなかったのは、わたくしがお父様の本当の娘ではないからですか?」

「な……」


 ずっと不思議だった。

 どうして父がステラばかりを優先するのか。ソフィアの味方ばかりして、ステラの話を聞いてくれないのか。ステラのことを少しも見てくれないのか。

 その理由が、ステラが父の娘でないからだとしたら。そのことを、父も知っていたのだとしたら。


 そんな疑念を抱くようになったのは、いつの頃からだっただろう。

 父に少しも似ていない。家令や親類の大人がそのことをひどく気にしている。「後宮」にいるステラに、父は一度も手紙すらくれなかった。ソフィアの結婚後領地に移るときも、連絡一つくれなかった。

 そんな小さな積み重ねが、ステラの中の疑惑を育てていった。

 否、こんなの、疑惑なんて大層なものですらない。

 ただの妄想、現実逃避。本気で思っていたわけではない。


 どうして自分ばかり、と悩んだ時期もあったけれどその実、父と同じ緑の瞳をしたジェシカの扱いも、ステラとあまり変わらなかった。

 父が特別ソフィアを可愛がっているように思えたのは、ソフィアが上手く立ち回っていただけだ。

 末妹に「頭の中がお花畑」と評されていたソフィアだが、愛されることに関しては驚くほど頭の回転が速い。

 夫であるアレックス相手だとあまり発揮されていないようだが、自分が悪者にならないように、相手が思い通りに動くように仕向けることに長けていた。

 そのことに気付いたとき、同時に自分の中の欲求にも気付いた。


 ステラは、理由が欲しかったのだと。父に愛されない理由。母に愛されない理由。

 両親に愛してもらえないのは、自分ではどうにもならない特別な事情があるからだと思いたかったのだ。

 自分の中の虚無感を埋めるために、母の名誉を踏みにじろうとした。

 否、している(・・・・)


「わたくしの本当のお父様は、従伯父様ではないのですか……?」


 根拠の無い、馬鹿げた考えだ。

 けれど疑いは抱くことよりも晴らす方がよほど難しい。


 潔白であれば侮辱にさえ相当する質問に、ジョージは怒らなかった。

 見開かれた緑の瞳には驚愕の他に動揺が見え隠れしている。

 狼狽するジョージを見て確信する。この人は何か、うしろろめたいことがあるのだと。


 とうの昔に捨てたはずの妄想が蘇る。


 けれど現実は、いつだって残酷だ。


「何を馬鹿なことを……」

「本当のことを教えてください、従伯父様。従伯父様がそれほどまでにわたくしのことを考えてくださるのは、従伯父様が……」

「違う!」

「―――ッ。でも……っ見たんです、昔……従伯父様が、お母様と抱き合って(・・・・・)いたところ……」


 咄嗟についた小さな嘘で、ジョージの顔が驚愕に染まる。

 違う。

 そんな顔をさせたかったわけじゃない。

 ステラはただ、肯定の言葉が欲しかっただけ。

 愛されたかっただけ。


「……私は、お前の母の主治医だった」

「え……?」

「よく屋敷に出入りしていたのはそのためだ。けれど彼女は、私の処方していた薬を飲もうとしなかった。効力が強い分、副作用も酷くてね……。髪が抜けたり目が窪んだりすることを、彼女は嫌がった。美しさを失うくらいならば死んだ方がマシだと」

「そんな……」


 何も知らなかった。

 侯爵家に連なる従伯父が医師であることも、母が病を患っていたことも。


 二人が言い争っていたのは治療の方針についてで、母の死後ジョージが姿を見せなくなったのは患者がいなくなったから。

 ジョージの説明に矛盾は無い。

 ステラが何も知らなかっただけだ。


「リディは……お前たちの父親は、最低な男だった。美しいものにしか興味はなく、妻も娘も奴にとっては単なるコレクションでしかなかった。

 ……だがエライザは、そんな男のことを愛していた」


 初めて他人の口から聞かされる、父と母の話。父本人にさえ、母の話を強請ったことはない。

 幼い頃は時折ソフィアが母の話をしてくれたが、彼女の話はいかにステラよりも自分の方が母に愛されていたのかというものだった。


 空の雲が分厚さを増してきた。

 影が濃くなり、ジョージの顔はよく見えない。

 ジョージがどんな眸でステラを見ているのか、どんな表情で従弟夫婦の話をしているのか、ステラにはわからない。


 ただステラと同じ濃い灰色の髪をしたジョージは、きっとリディアンのことが嫌いだったのだろうということだけはわかった。


「プライドの高い女だったから、自分を愛してない男のことを愛しているだなんて認めたくなかったんだろう。それでも彼女は、リディの……お前たちの父のことしか見ていなかったよ」


 だから彼女は薬を拒んだ。夫に愛でられた美しい姿のまま死にたいと。

 彼女は最期まで「女」だった。


 そんなエライザを、ジョージは一番傍で見ていた。

 医師としては到底聞き入れられない彼女の最後の願いをジョージが叶えたのは。


「……従伯父様は……お母様のことを愛してらしたんですか……?」


 先程ジョージは、「抱き合っていた」ことについては否定も弁明もしなかった。

 そこに彼の本音がある気がした。

 それにまだ、ステラのことをここまで案じる理由を聞いていない。



 ―――エライザによく似てきたな



 母の死後初めて顔を合わせたとき、ジョージはそう言った。

 あのときのステラを見るジョージの目は、かつての患者の娘を見る目でも、久しぶりに会う従姪を見る目でもなかった。

 彼はあのとき、ステラの中にエライザの面影を探していたのだ。


「……すまない……」


 消え入りそうな声だった。

 謝罪こそが、肯定だった。


 母親に恋慕する男に対し、嫌悪感は抱かなかった。

 ただは母この人に愛されていたのか、と思った。

 父は母に愛されていたし、エライザはジョージに愛されていた。

 そのことを狡いと思う自分が、浅ましい生き物に思えてならなかった。


「だが私たちの間には誓って何も無かった。彼女はリディを裏切るような真似はしていない。……彼女は決して私を受け入れることはなかったし、私も、彼女の傍にいられればそれだけで……」


 許しを乞うように再び項垂れたジョージの愛がいつ生まれたものなのかはわからない。

 エライザが病を患ってからなのか、もっとずっと前なのか。


 もしかしたら、ジョージと同じ髪の色をしたステラが生まれたことで、周囲から疑惑の眼差しを向けられたこともあるかもしれない。

 家令が母方の遺伝だと強調していたのも、二人の仲がただならぬ仲に見えていたからなのかもしれない。


 それでもジョージはエライザの傍から離れようとしなかった。

 哀しむエライザに寄り添うことが、彼の愛だった。

 何て献身的で身勝手な愛だったのだろう。


 自分ではない男を愛している女を愛することは、一方的に叶うことのない愛を捧げることは、一体どんな心地だったのだろう。

 ジョージはどんな気持ちでエライザの傍にいたのだろう。

 自分の愛と献身を蔑ろにする相手に、憎しみが募ったりはしなかったのだろうか。

 手に入らないのなら、いっそ――と。


「……顔を上げてください、従伯父様」


 それを確かめることに、もう意味など無い。

 ジョージの秘密を暴いたところで、ステラが両親に愛されていなかった事実は変わらない。


 もう、疲れた。


 期待するのも、失望するのも。


「不躾なことをお尋ねして申し訳ありませんでした。従伯父様への無礼、どのような咎めもお受けいたします」

「いや……。私の方こそ本当にすまなかった……。娘のお前にする話ではなかったのに……」

「……従伯父様は、先程お尋ねになりましたね。自分のことを恨んでいるのか、と」

「……?あぁ……」

「恨みなどございません。『後宮』に上がらせていただいたこと、心から感謝しております」

「……?」


 唐突な話題の変換にジョージは顔を上げ、眉を寄せる。

 ここでステラが微笑みの一つでも見せればジョージは安心するのかもしれないが、いかんせん、やはり笑うことは苦手だ。

 努力ではどうにもならないことがある。


 ただそれは、本心からの言葉だった。

 「後宮」に上がらなければ、今も父や姉に支配されたままだっただろう。

 自分に価値を見出せず、自分を責めるだけの人生は、とても哀しいものだ。



 ―――わたくしだったら恥ずかしくて生きていけませんわ

 ―――貴女は、そんなにも私のことがお嫌いですか

 ―――酷いひとよ、あの方は



 冷たい人はいた。

 意地の悪い人も、利己的な人も、排他的な人も。

 つらいこと哀しいことは確かにあった。


 だからこそステラはつらいとか哀しいとか腹立たしいとか、そういう負の感情を抱いてもいいのだと知った。

 世界は美しいものばかりではない。けれど醜いものばかりでもない。

 清濁入り混じる混沌こそが日常なのだ。


 誰かを恋い慕うこと、愛すること、厭うこと、憎むこと。

 誰かのために心を動かすこと。

 「後宮」に上がらなければ知らなかった。「後宮」での出逢いが、ステラの世界を変えてくれた。


 そして何より。



 ―――わたくしたちは尊い御方にお仕えしているのです。

 ―――そのことを誇りに思い、矜持を保たねばなりません



「皇子殿下に御仕えできることが、わたくしの人生にとって最上の喜びであり誉なのです」


 いつしか彼のために尽くすことが生きがいになっていた。

 彼が笑っている世界を守りたいと思うようになった。


 美しく聡明で、可哀想な皇子のために。


「……さぁ、戻りましょう。従伯父様」


 ジョージは何も悪くないのだから。

 ただエライザを愛しただけ。


 愛したことが罪だというのなら、きっとジョージは十分罰を受けた。

 今も受けている。

 愛する人のいなくなった世界で一人生きていくことが。


「……お前の働きぶりは聞いているよ」

「え……?」

「第二皇子殿下はお前を気に入ってくださっているらしいな。姉のように慕ってくださっていると。ロマ夫人もお前を頼りにしている、お前になら侍女頭を任せられると」

「そんなこと……誰から……」

「ユーリ……ユリウス=ランチェスター小公爵は私の古い知り合いだ。お前を無理やり『後宮』にねじ込めたのもアレックス殿とソフィアの縁談がまとまったのも、あいつのおかげだ」

「……知りませんでした」

「お前を『後宮』に上げたのは一時的にリディの元から離すためだけのつもりだったからな。まさか侍女頭にまで出世するとは思わなかった」


 いったい誰に似たんだろうな、と困ったようにステラを見つめる瞳は、父と同じ色をしていた。


「……お前が生まれたとき、伯父上はたいそうお喜びになった」

「お爺様が……?」

「ソフィアも、乳母の目を盗んではお前を抱きたがり、周りを困らせたと聞いていた。ジェシカはどれほどぐずってもお前が子守歌を歌うと泣きやんだと」

「……?」

「お前は皆に愛されている」


 ジョージの言葉に、ステラはただ、目を見開く。

 だからそれで満足しろと言うのだ。

 たとえ両親に愛されていなくても。

 なんて酷い人なのだろうかと思った。


「……ありがとうございます、従伯父様」


 そして自分は、どこまでも嘘つきなのだと思った。



 ステラもまぁまぁ思い込み激しいです。口に出さないだけで。

そういうところはリディアン似です。誰も指摘しないけど。

 リディアンがステラにそっけなかったのは妻と従兄の不貞を疑っていたわけではなく、本当に興味無かったからです。

ソフィアのこともあまり興味ありませんでしたが、ソフィアの方からぐいぐいくるので面倒くさくて話を合わせてただけです。

人としても父としても夫としても最低な男でした。

 それでもリディアンはエライザにとっては貧しさから救ってくれた王子様でした。


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