E.C.1006.06-1
「とっても綺麗よ。おめでとう、ジェシカ」
「ありがとう、ステラ姉様」
「ジェシカがこうして無事にデビュタントを迎えられるのも、すべて侯爵様のおかげです。本当にありがとうございます」
「義兄として当然のことをしたまでだ。ステラのこともジェシカのことも、私は本当の妹のように思っている。だから君も、もう少し私たちに甘えてくれると嬉しい」
「……もったいないお言葉にございます」
表情をピクリとも動かさずアレックスは言う。
エメラルドよりも濃い緑の瞳からは感情が読み取れなくて、彼が何を考えているのか、本心なのか社交辞令なのかわからない。
迷ったあげく、ステラは無難な礼を返した。
義兄であるアレックスと顔を合わせるのはこれで三度目だが、彫刻のような人だと思う。
ほとんど表情を変えないという意味でも、浮世離れした美貌においても。
義兄に対して悪感情を抱いているわけではないが、果たしてこの男と姉は本当に意思疎通が図れているのだろうか。
噂ではミーリック侯爵家の若き当主は幼な妻に夢中だというが、実際にはどうなのか。
「もー、堅苦しいなぁ、兄上は。ステラ嬢、今のは『お義兄様』って呼んでほしいってことですよ」
「……ミゲル」
アレックスから漂う重苦しい雰囲気とは対照的に、軽薄という表現が相応しいほど明るい口調で口を開いたのは、ランチェスター公爵家の三男でありアレックスの実弟であるミゲル=ランチェスターだ。
ミゲルはアレックス同様父のギルベルト=ランチェスター公爵によく似た美丈夫だが、アレックスよりも中性的な雰囲気が漂う。
宮廷騎士団の第一小隊長を務める武官でありながら次兄よりも頭半分ほど小柄で、肩や首もやけに華奢だ。
またステラよりも十近く年上のはずだが、十代の少年と言っても通るほど若々しい。
一方で金色のまつげや形の良い唇は蠱惑的で、妙な色気を孕んでいる。
男装の麗人、と言われても違和感が無いほどだ。
しかしそのミステリアスな美貌に反し、よく喋るし口調もやけに軽い。
「もちろん兄上の義妹ということは私にとっても義妹と言っても過言ではないから、私のことも『ミゲル義兄様』と呼んでくれてかまいませんよ」
「過言だろう。二人とも、ミゲルの言うことは気にしなくていい。
ミゲル。妹をこじらすのもいい加減にしろ」
「えー?……酷いなぁ、兄上は」
麗しき兄弟が繰り広げるには随分くだらない小競り合いのような口喧嘩を聞きながら、「妹をこじらせる」とは一体どういうことなのかと思うも、ふと、アレックスにもミゲルにも正真正銘本物の妹がいたことに思い至る。
レオンハルトの生母である第二皇妃はランチェスター公爵家の末娘で、三人の兄は美しい妹を目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたのだという。
レオンハルト付の侍女頭のハンナは生前の第二皇妃の侍女頭も務めており、元々は第二皇妃が生家から連れてきたメイドだったらしい。
第二皇妃の幼い頃の話を何度もレオンハルトに語り聞かせていた。
その話の中にはランチェスター公爵家の御令息たちも出てきていた。
末妹を溺愛していた兄たちにとって、彼女の死によってもたらされた哀しみはいかばかりのものだっただろう。
「ジェシカ……本当にいいのか?デビュタントのエスコートの相手がミゲルだなんて……」
「そうは言っても兄上がジェシカ嬢のエスコートをされると義姉上がお一人になってしまいますよ。
あ、じゃぁ私が義姉上をエスコートしましょうか?」
「それこそ意味がわかりませんわ。
大丈夫です。宮廷騎士団のランチェスター卿にエスコートしていただけるなんて光栄の極みですわ。友人たちにも自慢できます」
にっこりと微笑んで返すジェシカは、あと数時間後にデビュタントを控えているとは思えないほど堂々としていて、緊張など微塵も感じられない。
相変わらず胆が据わった妹だ。
本来貴族令嬢のデビュタントのエスコートは父親や兄、デビュー済みの婚約者がいれば婚約者が務めるものなのだが、父のリディアンは領地におり、残りの二者は存在すらしないため、今回その役はミゲルに白羽の矢が立った。
義兄の実弟というあまり近くはない何とも複雑な間柄だが、「近親者」ではあるため問題はないだろう。
「後宮」勤めでめったに家に寄り付かないステラと違い、ミゲルはなぜか婿入りした兄の元を頻繁に訪ねているらしく、ジェシカとも親しいようだ。
貴公子ではなく騎士としての正装をしているのは、ジェシカの要望か、本人の意思か。
どちらにしろジェシカが嬉しそうならいいか、と考えるあたり、ステラも立派に「妹をこじらせている」のかもしれない。
「それよりステラは本当に出席しないの?ジェシカにとって一生に一度のデビュタントなのよ?ジェシカだって、ステラ姉様に見てほしいわよね?」
アレックスの瞳の色に合わせた深緑を基調としたドレスを纏ったソフィアが少女のような無邪気さで言う。
その「一生に一度のデビュタント」を経験していないステラに向かって随分と酷なことを言うものだ。
もちろんステラが今夜妹ジェシカの社交界デビューとなる夜会に出席しないのは、そのことを根に持っているからではなく、仕事の都合だった。
そのため事前にミーリック邸を訪れて、ジェシカのドレス姿を見に来たのだ。
花嫁以外にデビュタントを迎える少女だけに許された色である白のドレスを身に纏ったジェシカは、楚々としていて本当に愛らしい。
ファーストダンスを踊る妹を見られないのは残念だが、これだけでも十分だと思えるほどだ。
「ソフィア……。仕方ないだろう。ステラは後宮侍女なんだ。皇家主催の夜会にゲストとして出席するわけにはいかないんだよ」
「だって……。そもそもステラはいつまで侍女を続けるつもりなの?あなたもうすぐ十九よ?侍女なんてやめて、そろそろ結婚なさいな」
典型的な侯爵令嬢であるソフィアは、ステラが侍女として働いていることをあまりよく思っていない。
仕える相手が皇子だろうと皇族だろうと、労働は恥だと考えているのだ。
最近ではことあるごとに結婚するよう言ってくる。
もしかしたら姉は、ステラが社交界デビューもアカデミー卒業もしていないことを忘れてしまっているのかもしれない。
そんな風に考えてしまうのは、ステラがひねくれているせいだろうか。
「ねぇ、アレク。あなたの周りにステラに釣り合うお相手はいないの?この際少し年上でも構わないわ」
「……そうだな……」
「そう言えばステラ。貴女まだあの方……アトリー卿?だったかしら。彼とのおつき合いは続いているの?」
「は?」
ソフィアの口から出てきた思いがけない名前にぎょっと眼を剥く。
そう言えば、以前夜会で二人でいるところをソフィアに目撃され、逢引と誤解されていたのだった。
あれからその話題に触れられることはなかったため気にも留めていなかったが、まさかまだ勘違いが続いていたのか。
あまりのことに言葉を失っていると、やたら楽しそうにミゲルが口を挟む。
「えぇ!?ステラ嬢ってば、あのアトリー卿とおつき合いされてるんですかぁ?」
「ちが……」
「そうなんですのよ。わたくしたちの婚約発表にもふたりで出席していてね。秘密の逢瀬?みたいだったからお父様には報告しなかったんですけれど」
「どなたですか?アトリー卿って」
「ジェシカ、貴女まで……」
「第二皇子殿下の教育係で、大変麗しい御方と評判だよ。私ほどじゃないけれど」
「ランチェスター卿……」
「まぁ!そんな方がいらっしゃるのにソフィア姉様ってば他の方との縁談をステラ姉様に押し付けようとされてるの?」
「だから……」
口を挟む間もなく会話が進んでいき、ステラは冷や汗をかきそうだ。
ミゲルは完全に面白がっているが、興味津々のジェシカが信じたらどうしよう。
どうしてあのときしっかり否定しておかなかったのか。
思い込みの激しいソフィアの頭の中ではきっと、あることないこと物語が組み立てられていることだろう。
「そんな言い方しないで頂戴、ジェシカ。わたくしだって、ふたりが本気でおつき合いしているなら見守ろうと思っていたわよ。けれどどうせ真剣なおつき合いじゃないんでしょう。だってアトリー卿って、とーっても女性にだらしないんですって。カルヴァン夫人がおっしゃってたけれど、アカデミーを卒業する少し前にお兄様の婚約者に乱暴して勘当されたって話よ」
「……ッ」
「ソフィア」
「あら。社交界では有名な話よ」
息を呑むステラを一瞥したアレックスが、咎めるように妻の名を呼ぶ。未成年の妹に聞かせるような話ではない。
けれど咎められたソフィアは、不満げに唇を尖らせなおも続ける。
「まだご結婚されていないとはいえ兄君の婚約者に懸想してあまつさえ……なんて、まるで禽獣だわ。そうなってくると優秀ってお話も疑わしいわよね。本当に正規の手順で昇進なさったのかしら。『後宮』って女性ばかりなんでしょう?まさか―――」
「ソフィ……」
「やめてください……ッ」
聞くに堪えない「憶測」に、思わず声を荒らげる。
それ以上、聞きたくない。
「……わたくしとアトリー卿は、恋仲などではありません。あの夜のことはお姉様の誤解です。気分が悪くて外で涼んでいたところにたまたまアトリー卿がいらっしゃっただけです」
「あら。それならそうとどうしてすぐに言わないの」
「お姉様が話を聞いてくださらなかったんでしょう」
ステラの反論に、ソフィアは榛色の瞳を大きく見開いた。
思えばステラが姉に口答えするなどこれが生まれて初めてだった。
いつだってステラにとって姉の言うことは絶対だった。頷く以外の選択肢なんて、無かった。
「……でも恋仲ではありませんけれど、アトリー卿が優秀な方なのは本当です。教育係としても臣下としても、殿下によく尽くしておいでです。ですから先程の彼に対する侮辱は取り消してください」
何年も傍で見ていたのだからわかる。
ジャンがレオンハルトに向ける感情は、純粋な忠誠心だけではない。
ジャンは時折、ぞっとするほど冷たい瞳でレオンハルトを見ている。けれど別のときには、すがるような、慈しむような視線を向けているときもある。
そのどれもがジャンの本心なのだろう。
慈愛と厭悪、相反する感情を自らの内に抱えて、ジャンは誰よりも主に尽くしている。
女性に対し不誠実なところがあるのは否定できないが、レオンハルトに対する忠誠心だけは侮辱してほしくなかった。
それがジャンをかばいたいからなのか、間接的にレオンハルトのことを軽んじられたようで腹が立ったからなのかはわからないが。
姉妹の間に初めて流れる剣呑な雰囲気に、部屋の空気が張りつめる。
けれど。
「……酷いわ、ステラ」
「……」
「わたくしは本当に、ステラのことが心配だっただけなのに。どうしてそんな酷いこと言うの……?」
「……」
はらはらと涙を流して泣き崩れるソフィアを見下ろしながら、どうしてこの人が姉なのだろうかと思った。
もしも本当にステラが「可哀想」なのだとしたら、それはこの人の妹として生まれてきたことなのかもしれない。
そんなこと、思いたくないのに。
思ってはいけないのに。
「……ソフィア」
「アレク……ステラが酷いの……」
「先に失礼なことを言ったのは君の方だ」
泣き崩れる妻に優しい言葉をかけるのかと思ったら、アレックスは無表情のままそう言い放った。
「根も葉も無い噂を真に受けアトリー卿を侮辱したのは君だろう。ステラはそれがいけないことだと窘めただけだ。何も酷いことは言っていない」
「……アレクも……ステラの味方をするの……?」
「味方とか、そう言うことじゃないんだ、ソフィア」
愛する夫の裏切りに呆然としていたソフィアは我に返り、キッとアレックスを睨みつける。
義兄は姉に対し盲目なのかと思っていたが、予想外の展開に、ステラの方が驚いた。
もっとも、なぜか驚いているのはステラとソフィアだけで、ジェシカとミゲルはまた始まった……みたいな表情で顔を見合わせている。
「酷い……。酷いわ、アレク……」
「いや、酷くない」
「もういい!アレクの馬鹿!!」
「待ちなさい、ソフィア」
怒りの矛先がアレックスに向いたと思ったらソフィアは急に立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。
呼び止めるものの、アレックスも追いかけはしない。一体何なのだ、この状況。
「相変わらず、愉快な方ですねぇ、義姉上は」
「……見苦しいところを見せてすまない」
「見てて飽きないから面白いですけれど、夫婦のプレイもほどほどにしてくださいね」
「……そんなんじゃない」
「あの……?」
「いつものことよ、姉様。放っておけばそのうちケロッとして戻ってくるわ」
ステラだけがこの状況に戸惑っているらしく、ジェシカもこともなさげに言う。
「しかしステラ……。本当に、ソフィアが失礼なことを言って申し訳ない」
「あ……いいえ……そんな……」
「大丈夫ですよ、ステラ嬢。アトリー卿の出世は第二皇妃殿下の差し金でしたけど、彼女は彼の能力にしか興味なかったですから。やましいことは何もありませんよ」
「え……?」
「おいミゲル。何だその話」
「あ、やべ。これ秘密だった」
「ミゲル!?」
「ひゃー、勘弁してください。俺とマリーの秘密なんで」
「待て、ミゲル!」
ミゲルの口から出てきた衝撃の言葉の真偽を問う間もなく、逃げるように部屋を出て行く。
それを追いかけ、アレックスも出て行った。妻は追いかけないのに弟は追いかけるのかと、混乱した頭でどうでもいいことを考えた。
「……騒がしくなったでしょう、我が家も」
「え?」
二人が出て行った扉を見つめながら、二人きりの部屋でソフィアが口を開く。
「ソフィア姉様はお義兄様といると一人で騒がしいし、ミゲル様もしょっちゅういらしてはああしてお義兄様とじゃれていかれるのよ」
隊長のくせに暇なのかしら、と笑うジェシカは、ステラとソフィア、どちらの姉にもそれぞれに似ている。
明らかに父の子とわかるソフィアや、どう見ても母の子にしか見えないステラと違い、ジェシカは父と母二人の子だとわかる顔立ちをしていた。
切れ長の瞳と髪の色は母譲りだが、ふっくらとした唇や瞳の色は父と同じだ。
一方でステラは、父に少しも似ていない。
髪や眸の色も、顔立ちも。
「……初めて見たわ。姉様がソフィア姉様に怒るところ」
「わたし……怒っていた?」
「怒っていたわよ、すっごく。……そんなにアトリー卿って方のことが大切なの?」
「……そんなんじゃないわ」
付き合いが長くなっても、ステラにとってジャンはただの同僚でしかない。
関係も距離感も、出逢った頃と少しも変わらない。
変わるはずもない。
「じゃぁ、姉様はまだオルコット小伯爵のことをお慕いしてるの?」
「え……?」
何の話をしているのか、一瞬本気でわからなかった。
誰の話なのかわかると、自分の薄情さに本気で驚いた。
その名を聞くのも、思い出すのもいったいどれくらいぶりだろう。
「だから誰とも結婚されないの?」
「ま……待ってジェシカ……。何の話……」
「姉様が小伯爵のことをすきだったことなんて、みんな知っていたわよ」
血の気が引く、とはこのことだろう。
こともなさげにジェシカが発した言葉は、ステラにとっては衝撃の事実だった。
「み……みんなって……お姉様も……?」
「もちろん。むしろソフィア姉様が言いふらしてたわよ」
「……」
「『ステラはリカルドのことすきなのに結婚できないなんて可哀想。せめてデビュタントくらいはエスコートしてあげてほしいわ』って、お父様や小伯爵の父君のオルグレン伯爵にお願いしてたわよ」
「……」
「そんな姉様に『ソフィアは優しい子だね』って。お父様も伯爵も頭おかしいんじゃないかと思ったわ」
「……」
辛辣な言葉に、眩暈がしてきた。
一体何から驚けばいいのか、何を嘆けばいいのかわからない。
長年必死で隠していたつもりの恋心を一番知られたくない相手に知られていたなんて、道化もいいところだ。
「まぁソフィア姉様はそんなこともう忘れてしまってるでしょうけどね。小伯爵のことを覚えてるかどうかも怪しいんじゃないかしら」
「……さすがにそれは言いすぎよ」
十年近く婚約していた相手のことを忘れるなんてそんなこと、いくらソフィアでもありえない、と信じたい。
けれどそんなわけないと言いきれないのがソフィアだ。
昔からソフィアは、興味の無いことに対する記憶力が極端に乏しかった。
ステラとの約束も平気で破るし、酷いときには存在さえ忘れてしまうこともある。
一緒に出掛けたことを忘れ、外出先に置き去りにしてしまうのだ。
そういうとき、ソフィアは決して自分の非を認めない。
「ステラを叱らないであげて」と、ステラをかばうふりをして、まるでステラが勝手にソフィアの元を離れたかのように、遠回しに責任を擦り付ける。
否。彼女は本気でそう信じているのだ。
事実を捻じ曲げてでも自分の都合のいい「事実」を作り出し、それが正しいと思い込む。
先程の一悶着もおそらくは、「せっかくステラのことを心配して忠告したのに逆上された」ことになっているのだろう。
そういう思い込みの激しいところ、ソフィアは本当に父によく似ている
幼い頃はステラもまた悪いのは自分の方なのだと思っていた。
姉を哀しませたり困らせたりするステラがすべて悪いのだと。
「……相変わらず、ソフィア姉様の肩を持つのね」
「え……?」
「あんなことをされてどうしてまだ庇えるの?忘れたわけ……忘れられるわけないわよね。ソフィア姉様に何をされてきたのか」
「何……言ってるの、ジェシカ。そんな、オルコット様のことは子どもの頃の話でしょう……」
「小伯爵のことだけじゃないでしょう。ソフィア姉様は昔からあることないこと言って姉様のことを孤立させようとしてたじゃない。覚えてる?昔、ソフィア姉様が小伯爵たちとのピクニックに姉様を連れて行かなかったこと。そのせいで姉様がお父様に叱られたこと」
「―――ッ」
「それだけじゃないわ。ソフィア姉様は何かあるとすぐ姉様のせいにした。自分は悪くない、全部姉様のせいだって。そのせいで姉様は……」
「ジェシカ!」
思わず声を荒らげると、ジェシカはあっさりと口を噤んだ。
けれどその顔にはありありと「不満」と書かれている。
ジェシカがどうして長姉の所業を論おうとしているのか、わからない。
何がジェシカの気に障ったというのか。
「……お姉様を悪く言うのはやめなさい」
「……」
「そんな風に言ってはだめ。……お姉様も、悪気があったわけじゃないのよ」
わかっている。
誰よりも無邪気で天真爛漫なソフィアは、誰よりも傲慢だった。その純粋さ故、残酷だった。
彼女はすべてが自分の思い通りになると信じていた。
優しい父も、優しい婚約者も、優しい友人たちも、誰もが自分を愛し、自分のために存在していると。
だからこそ悪意なく人を傷付ける。自分の言葉が刃を孕んでいることに気付かない。
たとえばステラがソフィアの言葉に傷付いているなんてこと、彼女は考えもしないのだ。
ちゃんとわかっている。気付いている。
姉がそういう人間だということ。
わかっているけれど―――。
「悪意が無いからって、何を言ってもいいの?」
美しく紅が引かれた唇が震えていた。
妹の問いに、ステラは榛色の目を見開く。何も、答えられなかった。
「……わたし、ずっと、姉様たちのこと嫌いだった」
緑色の瞳に、自分が映っているのが見えた。
顔まではよくわからないけれど、きっと酷い表情をしているのだろうと思った。
「自分のことしか考えていないソフィア姉様も、自分のことさえ考えられないステラ姉様も大嫌いだったわ。
姉様はいっつもソフィア姉様やお父様の言いなりで、『わたしはできないから、わたしは苦手だから』。そうやって言い訳ばっかり。姉様みたいには絶対にならないって思ってたわ」
最愛の妹から投げつけられた非難の言葉に、ステラは動揺を隠せない。
ジェシカがソフィアのことをあまりよく思っていないことには何となく気付いていたが、まさか自分も嫌われていたなんて。正直ショックだ。
だがジェシカの言っていることは、紛れもない事実だ。
ステラはずっと、父や姉の顔色を窺い、ただ言われるままに生きてきた。
姉を哀しませないように、父を失望させないように―――嫌われないように。
「確かにソフィア姉様は自分勝手だし理不尽だわ。でも何にも努力してないステラ姉様に、ソフィア姉様を羨ましがる資格なんて無かったのよ」
ステラと違って、誰からも愛されていたソフィア。
けれど彼女はただ漫然と生きていたわけではない。
笑顔を振り撒き自分を磨き、愛されるための努力をしていたのだ。
誰にでもいい顔をするからその分敵は多かったが、彼女には、愛されるだけの理由があった。
ステラが切り捨ててしまったものを、ソフィアは自らの武器にしていたのだ。
「……えぇ。そのとおりね」
「……ッだから!どうして!」
妹の言葉に、胸を抉られたような心地がした。
ジェシカの言う通りだ。反論のしようもない。
素直に頷くと、けれどなぜかジェシカは駄々っ子のように地団太を踏んだ。
我儘なんて一度も言ったことのない、常に冷静で理知的な妹のそんな姿、初めて見た。
「どうしてそうやって姉様はすぐに物分かりのいいふりするの!?ソフィア姉様の横暴を許すの!?哀しいって言わないの!?オルコット様のことだって、すきだったのならそう言えばよかったのよ!別にソフィア姉様はオルコット様じゃなきゃダメだったわけじゃないし、オルコット様だってそう!ソフィア姉様でもステラ姉様でも、どっちでもよかったのよ!」
随分な言い草にステラは別の意味で言葉を失う。
ジェシカの方はまだまだ言い足りないのか引っ込みがつかなくなったのか、なおも続ける。
「城仕えだって、どうして姉様が行かなきゃいけなかったの!?お父様が作った借金ならお父様が何とかしなさいよ!百歩譲ってそこはソフィア姉様でしょ!長女なんだから!後継ぎなんだから!ソフィア姉様に侍女が務まるとは思わないけど!!」
「ジェ……ジェシカ……。ちょっと落ち着いて……」
「大体『ちょっと年上でも構わない』って何!?姉様の結婚相手をなんで妥協しようとしているの!?姉様のお相手は世界一素敵な人じゃなきゃ許さないんだから!!」
「ジェシカ……」
妹の剣幕に、もはやステラは力無く名前を呼ぶことしかできない。
全盛期のレオンハルト並の駄々の捏ね方だ。
淑女らしからぬ大声でひとしきり喚き散らしたジェシカはようやく気が済んだのか体力が尽きたのか、口を噤み肩で息をする。
暴れたせいで髪は乱れているしドレスも少し皺がよってしまった。
夜会までに身だしなみを整え直さないと、などとステラが妙に冷静に考えていると、緑の瞳から、涙が零れ落ちた。
「……もう……やなの……ッ。姉様ばっかり哀しい想いをするのは……」
先程までの剣幕が嘘のような、今にも消え入りそうな声だった。
けれど、もうごまかせない、と思った。
ジェシカは、賢い子だった。
気まぐれなソフィアや不愛想なステラとも違い、優しくて朗らかで、常に笑顔を絶やさずいつも周囲に気を配っていた。
甘え上手だが決して我儘ではない末っ子を、家族も使用人も皆可愛がっていた。
今思えば、きっとジェシカは自分の「役割」を理解していたのだ。
どこか歪な、欺瞞だらけの家族の中で。
「……ジェシカ」
「……」
「ありがとう。姉様のこと、そんな風に考えてくれて。ジェシカは優しい子ね」
「……」
「姉様がソフィア姉様のことをかばうのはね、お姉様のためなんかじゃないの。……全部自分のためなの。
意地悪なんてされてない。酷いことなんてされていない。お姉様は全部わたしのために言ってくださってる。お姉様はわたしのことを大切にしてくださっている。
……そう自分に言い聞かせないと、信じないと、耐えられなかったの……」
きっとソフィアはソフィアなりにステラのことを愛していた。可愛がってくれていた。
ただそれは、お気に入りの人形で遊んだり、ペットを可愛がったり、そういうのと大差なかった。
ソフィアはステラを見せびらかしたかったし、独り占めもしたかったのだ。
だから定期的に自分の友人の集まりにステラを連れて行った。「可愛い妹」を見せびらかすために。
一方で誰かがソフィアの許容以上の興味をステラに抱けば、遠ざけようとした。
誰にも奪られないように。
ステラはソフィアだけのものだから。
一見矛盾した行動はすべて、彼女の子どもじみた愛情――愛着に起因していた。
ステラの意思も何もかも関係ない。
ソフィアにとってステラは、お気に入りの人形でしかなかったのだから。
姉自身も気付いていない彼女の真意に気付いたとき、けれどステラは、姉を責めることはできなかった。
怒ることも、姉の傲慢さを白日の下にさらすことも。
結局ステラは「今まで通り」を選んだのだ。
「だってそうじゃないと、認めることになってしまうから。あの頃のわたしが、誰にも愛されていなかった、って」
幼い頃から父に愛されていないことも母に関心を持たれていないこともわかっていた。
そんな家の中で、ソフィアだけがステラを必要としてくれた。大好きよと言って抱きしめてくれた。
両親に愛されなかった幼い子どもが、唯一与えられた愛情をどうして手放すことができただろう。
たとえそれが愛情ではなく、歪んだ愛着でしかなかったとしても。
「ごめんね、ジェシカ。ずるい姉様で……」
「―――わたしだって、姉様のこと好きなのに!」
白い手がステラの両腕を掴む。
いつの間にか、目線の高さが同じくらいになっていた。
そのことにどうして今、急に気付くのだろう。
「一緒に遊んでくれて嬉しかったし、楽しかった!姉様がお城に行って寂しかった!お手紙が届くと嬉しかったけど、もっと会いたくなって、姉様に褒めてほしくて、いっぱい調べて……ッ」
「ジェシカ……」
「なのに姉様はいっつもソフィア姉様のことばっかで、全然ジェシカのことかまってくれない!ジェシカのことなんて本当は好きじゃないんでしょ!どうでもいいんでしょう!」
「そんな……」
「本当は侍女なんかやめてもっとずっと一緒にいてほしいのに!デビュタントだってちゃんと見に来てほしかったし、何ならエスコートだってミゲル様じゃなくて姉様がよかった!」
「え……それは無理よ……」
「わかってるけど!」
嫌いだと言ったその口で愛を叫ぶ妹に、ステラは瞬きを繰り返す。
混乱しきった今の頭では何を言ってもまたジェシカを怒らせてしまいそうだ。
ステラの両腕を掴んでいた手が、力無く空を切る。
俯いたジェシカの表情は、ステラからは見えない。
「……本当は、一番許せなかったのは、姉様のために何もしてあげられない自分だったの……。姉様に甘えてばっかりで、何もできなかった……」
「ジェシカ……」
「それなのに、ソフィア姉様のことも、嫌いだけど好きなの。姉様に意地悪ばっかりして、それは許せないけど、でもやっぱり好きなの……」
ごめんなさい、と泣きじゃくるジェシカは、今までどれほどの想いを抱えていたのだろう。
「後宮」に上がったことを辛いなんて思ったことはなかった。
けれどまだ幼いジェシカの傍にいてあげられなかったことが、唯一の心残りだ。
「……ジェシカ」
「……何」
「……泣いたらせっかくのお化粧が崩れてしまうわよ」
「もう!こんなときまで!!他にもっと言うことあるでしょう!?」
勢いに任せてジェシカが顔を上げる。案の定、かつてないほどの大洪水だ。
かろうじて鼻水は流していないけれど、淑女としての及第点はあげられない。
涙で濡れた頬をそっと撫でる。
水仕事で荒れてしまっている手では傷付けてしまうかも知れないと思ったが、触れたかった。
「ありがとう。大好きよ、ジェシカのこと」
「……本当?」
「えぇ。この先もしジェシカが姉様のこと嫌いになったとしても、姉様はずっとジェシカのこと大好き」
思えばジェシカは、いつも傍にいてくれた。
ソフィアに置き去りにされたときはいっしょに遊んでくれたし、行方不明扱いされたステラが無事に帰ってきたときも一番心配して抱きついてくれた。
大切な、可愛い妹。
きっとあの頃から、甘えていたのはジェシカじゃなくてステラの方。
「……お姉様のこともね、やっぱり嫌いになれないの。酷いことを言われてもされても、……わたしにとってたった一人のお姉様だから」
理不尽で利己的な人間だとわかっていても、彼女の妹として生まれてきたことで苦しみしかないとわかっていても、突き放せない。
何て厄介なのだろう。
けれどきっと、姉妹とはそういうものだ。
「……うん」
そうね、と言ってジェシカはステラに抱きつく。
子どもの頃のように。
ステラも黙って最愛の妹を抱きしめた。
その後ジェシカの言った通り半刻程で戻ってきたソフィアは、涙でぐしょぐしょになったジェシカの顔を見て、「あら喧嘩~?仲良くしなきゃダメよ~?」などとのたまったのだった。
姉様や兄様が二人以上いるとややこしいことこの上ない…。
一応ジェシカはソフィアのことは「ソフィア姉様」呼び、ステラのことは「姉様・ステラ姉様」呼びです。
ステラは基本ソフィアのこと「お姉様」呼びです。
ちなみにミゲルは ユリウス→ユーリ兄様 アレク→兄上・小兄様 呼びです。
マリアは ユウスリ→お兄様 アレク→アレク兄様 ミゲル→ミゲル兄様・兄様。
ちなみのちなみにランチェスター家は人たらし一族です。
性格的には ユリウス→苦労人 アレク→天然 ミゲル→魔性 マリアンヌ→小悪魔 です。
ミゲル兄様は社交界では初恋泥棒(?)ですが、今のところは29歳独身です。




