E.C.1005.08-2
以前更新したジャン視点の番外編内のお話のステラ視点です。
ステラは無表情ですが、頭の中は結構イロイロ忙しいです。
華やかなドレスを身に纏い、高価なアクセサリーを身に付け、美味しい料理と美酒を味わいながら自慢話に花を咲かせる。
そんな時間を楽しいと思えないのは、ステラに問題があるのだろうか。
それとも楽しくない時間をいかに楽しそうに見せられるかが、貴族の嗜みなのだろうか。
そんなことを考えながら、ラベンダー色のドレスを身に纏ったステラはぼんやりと立ちつくす。
生まれて初めて参加した夜会は、ステラにとって苦痛以外のなにものでもなかった。
先程からひっきりなしに近付いてきては歯の浮くようなお世辞を並べ立ててダンスに誘ってくる男たちにも、心は少しも動かない。
判を押したように同じようなことしか言わないのは、ステラの知らないところで共有されているマニュアルのようなものでもあるのだろうか。
息を殺し気配を消し、「壁の花」になろうと徹するステラは、ホールの中央の人だかりに視線を移す。
輪の中心にいるのは、レモンイエローのドレスを着た赤銅色の髪の女性。
本日の主役の一人であり、ステラの姉であるソフィアだ。
四年ぶりに会う姉は、ステラには気付かずに婚約者に寄り添い、弾けんばかりの笑顔を振りまいている。
あんな幸せそうな姉の顔、初めて見た。元婚約者といるときでさえ見たことない。
それともステラが見ていない二人きりのときは、あんなふうに笑っていたのだろうか。
不毛な思考を振り払うように、姉の隣の男性に視線を移す。
初めて見る未来の義兄は、未婚既婚問わずホール中の女性の視線を集めていた。グラスを運ぶ給女でさえも見惚れてしまっているように見えた。
癖の無い金の髪や深緑の瞳、長身なためか俯いた拍子に伏し目がちになる表情が、憂いを秘めて何とも言えず艶めかしい。
アレックス=ランチェスターは「氷輪の貴公子」と評されるだけあって、ため息が出るほど美しい青年だった。
四大公爵家のランチェスター公爵家の次男と姉が結婚するという話を聞いたときは、いったい何の冗談かと思った。
ランチェスター家はレオンハルトの生母である第二皇妃の生家で、当主のギルベルト=ランチェスター公爵は現在宰相を務めている。
四大公爵家の中でもおそらく政において最も強い発言力と影響力ともつ正真正銘の名家だ。
一方ミーリック侯爵家は由緒ある家柄とはいえ一時期は借金まみれで次女を社交界デビューさせられないほど困窮していた。
よくいえばお人よし、包み隠さずいえば浅はかな当主は領地経営の手腕も商才も無く、近い将来侯爵家を潰すだろうと思われていた。
事実彼の作った借金は何とか返済できたものの資産の回復までは至らず、侯爵家の財政は火の車だ。
今夜ステラが着ているドレスも、気を遣ったランチェスター公爵家が用意してくれたものだった。
そんなミーリック侯爵家の長女との結婚など、ランチェスター公爵家には何のメリットも無い。姉は騙されているのではないか。むしろ姉が騙しているのではないか。
疑いのまなざしを送るも、ソフィアはステラの存在になどは少しも気付いてくれない。
本来ならばステラもソフィアの妹としてあの輪の中にいるべきなのだが、皇城を出る際ぐずるレオンハルトを宥めるのに時間を要し、会場に着いたときにはパーティーは既に始まってしまっていた。
主役の周りには分厚い壁ができて近付けなくなっていたため、一旦壁際で待とうとこうして様子を見ていたが、半刻ほど経っても一向に人の波が引く気配は無い。
まだしばらくは無理だろうかと一旦諦め、バルコニーへと向かうことにした。
慣れない雰囲気に少し人酔いしてしまい、外の風に当たりたかった。
バルコニーに出ると、誰もいなくてほっとした。
手すり越しに見える庭はきちんと手入れされていて季節の花が色とりどりに咲いている。皇城の庭園にも勝るとも劣らない美しさだ。
この美しさを独り占めできるなんて、少し得した気分だ。
初めての夜会で知ったのは、自分に社交は向いていないということ。
見知らぬ人と話すことも見え透いたお世辞に愛想笑いを返すこともやはり苦手だ。
どうしても、ソフィアのようには上手にできない。
先程近付いてきた男たちも、反応の薄いステラに呆れたのか結局去っていった。
ステラが家にいるうちにデビュタントを済ませたソフィアは、華やかな場が好きだった。美しく着飾ることも美味しい料理も褒めそやしてくれる殿方も大好きだった。
夜会に出るたびに婚約者の目を盗んで口説いてくるどこぞの御令息の話を楽しそうにしていた。
困ってしまうわ、と満足げに唇の端を歪める姉の言葉を信じるほどには、当時のステラももう幼くはなかった。
姉の周りには、たくさんの男性がいた。
華やかで社交的、人当たりのいいソフィアは非常にモテた。
侯爵令嬢の慎みを逸脱するようなことはなかったと信じたいけれど、下品な言い方をすれば常に男性をはべらせていた。
そして次第にリカルドをないがしろにするようになった。
いつだったか「夜会には男性のエスコートが必要だけれどきっとステラにはそんな人見つからないだろうから、貴女のデビュタントのときにはリカルドを貸してあげるわね」と言われたことがある。
無邪気に笑うソフィアが言っていたことはいろいろとおかしいのだけれど、そのときステラは、姉がリカルドを自分のもののように言ったことがどうしようもなく嫌だった。
「物」扱いされたリカルドが可哀想だと思ったのか、リカルドがソフィアのものだという事実にうちのめされたのか。
どちらなのかはもう覚えていないけれど。
「―――ステラ?」
ふいに名前を呼ばれ、庭を眺めていたステラは我に返る。
勝手にバルコニーに出たことを咎められたらどうしよう。
そう思って振り返ったステラの視界に飛び込んできたのは、予想だにしない人物だった。
「やっぱりステラだ。相変わらず、一人が好きなんだね」
バルコニーに出てきたのは、琥珀色の髪と碧の瞳をした二十歳ほどの青年だった。
一瞬、誰なのかわからなかった。
最後に会ったときに比べて格段に大人びた。前髪を後ろに撫でつける髪型も初めて見た。ステラを呼ぶ声も、随分低くなってしまった。
人のよさそうな優しげな容貌は少年の頃の面影が残っているのに、何もかもが違う気がした。
「……オル……コット、小伯爵……」
唇に馴染みの無い家名を呼ぶ。
リカルド=オルコット。
それが今の彼の名だ。
「久しぶりだね、ステラ。何年ぶりだろう。見違えるほど美しくなったね」
久しぶりと言いながらリカルドはまるで昨日も会ったかのような気安さで名を呼び、笑みを向けてきた。
招待客のリストにリカルドとその妻の名前を見つけたとき、少しも動揺しなかったと言ったら嘘になる。
ソフィアたちの婚約が解消されたあとリカルドが何をしているのかは、ジェシカからの手紙には何も書かれていなかった。
姉から事前に送られてきたリストに彼の名前があることに気付いて初めて調べたが、まさか他家に婿入りしているなんて思ってもみなかった。
けれどすぐに納得したし、安堵もした。ソフィアもアレックスと結婚するのだから、リカルドも新たな幸せを手に入れるべきだと。
「……小伯爵も、お元気そうで何よりです」
そう言いながら、バルコニーの出入り口に視線をやる。
こんなところで二人きりになるのはあまりよろしくない。
アカデミーの図書室とは違うのだ。
状況も、関係も。
けれどリカルドは少しも気にした様子もなく、立ち去ろうとしない。
「ステラはまたソフィアに除け者にされているのかい?」
「え?」
「相変わらず酷い姉様だね。大事な妹をこんなところに放っておくなんて」
そう言いながら口の端を歪めるリカルドを、信じられない心地で見つめた。
今のは本当にリカルドが言った言葉なのだろうか。
昔から、ステラを慰めるためにリカルドがソフィアを悪く言うことはあった。
リカルドは、そういう人なのだ。その場を収めるために軽々しく心にもないことを言う。
その姑息さを幼いステラは優しさだと思っていた。
思いたかった。
けれど今のは言葉の端々に、表情に、明確な悪意があった。
「それにしても、ランチェスター家の人間と婚約だなんて、いったいどんな手管で御曹司を誑しこんだんだろうね。相変わらず抜け目のない女女だ」
この男は、誰だろう。
リカルドは、二つ上の幼馴染は、こんな風に笑うひとではなかった。
婚約者のことを大切にしていて、その妹にも優しくしてくれた。
誰がリカルドを変えてしまったのか。
それはきっと、他でもないソフィアだ。
それでも。
「……お姉様のこと、そんなふうにおっしゃるのはおやめになって」
それ以上、リカルドがソフィアを貶めるのを聞きたくなかった。
弱々しく拒否の意を示すと、リカルドの表情が消えた。
湖の淵のように碧い瞳はただ空虚にステラを映していた。
「……相変わらず、ステラは優しいな」
「そんなこと……」
「昔からそうだった。君は美しくて、優しくて、ソフィアとはまるで違う」
「……」
「ソフィアは全然優しくなかった。私にも君にも、少しも優しくしてくれなかったね」
「……小伯爵」
「彼女は君の美しさに嫉妬していたんだよ。自分の周りの男たちが君に心奪われることを恐れたんだろうね。君を貶めることばかり言っていたよ。浅ましい人だ。
でも私は、私だけは本当の君を知っていた。だから私は君のことを……」
「やめて、リカルド兄さま……ッ」
「君のことを妹だなんて思ったことは一度もない!」
リカルドの怒声に身を固くする。
いつも優しくて穏やかだったリカルド。
もう、どこにもいない。
あの頃には戻れない。
「……ステラ」
近付いてくるリカルドに、思わず後退る。けれどすぐにバルコニーの手すりに背がぶつかる。
逃げられない。
そう思った瞬間、逃げたいのだと気付いた。
「会いたかった。ずっと君に」
「……」
「突然君が城に行ったと聞かされたときの私の気持ちがわかるかい?本当に哀しくて、つらくて、会いたくて仕方なかった。会えなくなってどれほど君が私にとって大きな存在だったか気付かされたよ」
武骨な手が肌に触れた瞬間、声にならない悲鳴が喉に張り付く。
息を呑む声は、きっとリカルドにも聞こえてしまった。
ステラの反応をどうとらえたのか、リカルドは指に力を込めた。
「ねぇ、ステラ。君も同じ気持ちだろう?君も私に会いたいと思ってくれていたんだよね?」
うそつき、と、大声で叫んでしまいたかった。
ずっとソフィアのことをすきだったくせに。何よりもソフィアのことを大切に想っていたくせに。
リカルドがステラのことをすきだったことなんて一度もない。
リカルドがステラに優しくしてくれたのは全部、自分のためだ。
誰からも愛されて、みんなの人気者だったソフィア。
リカルドはいつもソフィアの愛を得ようと必死だった。
けれど彼は、花から花へと飛び回る蝶々のように奔放なソフィアのことをつなぎとめられなかった。
愛されることを当然だと思っていたソフィアは、一人の愛に満足することなどできなかったのだ。
二人の関係は常にソフィアが優位に立っていた。
不対等な関係はきっと、リカルドの自尊心を傷付けていったのだろう。
その傷を癒す――埋めるための存在がステラだった。
自分のものにならないソフィアよりも、自分だけのものになるステラの方が彼にとって都合がよかっただけだ。
リカルドはずっと、つまらない自尊心を満たすためにステラを利用していたにすぎない。
「もうやめて……離して……ッ」
拒絶の言葉を口にすると、リカルドの顔色が変わった。
同時にステラの腕を掴む手に力が込められる。
「ステラ……ッ。どうしてわかってくれないんだ……。私は、本当はずっとソフィアではなく君のことが……ッ」
こんなにも苛立ちを孕んだリカルドの声を、初めて聞いた。
掴まれた腕が熱をもつ。
否、熱いのではなく痛いのだと理解するまでに時間がかかった。
触れられることが嬉しかった。頭を、髪を、撫でる手がすきだった。頬に触れる指のぬくもりだけで、満たされていた。
それなのに今リカルドに触れられて感じるのは、どうしようもない不快感。
夢から覚めた今、目の前の険しい表情をした男に恐怖すら覚えた。
変わってしまったのはリカルドか、それともステラの方なのか。
あんなにすきだったはずのリカルドのことが、今は怖い。
そのことが、哀しくて淋しい。
「―――失礼。私の連れが何かしましたか?」
「……ッ」
ふいに響いた男の声に、リカルドは弾かれたようにステラの腕を離した。
解放されたステラはリカルドから逃げるように距離をとる。
早鐘を打つ心臓を抑えて呼吸を整えながら、バルコニーの出入り口に立っていた現れた男が誰なのか見て、驚く。
冷やかな表情でステラたちを見ていたのは、第二皇子付教育係のジャン=アトリーだった。
どうして彼がここに。
今日の夜会に彼が出席するという話は、同僚たちの噂話で知っていた。
何とかして彼と踊りたいと息巻いた先輩侍女が話していたからだ。
アトリー伯爵家の次男でもあるジャンはめったに夜会に出ることはないが、たまに出席すれば彼と踊りたがる御令嬢は後を絶たない。
また皇太子の覚えもめでたく第二皇子付教育係の彼とつながりを持とうとすり寄ってくる紳士も多いのだという。
そんな彼がどうしてこんなところに一人で現れたのか。
戸惑うステラをよそに、ジャンはリカルドに向かって名乗る。
「第二皇子殿下の教育係のジャン=アトリーと申します。彼女が何か?」
「だ……第二皇子殿下の……」
美麗な面立ちにうっすらと刷かれた笑みに、リカルドはたじろぎ、一歩下がった。
美しさは、時に力となる。他者を魅了し、心をとらえ、惑わせる。支配する。
そのことをステラは「後宮」で嫌というほど思い知らされた。
「彼女に何か御用ですか?」
「いえ……何でもありません。失礼いたしました……ッ」
重ねて問うジャンは口元は微笑んでいるのに鉄色の瞳は少しも笑っていなくて、そのちぐはぐさが奇妙に思えた。
理由はわからないけれど、ジャンが今怒っていることだけははっきりとわかった。
温厚で紳士的と侍女たちからはもてはやされているジャンの初めて見る怒りに、胸を抑えた手が震えた。
不穏な空気はリカルドにも伝わったのだろう。第二皇子付という彼の肩書に恐れたのか、彼自身に怯えたのかはわからないけれど、ジャンの怒りを目の当たりにしたリカルドは、逃げるように去っていった。
その際リカルドはステラに一瞥もくれなかった。
もしも二人に終わりがあるのなら、今この瞬間だと思った。
残されたステラは、先程までリカルドが触れていた腕に手を添える。
名残惜しさなど微塵も無い。一刻も早く彼の熱を消したかった。
「大丈夫ですか?」
淡々と問うジャンの声に安心している自分に驚いた。
リカルドに腕を掴まれたとき、怖かった。初めて見る幼馴染の鬼気迫る表情に身がすくんだ。
だからジャンが来てくれてほっとした。
なぜか怒っているけれど少しも怖いとは思わなくて、聞き慣れたジャンの声でようやく全身の緊張が解けた気がした。
けれどそれを悟られたくなくて、思わずジャンから目を逸らす。
弱い女だと思われたくなかった。
「……ありがとうございます」
「お怪我は?」
「いいえ」
「今の方は、お知り合いですか?」
なぜそんなことを訊くのだろう。不思議に思ってジャンを見つめ返すと、秀麗な眉が不快げに歪められた。
「……見知らぬ淑女に触れ、無理強いしようとなさっていたのですか?彼は」
「姉の元婚約者です」
いつになく厳しい口調のジャンに、慌てて答える。
リカルドの名誉を守りたいわけではないが、あまり騒ぎ立てられては面倒だ。
今日の夜会はランチェスター公爵家主催でソフィアたちの婚約を祝うためのもの。それを主役の妹が騒ぎを起こすなど、外聞が悪すぎる。
ステラが口を噤むことで丸く収まるならそれでいい。
そう思って素直に答えたのに、なぜかジャンの表情は冷やかなままだ。
「姉君の元婚約者が、どうして貴女に乱暴しようとなさっていたのですか」
「乱暴などされていません。話をしていただけです」
「話とは、どんな」
言葉少なに答えながら、さすがにおかしいと思う。
ジャンからしてみれば、たかが同僚の侍女が一人、夜会で手籠めにされそうになったところに居合わせてしまっただけなのに、しかもステラは否定しているのに、まったく聞き入れようとしない。
詰問のような口調はどこか苛立っているようで、いつもの冷静なジャンらしくない。
今リカルドの罪を暴いて何になるというのか。
不埒な輩を夜会に招いたとなればランチェスター公爵家の顔にも泥を塗りかねない。
そんなこと、ジャンほどの人間ならわかって当然のはずなのに、余裕の無い、焦燥の滲んだ鉄色の瞳を向けられ、ステラまで落ち着かない気分になってくる。
居心地の悪さを感じながらふと、ステラが今着ているのはいつもの侍女服ではなく夜会用のドレスだということを思い出す。
肘の上辺りまでは手袋で隠れているが、二の腕や肩、鎖骨などは剝き出しだ。
もちろんジャンは女性の肌など見慣れているだろうしステラに興味など無いだろうが、ステラは見られ慣れていない。
特にこんなに胸元が心もとない服を着たのは初めてだ。
意識し始めると途端に恥ずかしくなってきて、思わずジャンから一歩離れる。
「……アトリー卿には関わりないことに御座います」
だから早くこの場を立ち去りたい。せめて何か羽織る物が欲しい。
急に思考が脱線していくステラに向かって、ジャンは思いもよらないことを言い出した。
「……貴女は、そんなにも私のことがお嫌いですか?」
「はい……?」
つい先日も、同じことを訊かれた。あのときは泣いているレオンハルトが心配でおざなりに答えてしまった。
あとから上司に何てことを言ってしまったのかと青ざめたが、改めてジャンからの咎めは無かった。
彼も気になどしていないだろうと、胸を撫で下ろしたのだった。
ジャンのことを好きか嫌いかだなんて、考えたこともない。
そもそもそれは今訊かなくてはいけないことなのだろうか。
ステラの困惑に気付いていないのか、ジャンはなおも続ける。
「それとも要らぬ世話でしたか。あのまま彼の意のままにされるか、或いは私以外の誰かに見つかった方がよかった、と?」
結局話は元に戻り、ステラは内心うんざりする。
イタズラが見つかりジャンにねちねちと説教されているレオンハルトもこんな気持ちなのだろうか。
普段からジャンは結構話が長い。まったく関係の無い話を間に挟むこともあるし、やたらと芝居がかった口上を述べるときもある。
軽口を叩かないと死んでしまうのだろうかと聞き流しているほどだ。
「……何か誤解をなさっているようですが、わたくしは彼に何もされておりません。彼は姉の元婚約者ですが、わたくしとは幼馴染でもあります。久しぶりに再会して、懐かしい話をした。ただそれだけです。たとえアトリー卿以外の方に見られたとしても、後ろ暗いところは何も御座いません」
平然と嘘を吐ける自分のしたたかさが嫌になる。
昔から、嘘を吐くのは上手だった。
けれどこれ以上長引かせてここに留まり続けることは避けたかった。
早くこの場を去りたいし、何だったらもう帰りたい。
もう姉の婚約披露とかどうでもよくなってきた。何だかひどく疲れた。
「……そうですか。それは失礼いたしました」
「いいえ……。ご理解いただけたなら結構です。わたくしはこれで……」
「ミーリック嬢」
ようやく納得してくれたらしいジャンに安堵し、ステラは立ち去ろうとする。
けれどすれ違う寸前、ジャンに手を掴まれた。
手袋越しの感触に驚く間もなく強引に引き寄せられる。
ダンスのステップを踏むように反転させられ、気付いたときにはバルコニーの手すりを背にジャンの両腕の間にいた。
背を打ったはずなのに痛みはない。
ただ目の前にジャンの美麗な顔があって、思わず息を呑む。
鉄色の瞳に自分が映っているのが見えた。
心臓が、止まってしまうかと思った。
ステラを見つめるジャンの瞳は、今まで見たことないような熱を孕んでいた。
その熱が体中を這いまわるような、炎に焼き尽くされるような錯覚を覚える。
今まで誰にもこんな瞳で見つめられたことなどない。
逃げられない。
先程リカルドと対峙したときと同じことを思ったのに、逃げたいという考えは浮かばなかった。
ただこんなところを誰かに見られたら今度こそ大変なことになると、妙に冷静な自分もいた。
「離……」
「彼にも、こんなふうに触れさせたんですか」
静かな声だった。
けれどその声は紛れもなく怒りを孕んでいた。
「彼と、想いを通わせたんですか?」
何を訊かれたのか、一瞬解らなかった。
ようやく理解すると同時に、ジャンが少しも納得していないことに気付いた。
一方的にリカルドに手籠めにされていたわけではないのなら、双方の合意で「密会」していたのかと訊いているのだ、ジャンは。
それは「姉の婚約発表の夜会で姉の元婚約者と密会するような不埒な令嬢」だと言われたも同然だ。
酷い侮辱に、胃の底まで凍えるような怒りがこみ上げてくる。
まったくの誤解だし、そもそもたとえ今ステラとリカルドが密会していたとしても、そのことをジャンに非難される謂れはない。
夜会に出席した男女が人目を忍んで情を交わすことは珍しくはない。それを目的に参加する者もいるほどだ。
以前夜会における密会は貴族の嗜みであり楽しみだと自慢気に語っていた先輩侍女の当時のお相手は、今目の前にいるジャンだった。
夜会にかぎらず、彼と関係をもちたい女性は何人もいるし、実際に関係をもった女性も何人かいる。
ステラが現場に遭遇したことも何度かあった。
レオンハルトの部屋の隣にあるジャンの自室でことに及ぼうとしていたときはさすがに咎めたが、それ以外は見て見ぬふりをしてきた。
キリが無いのもあるし、相手の女に恨まれたくない。
ちなみに相手はいつも違う女で、皆嬉しそうに自慢していた。女だらけの空間では、わりとそう言うことは筒抜けだ。
そんな品行方正とは程遠い爛れた生活を送っているジャンに、なぜこんなことを言われなくてはいけないのか。
「何を……」
「少なくとも、彼の方は貴女のことを『ただの幼馴染』とは思っていないようだ。彼は姉君ではなく、貴女に想いを寄せていたんでしょう?」
「―――ッ」
反論しようと開いたはずの口から、それ以上声は出なかった。
リカルドとのやりとりを、どこまで聞いていたのか。
すべてを見透かすようなジャンの瞳に見つめられ、身動きがとれなくなる。
ステラの反応を肯定ととったのか、ジャンは皮肉げに笑った。
「妹君を想いながら姉君と婚約するなんて、不実な男ですね。それほどまでに侯爵家の爵位が欲しかったんでしょうか。
今更になって再びあなたに近付いてきたのは、ランチェスター公爵家からの援助が目的ですか?どこまでも浅ましい男だ」
「―――彼を侮辱するのはおやめください……ッ」
違う。
哀しいのは、腹立たしいのは、リカルドが侮辱されたことではない。そんなことはもう、どうだってよかった。
―――ステラは可哀想ね
初めにそう言い出したのは、間違いなくソフィアだった。
けれどいつしかリカルドも、彼女と同じことを口にするようになった。
ソフィアにいじめられて可哀想だね。仲間外れにされて可哀想だね。大丈夫、僕はステラの味方だよ。
そう言っていつもステラのことを慰めてくれた。
彼らの言葉の真偽を、ステラは確かめたことはない。確かめようとしたこともなかった。
だって、リカルドが優しくしてくれるのは、ステラが可哀想だったから。
「可哀想なステラ」でいるかぎり、リカルドはずっとステラに優しくしてくれるから。
だからソフィアの言葉を受け入れていたし、リカルドに言われても否定しなかった。「可哀想」なのだから仕方ない、と。
ステラもリカルドもソフィアもずっと、「可哀想」という言葉を免罪符にしていたのだ。
自分の中の浅ましさに気付いたのは、彼らの元を離れてからだった。
「後宮」に上がり家族以外の、ステラのことを何も知らない人たちと出会い、過ごしていくうちに、あの頃はわからなかったことがわかるようになった。自分が「可哀想」などでないことにも気付いた。
もちろん、意地の悪い人はいた。
公爵家の娘に生まれながら社交界デビューもできずアカデミーを中退して働くステラを嘲笑う人もいた。
けれどステラは決して、不幸などではなかった。
ステラの価値は、生きる意味は、そんなことでは決められない。
決めたくないと思った。
レオンハルトの傍で過ごしながら、レベッカに言われたことをステラなりに考えてみた。
自分を大切にするということ、自分の仕事に誇りを持つということ。
考えて考えて、答えはまだ見つからないけれど、彼らがいかに理不尽だったかということには気付けた。
ステラを慮るふりをしてソフィアはいつもステラのことを貶めていたし、リカルドも思わせぶりな言動を繰り返してはステラの心を弄んでいた。
けれどそれでも、優しくされたことは嬉しかった。
頭を撫でるリカルドの手に、ステラは確かに救われていたのだ。
だからこそ、これ以上あの頃の想い出を汚されたくなかった。
あの頃、リカルドのことをすきだったことは紛れもないステラの本心だから。
初恋を、綺麗なまま宝箱の中にしまっておきたい。
幼い頃ミーリックの家で過ごした日々の中で、リカルドとの想い出だけが唯一の美しい宝物だから。
それなのにどうしてステラの大切なものを壊そうとするのか。
リカルドも、ジャンも。
「貴女は、姉君を妬んだことはないのですか」
まるで悪魔の囁きに聞こえた。
「彼と結婚するはずだった姉君を、羨んだことはありませんか?姉君さえいなければ、と思ったことは?彼に姉君が婚約破棄されとき、どんな心地でした?いい気味だと、少しも思いませんでしたか?」
「―――っ」
考えるよりも先に身体が動いた。
それ以上聞きたくなくて、思わず目の前の男を突き飛ばした。
そんなこと思っていない。思ったことない。
そう言いたいのに、声が出ないのはジャンの言っている通りだからだろうか。
「……もう……やめてください……」
もう何も考えられなくて、何とか声を絞り出したけれどジャンの顔を見ることはできなかった。
今度こそ心の中を暴かれてしまいそうで、怖かった。
「―――ステラ?」
肌を刺すような沈黙を破り、少女の頃を過ぎて尚高く甘い声がステラを呼ぶ。
振り返ったジャン越しに見えたのは、バルコニーの出入り口に立つ赤銅色の髪の女性。
ソフィアだった。
リカルドやソフィア視点まで始めると収拾つかなくなるのでここで補足です。
リカルドの初恋はソフィアでしたが、だんだんステラに惹かれるようになり、アカデミーに入る頃には完全にステラのことがすきでした。
でも婚約者はソフィアだし自分の一存では解消できないしでもステラのことがやっぱりすきだし…とどっちつかずな態度ばかりとってしまい、それがステラの誤解につながりました。
ソフィアに婚約を解消されたとき、リカルドとしては「そっちの都合を押し付けるんだったらじゃぁ代わりにステラと婚約させてよ」と思ったけど、リカルドの父親が「没落しかけのミーリック家よりもっと別の裕福な貴族と縁続きになった方がいい」と息子の希望は無視してオルコット家と縁組みをしてしまいました。
結局父親に逆らえずにリカルドはオルコット家の長女と結婚しましたがあまり夫婦仲はよくなく、そんなときにステラと再会して気持ちが蘇り抑えきれなくなった、みたいな感じです。
どちらにしろわりと最低な男です。
ちなみにソフィアは「別にリカルドのこと一番好きってわけじゃないけどお父様が結婚しろって言うし別に特別嫌いじゃないから将来的には結婚します。でもまだ先だし恋人ってわけじゃないから別の男の子と遊んでも文句言われる筋合い無くない?」って感じでした。
いろんな意味でゆるふわです。ソフィアは。




