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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 或る侍女頭の内証
71/114

E.C.1004.07-1


 ステラが「後宮」に上がって数年が経つと、アカデミーを卒業したかつての同級生たちも城仕えを始めた。



『ミーリックさまがやめられたとき、学園中が大騒ぎだったんですよ。ミーリックさまに憧れていた下級生や密かに想いを寄せられていた殿方はしばらく毎日のように嘆かれていました』



 そう教えてくれたのは後宮侍女に昇格したばかりの、アカデミー時代一度も話したことのない元同級生だった。

 不愛想で目立たない存在だったステラのことなんて皆忘れてしまっていると思っていたから、最初に話しかけられたときは本当に驚いた。



『ミーリックさまは美人で賢くて親切でとても人気があって、高嶺の花でしたから』



 元同級生はそう続けたが、いったい誰の話をしているのだろうかと思った。

 自分がそんな風に思われていたなんて、少しも知らなかった。



『エヴァンズ伯爵家のイーサン様なんて、ミーリックさまのデビュタントのファーストダンスのお相手になるのが夢だったのにって本気で落ち込んでらしたのよ』



 身の程知らずもいいところですわ、と笑う元同級生は、その「エヴァンズ伯爵家のイーサン」との結婚を半年後に控えている。

 ほんの少し笑顔が不自然だったのは、婚約者のかつての想いびとと対峙しているせいなのだろう。

 ステラのことを無視したりあからさまな敵意を剝き出しにしたりしないのは、せめてもの女としてのプライドか。


 どちらにしろ、その「エヴァンズ伯爵家のイーサン」のことを覚えていないステラが驚いたのは、自分たちがもうそんな年齢になるのか、ということだった。


 ステラが「後宮」で働いている間にも時間は確実に流れている。

 同級生たちは皆卒業し、働いたり結婚したり、新しい道を歩み始めていた。


 ステラだけが一人取り残されたままだ。




ー・-・-・-・-・-




「レベッカ様は、御結婚されないんですか」


 皇太子付侍女頭が手ずから淹れてくれたハーブティーを飲みながら尋ねると、目の前に座るレベッカはピクリと眉を顰めた。


 まだ暑い光月の半ば、久しぶりの休日をステラはレベッカの自室で過ごしていた。

 後宮侍女のうち専属侍女になると二人で一部屋を使えるようになり、更に侍女頭ともなると個室が与えられる。

 レベッカの部屋はあまり物は多くないが、茶器や調度品はすべて一目で上質だとわかる物ばかりだ。


「……わたくしにそんなことを訊けるのは、貴女くらいよ」

「はぁ……」


 優雅にハーブティーを飲むレベッカの口調にはどこか棘が感じられた。どうやら気分を害してしまったようだ。

 とりあえずすみません、と謝ると、「何が悪いかわかっていないのに謝られても不愉快よ」と再び睨まれた。


 皇帝や正妃より二つ年上だというレベッカは、確か今年で三十一になる。

 レベッカの実家のエイミス伯爵家は伯爵家の中でも「そこそこ」の家格だが、優秀な人物が多く、過去に大臣も何人か輩出している。

 そんな名家出身の女性がその年齢まで未婚というのはかなり珍しいことだ。


 「後宮」内で働く侍女のほとんどは二十歳前後の未婚女性だ。

 侍女頭の中には三十をこえている者もいるが、結婚後皇妃と同じタイミングで出産し乳母を経て、という者が一般的だった。

 そのためレベッカも「そう」なのだと勝手に思っていた。


「……結婚し、夫を支え子を産んで家を繋いでいくことはとても立派なことだと思うわ」


 紡がれる声は穏やかで、刺々しさは感じられない。

 きっと先程も「気分を害したふり」だったのだろう。レベッカは時折、戯れにそうふるまうことがあった。


「けれどわたくしは、それよりももっと大切なことに出会ってしまった。わたくしにとっては貴族の女としての幸せよりも義務よりも大切なこと。……諦めることは、どうしてもできなかったの」

「それは……御結婚との両立はできないことだったんですか?」

「……そうね。少なくとも、あの頃のわたくしはそう思っていたわ」


 もしかしたらレベッカは、以前同じことをステラ以外の誰かにも告げたことがあるのかもしれない。

 そう思えるほど、レベッカの口調は澱みなく、どこか情念のようなものさえ感じられた。


「……でも、どうしたの急に。貴女こそ結婚したくなった?」

「え?」

「もう十七ですものね。そういうお話が出てもおかしくないんじゃない?」


 沈んでしまった空気を変えるためか、一転して明るい口調でレベッカは尋ねる。

 話題が自分の方に及ぶとは思わなかったステラは虚を突かれ、瞬きを繰り返す。


「……いいえ、まったく。というか、したくても無理ですわ。デビュタントも済ませていない、アカデミーもきちんと出ていない次女のところに縁談なんてきませんもの」

「……」


 ステラの答えにレベッカはかすかに眉を顰めただけで、けれど咎めようとはしなかった。

 日頃からレベッカはステラが自分を卑下することを嫌がるが、今は客観的に見てもステラの発言が正しいとわかっているのだ。


 通常貴族の女性はデビュタントを経験することによって大人の仲間入りをし、アカデミーを卒業することで一人前と認められる。

 そのどちらも果たしていないステラは、いかに侯爵令嬢だからといって恋愛対象、ましてや結婚相手としては相応しくない。それが貴族社会における常識だ。


 それでもレベッカは納得はしていないのか、なぜか食い下がる。


「……けれど淑女教育は受けているし、卒業していなくてもアカデミーでの成績は優秀だったのでしょう?実際貴女は同じ年頃の誰より魅力的よ。容姿だって美しいし、夜会で声をかけられることもあるんじゃないの?」

「まさか。そもそも夜会に出たことありませんし、きっとこれからも出られないと思います」

「どうして?」

「夜会に出るとなると色々お金がかかるでしょう。姉ならともかく、わたくしにかけても仕方ありません。それにまだ下に妹がおりますから。あの子はきちんとデビュタントも卒業もさせてやりたいんです」

「……」


 そのために念のため給金のほとんどに手を付けずにとってある。

 さすがにジェシカにまで社交界デビューさせないということはないだろうが、何しろあの父だ。何が起こるかわからない。


 ミーリック侯爵家の借金の原因は、元を質せば当主である父リディアンの散財にあった。


 とはいえ、彼は特別贅沢を好むわけではない。

 社交が好きということもなく、ただ彼は、美しいものを愛した。

 宝石も、絵画も、美術品も、美しいものを手元に置きたがる「悪癖」があった。

 父にとって、価格など関係ない。たとえ安価な品でも気に入れば購入し、大切にしていた。そして、その逆も然り。どれほど高価でも、欲しいものは欲しい。手に入れなくては気が済まない。

 父はそういう人だった。


 貴族の中でも高位貴族に分類されるミーリック侯爵家は元々は裕福だった。

 祖父が存命だった頃は四大公爵家にも引けを取らないほどの資産があったらしい。

 本家の嫡男である父はきっと、幼い頃から望めば何でも手に入れられていたのだろう。

 恵まれすぎていたのだ。

 我慢などしたことないだろうし、争うことも貶められることもなく、穏やかに甘やかされて生きてきた。


 だからそこにつけこまれた。


 ミーリック侯爵家に出入りする美術商や宝石商たちは、徐々に商品の値段を吊り上げていった。

 どれほど高くても父は買うと知っていたからだ。

 事実疑問も躊躇いも無く、父は言い値で金を払った。


 美しいものが好きな父は、美しいものにしか興味が無かった。資金繰りなど気にもせず、家令の諫言にも耳を貸さなかった。

 先代からもミーリック侯爵家に仕えてくれていた家令は何度も何度も、噛んで含めるように父に言い聞かせたが、それでも父は求めることをやめなかった。

 やめられなかったのだろう。


 しかし何事にも限りというものはある。収入よりも支出が増えれば資産は減る一方。

 資産が半分以下になった頃、投資家を名乗る若く美しい男が父の前に現れた。


 美しいものが好きな父は、美しい人間も好きだった。

 見目麗しい青年を気に入り信用した父は、青年のもってきた投資話に飛びついた。

 資金が足りないのなら増やせばいい。

 そんな悪魔の囁きに耳を傾けてしまったのだ。

 甘やかされて生きてきた父は、何もかもが甘いのだ。

 他人が自分を騙すだなんてこと、考えもしない。奪われるなんて、思いつきもしなかっただろう。

 おかしいと気付いたのは、すべてを騙し取られたあとだった。


 結局詐欺師の青年は捕まらず、金も戻って来ず、借金だけが残された。


 屋敷にあった父の趣味には合わない骨董品を売り払い、使用人を解雇して金を工面したが、それでも借金を完済するには至らなかった。

 ちなみに売り払った骨董品はすべて代々ミーリック侯爵家にあったもので、父が気に入り買い求めた物は決して手放そうとしなかった。

 そこまでして物に執着する父に、狂気すら感じた。


 そうしているうちに利子は増え続け再び借金は膨れ上がり、ついに分家の大叔父に露見した。

 祖父の弟に当たる大叔父は案の定激怒した。

 乗り込んできた大叔父に叱責され何度も打たれて、ようやく父はコレクションを手放した。

 その後大叔父の口添えの元、親戚じゅうに頭を下げて金を集め借金を返すことができたが、きっと父はまた、同じことを繰り返す。

 あの男は反省などしていない。叱られるのが、打たれるのが嫌で大叔父の言うことに従ったにすぎない。


 父の姑息さに気付いていた大叔父は、金を出す代わりに父の隠居を要求してきた。

 一日も早くソフィアに婿を迎え、家督を譲ること。それが大叔父の出した条件だった。


 その頃ソフィアはアカデミー卒業を間近に控えていたし、リカルドという婚約者もいた。

 あと数ヶ月待てば大叔父の言う条件を満たすことができた。

 けれど父と同じくらい頭の中がお花畑のソフィアの手綱を握るのは、人がいいだけのリカルドには荷が重い。

 伯爵家の三男である彼に、ミーリック侯爵家を立て直すだけの才覚があるとも思えない。

 そう判断した大叔父によってソフィアとリカルドの婚約は強引に破棄された。


 ことの顛末を、ステラは「後宮」に上がったあとジェシカからの手紙で知った。

 騒動のさなかステラも実家にいたはずなのに少しも気付かなかったが、何よりたった十二歳のジェシカがこれだけのことを調べ上げたことにも驚いた。


 他にもジェシカからの手紙には、ソフィアは今経営手腕に優れ騙されない婿を探すべく社交に励んでいるが、そんな男が姉と結婚してくれるわけない、となかなか辛辣な言葉が書き連ねられていた。

 父を「あの男」呼ばわりしたり姉を「頭の中がお花畑」と評したり少々口が悪い気がするが、ジェシカは非常に頭がいい。

 冷静だし現実主義者だ。

 今思えば幼い頃もステラがソフィアと遊んでやっていたのではなく、ステラの方が相手をしてもらっていたのかもしれない。

 だが口に出さないだけで、家族想いの優しい子だ。

 そんな利発な妹だからこそきちんとアカデミーを卒業してほしいし、幸せな結婚ができるよう面倒を見てやりたかった。


 そんな複雑なミーリック侯爵家の懐事情を知るはずはないが、この件に関してレベッカがこれ以上追及してくることはなかった。


「でも社交界に出られないとなると、あとはもう貴女の周りの殿方っていえば、アトリー卿くらいしかいないわよね」


 しかしステラの結婚自体は諦めていないらしい。

 少し考えるそぶりを見せ、とんでもないことを言い出したあと、なぜか眉を顰めた。


「あぁ……でもアトリー卿はない(・・)わ。あの方はダメ。いくら見目麗しくてもやめておきなさいね」


 勝手に名前を出されて勝手に棄却されるジャンが少し気の毒になった。


 昨年の秋、第二皇子のレオンハルトが五つの祝いを迎えると同時に彼の教育係になったジャン=アトリーは、レベッカの言うとおり見目麗しい美丈夫だ。

 褐色の髪に鉄色の瞳と貴族にしては地味な容姿をしているが、そんなことで彼の美貌は損なわれていない。

 むしろ清楚でひかえめだからこそかえって目を惹き、滲み出るような色気を醸し出している、と同僚の侍女たちは騒いでいた。

 男の人に「清楚」という表現は相応しいのだろうかと思いながらも、ステラ自身はあまり彼に興味は無かった。

 昔から、他人の容姿について関心や好悪を抱いたことはない。

 美醜の区別くらいはつくが、そんなことで心を動かされたりはしない。

 かといって、ではどんな男性がすきなのかと訊かれても、返答に困ってしまう。


 幼い頃はリカルド以外の異性に好意を抱いたことはなかったし、今となってはそれすらおぼろげだ。

 「後宮」に上がってから、リカルドのことを想い出すことはほとんどない。

 だからアカデミーで少女らしい青春を送ってきた同僚たちに色恋について尋ねられてしまうと正直困ってしまうのだが、やけに実感の籠ったレベッカの言い方に、ふと以前耳にした噂話を思い出す。


「……アトリー卿が皇太子殿下の側仕えを解かれたのは、レベッカ様との『痴情の縺れ』が原因ですか?」

「―――ッ」


 ステラが尋ねた瞬間、ちょうどティーカップに口をつけたレベッカは淑女としてあるまじき「ぶふぉっ」という声を出して盛大にむせた。


「……大丈夫ですか?」

「貴女……いきなり何てことを言うの……おぞましい……」

「以前フランチェス様たちがおっしゃっていたので……」

「二度と口にしないでちょうだい」


 紅茶で少し濡れてしまった口元をナプキンで拭いながら、レベッカはステラをじろりと睨みつける。

 先程とは比べ物にならない本気の怒りを感じとり、それ以上の追及は諦めた。「おぞましい」とは、そこまで言うか、とも思ったが。


 ジャンは以前、レオンハルトの教育係になるまで皇太子の側仕えをしていた。

 同じく皇太子に仕えているレベッカとは、とても親しげに見えた。気の置けない間柄、とでもいうべきか。

 レベッカはジャンに対して結構当たりが強かったが、ジャンはそれを嬉しそうに受け入れていた。


 それがジャンが第二皇子付になってからは、口もきかない、目も合わせない。

 まだ若い、頭の中がほとんど色恋で占められている少女たちが何かあったのでは、と邪推するのは無理からぬことだろう。

 見た目の話をするならば、レベッカも十分美しい。少し年齢は離れているが、十分似合いの二人に見えた。

 正面切って尋ねるような猛者はいなかったためそういった噂があったことを当人たちが知っていたかどうかは定かではないが。


「……まぁ、そのようなくだらない話ができるほど上手くやれているのなら安心したわ」


 息を整えたレベッカはほんの少しだけ表情を和らげる。

 「氷の侍女」と呼ばれ部下や高位官吏からも密かに恐れられているレベッカだが、実はわりとすぐ表情に出るし、わかりやすいところがある。

 出会いが出会いなせいか何かとステラのことを気にかけてくれているが、こんなにも気安い関係になれるとは思わなかった。


「アトリー卿のことは、正直わたくしもよくわからないの。カーティスが絡んでいるという話だけれど、はっきりしたことは、何も」

「……ディルク卿が……」


 皇帝の近侍であるカーティスが関わっているということは、皇帝預かりの事案ということだろうか。


 しかしステラはそれよりもレベッカが彼のことを名前で呼び捨てに呼んだということに驚いた。

 当の本人は先程の動揺が尾を引いているのか気付いていないようだが。


 皇帝付近侍と皇太子付侍女頭。

 その関係性は近いようで遠い。

 基本的に皇帝の補佐をする近侍は「宮殿」勤めで侍女頭は「後宮」勤めだから、業務上顔を合わせる機会も必要も無い。


 二人の関係が気にはなったが、ステラが知ってかまわないことなのかわからず、結局口を噤んだ。

 きっとレベッカにもジャンにも、ステラが知る必要のない様々な事情があるのだろう。


 ステラが勤め始めたばかりの頃の庭園での一件以来、レベッカは何かとステラのことを気にかけてくれるようになった。

 しばらくすると同僚たちの悪意ある囁きが聞こえなくなったのも、おそらくは彼女の何らかの「配慮」によるものなのだろう。

 あるいは「侍女頭と親しい」と思われたことで自分たちがしてきたことのへの報復を恐れたのかもしれない。

 何にせよ、ステラにとって働きやすい環境になったことは間違いない。


 レベッカに改めて礼を言うと、気にする必要はないとあしらわれた。

 ただ恩を感じているのなら、もっと自分のことを大切にしなさい、と言われた。

 どうしてそれが恩返しになるのか理解できなかったし、そもそも「自分のことを大切にする」ということがどういうことなのかもよくわからなかった。


 出逢ったばかりの頃、レベッカは不思議なことばかり言っていた。

 あの頃のステラには、彼女の言っていることがよくわからなかった。


 自分を大切にしろ。心に願う未来を描け。清廉に、丁寧に、誰にも恥じることない日々を紡げ。


 そんなことを言われたのは初めてで、どうすればいいかわからなかった。


 「後宮」に上がるまで、ステラの人生はソフィアのために存在していたから。

 姉を哀しませないように、姉が望むように生きることがステラの役割だった。

 姉の言うことが正しくて、絶対で、ステラの意思など必要なかった。

 誰に強要されたわけでもなく、そうあるべきだと思い込んでいた。

 もしかしたら、それは自分なりの贖罪のつもりだったのかもしれない。

 姉の婚約者(リカルド)に恋慕する自分のことを、ずっと負い目に感じていたから。


 それが「後宮」に上がって姉のいない生活が始まると、これからどうやって生きていけばいいのかわからなくなってしまった。

 二人の婚約解消の話を聞くと、なおさら。

 ソフィアもリカルドもいない生活がこんなにも不安だなんて思わなかった。

 まるで暗い森の中に一人置き去りにされてしまったようで、心細くて仕方なかった。

 だから本音を言うと、レベッカの言葉に戸惑いながらも、生き方を示してもらえたことに安堵もしていた。


 レベッカの言う「自分を大切にする」ことがどういうことなのかはまだよくわからなかったけれど、ただ彼女に言われた通り誠心誠意仕事に打ち込み、主に尽くした。

 ひとつひとつ丁寧に仕事をこなしていくうちに、侯爵令嬢として使用人に傅かれるよりも、誰かに仕えることの方が向いているのかもしれないと思うようになった。

 決断や結果を他者に委ねることは、楽だった。


 そうしているうちに仕事ぶりが第二皇子付侍女頭の目に留まり、専属侍女として仕えることが決まった。

 皇太子付のレベッカとはいわゆる「派閥」が違うが、たまの非番が重なればこうしてお茶に誘ってくれる。

 彼女の淹れてくれるローズヒップティーは、今まで飲んだどのハーブティーよりも美味しい。


「あと貴女の周りの未婚の男性って言うと……。……殿下くらいかしら」

「何て恐れ多いことおっしゃるんですか」

「そうよね。殿下がご結婚できるお歳になるまでは待てないわよね」

「違います……。そういうことではありません……」


 神妙な顔つきで言うレベッカは、本気なのか冗談なのかわからない。

 よくレベッカに「貴女は冗談が通じない」と言われるが、レベッカにだって問題はあると思う。言えないけれど。


「じゃぁやっぱりアトリー卿?」


 何が「やっぱり」なのか。先程自分で「不可」の烙印を押したはずの相手を再び薦めてきた。

 まともに考えればちょっと失礼だと思う。ステラにも、ジャンにも。


「あぁ、でも可愛いステラがあの方と、なんて嫌だわ。絶対に嫌。やっぱりやめておきなさい、ステラ」

「……レベッカ様はアトリー卿のことお嫌いなんですか?」

「貴女はすきなの!?」

「違います。話をちゃんと聞いてください」


 今日のレベッカはどうしたのだろう。

 淹れてくれたハーブティーにアルコールでも入っていたのだろうか。

 それともたまの休みで浮かれているのか。

 否、仕事人間のレベッカにかぎって後者はない。


「……別に、嫌っているわけではないわ」


 爪まできれいに磨かれた指が、杏子色の前髪を払いのける。

 普段仕事中はきれいにまとめている髪を、今日はレベッカもステラも結わえずに下ろしていた。


「ただ彼を見ていると、苛々するの。初めて会った頃から彼はどこか自分をもてあましているように見えて……もどかしかったわ」


 レベッカがジャンに初めて会ったとき、彼はまだ十六歳だった。

 鉄色の瞳はこの世のすべてに絶望しているかのように見えて、少年らしい細い背中はいつも寂しげだった。

 常に笑みを絶やさないのに、その笑顔がレベッカには空虚に思えて仕方なかった。

 望めば多くの物を手に入れられるはずなのに、何も望もうとしない、何にも執着しない彼のことが、気になって仕方なかった。

 簡単に足を踏み外して落ちていきそうな彼の危うさが心配でたまらなかった。

 主以外に心を砕く余裕など無いししたくもないのに、心を乱すジャンの存在が腹立たしかった。

 それなのに無視できなかった。


 苦虫を噛み潰したような表情で語るレベッカは、きっとジャンのことが好きだったのだろう。

 煩わしいと苛立ちながらも手にかかる弟の面倒を見るように、彼を見守ってきたのだ。


「……意外です」

「何が?」

「アトリー卿のそんなお話。……皇太子殿下にお仕えするアトリー卿は、とても楽しそうに見えました」


 レオンハルトに仕えている今よりもずっと。


 教育係としての仕事ぶりは完璧だが、ジャンは時折レオンハルトのことをゾッとするほど冷たい眸で見ているときがある。

 本当はジャンは、皇太子の側仕えに戻りたいのではないだろうか。

 初めて会ったときの、皇太子に向けていた眼差しを知っているからこそ、余計にそう思えてならない。


 二年前の冬、「後宮」の庭園でジャンが皇太子を背負って現れたときは驚いたが、寄り添う三人の姿を見て、なぜか泣きたくなったことを覚えている。

 あのときステラは皇太子を慈しみレベッカを気遣うジャンの姿に、目を奪われた。


「……そうね。殿下の御傍に侍るうちに、アトリー卿は少し変わっていったわ」


 手元のカップに視線を落とし、レベッカは呟くように話し出す。


「殿下は、不思議な御方よ。そこにいらっしゃるだけで、周りに希望を与える。あの御方の存在そのものが奇蹟なの」

「……奇蹟」

「貴女もきっと、お仕えしてみればわかるわ」


 そう言って微笑んだレベッカの表情がどこか寂しそうに見えたのは、ステラの気のせいだろうか。


「でも結局、人はそう簡単に変わらないのよ」


 怒りよりも諦めが滲む声だった。レベッカはジャンを見限ったのだと思った。

 嫌いになったわけではない。ただもう二度と、皇太子に寄り添う二人を見ることはできないのだと悟った。


「結局彼には、大切なものなんて何も無いのよ。彼はきっと、自分のことも他人のことも大切にできない。……あぁいう男に心を奪われたら、身を亡ぼすでしょうね」

「……」


 それは体験談なのだろうかと思ったが、やはり確かめることはできなかった。


「……貴女とこんな話ができるなんてね」


 何と言っていいのかわからず答えに悩むステラの心中を察したのか、レベッカは小さく笑う。

 苦笑のような笑みだった。


「……えぇ。本当に」

「これからはしばらく会えなくなると思うと、寂しいわ。元気でね。くれぐれも妙な男に引っかからないように」


 冗談めかしてそう告げるレベッカは、もうすぐ「後宮」を去る。

 今年の冬に帝位継承権を与えられて皇太子となったアデルバートと共にセイレーヌの離宮に移るのだ。


 何かと気にかけてくれるレベッカのことは、いつの間にか姉のように思っていた。

 時に叱咤し、時に励まし、こうして安らげる時間を共有してくれた。

 レベッカと過ごす時間は楽しくて心地よい。

 あまり喋ることが得意ではなかったはずなのに、彼女との会話は少しも苦ではない。

 そんな彼女と会えなくなることが寂しい。


 本当の姉(ソフィア)の元を離れるときは、少しも哀しくなんてなかったのに。


「……レベッカ様」

「なぁに?」

「また帝都に戻って来られたときは……こうしておしゃべりしてほしいです……」


 膝の上に置かれた手をもじもじさせながら告げると、レベッカはぽかんと口を開けて固まった。

 そんなにおかしいことを言ってしまっただろうか。図々しいと呆れられてしまっただろうか。

 レベッカの反応に、やはり言わなければよかったと不安になると。


「び……っくりした……。もう何て可愛いこと言うの。びっくりしたじゃない」

「も……申し訳……」

「やだもうそんな可愛いこと言われたら連れて行きたくなっちゃうじゃない……」

「え……」

「これでも貴女が断らないのをいいことに、貴重な休みに上司とのティータイムなんかに付き合わせて申し訳なく思ってたのよ。だから初めて貴女の方からそう言ってもらえて嬉しいわ」


 若干高めのテンションが自分でも恥ずかしくなったのか、レベッカは頬をほんのりと朱く染め、照れたように笑う。

 レベッカのことを「氷の侍女」なんて呼ぶ人は、きっとこの笑顔を見たことないのだろう。もったいない。


「ねぇ、ステラ。こうしたいとかあぁなりたいとか、自分の気持ちを大切にしてね。

 貴女はもっとちゃんと、自分の心に耳を傾けなさい。たくさんのものを見て、たくさんのことを感じて。大切なものをちゃんと見つけなさい。貴女ならそれができるわ」

「レベッカ様……」

「次会うときは、貴女の話をたくさん聞かせてちょうだい。……約束よ」


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