E.C.1002.01-1
前回更新分より時間はあまり進んでませんが、ステラが「後宮」に上がってすぐのお話です。
「ねぇ。借金のカタに売られるって、どんな気持ちなのかしらね?」
好奇心と悪意を孕んだ囁きが聞こえ、ステラはゆっくりと振り返る。
囁き合っていたのは、ステラより二つ三つほど年上に見える数人の少女たち。
こちらを少しも見ていなくてもステラのことを言っているのだとわかったのは、きっと自意識過剰ではないだろう。
「アカデミーも退学されてお金のために働かれるなんて、普通は耐えられませんわよね」
「本当。わたくしだったら恥ずかしくて生きていけませんわ」
「やだ。聞こえてしまいますわよ」
本当に聞かれたくないことなら、口に出さなければいいのに。
誰にも話さず心の内だけにしまっておけば誰にも知られることはない。
などとステラが考えている間も彼女たちの囁きは止まない。
よほど他に話題が無いのだろうなと思いながら、再び椿を摘み取る作業に戻る。
花を活けるのは花と葉のバランスが大切だ。出来上がりをイメージしながら集めれば、無駄に花を摘み取ることもない。
それは「後宮」に上がったばかりの頃先輩侍女に言われたことだった。
実家にいた頃も淑女教育の一環として活け花を習ったことはあるが、あの頃はまさか花から自分で用意する日が来るとは思わなかった。
教わったことを忠実に守り、必要な分を摘み終えたときだった。
「貴女たち。何を無駄口叩いているのですか」
凛とした声が響き、潮騒のような囁きが一瞬にして止む。
どうしたのかと思わず視線をやると、後宮侍女の制服を纏った二十歳過ぎほどの杏子色の髪の女性が立っていた。
「エ……エイミス様……」
それまで楽しげに話していた少女たちが一瞬にして蒼ざめる。
現れたその女性が、第一皇子付侍女頭のレベッカ=エイミスだったからだ。
侍女頭とはその名の通り皇族の専属侍女の中でも最も位が高い侍女のことだ。
単なる小間使いなどではなく、皇家の馬車に主と同乗することも許されている。
また彼女たち自身いずれも名家の出身で、過去には皇帝に見初められ側妃に召し上げられた者もいるほどだ。
本来ならばステラたち新人侍女にとっては言葉を交わす機会すらない、雲の上の存在だった。
そんな彼女がどうして庭園の入り口にいるのかわからないが、冷やかなまなざしを向けられ、ステラも含めた少女たちは身を強張らせる。
「仕事中に噂話なんてはしたない。恥を知りなさい」
「そ……そんな、わたくしたちはただ……」
「ここは社交場ではありません。早く持ち場に戻りなさい」
「も……申し訳ありませんでした……ッ」
言い訳を試みるも、レベッカにぴしゃりと切り捨てられ少女たちは逃げるように去っていった。
残されたステラは呆気にとられていたが、我に返り慌てて頭を下げた。
第一皇子付侍女頭の厳格さは「後宮」で働く侍女ならば皆知っている。
主である皇子以外には笑顔を見せないという噂さえある。
目を付けられでもしたら大変だ。
しかし覚えたての侍女としての礼をとり少女たちに倣って立ち去ろうとすると、何故か呼び止められた。
「お待ちなさい」
「はい……?」
「その椿はどうするつもりですか?」
「……妃殿下方のお部屋に飾るため摘んでくるよう仰せつかりました」
「そう」
「後宮」への出入りを許されてはいるが、専属侍女ではないステラたちは直接皇族の傍に侍るのではなく、侍女頭や侍従の指示の下「後宮」内を整えることが仕事だ。
先程逃げた少女たちも同様に先輩侍女に命じられていたため、言ってしまえばここが「持ち場」だ。
凛として美しいこの侍女頭に冷やかに睨まれては逃げ出したくなる気持ちもわかるが。
「……正妃殿下は薔薇の花がお好きだから、そちらを飾ってさしあげなさい」
「え?」
「薔薇園の中のものを摘んでいきなさい。何か言われたらわたくしの名前を出してかまいません」
「はぁ……」
予想外の言葉に気の抜けた声を返すと、「もっとはっきり返事なさい」と叱られた。
「……貴女、名前は?」
「ステラ=ミーリックと申します」
まさかはっきり返事しなかっただけで目を付けられるのか。
面倒なことになりそうだと思いつつも素直に名乗ると、レベッカはかすかに瑠璃色の眸を見張った。
「……貴女があの……」
思わずなのか、呟いたレベッカはハッとしたように口を噤む。
レベッカは一瞬バツの悪そうな表情を見せたが、ステラにとってはいつものこと。もう慣れてしまっている。
先程のように嘲笑めいた悪意に晒されることも、レベッカのように「あのミーリック家」と言われることも。
今から三ヶ月程前、社交界デビューを翌年の夏に控えた十四歳の秋、ステラは「後宮」に上がった。
本来城で働くに侍女はアカデミーを卒業した良家の息女がなるものだ。
城に入った少女たちはまずは「宮廷」で侍女見習いとして半年務め、宮廷侍女を一定期間経験したのち上長の推薦があって後宮侍女へと昇格する。
専属侍女でなくとも「後宮」で働くとなると皇妃や皇子、皇女など皇族に接する機会が無いとも限らないため、高い水準の能力が求められるからだ。
ステラのように何の経験も無くいきなり「後宮」に放り込まれるなど、異例中の異例だった。
「……いつもあのようなことを言われているのですか?」
「『あのような』とは……?」
「……御実家のこと……とか……」
「あぁ……はい」
「後宮」で働いている侍女たちも「外」と隔離されているわけではない。
制限はあるが手紙のやり取りはできるし、届けを出せば夜会への出席も可能だ。
自らの経歴に箔を付けるため「後宮」に上がった彼女たちは、積極的に夜会に参加し、「情報」を仕入れてくる。
おそらくはミーリック侯爵家が経済的に逼迫していることも社交界では有名な話なのだろう。
最初のうちはステラに戸惑い遠巻きにしていた同僚たちも、次第に嘲笑を向けるようになっていった。
かつての名家の没落ぶりを噂で知り、それを証明するかのようなステラをせせら笑うことで、日頃の欝憤を晴らしているのかもしれない。
個人的な恨みか単なるストレス発散かはわからないが、「後宮」に上がってこの三ヶ月、毎日そういう小さな悪意に晒されてきた。
だから先程のようなことはステラにとっては慣れっこだ。
ただあえて訂正して回るつもりも必要もないが、少女たちの「噂話」の中に誤りがあるとしたら、ステラがここにいるのは借金のカタに売られたせいではない、ということくらいだ。
ミーリック侯爵家に借金があるのは事実らしいが、侯爵家の借金が娘を一人城に入れたくらいでどうにかなるわけはない。
彼女たちの言う「売られる」が借金を肩代わりしてもらう条件で働く、という意味ならば、それを皇家に求めることは現実的ではない。
裕福な資産があり余っている貴族や商家に嫁ぎ援助を求める方が賢明だ。
ならばどうしてステラが今ここにいるのか。
実のところ、ステラ自身もよくわかっていない。
ステラが望んだわけでも借金のカタに売られたわけでもなく、ステラは従伯父に命令に従っただけだ。
四ヶ月前、父の従兄だという男がミーリック侯爵家を訪れた。
ステラにとって従伯父にあたるジョージは、顔立ちは少し父に似ていたかもしれないが、リディアンと違い寡黙で不愛想な男だった。
最近では顔を合わせることはなかったが、幼い頃、まだ母が生きていた頃はよく訪ねてきていた。
庭や母の部屋で二人が話しているところを何度か見かけたことがあった。
久しぶりに会った従伯父はしばらくリディアンと共に客間に籠っていたが、半刻程してステラが呼ばれた。
ソフィアではなくステラに用だなんて珍しいと思いながらも客間に入ると、従伯父はステラに開口一番皇城へ行くように命じた。
アカデミーも辞め、侍女として「後宮」に上がれるよう手配した、と告げられ驚いて父を見やると、リディアンは何も言わなかった。
部屋に戻るからあとは従伯父上の言う通りにしなさいとだけ告げ、客間を出て行った。
二人きりの部屋で、従伯父はステラを見てエライザによく似てきたな、とポツリと呟いた。
エライザとは六つのときに亡くなった母の名だ。
確かに三姉妹の中では、ステラが母に一番よく似ていた。
何と答えればいいのかわからず戸惑うステラに、従伯父は「後宮」で困ったことがあれば国務大臣補佐官を頼るよう告げた。
古くからの友人で、今回「後宮」に上がれることになったも、彼のつてなのだという。
それ以上何も語ることはなく、そうして従伯父は帰っていった。
父と従伯父、二人の間でどんな話がされたのはわからないが、そうしてステラは従伯父の訪問から数週間後には「後宮」に入ることになった。
その間父に理由を何度尋ねても教えてくれなかった。
様々な手続きに追われて慌ただしく日々は過ぎ、結局ミーリック侯爵家に借金があること、ソフィアとリカルドの婚約が解消されたことを知ったのは、「後宮」に上がったあとだった。
そのときに感じた衝撃も絶望も、日々を重ねるうちに次第に薄れていった。
結局人は忘れるし、慣れるのだ。永遠に続く哀しみなんて存在しない。
周囲の囁きが煩わしかったのも最初のうちだけで、今やすっかり日常となっている。何の感慨も湧かない。
しかしレベッカは、神妙な表情で口を開く。
「……困ったことがあれば、報告してかまいません。城で働く者たちが快く皇家の方々にお仕えできるよう心を配ることも、わたくしたち侍女頭の務めなのですから。
特に貴女は未成年で親御さんからお預かりしている身です。今回のことは……配慮が足りず、申し訳なく思います」
「はぁ……」
淡々と、だが言葉通り申し訳なさそうに告げるレベッカに、ステラは瞬きを繰り返す。
彼女の言わんとしていることが理解できない、ということではない。それをどうしてステラにわざわざ言うのかわからないのだ。
しかも言いたいことは済んだはずなのにその場から動こうとしないのは、もしかしてステラの「報告」を待っているからなのだろうか。
逡巡の末、ステラは恐る恐る口を開いた。
「……『困ったこと』……とは、例えばどういうことでしょう」
「は?」
「お気遣いいただいて大変ありがたいことなのですが、今は特に思いつかなくて……」
実家で暮らしていたときと違って相部屋だし食事の時間は変な時間だし着替えも自分でしなければいけないけれど、別に困ってはいない。
強いて言うならば今、「困ったことが思いつかなくて困っている」のだが、レベッカが求めていることがそういうことではないことくらいは、ステラにもわかる。
「……困ったことは無いと?」
「はい……特には……」
「あのように言われて、何とも思わないのですか?腹が立ったり、やめてほしいと思ったり……」
「……?そう思うことに、何か意味がありますか?」
怒っても嘆いても、現実は何も変わらない。やめてほしいと懇願して聞き入れてくれるような人たちならば最初からあんなことは言わないだろう。
解決できないことに困っても仕方がない。
心からそう思っているのに、何故かレベッカは驚いたように目を見張ったあと、哀しげな表情を向けてきた。
「……本当のことだからと言って、何を言ってもいいというものではないわ」
静かな声だった。
部下だから、年下だからとステラを侮る気配は一切ない。人として真摯に向き合ってくれているのだとわかる。
わかるからこそ、理解できない。
「尊び、敬い、心を尽くして皇家の方々にお仕えすることがわたくしたちの役目です。けれどそれは、自分のことをないがしろにしてもいいということではありません。わたくしたちの主はそのようなことを望まれるような御方ではないのですから。
わたくしたちは尊い御方にお仕えしているのです。そのことを誇りに思い、矜持を保たねばなりません」
「矜持を保つ」とは、どうすればいいのか。何をすれば「矜持を保つ」ことになるのか。
理解できないステラに、こんな言葉をかけてもらう資格なんてあるのだろうか。
答えに詰まるステラに三度レベッカが口を開こうとしたとき、庭園内の奥から歩いてくる人影があった。
「あれ?エイミス嬢。こんなところで何されてるんですか?」
現れたのは、褐色の髪と鉄色の瞳をした二十歳過ぎほどの青年だった。
なぜか若干前かがみになり、両腕を後ろに回すという奇妙な姿勢をとっているが、背は高く顔立ちも端正だ。
「後宮」内においては珍しい男性であるその青年は、おそらく第一皇子の側仕えのジャン=アトリーだ。
大変な美青年で、「後宮」で働く唯一の楽しみは彼の姿を見ることだ、と以前先輩侍女が話していたのを聞いたことがある。
久しぶりに見る異性の姿にステラが思わず身構えると、妙な姿勢のままジャンはにこりと微笑んだ。
その笑みを見て、ステラはますます警戒心を強める。
麗しいことこのうえないのに、なぜか「胡散臭い」と思ってしまった。
一方レベッカは、むっとしたように眉間をひそめた。
「……お帰りが遅いから様子を見に参りました」
「おや。心配してくださったんですか?」
「殿下はどちらに」
「こちらでお休みになってますよ」
「氷の侍女頭」とも呼ばれるレベッカに対しやけに気安い口調で答え、ジャンは半身を捻る。
ほら、と示された背中にいたのは亜麻色の髪をした幼子。
彼を背負っていたから前傾姿勢をとっていたのかと得心する。
ステラの位置からは顔はよく見えないが、話の内容から察するに背負っているのは第一皇子だろう。
そもそも見えたところでステラは皇子の顔など知らないが、何にせよ、初めて対面する皇族に、ステラは慌ててその場に跪く。
レベッカはジャンに近付き、皇子の顔を覗き込む。ジャンが少ししゃがんだのは、見えやすいようにという配慮なのだろう。
「眠っておいでなだけですか?またご気分が悪くなったわけではなく?」
「それは大丈夫です。昨日夜更かしされてみたいですし、歩いてるときから何かうとうとされてるなーと思ってたんですよね。案の定、休憩したらすぐダウンしちゃって。このまま私がお運びした方が起こさないと思うので、かまいませんよね?エイミス嬢は何か御用事が?こちらのお嬢さんとお話し中でしたか?」
気安いというか、何となく軽薄な男だという印象を抱いた。
ジャンについての噂は、容姿の美しさについてしか知らない。
第一皇子の側仕えという立場のジャンもまた、ステラたち新人侍女にとっては雲の上の存在だった。
「……わたくしもいっしょに戻ります」
「ん……レベッカ……?」
ジャンの背中で皇子が目を覚ましたのか、ぐずるように声を発する。
けれどまだ寝ぼけているのか、目は開いていない。
「はい、殿下。レベッカはここにおりますよ」
「んん……」
「だから昨日あれほど早くお休みになるよう申し上げたでしょう。今日こそは早く寝ましょうね」
「ん……」
あやすように優しい声で語りかけるレベッカは、先程とは別人のように見えた。
こんな風に話しかけられた記憶などないはずなのに、ステラには彼女が「母親」のように思えた。
ステラには、あまり母と過ごした記憶が無い。
幼いときに他界したのもあるが、何よりエライザはきっと、ステラのことをあまり好きではなかったのだと思う。
けれどかといって、姉のソフィアや末の妹ジェシカのことを特別好きだったというわけでもない。
母は、誰のことも愛していなかった。優しい夫も娘たちも、自分以外の誰のことも愛してはいなかった。
別にそのことを不満に思ったことはない。
ずっと母とはそういう生き物なのだと思っていた。
優しい母親も温かな家庭も存在すると随分あとになって知ったが、その頃には既に母は他界していたし、ステラの歳ももう十を越えていたため、改めて求めたこともない。
求めたところで手に入るわけでもないということも知っていた。
それなのに、ジャンの背中で眠る皇子の頭を撫でるレベッカを見ていると、どうしてだか、無性に泣いてしまいたくなった。
「ミーリック嬢」
「……はい」
再び寝息を立て始めた皇子から手を離し、レベッカはステラに向き直る。
そのときにはもう、厳格な侍女頭の顔に戻っていた。
「先程の話はとても大切なことです。忘れないでね」
「……はい」
頷いてみたけれど、自分をないがしろにせず「矜持を保つ」こと。
それがどういうことなのか、ステラに理解できる日がくるのか、まるでわからなかった。
「よろしい。
では参りましょう」
「またお説教ですか?そんなんだから怖がられるんですよ」
「貴方は本当に無駄口ばかり叩きますね。いつかその口縫いつけますよ」
物騒なことを言いながら、皇子を背負うジャンを促しレベッカは歩き出す。
男性に対してあんな口の聞き方をする淑女がいるなんて衝撃だが、ジャンはまるで気分を害した様子はないし、むしろなぜか楽しそうだ。
変な人。
それがステラがジャンに抱いた第一印象だった。
後姿だけ見れば仲睦まじい親子のように映らなくもない上司たちが見えなくなる頃、ステラは自分の仕事を思い出し、正妃のための薔薇を用意するべく薔薇園へと向かった。
【本編では触れなかった設定】
作中でいう「侍女」とは「宮廷」で来賓や官吏の給仕をしたり「後宮」で皇族の身の回りの世話をする女性のことです。
大きく分けると「宮廷侍女」「後宮侍女」がいますが、「後宮侍女」の中でも実際に皇族の傍に侍り言葉を交わすことが許されている侍女は「専属侍女」と呼ばれています。
皇妃や帝位継承権授与後の皇子・皇女には専属侍女がつけられ、その中でも一番階級の高い侍女が侍女頭です。
ちなみに帝位継承権を授かるまでは生母の皇妃の専属侍女にお世話されます。
レオンは生母が亡くなっているので例外として授与前から専属侍女がついてます。
あとジャン視点の番外編で「ステラは十六歳で『後宮』に入った」とありますが、ジャンが認識してなかっただけで十四歳から「後宮」で働いてました。
このときの出逢いもジャンは覚えていなくて、ステラを認識し始めたのはステラがレオン付になった頃からです。




