E.C.1019.05-6
時間は進んで番外編冒頭部分と同日付のお話です。
ジャン視点の番外編は今回で終了です。
ときどき、思うことがある。
彼は、彼らは、ジャンにとってどういう存在だったのだろう。
彼らと過ごした日々に、いったい何の意味があったのだろうか。
ケビンが帰ったあと、一人自室にこもって仕事をしていたジャンは息を吐き、ペンを手放す。
机に向かったはいいが、先程から一行も進んでいない。
今日は筆が乗らない。久しぶりに懐かしい名前を聞いたせいか、感傷的になってしまっているのかもしれない。
ずっと考えないようにしていた。
そうしないとすぐに想い出してしまうから。
蓋をして、深く深く沈めていなければ、簡単にあの頃の記憶が蘇る。
それほどまでにあそこで過ごした日々は、ジャンとって鮮烈だった。
あの日々を、忘れられるはずがない。
すべての始まりは、十六歳の春。
兄に見限られ絶望し、自暴自棄になっていたジャンの前に現れた、美しく聡明な小さな皇子。
いくつかの偶然が積み重なった、奇跡のような出逢いだった。
共に過ごすうちに、病と闘いながら懸命に生きる彼の力になりたいと思うようになった。
彼に必要とされることが嬉しかった。
彼が微笑むたび、彼に名を呼ばれるたび、ここにいてもいいのだ、生きていてもいいのだと、何かを許された心地がしていた。
アデルバートがジャンに生きる希望を与えてくれた。
大切な大切な、敬愛する主。
彼に出逢わなければよかったと思ったことなどない。
たとえ彼との出逢いが、すべての悪夢の始まりだったとしても。
そう。
ジャンは、夢を見ていた。
彼女と出逢ったその瞬間から。
光の中で出逢った「太陽の女神」。
否、あれは「出逢った」のではない。一方的にジャンが彼女を見つけただけ。
勝手に彼女を見つけ、勝手に恋に落ちた。
望みも救いも無い不毛な初恋だったけれど、美しさに目を奪われ、奔放さに心を囚われた。
彼女が存在しているというだけで、世界は輝いて見えた。
たった一度しか言葉を交わしたことはないけれど、その一度きりの想い出を胸に随分長い間初恋をこじらせていた。
忘れ形見である彼女の息子に、彼女の面影を求めるほどに。
天使のように愛らしく、女神のように美しい。
ジャンがそう讃えるたびレオンハルトは嫌がって怒っていたけれど、ジャンは本気でそう思っていた。
夏空の瞳も金色の緩やかに波打つ髪質も、すべて生母のマリアンヌから受け継いだものだったから美しいと思え、愛おしかった。
レオンハルトは髪も眼も顔もマリアンヌにそっくりで、もしも一つでも彼女と違うところがあれば、きっとジャンは彼の傍にはいない。
そう思えるほど、マリアンヌにうりふたつのレオンハルトの成長を見守ることが、あの頃のジャンの生きがいだった。
どうかしていると、自分でもわかっていた。
けれど「後宮」では誰も彼も、どうかしていた。
誰もが皆、歪んでいたのだ。
初恋の女性の面影をその息子に求めるジャンも、夫と他の女の間に生まれた子を愛でる第三皇妃も、最愛の兄の婚約者候補を妬み疎む第一皇女も、自らの立場を脅かす異母弟を慈しむアデルバートも、父に愛されない虚しさを兄を慕うことで誤魔化そうとするレオンハルトも。
二人目にして最後の主の姿を脳裏に描き、ジャンは再びため息を吐く。
何もかも手に入れるはずだったレオンハルトは結局、初恋の姫と結ばれることはなかった。
アメジアの王女は皇太子妃ではなく皇妃として「後宮」に迎え入れられた。
初恋の姫を義母と呼ぶのは、どんな心地だっただろう。
皇帝がレオンハルトの想いを知っていたわけではないだろうが、婚約の報せを聞いたときには随分と酷なことをすると思った。
そのとき同時に「いい気味だ」と思ったかどうかは、もう覚えていない。
レオンハルトの不幸を積極的に願ったりはしなかったが、もしかしたら、彼の悲劇を喜ぶくらいのことはしたかもしれない。
それほどまでにジャンがレオンハルトに対して抱く感情は複雑だった。
初恋の女性の忘れ形見としてただ愛でることができればよかったのに。
彼の姿形を愛しく思う一方で、彼のことを疎ましくも思っていた。
皇太子であるアデルバートの立場を脅かす存在でありながら、それでもなお兄に愛されたレオンハルトが、妬ましくて許せなかった。
けれどそれでも心から憎んだり恨んだりすることはできなかった。
だからこそジャンは、レオンハルトの元を去ったのだ。
「失礼します、ご主人様」
軽快なノックのあと、メイドが顔を覗かせる。
城仕えを辞して城下に屋敷を構えてからは、執事とメイドを何人か雇い入れていた。
結局、貴族との関わりを絶ち市井に紛れようとしても、生まれながらの染みついた慣習は変えようがなかった。
「なんだ?」
「お客様がお見えです。ミーリック様とおっしゃる御婦人です」
「ミーリック……?」
「三十歳くらいの灰色の髪の綺麗な方ですよ。以前お城で第二皇子殿下の侍女をなさっていたとお伝えすればわかる、と」
来訪者の名前を繰り返すジャンに心当たりがないとを勘違いしたのか、メイドが補足する。
けれどジャンは、来訪者の正体がわからなかったわけではない。
彼女が訪ねてくるなんて、にわかには信じられなかっただけだ。
「こんな時間に……御婦人が?」
「とりあえず客間にお通ししてます」
「何を勝手な……」
「え、追い返した方がよかったですか?」
「……そうじゃない。だがまずは私に確認してからだと、いつも言っているだろう」
「あ、すみませーん」
軽い調子で言うメイドに、ジャンは眩暈がした。
彼女を雇ってもう二ヶ月ほどになるが、一向に成長が見られない。
「……すぐに行くから、お茶の用意を」
「はぁい」
緊張感の無い返事にこめかみを抑えながら立ち上がる。
着替えるべきかと一瞬思ったが、寛げた襟元を正すだけでそのまま部屋を出た。
彼女相手に今更取り繕っても仕方ない。
「お待たせ致しました」
声をかけ、扉を開ける。
中で待っていたのはダークグリーンのワンピースを身にまとった濃い灰色の髪と榛色の瞳の女。
最後に会ったときから八年が経った。
記憶の中の彼女と比べ、随分と歳を重ねた。
けれど冴え冴えとした美貌は少しも損なわれていないし、あの頃よりも匂い立つような艶やかさが増したように感じる。
「……お久しぶりです、ミーリック嬢。……いいえ。ランドール侯爵夫人、とお呼びすべきですね」
ジャンの言葉に、来訪者――ステラはそっとまつげを伏せる。
肯定とも否定ともとれる、曖昧な仕草。
今から四年前、ステラは第二皇子のレオンハルトの侍女を辞した。
そしてランドール侯爵家当主の元に嫁いだ。
ランドール侯爵はステラよりも二十も年上で、彼女とそう歳の変わらない息子が二人いた。
息子がいるのだから当然妻もいる。
否、「いた」。
前妻は十五年以上前に病で他界していて、つまるところステラは後妻、後添えだった。
当時ステラは二十七歳。適齢期をかなり過ぎていたとはいえ、ミーリック侯爵家の次女にして第二皇子付侍女頭という彼女の肩書を見れば、ありえないほど悪条件の結婚だった。
そんな結婚を彼女に強いた姉夫婦に反感を抱いたが、それよりもジャンは、結婚するつもりなど無いと言っていたはずの彼女の心境の変化に驚きを隠せなかった。
「御無沙汰しております、アトリー卿」
記憶の中の声と少しも変わらない声。
彼女の声を少しも忘れていなかったことに、何とも言えない気分になる。
「後宮」にいた頃、ジャンはステラに対してある種の特別な感情を抱いていた。
恋や愛などと言う甘やかな感情ではない。
そんな単純なものであればよかったと、何度思ったことだろう。
閉鎖的なあの空間で、ステラはどこか異質だった。
日々堅実に業務をこなすくせに、物知らぬ小娘のように現実味のない未来を語る。
誰にも嫁がず誰のものにもなろうとせず生涯主に尽くしたいと語るステラは、ジャンにとってはいびつで、奇妙で、眩しく見えた。
レオンハルトのために生きようとするステラが、生きる意味を持っている彼女が、羨ましかったのかもしれない。
他の誰とも違う彼女に興味を抱いた。
彼女は他の誰とも違うのだと、勝手に思っていた。
それなのに今目の前にいるステラは、他の女と同じように誰かの妻となり、男の庇護の元生きている。
彼女には彼女の人生があり、それに口を出す権利などジャンには無いと理解しているのに、彼女が結婚したという話を聞いたときジャンは、なぜか裏切られたような心地になった。
勝手な話だ。
「失礼いたします」
お茶の用意をしたメイドが戻って来た。
カチャカチャと音を立てながらカップを並べるメイドに、ステラが微かに眉を顰める。
かつて皇族付侍女頭まで務めたステラからすれば、雑な茶器の扱いが我慢ならないのだろう。
侯爵夫人となってもそこは変わらないのかと、思わず懐かしさとともに苦笑がこぼれた。
「ミーリック様はご主人様の恋人なんですか?」
「は?」
カップに茶を注ぎながらメイドが尋ねる。
いったい何を言い出すのかと眼を剥くと、同じようにステラも怪訝な表情をしていた。
「御婦人が訪ねてくるなんて珍しいなーと思って。ご主人様こんなに美男なのに浮いた話もなくて、男色家なんじゃないかって噂もあったんですけど、ちゃんといい人がいらしたんですね」
「……夫人に失礼だろう。クビにされたくなければ今すぐこの部屋を出て行け」
「えー」
もしかして秘密の恋人なんですかーと、解雇予告をものともせず能天気にメイドは部屋を出ていく。
主人の客相手に話しかけるなど正気の沙汰ではない。疼くこめかみを抑え、本日何度目かのため息を吐く。
まさかこの自分が使用人の言動に振り回される日がくるとは思わなかった。
かつて自分におちょくられていたレオンハルトの気持ちが今になって嫌というほどわかる。
「……大変失礼いたしました。彼女は雇い始めてまだ日が浅いのですが、まさかあんな無礼を働くとは……。きつく言って聞かせます。御気分を害すような真似をして申し訳ありません」
「……随分とユニークな使用人を雇っていらっしゃるのですね」
「…………お恥ずかしい限りです」
付き合いのある出版社の人間の親族で、行儀見習いがてら働かせてほしいと言われて仕方なく雇ったのだが、今日という今日は我慢の限界だ。
度重なる執事からの苦情を聞き流していたツケだと思えば自業自得なのだが、ステラが帰ったらすぐにでもクビにしよう。今すぐにでも追い出したい。
そんなことを考えながら、ジャンはメイドの淹れたお茶に口をつけた。
「それで、何の御用ですか」
「……」
「今日いらっしゃった御用件ですよ。まさか我が家のメイドの品定めにいらしたわけではないでしょう」
「……お約束も無く突然の訪問、申し訳ございません」
「それはかまいませんが、こんな時間に出歩いて……侯爵閣下は何もおっしゃらないのですか」
「今日は姉の屋敷を訪ねた帰りです。夫は最近仕事が忙しいのか帰宅が遅く、今日もまだ帰っていないと思います」
「……そうですか」
ステラの唇が紡ぐ「夫」という単語に酷く動揺していることには気付いていた。
夫の居ぬ間に訪ねてくるなど、火遊びを楽しむかのような言い方に、そんなつもりはないとわかっているものの、落ち着かない気分になる。
「……申し訳ありません。やはり帰ります」
「え?」
「失礼いたしました」
「何です、いきなりどうしたんですか」
しばらくの沈黙のあと、ステラが急に立ち上がる。
突然のことに驚いたジャンもまた反射的に立ち上がり、すぐ傍を通りすぎて立ち去ろうとするステラの手を掴んだ。
かつては水仕事で荒れ放題だった手は、今はどうなっているのだろう。
貴婦人の証であるこの手袋の下の素肌に触れられる日など、決して来ない。
そんなこと、わかっている。
「……ミーリック嬢……?」
扉の方を向いたまま、ステラはジャンを見ようとしない。
俯いた拍子に濃い灰色の髪が肩から零れ落ちたけれど、いつかの夜のように白い背が見えることはなかった。
「……わかりません……」
「え……?」
「用件など……ございません……。ただ……会いたいと思ったんです」
「―――ッ」
零れ落ちた言葉に、眩暈がした。
振り払われない手を、どうしたらいいのかわからない。
聞き間違いかと思った。―――聞き間違いであれば、よかった。
緩慢な動きで、ステラはゆっくり振り返る。
八年前にはつけていなかった香水の香りが室内の空気を揺らす。
息を詰めてジャンが見つめるなか、ステラは再び口を開いた。
「……アデルバート皇子殿下が、身罷られました」
「え……?」
「次の皇太子は、レオンハルト皇子殿下です。そう思ったら……貴方に会わなければ、と思って……」
長いまつげが震える様が、美しいと思った。
ためらうように開かれた唇に、触れたいと思った。
その華奢な身体を抱き寄せれば、彼女はどんな反応をするのだろう。
そんな不埒なことを考えてしまった報いだろうか。
つまらない期待をした。恥ずべき勘違いをした。
どうしてステラはこんなにも、ジャンを突き落とすのが上手いのだろう。
「……私に会って、どうなさるおつもりですか」
驚くほど冷たい声が出た。
自分の中に生まれた仄暗い感情を、上手く消化できない。
「私を訪ねてきたところで、あの御方の元を去った我々に、いったい何ができるとお思いですか。
私はしがない市井の物書きで、あなたはただの侯爵夫人だ。あの御方のためにできることなど何もありませんよ。何を思い上がっておいでですか」
「そんな……わたくしはただ……」
「それともただ、かつての主の栄達を祝いたいと?あの御方を見限った私とあなたで?」
「わたくしは、殿下を見限ってなど……ッ」
「ではなぜ結婚などされたんですか。未来の無い主に尽くすより、侯爵夫人の方が甘い蜜を吸えると思ったからではないのですか。
今頃になってあの御方の進退を気にするのは、あの御方が皇太子となられたからですか?それとも、老い先短い老人のお相手に飽き、若い男が恋しくなりましたか」
「―――ッ」
品の無い侮辱の言葉に、手袋をした手が振り上げられる。
部屋の中に、乾いた音が響く。
女性に頬を打たれるのは初めてではないが、きっとこれが、今までで一番痛かった。
「……何も知らないくせに……」
「……」
「わたしだって、殿下の元を去りたくなどありませんでした……。けれど、どうしようもなかった……。わたしがあの御方の弱みになるわけにはいかないから……ッ」
悲鳴のような怒りに聞こえた。
決して声を荒らげたりはしないのに、ジャンを見つめる瞳は、抑えようのない怒りを湛えていた。
「貴方こそ、どうして殿下の傍を去ったんですか……。どうして殿下の傍にいてくださらなかったんです……。貴方がいれば、何か変わったかもしれないのに……ッ」
ジャンが去った「後宮」で、レオンハルトに何があったのか。
そんなことはどうでもいい。興味は無い。
ただ――彼女は認めたくないだろうが――ジャンに対するある種の無責任な信頼に、苛々した。
「……あなたもそうやって、私のことを買い被るんですね」
「……『貴女も』……?きゃ……っ」
ジャンの頬を打った手をとり、強く引く。
バランスを崩したステラの身体を先程までジャンが座っていたソファーに沈めた。
覆いかぶさるようにして両手をつき、背もたれと自らの身体でステラを追い詰める。
彼女の腿の左側に膝をついてスカートを押さえつけてしまえば、身動きがとれなくなる。
それでも決して彼女の身体には触れられない自分は、どうしようもなく臆病者だ。
「何を……」
「今日の昼、二十年ぶりに兄と言葉を交わしました。何をしに来たと思います?アトリー家の繁栄のために私にあの御方の側仕えに戻れと、私を説得に来たんです。未だに私があの御方にとって価値があると信じていたようだ。
我が兄ながらつくづく愚かな男だ。愚かな父に逆らえず、言われるがままにやって来て、何もできずに帰っていきました。
アトリー家の繁栄を願うのならあんな兄、一日も早く当主の座から退かせるべきだ。あの男が当主であることこそが、アトリー家の未来に影を落としているというのに」
ジャンを映す榛色の瞳が、戸惑いに染まっていた。
瞳だけではない。ステラの顔にはジャンへの怯えが見て取れた。
突然無体を働き脈絡の無いことを言い出したジャンに怯えているのだろう。
自分でも、支離滅裂なことを言っているとわかっている。
こんなこと、ステラには関係ない。口にしても仕方ない。
けれど一度堰を切ったように溢れ出した激情を、止めることができなかった。
「兄よりも、私の方が当主に相応しい。誰もがそう思っていました。父も、母も、兄自身も。私以外の誰もが……っ」
だからケビンは、ジャンを陥れようとした。
自分の婚約者が弟に懸想していることを知り、不貞を働くよう仕向けた。
二人の間に本当に何かあったかどうかは問題ではない。
醜聞を嫌う父は、不祥事を起こしたジャンを家から遠ざけるだろう。
すべては、兄が仕組んだ罠だった。
ケビンという男は、ジャンが思っているよりずっと臆病で狡猾で、ジャンのことを疎んでいた。
兄はジャンの非凡さを妬み、恐れていた。
優れた弟がいつ自分にとって代わろうとするのか、ありもしない妄想にずっと怯えていた。
兄はジャンのことを、一度だって愛してくれたことなどなかったのだ。
真実を知ったときのジャンは、もはや絶望すらしなかった。何もかもがどうでもよかった。
いつだって一番欲しいものは、どうしても手に入らないのだから。
「……ミーリック嬢」
ジャンの頬を叩いた手を取り、指先に唇を寄せる。
ステラは大きく目を見開いた。
それが驚愕のためか嫌悪のためかはわからない。ただその表情の変化ははっきりと読み取れた。
「後宮」で共にレオンハルトに仕えていた頃に比べて、ステラは随分と表情が豊かになった。
怒りを露わにしたりジャンを詰ったり、あの頃のステラならば決してしなかった。
誰が彼女を変えたのか。
そんなこと、考えたくもない。
「もしも私が家督を継ぎ伯爵となっていれば、あなたは私のものになってくれましたか……?」
くちづけを贈った指先がピクリと震える。
手袋越しでは、互いの体温は伝わらない。
かつて初めて彼女の手に触れた夜、それでかまわないと思った。
その方がいいと、自分に言い聞かせた。
けれど本当は、あのときジャンは、ステラを抱きしめたかった。
ジャンの知らないステラを知っているリカルドに嫉妬した。
ジャンの知らない女の顔をするステラに不安を感じた。
腕の中に閉じ込めて、彼女を自分だけのものにしたかった。
マリアンヌのことは、きっと生涯忘れられない。
記憶の中で褪せることなく輝き続けるジャンの女神。
手の届かない太陽。届かないと知っているからこそ強く焦がれた。
けれどいつの間にか、ステラに心惹かれている自分もいた。
清廉で高潔で、いびつな女性。
聖女のように主に尽くし、悪女のようにジャンを惑わす。
気付けばいつも、ステラに心乱されていた。
「ランドール侯爵家より家格は劣りますが、財はあります。あなたに不自由はさせない。欲しい物は何でも買ってもさしあげますし、あなたの願いは何でも叶えてみせます。……そうすれば、あなたは……」
ふたりきりの部屋の中で、ジャンの声だけが空しく響いた。
ステラは何も答えない。
沈黙は何よりも雄弁で、無言こそが答えだった。
「……あなたは残酷だ。そうやって私を惑わせる。決して私のものにはならないくせに、こうして私の心を乱す……。酷い女だ」
愛や恋などと言う単純な感情であればよかったと思った。
けれど結局、ただ単純に、彼女に惹かれていただけだったのだ。
彼女に触れたかったし、誰にも渡したくなかった。
ただそれだけのことに気付くのに、随分と時間がかかった。
そして気付いたときにはもう、何もかもが遅すぎた。
「……貴方だって、肝心なことは何も言ってくださらなかった……」
ジャンに捕らわれたままの指先が、ステラの意思を持って唇に触れる。
「貴方にその瞳で見つめられるたび、気が狂いそうだった……」
その言葉が何を意味するのか、言わなくてもわかる。
わかるからこそ、口に出してはいけなかった。
指先がジャンの上唇をそっとなぞり、自らが叩いた頬へと伝う。
人を叩いたのは初めてです、とポツリと言うステラに、私も女性に叩かれたのは初めてです、と意味の無い嘘を吐いた。
貴方は本当に嘘つきですね、と困ったように返すステラは、やはりジャンの知らない女だった。
頬に添えられたステラの手に、自らの手を重ねる。
キスする方が自然な距離なのに、二人とも動けない。
近付くことも離れることもできなくて、この一瞬が永遠になればいいと、本気で思った。
「わたしは……夫を裏切ることはできません……」
哀しいほどの沈黙を終わらせたのは、ステラの方。
彼女の口から出た言葉は、ジャンの予想を裏切らなかった。
「……ならばあなたは今日、ここに来るべきではなかった」
「……」
ジャンの言葉にステラは顔を背け、黙ってまつげを伏せる。
白い頬に影を落とすその長いまつげが愛おしかったと、最後まで伝えることができなかった。
「……もう、こんな時間です。お帰りになった方がいい」
手を離し、片膝で押さえつけていたスカートを解放してソファーから下りる。
目を開けたステラは立ち上がり、ほんの少し乱れた前髪を指先で直した。
今夜ふたりの間に起こったのは、ただそれだけ。
指先一つで払えてしまうような、小さなほころびですらない。
「突然の訪問、本当に失礼いたしました」
侍女としてではなく、淑女としての礼をとるステラを見て思い出すのは、やはりいつかの夜のこと。
あのとき彼女を抱き寄せていれば、何か変わっていただろうか。
そんなことを考えても今更わからないし、意味もない。
「ミーリック嬢」
「わたしは。……わたくしは……貴方のことが嫌いでした」
名前を呼ぶ声を遮り、ステラが告げる。
「軽薄で、どこか冷めていて、御自身をないがしろにしようとする貴方を見ていると、もどかしくて仕方なかった……。貴方にもっと、御自分のことを大切にしてほしかった……」
酷い女だと、思わずにはいられなかった。
触れ合うことを許さないくせに、そんなことを言うなんて。
「ごきげんよう、アトリー卿。どうか、お元気で」
さよならよりも残酷な愛の言葉が、彼女の告げたふたりの終わりだった。
ジャン視点の番外編「或る教育係の渇望」終了です。
作中一・二を争うこじらせ野郎なので本当に難産でした…。
(ちなみに次点というか同点優勝ははルーカス(皇帝)です)
まさかこんなに長くなるとは思わなかったし当初予定していたラストと展開が変わりすぎましたが、無事終われてほっとしています。
ここまでお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。
次からはステラ視点の番外編を開始します。
そちらの方もお付き合いいただけると嬉しいです。




