E.C.1011.04-5
―――殿下はどのような方とご結婚されるのでしょうね
つい先日も、同じようなことを言った覚えがある。
同じ言葉を別の相手に向かって異なる感情で放った。
第三皇妃のセレスティアの部屋から自室に戻ったジャンは、部屋の中央のソファーに座り、項垂れる。
ただ主の後ろで控えていただけなのに、酷く疲れた。身体が泥のように重い。
数日前に侍女が持って来た第三皇妃からの文。
そこに書かれていたのは今日の午後、レオンハルトの予定を空けておくようにという指示と、その理由。
くれぐれもレオンハルトには知られないように、と書き添えられていた。
彼に知られれば反抗されると思ったのだろう。
彼を有力貴族の御令嬢たち――皇子妃候補と会わせようとしていることを。
けれどセレスティアの予想に反し、大人たちの画策に気付いたあともレオンハルトは大人しく席に着き、「第一皇女殿下の御友人」こと「皇子妃候補の御令嬢」たちのお相手をソツなくこなした。
彼女たちのつまらない話にきちんと耳を傾け笑顔を振り撒き紳士的にふるまうレオンハルトは、まさに理想の皇子様だった。
やがて第一皇女の乱入によりその場はお開きになりそのまま第三皇妃の部屋に連行された。
そこでも皇女は母である第三皇妃に不満をぶちまけ猛抗議していたが、当事者であるはずのレオンハルトは至極冷静だった。
茶化すジャンに冷やかなまばざしを送るものの、特に激昂することもなかった。
第三皇妃の部屋から戻る途中にも、怒るかと思った、と素直に告げると、怒っても仕方ない、と返された。
ひどく物分かりがいいレオンハルトの様子に、ジャンは心の中でこれは誰だろうかと考えていた。
そういうふうに「仕上げた」のは自分だというのに、非の打ちどころの無い完璧な皇子としてふるまうレオンハルトを前に、胸の中では失望のような昏い感情が渦巻いていた。
初めてレオンハルトを見たとき、ジャンは本当に驚いた。
ペットの小鳥を追いかけて花の中から現れた幼子が、ジャンの初恋の女性にうりふたつだったからだ。
金の髪、蒼い瞳、天使のように愛らしい容貌。一目でわかった。この子がマリアンヌの忘れ形見だと。
そして思った。
この子の傍にいたい。
いられるのなら、他には何も要らない。
あのときのジャンは、本気でそう思っていた。
レオンハルトの五歳の誕生日から教育係として彼に仕えるようになったが、それからは、夢のような日々だった。
太陽の女神にうりふたつの美貌をもつ、ジャンの天使。彼の存在は、ジャンの世界を再び鮮やかに色づけた。
夏空の瞳が自分に向けられるたび、歓喜で胸が震えた。
微笑むレオンハルトに、涙を零すレオンハルトに、言いようのない胸の高鳴りを覚えた。
けれど、夢は、いつか醒めるもの。
いくら目を逸らしても、どれほど抗おうとしても。
夢の終わりは、ある日突然訪れた。
昨年の夏、例年通りジャンはレオンハルトについてセイレーヌの離宮を訪れていた。
帝都の喧騒から離れたセイレーヌでアデルバートと共に遠駆けに出たり、弟妹を連れて観劇に出かけたり、川遊びやピクニックに行ったり、城下の人々と触れ合ったり、夜庭に出て星を眺めたり。
いつも通りの夏を過ごすはずだった。
そうならなかったのは、アデルバートの管理するセイレーヌ宮にレオンハルトたちの他にもう一人客がいたから。
極東の島国、アメジア王国の第一王女、ローズマリー=ヴィヴィアン=ルシア=シャムロック。
先の戦争で得た「戦利品」として帝国に送られてきた異国の王女は、皇帝の命で来国以来セイレーヌの離宮に滞在していた。
けれどジャンたちが離宮に到着してしばらくの間は、気配はあるものの王女がジャンたちの前に現れることはなかった。
王女は一日のほとんどを部屋の中で過ごし、食事も一緒にとろうとしない。
身体が弱く体調が思わしくないためというのが表向きの理由だったが、それが建前であることはすぐにわかった。
何でもジャンたちが離宮に到着したその日、王女と第一皇女の間で一悶着あったのだという。
そのときジャンは体調を崩した第三皇子に付き添うレオンハルトについていたため実際にその現場を見たわけではないが、何となく予想はできる。皇女はおそらく、王女のことが気に入らないのだ。
きっと誰かから王女がこの国に来た理由を聞かされたのだろう。
かの姫君は、皇太子妃となるためにこの国を訪れ、そのために今皇太子の傍にいるのだ、と。
皇女の次兄、レオンハルトもそれを知ったときに同じような反応を見せた。大好きな兄を独り占めする女が気に入らない、と。
兄妹そろってとんだブラコンだ。
それでもレオンハルトはまだ王女への複雑な心境を隠して取り繕う努力はしているようだが、直情型の皇女は本人を目の前にして嫉妬が爆発したらしい。
個人的な感情を優先させるなど、皇族として、ひいては淑女としてあるまじき行為だが、兄を想う妹の可愛いヤキモチとして周囲も黙認しているのだろう。
相手が「敗国の人形姫」であることも関係しているのは間違いない。
何にせよ、ジャンが王女の姿を初めて目にしたのは、離宮に着いて一週間ほど経ったある日のことだった。
その日どうしてあんなところを歩いていたのか、今となってはよく覚えていない。
あの日、離宮の庭園でレオンハルトはアメジストのついた首飾りを拾った。
まるで力任せに引きちぎられたように留め具のところが壊れていたそれを不審に思っていると、傍の茂みの中から突然少女が飛び出してきた。
この国では珍しい黒の髪と、拾った首飾りについているアメジストと同じ色の紫の瞳。
いったい何事なのか、まるでこの世の終わりのように悲愴な表情をして現れた少女こそが、他でもないアメジアの王女だった。
十四歳の異国の王女は、噂に違わず美しかった。
皇城に滞在している間、感情の起伏の乏しさから「人形姫」と揶揄されていたようだが、おそらくその渾名は彼女の美貌のせいもあるのだろう。
儚げな美貌は男の庇護欲をかきたて女の嫉妬心を集める類のものだ。
もちろんジャンは十以上年下の少女に食指が動くようなことはない。顔の造作が整っているのは否定のしようもないが、それだけだ。花や宝石を美しいと思うのと何ら変わりない。
むしろ一国の王女がこんなところで頭に木の葉までつけて何をしているのかと、不審にすら思っていた。
けれどジャンの隣に立つレオンハルトは違ったようだ。
レオンハルトが拾った首飾りを差し出すと、王女はそれを受け取り、微笑んだ。
冷たい印象から一変、花がほころぶように美しい笑顔だった。
ジャンはそのとき初めて、人が恋に落ちる瞬間を見た。
なんてわかりやすい。美しい王女の美しい微笑みに、レオンハルトは一目で心を奪われていた。
もしかしたら、「人形姫」と揶揄されるほど表情を変えない王女が自分にだけ微笑みを見せたという状況に自尊心をくすぐられたのかもしれない。
あの年頃の男は、特別扱いをすぐに好意と勘違いする。
――そう。
レオンハルトは、男なのだ。
どれほどマリアンヌに似ていても、マリアンヌの血を引いていても、彼はマリアンヌではない。
彼女とはまったく異なる少年なのだ。
マリアンヌはもう、どこにもいない。
そのことを思い知らされた瞬間、自分の中のレオンハルトに対する関心――執着とでも呼べるいびつな感情が失われていくのを感じた。
アデルバートの元を去ってでも傍にいたいと願ったはずなのに、結局、マリアンヌでないレオンハルトなどジャンにとっては何の価値も無かったのだ。
幸せだったはずの日々が、再び色を失っていく。
気付いてしまえばすべてが虚無で、無意味に思えた。
マリアンヌの訃報を聞いたとき以上の絶望がジャンを襲った。
それでもいまだにジャンがレオンハルトに仕え続けているのは、ジャンがレオンハルトを導き支え守るのは、それがアデルバートの願いだったから。
アデルバートの望み通りレオンハルトに仕え尽くすことが、彼の元を離れた自分にできるせめてもの償いだと思っていた。
けれど。
―――アデルバート様でなくともかまわないのですよね
ジャンの言葉を聞いたときのレオンハルトの表情が忘れられない。
あの表情には、覚えがある。幼い頃の、いたずらが見つかったときの表情。気まずくてうしろめたくて、けれどそれを決して認めようとはしない彼なりの悪あがき。
それを見た瞬間、ジャンはすべてを悟った。
そして同時に、もうこれ以上彼の傍にはいられないと思った。
―――お前……自分が何を言っているのかわかっているのか
震える声。蒼ざめた顔。
レオンハルトは、わかっていた。理解していた。
ジャンが言わんとしていること。
「アデルバート以外の人間がアメジアの王女を妃に迎える」。
その言葉がもつ意味の恐ろしさを。
この国の法では、他国の王族を妻に迎えることができるのは皇帝、或いは皇太子に限られている。
「人質」である王女も例外ではない。
彼女を妃にできるのは、皇帝か皇太子だけ。それは決して覆らない。
だからもし彼女を手に入れたいのなら、皇太子になるしかない。
皇太子になれば、彼女を手に入れられる。
至極単純で簡単な答え。けれど現実はちっとも簡単ではない。
レオンハルトが皇太子になるということは、アデルバートをその座から引きずり下ろすということを意味しているのだから。
ジャンの言わんとしていることをレオンハルトが正確に汲み取れたのは、きっと彼が同じことを考えたことがあるからだ。
王女と――初恋の姫君と結ばれるためにはどうしたらいいのか、と。
昨年の夏――王女との邂逅以来、レオンハルトはやたらとため息を吐いたり物思いに耽ったり、そうかと思えば急に悶えだしたり、ある意味わかりやすく恋煩っていた。
初恋に浮かれきっているレオンハルトを見て、ジャンは一抹の不安を覚えていた。
兄の婚約者候補に恋慕する主の身を案じたわけではない。
ジャンが心配だったのは、初恋をこじらせたレオンハルトが妙な気を起こしたりしないか、ということだ。
冷静ぶっているけれど、レオンハルトは本来短気で感情的になりやすい。
幼い頃は突拍子も無いことをしでかしては周囲を振り回してばかりいた。
彼の母、マリアンヌと同じように。
だからジャンは、レオハルトを試した。
自分の不安が単なる思い過ごし、杞憂だと確認できれば、今までと変わらずレオンハルトに仕え続けることができると信じて。
けれど一縷の望みはあっけなく砕かれた。ジャンの不安は的中したのだ。
アデルバートは、誰よりもレオンハルトを愛していた。
母を知らず父の愛にも恵まれなかった異母弟のことを何よりも大切に慈しみ、自分の将来よりも弟の未来を案じている。
それなのに、レオンハルトはそんな兄よりも、たった一度ことばを交わしただけの女との未来を描いた。
自らの願いを叶えるために、敬愛する兄の廃太子を考えた。
実際に行動に移すかどうかなどは問題ではない。
重要なのは、レオンハルトの中にそういう選択肢がある、ということだ。
いつかレオンハルトは、兄に代わって帝位を望むようになるかもしれない。
初恋の姫を手に入れるために。
そう遠くない将来、レオンハルトの望む未来が現実になる可能性は極めて高い。
セレスティアさえも知らされていないから「お見合い」を画策したのだろうけれど、おそらくはあと数年もすればアデルバートは帝位継承権を返上して臣籍に下り、代わりに皇太子の座にはレオンハルトが就くだろう。
幼い頃から病弱だったアデルバートは、年を追うごとに床に臥す回数が増えてきているのだという。
アデルバート自身が言っていたとおり、このままでは帝位に就いたとしても彼の身体は皇帝の激務には耐えられない。
公にはされていない本人の意向はもとより、アデルバートを溺愛している皇帝が、彼の命を縮める選択をするとは思えない。
誰にも確かめられない勝手な憶測だが、アデルバートと王女の婚約がいまだに形にならないのも、それを裏付ける根拠のような気がしてならなかった。
皇太子でなくなったアデルバートでは、王女を妃に迎えることはできない。
皇太子が他国の女性王族を妃に迎えることができるのは、あくまで将来的に皇太子が帝位に就き、女性王族が皇妃となること前提だ。
いずれ廃太子されるアデルバートでは、その条件に当てはまらない。
しかし一度婚約してしまえばそれを解消するのは容易ではないし、できたとしてもアデルバートの代わりにレオンハルトが立太子したとき再び婚約し直すのは、外聞が良くない。
あらぬ噂を立てられ、未来の皇妃の瑕疵となるかもしれない。そういった諸々の事情があっての婚約者「候補」どまりなのだろう。
いつでも皇太子を挿げ替えられるように。
理不尽だと、思わずにはいられなかった。
アデルバートは誰よりも優秀で、厳しい皇太子教育に耐えその細い肩に期待と国の未来を背負ってきたのに。
どうしてアデルバートに誰よりも愛されたレオンハルトが、彼から何もかもを奪うのか。
名声も、皇太子の座も、初恋の姫までも。
アデルバートの代わりに、レオンハルトはすべて手に入れる。
どうして、レオンハルトばかりが。
違う。
レオンハルトは、何も悪くない。
誰も、何も―――。
「……アトリー卿」
部屋の扉がノックされ、ジャンはハッと顔を上げる。
声を聞く前に部屋の外に誰がいるのかわかった。
一度目よりも二度目の方がほんの少しだけ大きくなるのは、ステラのノックの特徴だ。
そんなことも聞き分けられるほど、幾度となく彼女をこの部屋に招き入れた。
もちろん艶めいた意味など無い。この部屋でも、この部屋以外でも。二人の関係は、「第二皇子の教育係と侍女頭」でしかない。
「……何です、ミーリック嬢。講義の時間まではまだあるでしょう」
「いえ……先程少しご様子がおかしかったので気になって……」
失礼いたします、と彼女にしては強引に部屋に入って来た。
ソファーに座るジャンを見て、ステラの瞳がわずかに揺れる。
こんなときにまで説教など聞きたくない。そう思ったけれど、彼女の口から出てきたのは、ジャンを労わる言葉だった。
「お顔の色が悪いようですが、大丈夫ですか?何かございました?」
「……いいえ、何でもありません」
珍しく優しいステラに何となく気恥ずかしさを感じる。
けれど続く言葉で、何もかもがばからしくなった。
「殿下も心配されておいででした。殿下の御心を煩わせるなど、貴方らしくない……」
「……あなたが私の何を知っているというのです」
自分でも、驚くほど冷たい声だった。
何をばかなことを訊いているのだろうかと、自嘲の笑みがこみ上げる。
何も知らないなんて、そんなの当たり前だ。
知る必要も、理由も、二人の間には何もなかったのだから。
「アトリー卿……」
「……すみませんが……出て行ってもらえますか。少し、休みたい……。時間がくればお部屋に参りますので」
「……御気分がすぐれないのでしたら冷たいお飲み物でもお持ちいたしましょうか」
「結構です。……それはあなたの仕事ではないでしょう」
どうかしている、と思った。
ジャンのことを嫌いなくせに、嫌いな相手のことを気遣い労わるなんて。
本当は、ジャンのことなど顔も見たくないだろうに。
それともステラは忘れてしまったのだろうか。
ジャンがステラに触れたこと。
ジャンがステラを追い詰めたこと。
ジャンはまだ、覚えている。六年前のランチェスター公爵家主催の夜会。
あの夜、ジャンはきっとステラの一番触れてほしくないところに触れた。
明確な意思をもって、彼女を傷つけようとした。
あのとき何が気に入らなかったのか、今となっては、否、今になってもうまく説明することはできない。
ただとにかく、許せないと思った。
無遠慮にステラに触れるリカルドも、無防備にそれを許すステラも。
だからジャンは、ステラの傷ついた表情が見たかった。自らの手で傷つけてみたかった。
山間に咲く小さな白い花を美しいと思う一方で、踏みにじってやりたいと願う心もあった。
けれどそんなことは無理なのだ。何をしても何を言っても、彼女を傷つけることなどできない。
ジャンでは、彼女の心に触れられない。
(……あぁ、そうか)
触れたかったのか、ジャンは。
彼女が何を考えているのか、何を感じているのか、知りたかった。
彼女のことを知りたかった。
どうしてこんなことに、今になって気付くのか。
「……出過ぎた真似を致しました。失礼いたします」
常と変わらぬ抑揚に乏しい声で告げ、ステラは出ていった。
部屋を出て行く寸前に見えた瞳は、ジャンを責めるような色をしていた。
いつもそうだ。
いつもステラは咎めるような眸でジャンを見る。
彼女はきっと、ジャンのすべてが気に入らないのだろう。
ステラは何よりもレオンハルトのことを一番に考え、献身的に彼に尽くしている。
何が彼女をそうさせるのかわからないが、レオンハルトに尽くすことが彼女の生きがいなのだろう。
だからこそ、ジャンのことを嫌っているのだ。きっと気付いていたのだろう。
ジャンが心のどこかでレオンハルトをないがしろにしていたこと。
本来忠誠を誓うべき主よりもアデルバートを優先していたことに。
それでも今のレオンハルトにはジャンが必要だと認めているのだろう。
今日も先程のあれだけのやり取りでジャンの様子がおかしいと気付き、懐柔しに来たのだ。
なんと献身的なことだろう。
だがジャンは、そんなステラの期待には応えられそうにない。
ステラがレオンハルトを想うようには、ジャンはレオンハルトのことを想えない。
マリアンヌの面影を宿しながら、マリアンヌではない少年。
兄に誰より愛されながら兄を裏切るかもしれないアデルバートの弟。
そんなレオンハルトのことを、愛することなどできない。
アデルバートから何もかも奪うかもしれないレオンハルトのことが脅威に思えた。
許せない、とも思えた。
こんな気持ちのまま、レオンハルトに仕え続けることなどできない。
いつかこの手で彼の未来を絶つかもしれない。
長年仕えた主よりも、既に袂を別ったはずの少年にジャンは同情している。
彼の幸せを祈っている。
(……裏切り者は、私の方だ)
誰もいない部屋で、ジャンは再びうなだれる。
胸の中で蠢く様々な思いを、何ひとつ言葉にできない。
ただひとつ確かなのは、ジャンはこの世で一番、自分のことが信用できないということだった。
ジャン編は次で終了です。




