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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 或る教育係の渇望
63/114

E.C.1011.04-1


 いつかはこんな日がくると、覚悟はしていた。


 第三皇妃付侍女が持って来たセレスティアからの文を読んだジャンは、黙って紙を再び畳む。


「何と書かれていたんですか?」


 文を持ってきてそのままなぜか隣に座った侍女が、やけに馴れ馴れしい態度で尋ねてくる。

 長いまつげの奥の瞳は何かを期待しているようで、そう言えば、以前一度関係をもったことある女だったかと思い出す。

 女性らしい華奢な手が腕を辿り始めるのをかわしてジャンは立ち上がり、机の引き出しに文をしまった。


「ご苦労様。妃殿下に承知いたしましたとお伝えください」


 女の質問に答えず、言外でお引き取り願う。


 彼女が何を期待しているのかわかったうえで、それに応えるつもりはない。

 少なくとも、ここでは。


「アト……」

「よろしいでしょうか、アトリー卿」


 ジャンを呼ぼうとした声を遮るように響いたドアを叩く軽やかなノックの音と女の声に、侍女は苦虫を噛み潰したような表情になるも大人しく立ち上がる。

 彼女にとってここはアウェー。居座ることは分が悪いと、わからないほど愚かではないようだ。


「どうぞ、ミーリック嬢」

「失礼いたします」


 入室を許可すると、部屋の扉が開かれる。

 書類を手に入って来たステラは、部屋の中に漂うただならぬ空気に気付いたのか、ジャンと侍女を交互に見る。

 そして濃い灰色のまつげをゆっくりと瞬かせた。


「……お邪魔でしたか、アトリー卿」

「いいえ、ミーリック嬢。もう帰られるところですよね?」

「……では、わたくしはこれで失礼いたします。アトリー卿」


 優雅に礼をし、侍女は出ていく。すれ違いざまにステラのことを睨むのも忘れずに。


 あからさまな敵意を向けられたステラはジャンをじっと見つめる。

 その目にはジャンへの非難が込められていた。当然だろう。彼女にしてみれば、侍女に睨まれる謂れなどないのだから。


 だが彼女がジャンを責めているのは、無関係なのに侍女の妬みを向けられたためではない。

 ジャンが侍女とこの部屋で何か不適切なこと(・・・・・・)をしていたのでは、という疑いを抱いているためだろう。

 それこそ完全なる濡れ衣だが、自分の信用の無さに苦笑する。


「今日は何もしていませんよ。彼女は第三皇妃殿下の侍女殿です。妃殿下からの文を持って来てくださっただけです」

「……別に、何も申しておりません」

「今日にかぎらず、ちゃんとあの約束は守っていますよ」

「……」


 ジャンが弁明すると、ステラはそれ以上何も言わなかった。

 第三皇妃からの文の内容を尋ねるような無作法な真似もしない。

 ほんの少しだけ和らいだ視線に彼女が納得したのだと悟る。


 「約束」とは、「この部屋では主の教育によろしくない行為は控える」というアレのことだ。

 六年も前の約束を律儀に守っていることを褒めてくれてもいいと思う。

 そんな主張をしようものなら氷よりも凍てついた軽蔑のまなざしを向けられるのだろうけれど。


 三年前、二十一歳という最年少で侍女頭となったステラは常に冷静沈着でめったなことでは感情を表に出さないが、付き合いも七年になると、彼女の言いたいことくらいは何となくわかるようになってしまった。

 口数が少ない分彼女の視線は雄弁で、だからこそジャンは彼女と話すことが面白くもあり、ある種の居心地の悪さも感じていた。


「それより、何か御用ですか?」

「今月付で辞める者の書類をお持ちいたしました」

「あぁ、もうそんな時期ですか」


 侍女の雇用についての事務的な手続きは侍女頭の仕事だが、最終的な決済を下すのは侍従だ。

 レオンハルトにはまだ侍従がいないためジャンがその代理を務めていた。


 ステラの持って来た書類を受け取り、目を通す。

 退職予定の侍女というのは昨年アカデミーを卒業したばかりの十七歳の少女だ。

 退職理由は結婚。城仕えを辞し、翌月には伯爵家の長男との結婚を控えている。


 在職期間一年数ヶ月というのは短いように思えるが、後宮侍女としてはごく一般的だ。

 高位貴族の令嬢で城仕えをする者の多くは宮廷侍女を希望するが、ごく稀に後宮侍女を希望する者もいる。

 「皇族付侍女」というステータスを求めてのことだ。

 その肩書を武器に上位貴族の夜会に乗込み、よりよい結婚相手を探す。

 相手が見つかれば速やかに城を去る。よくある話だ。

 侯爵令嬢でありながら何年も城仕えをしているステラの方が珍しい。


「御結婚は来月でしたね。慌ただしいことです」

「そうですね」


 形ばかりのおざなりな相槌に苦笑する。

 しかし続く言葉に耳を疑った。


「……ですが、おめでたいことですので」

「え……?」


 ポツリと呟いたステラの顔を思わず見つめる。

 正直、意外だった。

 部下の結婚を祝う心が無いと思っていたわけではないが、そんな話よりも早く仕事に戻れと怒られるかと思ったのに。


「……何ですか」

「いえ……」


 予想外だと告げればまた気分を害してしまうだろうか。

 ステラがジャンの思いもよらないことを言うたびにどうしてこんなにも動揺するのか、自分でも不思議だった。


「……ミーリック嬢は、どのような方と結婚なさるのでしょうね」

「はい?」


 思わず口にしたジャンの言葉に、ステラは怪訝そうな声を出す。

 けれど発言したジャン自身、まるで想像できなかった。


 誰かの傍で微笑むステラ。

 誰かに寄り添い愛を囁くステラ。


 ジャンの知らない男の隣で女の顔をするステラなど、想像したくもない。


 けれどそれは、いつか必ず訪れる未来。

 いずれステラも誰かの妻となる。レオンハルトの元を去り、平凡でありふれた未来を築く。

 それが貴族の娘として生まれた女の宿命であり義務なのだから。


 けれど。


「……そのようなこと、考えたこともありません」

「え?」

「生家は姉夫婦が継ぎましたし、先日甥も生まれました。義兄には末の妹の結婚のことまで世話していただいたのです。わたくしのことでまで御手を煩わせるわけにはまいりません」

「そんな……。けれどミーリック嬢ならば侯爵閣下の御力添えなど無くとも引く手数多でしょう」


 適齢期を少し過ぎているとはいえ、ステラ自身は十分に美しい。

 第二皇子付侍女頭という華々しい経歴もある。

 またミーリック侯爵家はランチェスター公爵家からの援助とアレックスの手腕で見る見るうちに立て直し、かつての栄華を取り戻した。

 今の彼女ならば望めば結婚相手などいくらでもいるだろう。

 義兄に頼るつもりはないとステラは言うが、ミーリック侯爵家当主の義妹である彼女と結婚することで侯爵家と縁を結びたい者も多いだろう。

 けれど。


「わたくしは、今のままでかまいません」


 結婚を望まない、むしろ拒むかのような強い口調だった。

 貴族社会で女性が独身を貫き一人で生きていくことはひどく難しい。

 「皇族付侍女頭」という彼女の立場をもってしても、現実的とは言えない。


「……それは、このまま生涯殿下にお仕えするつもり、ということですか?」


 誰とも結婚せず、誰も愛さず、誰からの愛も受け入れず。


 女としての幸せを捨ててまでレオンハルトに尽くそうとするなど、正気の沙汰ではない。

 信じられないものを見るようなジャンの視線に気付いたのか、しかしステラは淡々と口を開く。

 榛色の瞳は、失望のような諦念のような昏い色を孕んでいた。


「……殿下が、それを望んでくださるのなら」

「……」

「つまらない話を致しました。もう仕事に戻りますので、これで失礼いたします」


 侍女としての礼をとり、ステラは部屋を出て行った。


 残されたジャンは、一人きりの部屋でゆっくりと息を吐く。

 それなりに長い付き合いの中でステラのひととなり、表情の変化、言いたいことくらいはわかるようになったつもりでいた。

 けれど本当は、彼女の心の中など少しもわからない。

 肝心なことをいつも確かめられずにいる。


 今も彼女が結婚を拒む理由をあれ以上追及できなかった。

 ジャンの邪推(・・)が当たっていたら。

 そう思うと、何も訊けなくなった。


 ステラがレオンハルトに生涯仕えるために独身を貫く、というのは果たして彼女の本心なのだろうか。

 本当は、決して結ばれない男のことを今もなお想っているから、その男以外の男との結婚を拒んでいるのではないか。


 ジャンがそんな邪推をしてしまうのは、六年前のランチェスター公爵家主催の夜会での一件のせい。

 あの夜、ジャンはステラの秘密を知ってしまった。


 リカルド=オルコット。

 それがあの夜ランチェスター公爵家のバルコニーでステラと口論していた男の名だ。


 夜会のあと、ジャンは彼について調べた。

 元々はオルグレン伯爵家の三男で、幼少期から父親と共にミーリック侯爵家を出入りしていた。

 そして同い歳であるミーリック侯爵家の長女ソフィアとアカデミーに入学する少し前に婚約し、卒業後に結婚する予定だった。

 しかしミーリック侯爵家が破産寸前に追い込まれるとすぐに婚約を破棄し、その後オルコット伯爵家に婿入りした。


 彼の変わり身の速さを非難するつもりはない。

 元々貴族の婚姻に愛情など無いのが普通だ。自分の身を守るために沈みゆく船を下りたとしても、薄情だと罵る者はいない。

 貴族とは、そういう生き物なのだから。


 そういった意味では、リカルドは実に貴族らしい。

 妻のある身でかつての婚約者の妹に手を出そうとしていた点においても。


 リカルドがオルコット伯爵家に婿入りしたのは、ソフィアとの婚約を破棄した一年後。

 つまりあのとき、リカルドには既に妻がいた。おそらくは夜会にも共に出席していた。

 そのことをステラが知らなかったとは思えない。


 それなのになぜあのときあの場でふたりきりでいたのか。

 あのときふたりは何の話をしていたのか。

 あのときステラはどうして彼をかばおうとしたのか。

 ステラはかつて一度でも彼を愛したことがあるのか。


 ステラは今尚、彼のことを想っているのか。


 とめどなく溢れる疑問に、けれど反面、知るのが怖い。

 彼女にかぎってそんなはずない、と否定できるほどにジャンはステラのことを知らないのだから。


 彼女は、どちらなのだろう。

 妻のいる男に弄ばれた被害者なのか、姉を欺き姉の婚約者と通じた悪女なのか。

 どちらであってほしいのか、自分でもわからなかった。

 どちらであっても、二人の関係はきっと何も変わらない。


 ただの同僚。同じ主に仕える教育係と侍女。ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない。


 それ以外にはなれない。


「……不毛、だな」


 誰もいない部屋で一人呟く。それこそ不毛だ。

 呟きはしんとした一人きりの部屋で空しく響いた。



【本編では出てこなかった設定】


 上位貴族女性の適齢期は大体17歳~22歳くらいです。

男性は19歳~27歳くらいで、平民や下位貴族になると男女ともにもう少し上になってきます。

 また30歳くらいで当主を引き継ぎ、55歳くらいで隠居する者が多いです。

ステラの父は代替わりにはちょっと若いですが、仕方ないし、アレックスが優秀なんで上手くやってるみたいです。


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