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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 或る教育係の渇望
61/114

E.C.1005.08-1


 ミーリック侯爵家は上位貴族の中でも歴史が古く、名門と呼ばれる家柄だ。

 しかし十年ほど前に代替わりがなされ、家を継いだ人のいい現当主は道楽好きな浪費家だった。

 各地から芸術品や骨董品を買い集めては粗悪品や贋物を掴まされ、賭け事に興じてはカモにされ、アヤしい新事業に手を出しては騙されて資産を失い、その損失を取り戻そうと別の儲け話に飛びついてはまたも騙され再び資産を失う。

 そんなことを繰り返しては代々の財産を食い潰し、次々と領地を手放した。

 早くに妻を亡くし彼の暴走を止められる者がいなかったことも災いしたのだろう。

 代替わりから数年後にはかつての栄華は見る影もなく家は傾きかけ、結婚を控えた長女の持参金も払えないほどだった。


 金の切れ目が縁の切れ目とばかりに婚約者はあっさりと長女を捨てた。

 突然の婚約破棄に長女は嘆き倒れたが、寝込んでいても失った資産が戻ってくるわけではない。

 今日の食事に困るわけではないが、それも時間の問題。

 没落寸前の家を支えるべく「侍女」として城に上がったのは、婚約破棄された長女ではなく、アカデミーを中退した十四歳の次女だった。



「妹君が汗水流して働かれるなか姉君は社交に励み、ランチェスター公爵家の御次男に見初められたらしいよ。侯爵家からの援助を受けられることになり、めでたくミーリック侯爵家は持ち直したようだ。

 侯爵もさすがに懲りたんだろうね。御長女の結婚後は引退され、婿入りしたアレックス様がミーリック侯爵家を継がれるそうだ」


 ミーリック侯爵家は三姉妹だからね、と、ワインのグラスを傾けながら、エリオスはさして興味も無さそうに言う。

 皇子殿下の教育係殿が世相に疎いとはいただけないね、と口の端を歪めてジャンを揶揄う様は大変楽しそうだが。


「それにしても、珍しいね。君が特定の女性に興味を持つなんて」

「……なぜ女性に、と決めつけるのです。私はミーリック侯爵家についてお伺いしただけです」

「皇子殿下の侍女殿に、ミーリック侯爵家の御令嬢がいらっしゃるだろう。君が気にしているのは彼女のことじゃないのかな?」

「……」


 見透かすようなエリオスの言い方に、ジャンは何も言わずにシャンパンを流し込んだ。


 ランチェスター公爵家主催の夜会に、ジャンは第二皇子付教育係という縁で招かれていた。

 ランチェスター公爵家の現当主はレオンハルトの祖父に当たる。

 「後宮」に上がってから夜会に出席することはほとんどなくなったが、さすがに今回は断れなかった。


 行くなとごねるレオンハルトを宥めるのには少々骨が折れた。

 最近チェスを覚えたレオンハルトは、夕食後にジャンと対戦するのが日課になっていた。

 夜会が終わって帰る頃にはもう寝ている時間だから今日はできないと諭すと、しょんぼりされた。

 どうしても無理?絶対にダメ?と食い下がるも最終的には「わかった……」と哀しげな声で諦めたレオンハルトを前にすると、以前のように泣き喚かれるよりもいたたまれない気分にさせられる。

 自分が押されるよりも引かれる方が弱いのだということに、最近気付いた。


 そんなわけで主催者(ホスト)であるランチェスター公爵に挨拶だけして早めに切り上げて帰ろうと思っていたのだが、同じく招待されていたエリオスにつかまった。


 文官として「後宮」で働くエリオスは順調に出世街道を邁進し、先月宰相補佐官となったばかりだ。

 ランチェスター公爵は現宰相であるため、エリオスにとっては直属の上司に当たる。その縁で招待されていたのだろう。


 久しぶりに顔を合わせたエリオスと世間話を交わしていると、話題は先日婚約を発表したランチェスター公爵家の次男、アレックス=ランチェスターのことに及んだ。

 嫡男として早くに結婚した長男や「社交界の貴公子」として数々浮名を流す三男とは違い、三十を超えて浮いた話の無かったアレックスのめでたい話に、社交界ではその噂で持ち切りだった。


 そしてその噂の最後には「相手がまさかあの(・・)ミーリック嬢だなんて」、と続く。

 意味ありげな囁きの理由を尋ねると、エリオスは知らないのかと大仰に驚いて見せながらも教えてくれた。


 もはや社交界では常識となっているミーリック侯爵家のスキャンダル。

 なぜジャンが知らなかったのかというと、ちょうどその頃ジャン自身、兄の婚約者との密通疑惑で勘当騒ぎになっていて、それどころではなかったためだ。

 元々社交界での人脈作りに励んでいたのは、将来兄の補佐をするときに役立てたかったためだ。

 兄と絶縁状態になってからは興味自体失っていた。


 しかし第二皇子付侍女となったステラの生家の内情を把握しておかなかったのは、エリオスの言う通り教育係としては職務怠慢だ。

 この任に着くまでは誰よりもうまくやれる自信があった。

 それなのに、実際は何もかもがうまくいかない。

 こんなジャンに、マリアンヌはどうしてレオンハルトを託そうとしたのだろう。


 とはいえこれでようやく合点がいった。

 「侯爵令嬢」であるはずのステラが「後宮」で働く理由。


 どんな気持ちだったのだろう。

 父親のしりぬぐいのために必死で働き、けれど自分とはまったく関係の無いところで解決した。

 自分が侍女として働いている間、侯爵令嬢として何不自由なく過ごしていた姉は女としての新たな幸せを手に入れた。


 そのことで、姉を妬んだりはしなかったのだろうか。

 なぜ自分だけ、どうして姉ばかり、と恨みに思ったりはしなかったのか。


「ほら、あそこにいらっしゃるのがランチェスター公爵家の御次男と、ミーリック侯爵家の御長女だよ」


 エリオスが指す方を見やると、金の髪に深緑の瞳の美しい青年と、赤銅色の髪に榛色の瞳の女性が寄り添うように立っていた。


 多くの招待客に囲まれるなか、青年――アレックス=ランチェスターの美貌は一際目立った。

 彼の末弟であるミゲルも武人でありながら繊細な美貌の持ち主だったが、ランチェスター公爵家四兄妹は皆、父親であるギルベルト=ランチェスター公爵によく似ていると言われている。

 ギルベルトは若い頃「社交界の蒼き薔薇」と謳われた美丈夫で、彼の美貌は子どもたちにしっかり受け継がれている。

 金の髪に蒼、あるいは深緑の瞳はいかにも貴族らしく華やかで目を引く。


 一方、彼に寄り添う赤銅色の髪の女がステラの姉だというのなら、こちらの方はあまり妹と似ていない姉だ。

 他者を寄せ付けない、触れるもの皆跳ね返してしまいそうな美貌の妹に対し、姉の方は親しみやすい愛らしい顔立ちで、遠目から見ても何となくほわほわとした印象を受ける。

 特に今の隣に立つ美貌の婚約者に熱い眼差しを向けている姿は、世界で一番幸せだと叫び出しそうなほどとろけている。


「ご挨拶してきたらどうだい」

「は?なぜ」

「なぜって……アレックス様は第二皇子殿下の伯父君だ。よい関係を築いておくにこしたことはないだろう」


 それでなくとも我々はそう頻繁に出席することはできないし、君はめったに「後宮」から出ることはないのだからね、とド正論をかまされ、内心あぁ、そっちか、と納得する。

 冷静になればミーリック侯爵家の長女に挨拶するようエリオスが促すわけないのに、いったい何を動揺していたのだろう。


「そうですね。またのちほど……」


 伺います、と言いかけてぎくりとする。

 視界の端に意外な人物――先程まさに話題に上っていたミーリック侯爵家の次女、ステラの姿を見つけたためだ。


 珍しく夜会に出席しているステラは、当然のことながらいつもの侍女服ではなく夜会用のドレスを身に纏っている。

 いつもはきっちりと止められた襟で隠された鎖骨が剝き出しになっていた。

 上品に着こなしたラベンダーの色のドレスは令嬢の装いを逸脱していない一般的な夜会での正装なのに、初めて見る肩の白さになぜかギクリとした。


 婚約者の隣で弾けんばかりの笑顔を振り撒いている姉とは対照的に、ステラの方はいつも通りの無表情だ。

 しばらくの間少し離れたところから招待客に取り囲まれる姉たちの姿を見ていたが、やがて踵を返し、バルコニーの方へと歩いていった。

 エスコートも無く夜会の会場を闊歩する姿は、妙に目を引いた。


「……失礼いたします」

「ジャン?」


 新しいワインを運んできた給女からグラスを受け取るエリオスを放置し、ジャンはステラを追いかける。


 しかしエリオスの傍を離れて一人になると、狙ったように招待客が寄って来てなかなか前に進めない。

 第二皇子付教育係であるジャンとつながりを作ろうとする紳士や、ここぞとばかりに「今宵のお相手」になろうとする淑女をあしらいかわしてようやくバルコニーに出ると、そこにいたのはステラ一人ではなかった。


 ジャンの見知らぬ男に腕を掴まれ、何かを言い争っていた。


「もうやめて……離して……ッ」

「ステラ……ッ。どうしてわかってくれないんだ……。私は、本当はずっとソフィアではなく君のことが……ッ」


 剥き出しの白い腕に男の指が食い込む。


 ―――胃が、焼き切れそうだと思った。


 無遠慮にステラに触れる男にも、無防備に男に触れられるステラにも、言いようのない不快感を覚えた。


「―――失礼。私の連れが何かしましたか?」

「……ッ」


 呼びかけると、男は弾かれたようにステラの腕を離す。

 すぐさまステラが男から距離をとったのを見て、ほんの少しだけ溜飲が下がる。


 ステラと話していたのは、琥珀色の髪と碧の瞳をした二十歳ほどの青年だった。

 唐突に現れたジャンに、青年は困惑の表情を向ける。


「……貴方は……」

「第二皇子殿下の教育係のジャン=アトリーと申します。彼女が何か?」

「だ……第二皇子殿下の……」


 うっすらと笑みを湛えながら尋ねると、男はたじろぎ、一歩下がった。


 こういうとき、自分の容姿の威力を実感する。意味ありげに微笑むだけで相手は勝手に気圧され、簡単に主導権を握ることができる。


「彼女に、何か御用ですか?」

「いえ……何でもありません。失礼いたしました……ッ」


 ダメ押しのように重ねて問うと、男は逃げるように去っていった。

 実際逃げたのだろう。

 人目につかないバルコニーで淑女に乱暴していた、と第二皇子付教育係であるジャンが証言すれば彼は社交界から追放される。


「大丈夫ですか?」


 男の影が完全に見えなくなったあと、ジャンはステラに尋ねる。

 白い腕が少し赤くなっているのを見て、先程の不快感が蘇る。


 一方ステラは男に掴まれていた箇所に自らの手を添えながら、ジャンから視線を逸らした。


「……ありがとうございます」

「お怪我は?」

「いいえ」


 言葉少なに答えるステラからは、ジャンへの拒絶が感じ取れる。けれどそれに従う義理など無い。

 早くここから立ち去りたいであろうステラを、質問を重ねることで引き止める。


「今の方は、お知り合いですか?」

「……」

「見知らぬ淑女に触れ、無理強いしようとなさっていたのですか?彼は」

「……姉の元婚約者です」


 答えないステラをわざと挑発するよう悪し様に言うと、一瞬躊躇を見せるも口を開いた。

 まるで男をかばうかのような反応が、なぜか気に入らない。


 それに男のステラに対する態度は「元婚約者の妹」相手にしては随分慣れ慣れしい。

 男は、ステラのことを名前で呼んでいた。しかも敬称を付けずに。

 よほど親しい間柄でなければ許されない行為だ。


「姉君の元婚約者が、どうしてあなたに乱暴しようとなさっていたのですか」

「乱暴などされていません……ッ」


 珍しく語気を強めるステラが守ろうとしているのは、自分自身の名誉か、それとも男の潔白か。

 どちらにせよ、初めて見るステラの取り乱した様子に、ジャンの中である「邪推」が生まれた。


「……話をしていただけです」

「話とは、どんな」

「アトリー卿には関わりないことに御座います」


 きっぱりと言い、ステラはジャンから一歩離れる。

 ただそれだけの仕草からも優雅さが感じられ、いくら没落寸前とはいえ彼女は侍女である前に名門貴族の御令嬢なのだと実感する。

 いつもは髪をまとめて侍女服を身に纏い朝から晩まで主に尽くして働く彼女が今夜、月光の下でこんなにも美しい。


 ジャンの知らないステラが、そこにいた。


「……あなたは、そんなにも私のことがお嫌いですか?」

「はい……?」


 別に、嫌われたとしても、ジャンには何の不都合も無い。

 ステラは好き嫌いで仕事に支障をきたすようなタイプではないし、いざとなればジャンがステラの首を切ることだって可能だ。

 彼女に嫌われても、痛くも痒くもない。


 それなのにこんなことを訊いたのは、困らせたかったから。


 仮面のような澄ました顔を、歪めてやりたい。


「それとも要らぬ世話でしたか。あのまま彼の意のままにされるか、或いは私以外の誰かに見つかった方がよかった、と?」


 要約すると「せっかく助けてやったのにその態度は何だ?」だ。

 おそらくは言外の意味を汲み取ったステラは、けれど毅然と口を開いた。


「……何か誤解をなさっているようですが、わたくしは彼に何もされておりません。彼は姉の元婚約者ですが、わたくしとは幼馴染でもあります。久しぶりに再会して、懐かしい話をした。ただそれだけです。

 たとえアトリー卿以外の方に見られたとしても、後ろ暗いところは何も御座いません」


 あまりに頑ななステラの態度は、かえって「ただそれだけではない」と語っているのと同じだ。


 「ただの幼馴染」が、あんな風に触れるわけない。


 平然と嘘を吐ける目の前の女のしたたかさに、胸が震えた。


「……そうですか。それは失礼いたしました」

「いいえ……。ご理解いただけたなら結構です。わたくしはこれで……」

「ミーリック嬢」


 立ち去ろうとしたステラの手を掴む。


 水仕事で荒れた手を隠すために手袋(グローブ)を着けた上からでは、互いの体温は伝わらない。

 それでいい。

 その方がいい。


 華奢な手を引き、ジャンはステラを引き寄せる。

 抱きしめることはしない。そんなことをすればステラはジャンにとって何の価値もない女に成り下がる。

 きっと、元々ステラにとってジャンの価値など何もないのだろうけれど。


「離……ッ」

「彼にも、こんなふうに触れさせたんですか」

「……ッ」


 引き寄せた反動で身を翻し、バルコニーの手すりにステラの背を押し付けて両腕の間に閉じ込める。

 吐息も触れるほど近くで囁き問いかけると、ステラは目を見開いた。


 初めて見る、ステラの驚いた表情。

 そんな表情もできるのかと、込み上げたのはどうしようもない自嘲だった。


「彼と、想いを通わせたんですか?」

「何を……」

「少なくとも、彼の方はあなたのことを『ただの幼馴染』とは思っていないようだ。彼は姉君ではなく、あなたに想いを寄せていたんでしょう?」

「――ッ」

「妹君を想いながら姉君と婚約するなんて、不実な男ですね。それほどまでに侯爵家の爵位が欲しかったんでしょうか。

 今更になって再びあなたに近付いてきたのは、ランチェスター公爵家からの援助が目的ですか?どこまでも浅ましい男だ」

「―――彼を侮辱するのはおやめください……ッ」


 安い挑発に乗って仮面が剥がれ落ちてゆく様子が、可笑しくて仕方なかった。


 きっとステラにとっても、彼は「ただの幼馴染」などではなかったのだろう。

 自分の「邪推」が正しかったことを、ステラの反応で知る。


 清廉なふりをして、色事に興味無いような顔をして姉の婚約者と通じていたのだとしたら、とんだ悪女だ。


 目の前の無垢な少女が、かつてジャンに愛を訴えた兄の妻の姿と重なる。


 兄との未来を描きながらジャンのことも手に入れようとした強欲な女。

 手に入らないと知るとすべてを壊した悪辣な女。


 ステラもあの女と同じなのかと諦念めいた失望と、認めたくないと願う抵抗。

 二つの心がジャンの中でせめぎ合う。


 ジャンにとってはそんなこと、どちらでも構わないはずなのに。

 ステラが彼をかばう理由がただの情でも秘めた愛でも、どちらにしろ気に食わないことには変わらないのだから。


 どうしてこんなにも彼女にこだわっているのかわからない。

 何が気に入らないのか、この不快感の理由が何なのか、知りたくもない。

 ただ彼女の表情が歪んでいくところを見たかった。

 どうにかして、彼女の核心に触れてみたかった。


「あなたは、姉君を妬んだことはないのですか」


 囁くように尋ねると、ステラの表情が強張った。


「彼と結婚するはずだった姉君を、羨んだことはありませんか?姉君さえいなければ、と思ったことは?彼に姉君が婚約破棄されとき、どんな心地でした?いい気味だと、少しも思いませんでしたか?」

「―――っ」


 胸に衝撃を感じ、ジャンはよろけて一歩退く。ステラにつき飛ばれたのだ。


「……もう……やめてください……」


 ジャンを突き飛ばした腕が、力なく下ろされる。

 その白い華奢な腕を掴んで再び引き寄せることも抱きしめることも容易いはずなのに、ジャンにはできない。


 彼女を追いつめて、何がしたかったのだろう。

 何が手に入ると思ったのだろう。


 濃い灰色の髪が、白い頬をサラリと撫でる。

 俯いてしまったステラの表情は、ジャンには見えない。

 怒るかと思ったのに、ステラは無防備に項垂れるだけだった。


「―――ステラ?」


 刺すような沈黙を破ったのは、ジャンでもステラでもない第三者の声だった。

 ほわほわとしたやけに浮世離れした声に、ステラは弾かれたように顔を上げる。

 同時にジャンが振り向くと、バルコニーの出入り口にステラの姉――ソフィア=ミーリックが立っていた。


「やっと見つけた。久しぶりに会えたのに、ちっともこちらに来てくれないんだもの。アレックス様に紹介したいし、わたくしだってステラとゆっくりお話したいのに」

「……お姉様……」

「ジェシカも会いたがっていたのよ。あの子はまだ夜会に出られないからとても残念がっていたわ。本当よ。

 ……あら、その方は?」


 とんでもなくマイペースに話を進めるソフィアは、ようやくステラと対峙するジャンに気付いたようだ。

 しかしただ話していたというにはあまりに不自然な二人の距離感や漂う不穏な空気に言及してくることはない。

 ステラの御友人?と場違いなまでに朗らかに尋ねる。


「第二皇子殿下付教育係のアトリー卿です、お姉様」

「……ジャン=アトリーと申します。この度はお招きありがとうございます。ランチェスター様とのご婚約、心よりお祝い申し上げます」

「まぁ、ありがとうございます。

 ステラの姉のソフィア=ミーリックと申します。アトリー卿のお話はアレックス様やランチェスター卿からお伺いしておりますわ。第二皇子殿下への御指南役をとても立派に勤め上げられていらっしゃる、と」

「もったいない御言葉にございます」


 おっとりと微笑むソフィアは、アレックスと結婚すれば、第二皇子(レオンハルト)の義叔母になる。

 没落寸前のミーリック侯爵家にとってはランチェスター公爵家と皇家、双方とのつながりが得られるまたとないチャンスだ。

 またそうなると彼女の妹であるステラも、レオンハルトにと縁戚関係になる。

 ステラがレオンハルトに愚直に尽くす理由は、生家の再興を狙ってのことだったのだろうか。


「ステラも、お城で皇子殿下の侍女を頑張っていると聞いて安心していたのよ。貴女は昔から何でもできる子だったけれど、頑張りすぎてしまうところがあったでしょう。無理してなければいいけどって、心配していたの。

 けれどアトリー卿のような方がいっしょにいてくださるのなら、安心ね」

「は?」

「ごめんなさいね、ふたりの時間を邪魔してしまって。わたくしはもう中に戻るわ。

 ステラ、あとでちゃんとアレックス様やランチェスター卿に紹介したいから、もう少ししたら貴女も戻ってきてね」

「あの、お姉様……」

「いいのいいの、大丈夫。わかってるから。お父様には内緒にしておくわ。じゃぁまたあとでね。

 アトリー卿も、よい夜を。ステラのこと、よろしくお願いいたしますね」


 そう言って、呆気にとられるステラにかまわず優雅に礼をとりソフィアは立ち去る。

 いったい何が大丈夫で何をわかっているというのだろう。


「……何やら誤解されてしまったようですね」


 「恋人同士の逢引」と完全に誤解したのだろう。

 この状況では無理もないことだが、あまりに人の話を聞かないソフィアに面食らっていた。


「……お姉様は昔からおおらかで大胆で思い込みが強いところがありました」


 誤解を招いた元凶であるジャンに対してステラは怒り狂うかと思ったが、その声は淡々としていた。

 もはや怒りを通り越して諦めの境地に達しているのかもしれない。


 先程までの動揺が嘘のように、そこにいたのは「いつも通り」のステラだった。

 まるで仮面を被り直したかのよう。


 冷静沈着な彼女と、男のことで狼狽する彼女。


 どちらが本当の彼女なのだろう。


「あぁいう方だから、憎めないんです」

「……」


 涼やかな声に、それが先程のジャンの問いに対する答えだと気付くのに時間がかかった。

 静かな声は、本心のようにも自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


「わたくしは姉のことを恨んだり妬んだりしたことはございません。彼は初めから姉の婚約者で、彼とわたくしの間には何もありませんでした。

 ……何も」


 淡々と言葉を紡ぐ紅い唇がかすかに震えているのは怒りのためか、それとも別の感情か。


 その唇に戯れに触れれば、この女はどのような反応を見せるのだろう。

 そんなことばかり考えてしまう理由を、ジャンは見つけられなかった。


「わたくしはこれで失礼いたします。姉の元へ行かなければなりませんので。

 ごきげんよう、アトリー卿。よい夜を」


 そう言ってステラは優雅に礼をとる。

 侍女としてではなく、侯爵令嬢として。

 そしてジャンを残して去っていった。


【本編では触れなかった設定】


侍女や侍従も、貴族の開く夜会にはゲストとして出席することができます。

城で開かれる皇妃主催の夜会や皇帝主催の宴ではホスト側に回ります。


-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


思いの外登場人物が増えてきたので追加で簡単に。

年齢は今回更新時点のものです。


ジャン=アトリー(24)      髪:褐色  瞳:鉄色

 ・伯爵令息(次男) 第二皇子付教育係


ステラ=ミーリック(18)     髪:濃灰色 瞳:榛色

 ・侯爵令嬢(次女) 第二皇子付侍女

ソフィア=ミーリック(20)    髪:赤銅色 瞳:榛色

 ・侯爵令嬢(長女) ステラの姉

ジェシカ=ミーリック(14)    髪:栗色  瞳:緑色

 ・侯爵令嬢(三女) ステラの妹


アレックス=ランチェスター(32) 髪:金色  瞳:深緑

 ・侯爵令息(次男) マリアンヌの次兄 ソフィアの婚約者

ミゲル=ランチェスター(28)   髪:金色  瞳:深緑

 ・公爵令息(三男) マリアンヌの兄  騎士団第一部隊隊長


エリオス=ルトビウス(29)    髪:蜂蜜色 瞳:碧色

 ・伯爵令息(次男) 宰相補佐官 ジャンの兄の友人


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