E.C. 998.08-1
春が終わり、夏が来た。
庭園に咲く花々も春の花から夏の花へと変わった。
けれど「後宮」の庭園には一ヶ所だけ、一年中薔薇の花を咲かせているエリアがある。
薔薇園だけは、季節を問わず常に色とりどりの薔薇が咲いていた。
「ばらはお母様がお好きなお花だから、いつでもたのしめるようにって、お父様が」
「陛下が、正妃殿下のために……」
アデルバートの生母である正妃アンジェリカは、シルバーブロンドの髪と青い瞳をした氷の彫刻のように美しい女性だった。
式典や皇家主催の夜会でその姿を見たことはあるが、常に微笑みを絶やさない皇帝とは対照的に、彼女は気安く笑みを振り撒いたりはしない。
三代前の皇帝を曾祖父に持ち、神の血をその身に宿す彼女は、まだ二十三歳という若さでありながらいっそ神々しく、皇妃と言うよりもむしろ女帝然としていた。
実際皇帝が不在のときには代わりに政を執り行うこともあるらしい。
そんな彼女が花を愛でるということには正直驚いたが、むしろジャンが不思議に思ったのは――。
「妙な勘繰りはおやめください」
「妙な勘繰りって何がですか。ちょっとした世間話でしょー」
「その話し方もおやめください。不愉快です。殿下に悪影響です」
「痛っ。ちょ、こっそり足踏むのやめてっ。それも教育に悪い……」
レベッカにぐりぐりとつま先を踏まれ、ジャンは非難の声を上げる。
皇帝と正妃ははとこ同士であり幼い頃からの婚約者であり仲睦まじい夫婦と思われていたが、三年ほど前に皇帝が側妃を迎えると、「後宮」内の状況は一変した。
十六歳の美しい側妃に、皇帝は夢中になった。昼夜問わず彼女の元に通い、公務のとき以外は片時も離そうとしなかった。
今では皇帝の寵愛は完全に第二皇妃に移ったと囁かれている。
公の場で皇帝が伴う皇妃は必ず正妃であるため国民の知るところにはなっていないが、「後宮」に出入りするようになって日の浅いジャンでも知っているのだ。
皇帝は第一子であるアデルバートのことは溺愛しているが、その母である正妃との夫婦仲はあまりよろしくない。皇帝が彼女の部屋に通うのは第一皇子に会いたいがため、というのが「後宮」内での公然の秘密となっていた。
そのため、アデルバートの言葉を聞いて、皇帝が正妃のために薔薇園を?と確かに不審に思いはしたが、どうしてレベッカに悟られたのか。
そしてどうして足を踏まれるという地味な攻撃を受けなくてはいけないのか。
レベッカは初めて会ったときからジャンに対し当たりが強いが、四ヶ月経ってもそれはあまり変わらない。
むしろ日に日に容赦が無くなってきている気がする。
後輩の侍女に対しては高圧的な態度をとったりしないし、皇帝の側近であるカーティスとも普通に話しているのに。
四月の半ば、ジャンは「宮廷」の庭園を散策する皇子の護衛を任された。
仕事で手が離せない上司の代わりだったためあの一度きりだと思っていたが、アデルバートはその数日後、再びジャンを指名してきた。今度は名指しで。
以来五日に一度ほどのペースで呼び出されていたが、春が終わり夏が来る頃には、今度は「後宮」内での散歩に付き合えと言い出した。
さすがにそれは無理だろうと思ったが、彼の父である皇帝の許可はもらっているから大丈夫だと言われた。
爵位も持たないただの文官候補生を「後宮」に入れるなんて前代未聞だ。
お前何したんだよ……とさすがのエリオスもちょっと引いていた。「後宮」の侍女も、遠巻きにざわついていた。レベッカにはこのうえなく睨まれた。
とはいえそんなこんなを経て、一月経った今ではジャンが「後宮」にいても誰も気にしなくなった。
慣れとは恐ろしいものだ。
今日もこうしてアデルバートとレベッカとともに「後宮」の庭園を散策していた。
「ジャン?どうかしましたか?」
「……いえ、何でもないです……」
レベッカがジャンの足を踏んでいたのはアデルバートの死角だったため、急に声を上げたジャンを驚いたようにアデルバートが見る。
何でもないとジャンが誤魔化すと、レベッカもしらばっくれるようにふいと顔を背けた。
何がしたいのかわからないが、意外と子供っぽい人だなこの人、と少しおかしく思えた。
理不尽な扱いを受けているものの、その実ジャンはレベッカのことがそんなに嫌いではない。
基本ちやほやされて育ったジャンに対してこういった態度をとる者は珍しいので新鮮に感じているだけかもしれないが。
「そうですか?じゃぁ次は……ぁ……」
「殿下!」
歩き出そうとしたアデルバートがふいによろける。足元から崩れ落ちそうになるところを、慌てて受け止めた。
「大丈夫ですか!?殿下!」
アデルバートを抱えたまましゃがみ込む。顔を覗き込むと、いつもは生気が感じられないほどに白い顔が、赤く上気していた。
アデルバートが散歩中に倒れるのは今日が初めてというわけではないが、いつもの発作ではなさそうだ。
生まれつき疾患のあるアデルバートは、発作のときは胸を抑え、呼吸も荒くなる。しかし今日は逆に呼吸が浅い。
「殿下……ッ」
「動かさないで。……太陽の光を浴びすぎたんでしょうか。日陰で少し休みましょう」
「アトリー殿……」
「今更ですが殿下、御身に触れる無礼、お許しくださいね」
レベッカの反論を待たず、ジャンはアデルバートを抱き上げる。
抗う気も無いのか大人しくジャンに抱かれる小さな身体は、驚くほど軽かった。
極力揺らさないよう気を付けて運び、アデルバートをガゼボ内のベンチに寝かせる。
「エイミス女史。私は冷たい水を取りに行ってまいりますので、殿下をお願いいたします」
「アトリー殿……」
「殿下。ここで待っていてくださいね」
アデルバートの前髪をそっと指で避け、ジャンは走り出す。
おそらくは日光を浴びすぎたことによる日射病だろう。涼しい所で休み、冷たい水を飲めば回復するはずだ。
「後宮」の厨房まで走り、事情を話して氷の入った水差しとグラスを用意してもらう。
そのまますぐに引き返したためアデルバートの元を離れてからそう長い時間は経っていないはずだが、戻ってくると、彼の隣には薄いブルーのドレスを着た二十歳ほどの女性が座っていた。
淑女は顔を上げ、ジャンに気付く。夏の晴れた空のように蒼い瞳がジャンをとらえる。
―――息が、止まるかと思った。
それほどまでに美しい人だった。
「アトリー殿!」
ジャンに気付いたレベッカが駆け寄って来て水差しとグラスを奪い取る。
短く整えられたレベッカの爪が手をかすめ、我に返った。
だがその場に縫い付けられたように足が動かない。
「殿下、お水です。お召し上がりください」
ベンチに横たわっていたアデルバートの上半身をレベッカが起こして支え、口元へグラスを持っていく。
細い喉が上下に動き、水を飲む。
その様子を淑女は隣で珍しいものを見るように眺めていた。
「……もう、だいじょうぶです」
グラス一杯半ほど水を飲んだアデルバートはレベッカを制する。
レベッカは水差しとグラスをベンチの端に置き、アデルバートの口をハンカチーフで拭った。
大丈夫と言うのは嘘ではないらしく、アデルバートはレベッカの腕の中から身を起こし、ベンチの背もたれへと身体を預けた。
「もう少し休んだらお部屋に戻りましょう、殿下」
「……はい」
「皇子殿下、本当にもう大丈夫ですか?もう苦しくない?」
淑女が尋ねながら、持っていた扇でそよそよとアデルバートを扇ぐ。
薄いブルーのドレスに似合う、一目で一級品とわかる物だった。おそらくデザイン性を重視しているため、あれで扇いでもあまり涼しくないだろう。
けれどきっと、誰もそんなこと指摘できない。
それは彼女の行動が善意からくるものだから、というわけではない。
彼女がこの場にいる誰よりも高位の身分だからだ。
「……ご心配をおかけして申し訳ございません、妃殿下」
ベンチの傍に跪き、レベッカが淑女に対して首を垂れる。
その敬称で呼ばれる人物は、今この国に二人しかいない。
アデルバートとともにベンチに座っていたのは、マリアンヌ=ランス=ジュエリアル。
「太陽の女神」と謳われる、皇帝の寵愛を一身に受けるこの国の第二皇妃だ。
ジャンがいない間に何が起こったのか、どうして彼女がここにいるのか。ジャンの立場では質問は許されない。
立ちつくしていたジャンは、第二皇妃の侍女と思しき女性にチラリと視線を送られ、慌てて礼をとる。
ジャンが「後宮」内にいることさえ異例なのに、皇妃と同じガゼボに足を踏み入れることはできないため、その場で跪いた。
皇妃はジャンに気に留めた様子もない。当然だろう。彼女は本来ならばジャンがその姿を見ることすら叶わぬ存在なのだから。
側妃は皇帝のためだけに生き、皇帝に愛でられるための存在。皇帝以外の誰かに関心を抱く必要など無い。
そんなことはわかっている。
けれど先程、彼女の蒼い瞳がジャンに向けられた瞬間、心臓を貫かれたような心地がした。
確かにあの瞬間、彼女と目が合った。
彼女がジャンに何の感情を抱いていなくても、たった一瞬でも、確かに彼女の瞳にはジャンが映っていた。
そのことにどうしてこんなにも昂揚しているのか、自分でもわからなかった。
「皇子殿下。よろしければわたくしとお話しませんこと?」
「おはなし……?」
「妃殿下……」
扇を動かしながらアデルバートに尋ねる第二皇妃を、レベッカが咎めるように呼ぶ。
先程までぐったりしていた幼子に対し何を考えているのかという非難を込めてだろう。
けれど第二皇妃はレベッカの注意など気に留めた様子はない。
「お嫌ですか?」
「いいえ……。おはなししたいです」
「ありがとうございます」
にっこりと、まるで大輪の花のように艶やかに微笑む第二皇妃が何を考えているのかわからない。
ジャンはもはや思考を放棄し、美貌の皇妃をただ見つめる。
「皇子殿下、そのご本は何ですか?」
「お花のずかんです。ここにあるお花をおにわでさがすのが好きなんです」
「まぁ、楽しそう」
アデルバートの持っていた図鑑について尋ねた第二皇妃は、答えを聞いて朗らかに笑う。
それに気をよくしたのか、アデルバートは図鑑を開いて中を彼女に見せ始めた。
喜々として説明しながら、けれどアデルバートはチラチラと第二皇妃に視線を送る。
彼女の美貌に見惚れているわけではない。アデルバートの視線は第二皇妃の腹部へと注がれていた。
「気になりますか?」
「え……」
露骨な視線に気分を害した様子もなく、第二皇妃は微笑みながら尋ねる。
そして膨らんだ腹部へとそっと手を当てた。
ドレスの袖から覗く腕は細く、首や肩も頼りないほどで、全体的に華奢な印象のある第二皇妃だが、腹部だけは不自然なほど膨らんでいた。
「皇子殿下」
「はい」
「ここにはね、殿下の弟がいるのですよ」
第二皇妃の言葉に、レベッカの表情が強張る。
二ヶ月ほど前、第二皇妃の懐妊が国内外に発表された。
五年前、正妃がアデルバートを身籠ったとき以来の吉報に国中が沸いた。美貌の皇妃が産む皇帝の子を、誰もが楽しみに待っている。
けれどアデルバート――第一皇子の立場からすれば、きっと手放しには喜べないことなのだろう。
「後宮」内に渦巻く家々の思惑は、ジャンのような一介の文官候補生などには予想もつかない。というか、予想したこともなかった。
元々ジャンは城での出世にあまり興味が無い。
アトリー伯爵家は伯爵家ではあるものの大臣職につけるほどの家格ではないし、そもそもジャンは今更家のために尽くすつもりも無い。
ジャン個人としては波風立てず、面倒事に巻き込まれることなく平穏な生活が送れればそれでよかった。
何の因果かアデルバートに気に入られてこうして「後宮」に出入りするようになったが、所詮幼子の気まぐれ。すぐにお役御免となるだろう。
それならば深入りしない方がいいと、侍女たちの噂話を聞き流していた。
「おとうと……?」
第二皇妃の言葉をアデルバートは繰り返す。
母親以外の女性が自分の弟を産む。
その意味を、幼いアデルバートはきっとまだ理解できない。
けれどいつかは、理解しなくてはいけない。納得しなくてはいけない。
彼がこの国の第一皇子で、いずれ皇太子―――皇帝になるのだとしたら。
「そうですよ。これから生まれてくるのは殿下の弟です」
「じゃぁ、もうすぐいっしょにあそべますか?」
アデルバートの目が輝く。けれど第二皇妃はそっと首を横に振った。
「……いいえ。きっと、すぐには無理ですわ」
「え……」
「でもいつか、必ず会える日がくます。そのときは、この子をたくさん愛してあげてください。……この子が寂しい想いをしなくていいよう、たくさん抱きしめてあげて」
どうして彼女がそんなことを言うのか、ジャンにはわからなかった。
それはアデルバートも同じだろう。第二皇妃の言葉に、きょとんとしている。
だがアデルバートが何かを答える前に、ジャンの隣を何者かが駆けていった。
突然のことに後姿しか確認できなかったが、ドレスの裾を翻し軽やかに走るのは、緋色の髪をした女性だった。
「お姉さま!」
「セレス」
突然の乱入者はガゼボ内の第二皇妃の眼前で立ち止まる。何事かとジャンは思わず立ち上がるも、第二皇妃も彼女の侍女も動こうとしない。
第二皇妃に至っては驚いたように目を丸くしながらも、すぐに乱入者の名を呼んだ。
「その方……」
緋色の髪の女性は第二皇妃の元に一直線に駆け寄ったが、すぐ隣に座っているアデルバートの存在に気付いたようだ。
ジャンの位置からは横顔しか見えないけれど、まだ幼さの残る顔立ちは、女性と言うよりも少女に見えた。
「お控えください、第三皇妃殿下」
しげしげと無遠慮にアデルバートを眺める少女に、レベッカが毅然と告げる。
本当ならアデルバートと彼女の間に割って入りたいのだろうが、さすがの彼女もそこまで無謀なことはできないようだ。
「失礼いたしました、皇子殿下。第三皇妃セレスティア=ブレイド=ジュエリアルと申します。以後お見知りおきを」
レベッカに窘められ、少女は優雅に礼をする。
少し高めの甘い声も、タレ目ぎみの大きな瞳もあどけなさしか感じられないが、彼女は正真正銘、この国の第三皇妃だ。
彼女が皇帝の妃になったのは、今から八ヶ月前のこと。
当時彼女はまだ十四歳で、その年齢での後宮入りは異例中の異例だった。
ブラッドリー公爵家の次女である彼女は、本来嫁ぐはずだった長女が事故で急逝したため代役として「後宮」に入った。皇妃となる好機を他家に渡したくなかった彼女の父が強引に推し進めたのだ。
四大公爵家ブラッドリー家当主の傲慢さに眉を顰める者も多かったけれど、予期せぬ幸運で「皇妃」の身分を手に入れた彼女に向けられる声は、意外に同情的なものが多かった。
元々子を産むための側妃であるにもかかわらず、まだ十四歳という幼い彼女がその役目を果たすことは難しいだろう。
ましてや第二皇妃がいる限り、皇帝の愛が彼女に向けられることはきっとない。
それにこのタイミングでの第二皇妃の懐妊。第二皇妃の産む子が皇子であれば、第三皇妃の「後宮」内での立場はますます危ういものとなるだろう。
姉の代わりに「後宮」に閉じ込められ、肝心の皇帝からは見向きもされない可哀想な側妃。
それが「後宮」内で囁かれる「第三皇妃」の姿だ。
けれど今ここにいる第三皇妃は生き生きとしていて、噂とはまるで違うように思えた。
「はじめまして。アデルバート=セイルヴ=ジュエリアルともうします」
第三皇妃の口上を受け、デルバートも名乗る。
同じ「後宮」で暮らしているのに、彼らは初めて顔を合わせる。
おそらくは意図的に鉢合わせないよう配慮されていたのだろう。
「後宮」は、たった一人の男のために作られた花園。
けれどそこで暮らすのは物言わぬ花などではない。血の通った人間だ。
愛する男の愛する女に、自分以外の女が産んだ愛する男の子に、よからぬ想いを抱いたとしても、そのこと自体は誰も責められない。
けれどアデルバートを前にした第三皇妃は、興味深そうに第一皇子を眺めるものの、敵意や悪意のようなものを抱いている様子はまるで感じられない。
それが余計に歪に見えたのは、ジャンの考えすぎだろうか。
面倒事に巻き込まれたくないと思いながら、幼い皇子と過ごすうちに情のようなものが沸いてしまっていることは否定できない。
聡明すぎる幼子が心穏やかに暮らせるようにと願うくらいの人の心は、ジャンにだってあるのだ。
「……皇子殿下、わたくしたちこれで失礼いたしますわ。楽しい時間をありがとうございました」
「え……もっとおはなししたいです……」
侍女の手を借り、ベンチから立ち上がろうとする第二皇妃を追いかけるよう、アデルバートは上を仰ぐ。
けれど皇妃は窘めるように微笑む。
「光栄ですわ、皇子殿下。でも皇子殿下はそろそろお部屋に戻られた方がよろしいわ。エイミス嬢も心配なさっているようですし。またいつか、お会いできたらお話いたしましょう」
約束ですよ、と第二皇妃は白い小指を一本だけ立ててアデルバートの前に差し出した。
そして不思議そうにしているアデルバートの手をもう片方の手で取り、小さな小指と自らのそれを絡ませる。
ごきげんよう、と優雅に礼をし、第三皇妃を促して第二皇妃はガゼボを出る。
並んで歩く二人の皇妃は、ジャンの方へと近付いてくる。
太陽の光を受け、第二皇妃の金色の髪は眩いばかりの輝きを放っていた。
まるで、時が止まったようだった。
一年と少し前、ジャンが社交界デビューをした頃、彼女は既に第二皇妃として「後宮」に入っていた。
そのため社交界で彼女の姿を直接見たことはなかった。
城に入ったのちも、彼女は自身の結婚式を最後に国民の前に姿を現すことはなかった。
だが「マリアンヌ=ランチェスター公爵令嬢」の噂を耳にしたことはある。
今から五年前、デビュタントでホール中の貴公子を虜にした美貌の淑女。
「社交界の華」と謳われた彼女の元には毎日求婚の花が届き、ついには皇帝までもがその美貌を見初め側妃に召し上げたと。
当時は噂好きの貴族たちが大袈裟に言っているだけだと思っていたが、実物を見て納得した。
初めて間近で見る第二皇妃は、この世のものとは思えないほど美しかった。
吟遊詩人も彼女の美しさを表現することは不可能なのではと思うほどに。
正妃の凍るような美貌や皇帝の見る者すべてを圧倒するような美しさとも違う。
太陽のような眩い金の髪、晴れた夏空のような蒼の瞳。
決して手の届かない、人間では穢すことのできない美しさを有する彼女が、ジャンには女神に見えた。
「―――殿、アトリー殿!」
相変わらず怒ったようなレベッカの声がジャンを呼んでいる。
皇妃たちが立ち去ってなお立ちつくしていたジャンは我に返り、慌ててガゼボ内のアデルバートの元へと駆け寄る。
「何をぼぅっとしているのですか。私たちも戻りますよ」
「はい……」
ベンチに置かれた図鑑を手に取る。先程まで彼女がここに座っていたなんて、現実味が無かった。
彼女の存在ごと、夢を見ていたような心地だ。
「参りましょう、殿下」
「……歩けますか?お抱きしてもよろしいですか?」
「あるけます。ありがとう、ジャン」
ベンチに座っていたアデルバートは、レベッカと手を繋ぎ歩き始める。
倒れたときは真っ赤だった顔も、今は赤みが引いている。
だが今は回復しているようでも、また夜に熱を出すかもしれない。
そしてまたこの小さな皇子は部屋の中に閉じ込められるのだろう。
「……レベッカ」
「はい」
「さっきのひと、だれですか?」
アデルバートの問いに、レベッカの表情が強張る。
年齢にそぐわない利発さを持つアデルバートだが、彼が何をどこまで理解しているのか、ジャンは知らない。
自分の父親が特別な存在であること、父には母の他に二人の妻がいること、父は母ではない別の妻のことを母のことよりも愛していること。
幼いアデルバートは、理解できるだろうか。
理解できたとき、その現実を受け入れられるのだろうか。
「……殿下がお知りになる必要はございませんわ」
「レベッカ……」
「今日はお疲れでしょう。夕食までゆっくり休んでくださいませ」
有無を言わせない侍女の言葉に、アデルバートは表情を曇らせながらも、何も言わなかった。
聞き分けのいい―――よすぎる子ども。
もしもアデルバートがこのとき皇妃についてもっと強く尋ねていれば、アデルバートはもう一度彼女に会うことができただろうか。




