E.C. 998.04-2
エリオスに命じられた通りジャンが「後宮」と「宮廷」を隔てる門に向かうと、既にそこには皇子と侍女服を着た女性、それからなぜか皇帝の近侍の姿があった。
普段「後宮」で暮らし、「お披露目」もまだのため民の前に一度も姿を現したことのない皇子だが、一目でわかった。
真っ直ぐな亜麻色の髪も銀灰色の瞳も恐ろしいほど整った顔立ちも、彼の父である皇帝にうりふたつだ。
「遅い。何をしていたのですか」
皇子の傍に立つ侍女がジャンを睨む。彼女がエリオスの言っていた第一皇子付の侍女だろう。
レベッカ=エイミスは杏子色の髪と瑠璃色の瞳をした美人だが、なるほど、確かに怖い。
「遅くなって申し訳ございません。ルトビウス様の代わりに参りました。若輩者ですが、皇子殿下のお供を務めさせていただきます」
レベッカに向かって礼を取り、告げる。爵位を持たないジャンは自分から皇子に直接話しかけることは許されないためだ。
「身分証は持っているか?」
レベッカの隣に立つ皇帝の近侍、カーティス=ディルクに尋ねられる。
普段「宮廷」で皇帝の公務の補佐をしている彼がなぜこんなところにいるのだろうかと不思議に思うも、言われた通りに身分証を差し出す。
「ジャン=アトリー……アトリー伯爵家の次男……。あぁ、それでエリオスと親しいのか」
ジャンの身分を確認したカーティスは、無表情のままポツリと呟く。
「あの……何か……?」
恐る恐る問うと、やはり無表情のままのカーティスに身分証を返される。
「いや。エリ……ルトビウスに護衛を頼んだら手が離せないから別の信頼できる者を寄越すと言われてな。あいつがそんな風に言うなんて珍しいと思ったが、君はケビン=アトリーの弟だろう?だからか、と思ってな」
「兄を……ご存知なのですか?」
「私の弟が二人と同輩でね」
「いつまで話していらっしゃるのですか」
淡々としたカーティスをレベッカが遮る。
カーティスとは対照的に、レベッカの顔にはありありと「不機嫌」と書かれていた。
「あぁ、すまないエイミス嬢。
それではアトリー。皇子殿下の護衛を頼む」
「は……」
「では殿下。私はこれで失礼致いたします。よい休息を」
「ありがとうございました、カーティス」
皇子に礼をし、カーティスは立ち去る。彼が護衛をしたのではいけないのだろうかと思いながらも二人に向き直る。
「レベッカ。おはなししてもかまいませんか?」
「どうぞ、殿下」
「ありがとうございます。よろしくおねがいします」
舌足らずな口調でレベッカに許可を求め、皇子はジャンに微笑む。
皇族である彼は決して頭を下げることはないが、「お願い」されて素直に驚いた。
しかもみだりに話しかけたりせず、信頼のおける侍女に確認をとってからなど、四歳の幼子ができることではない。
皇子の利発さにたじろいでいると、レベッカに睨まれ慌てて頭を下げた。
公の場ではないので、今のを皇子の「許可」と見做して構わないだろう。
「身に余る光栄に御座います、皇子殿下」
「さ、参りましょう、殿下」
ジャンの発言はスルーし、レベッカは皇子を促す。
身体の半分くらいありそうな大きく分厚い本を抱えた皇子は、よたよたと歩き始めた。いったいどうして「散歩」にそんなものが必要なのだろう。
「……お持ちいたしましょうか?」
「だい、じょう、ぶ、です」
「や……でも……」
「アトリー殿、お静かに」
気を遣って尋ねたのに、皇子には拒否され、レベッカからは叱責された。
何この理不尽。釈然としない想いに駆られるも、黙って二人に続く。
しばらくすると、その意味を察した。
散歩と言っていたが、皇子は少し歩いては立ち止まり、また少し歩いては立ち止まる。疲れて休憩しているのではない。立ち止まるたびに持っていた本を開いて何かを確かめている。
好奇心に負けてそっと覗き込むと、皇子の持っていた本はどうやら植物の図鑑のようだ。
これは何の花で、この蔓は何で、いつ花を咲かせる、といちいちレベッカに説明している。
「これはカサブランカといいます。なつに花をさかせます」
「それはアマリリスですね」
思わず口を挟むと、皇子は驚いたようにジャンを仰ぎ見た。
あ、まずい。と思ったときにはレベッカの目は更に険しくなっていた。
「も、申し訳……」
「あなたはお花にくわしいのですか?」
「え……」
間違いを指摘された皇子は、怒るかと思ったのになぜかキラキラとした瞳をジャンに向けた。
「カサブランカとアマリリスはまちがえやすいと、ここにもかいてます」
図鑑のページをめくり、アマリリスが載っている箇所を示される。
見分けられるなんてすごいです、と皇子は頬を上気させるが、ジャンからすればすごいのは皇子の方だ。
「皇子殿下……もう字が読めるのですか……?」
「?はい」
何でもないことのように皇子は頷くが、確か皇子は今年の冬に四歳になったばかりだ。それなのにもう字が読めるなんて。
驚くジャンにお構いなしで皇子は喜々として語り始める。
話を聞き、質問に答えるだけで皇子はとても喜んだ。
ジャンとおはなしするのたのしいです、とはしゃぐ皇子に、直接名乗ったわけではないジャンの名前を覚えたのかとまたも驚いた。
「またおはなししてくださいね、ジャン」
一刻ほど庭園を散策した皇子はまだ物足りなさそうにしながらも、レベッカに促されて「後宮」に帰っていった。
別れ際、約束ですよ、と強請る皇子に、弟がいたらこんな感じだろうかと考える。
恐れ多いことではあるが、たぶんかなり懐かれてしまったようだ。
「えぇ、ぜひ」
とは言え、皇子はまだ四歳。
「次」がいつになるかわからないが、きっとそれまでジャンのことを覚えてはいないだろう。
社交辞令の返答が現実のものになるなんて、このときのジャンは少しも予想していなかった。
【本編では触れなかった設定の補足⑰】
アトリー伯爵家の一族は伯爵家の人間として生活できますが、実際に「爵位」を持ち伯爵特権を行使できるのは本家の当主のみなので、次男のジャンは爵位を持たないただの貴族です。
他の親族も同様で、「当主の特権に庇護されている」状態です。
例外として正妻は「〇爵夫人」として、跡取りは「小〇爵」として社会的地位を保証されています。
それ以外でも、カーティスや数年後のジャンのように皇城である程度の役職に就くと当主でなくても一代限りの爵位を与えられます。
ちなみにエリオスも爵位は持っていないので部下からは「様」、同僚・上司からは呼び捨てもしくは「殿」で呼ばれます。




