E.C. 998.04-1
前回更新分から時間は遡りまして、これから数回はジャンの少年期、レオンと出逢う前のお話です。
若い女の囁き合う声に、「宮廷」の廊下を歩いていたジャンは足を止める。
廊下の角から上半身だけ出してこちらを覗いている女―――少女が二人。
にこりと微笑んでやると、少女たちは「きゃー」と歓声を上げて身を翻した。
続くバタバタと廊下を走る音。城仕えの侍女が皆名家の御令嬢なんて嘘だ。
実家のメイドの方がまだ慎み深く分を弁えている。
「罪作りだなぁ、ジャンは」
馴れ馴れしく近付いている蜂蜜色の髪と碧色の瞳をした長身の男に、ジャンは内心辟易する。
「ご機嫌麗しく存じます、ルトビウス様」
「ごきげんよう、ジャン」
わざとらしく家名で呼ぶと、わざとらしく名前で返された。
不満げなジャンに、エリオス=ルトビウスは満足げに微笑む。
「彼女たち、さっきのでお前に惚れたな」
「まさか。ちょっと笑いかけただけですよ」
「わかってないなぁ。ちょっと微笑んだだけで深窓の御令嬢がコロッと落ちてしまうくらい美しいんだよ、お前は」
「……」
男相手にさらりと口説くような台詞を言ってしまうエリオスもまた、美男子と言って差し支えない。
そもそも、貴族の家には見目麗しい者が多い。貴族は美しいものを好むためだ。
当主が美しい女を見初め、子を産ませる。美しい女が産んだ美しい子もいずれ美しい妻を迎える。
遺伝子学にはさほど詳しくないが、そうして美しい者以外淘汰されていくのだから、当然と言えば当然だ。
「……何ですか、気持ち悪い。まさかルトビウス様まであの侍女たちと同じように私に落ちたんですか?」
「侍女『殿』、な」
「いや『落ちた』方を否定してくださいよ」
「しないほうが嫌がるだろ、お前」
「……悪趣味」
「おい、何だ。上司に向かってその言い草は」
咎める台詞とは対照的に、エリオスの表現は上機嫌そのものだ。
砕けた口調でにやにやする上司に、ジャンは苦虫を噛み潰したような表情になる。
この男は、昔からジャンのことをおもちゃにするのが大好きだった。
「……上司なら上司らしく、もう少し適切な距離を保ってください。気安く話しかけないでください」
「どこのお姫様だよ、お前。
しょーがないだろ。可愛い弟分が心配なんだ。お前に何かあったら、ケビンに顔向けできない」
「……兄は私に何かあった方が喜ぶと思いますよ」
「ジャン」
感情を排した声で告げると、エリオスは咎めるように名を呼んだ。けれどそれ以上は何も言わない。
幼い頃から知っている、五つ年の離れた兄の親友が職場の上司になったのは、今から三ヶ月前のこと。
アカデミー卒業後、父によってジャンは文官候補生として城に放り込まれた。
騎士として士官学校に入るか城仕えをするか選べと父に迫られ、後者を選んだ。
父はどうしてもジャンを家から追い出したかったらしい。
父だけではなく、きっと兄も。
一等貴族アトリー家の次男として生まれたジャンは、見目麗しく文武に長けた性格以外は非の打ち所の無い理想の貴族令息だった。
アカデミーを首席で入学、卒業し、社交界でも顔が利く。
長男であり次期当主である兄との仲も良好で、将来は家を継ぐ兄を分家として支援するつもりだった。
けれどその未来はきっと、実現することはない。
ある女のせいで、兄とジャンの仲は氷よりも凍てついたものとなった。
アトリー家長男のケビンは十八歳のときに婚約した。
相手はジャンよりも一つ年上でケビンよりも四つ下の、一等貴族の御令嬢。
家格はアトリー家よりも上だが、貿易商の元締めをしているアトリー家の方が資産はあった。
よくある政略結婚だが、ケビンは清楚で美しい婚約者に夢中になった。
彼女の卒業後すぐにでも結婚したいと言いだし、父や相手の父親にそう焦るなと宥められた。
嫁ぐには何かと準備が要るのだからと、彼女が十七歳の誕生日に式を挙げることになった。
婚約期間中、ケビンは彼女の家を訪ねたり、彼女に似合うドレスや宝石を贈ったりと、婚約者に尽くしていた。
若い二人を周囲は微笑ましく見守っていた。
何もかも、順調だった。
彼女がジャンに想いを寄せていたこと以外は。
ある日兄の婚約者は突然アトリー家を訪ねてきた。
ちょうどケビンは出かけていたためは不在で、帰ってくるまでの間、ジャンが彼女の相手をするよう命じられた。
未婚の男女が二人きりになることは本来ならばあまり褒められたことではないが、彼女の方から構わない、いずれ義姉弟となるのだからと言われては従わざるを得なかった。
広い応接間でテーブルを挟んで向かい合わせでソファーに座り、とりとめのない話をした。
昨年まで同じアカデミーに通っていた彼女とはそう親しいわけでもないが、歩いているだけで令嬢が寄ってくるジャンにとっては淑女が退屈しないよう間をもたせることは造作もないことだった。
しかし兄上とのご結婚もうすぐですね、楽しみです、と話を振ると、彼女は急に泣き出した。
突然のことにぎょっとして慌てて彼女の隣に移りハンカチーフを差し出すと、彼女はその手を握った。
そして潤んだ瞳を媚びるようにジャンへと向けた。
初めて会ったときからすきだった。本当はケビンではなくジャンの妻になりたかった。けれど次男であるジャンに嫁ぐことはできない。だからせめて想い出が欲しい。
涙ながらに訴える彼女の言い分に、この女はいったい何を言っているのだろうかと思った。
出逢ってから今日まで、ジャンと彼女はほとんど話したことはない。
アカデミーですれ違うときも挨拶程度で、世間話さえしなかった。
何をもってジャンのことをすきだと言うのか。
どうしてあんな優しい兄よりもジャンの方がすきだと言うのか。
兄の婚約者の主張を要約すると、ジャンは彼女が今まで出逢った男の中で一番綺麗で美しくて、一目見た瞬間恋に落ちたらしい。
つまりは顔がすきだと言っているようなものだ。
美男が多い貴族令息の中でも、ジャンはとびぬけて華やかな容姿をしていた。
反して兄のケビンは極めて平凡な容姿をしていた。
悪いところはないが、特に褒めるところもない。
あんな男、ちっともタイプではない。
性格も優しいと言えば聞こえはいいが、気が弱くて決断力に欠ける。思い切りも悪いし臆病だ。
どうしてあんな男が長男なのかと、ついには自分の婚約者のことををこき下ろし始めた。
政略結婚であるのだから、アトリー家としては長男が彼女の家の人間を娶ることができるのなら相手は誰でもよかった。
彼女には二つ年長の姉がおり、そちらの方がケビンとも歳が近い。
どうしても彼女がジャンがいいと言うのなら、あまりないことだが、ケビンと彼女の姉が結婚し、ジャンと彼女が結婚するという形をとってもよかった。
だがぜひ次女を、と言ってきたのは向こうの方だ。
「次男だからジャンと結婚できない」のではなく、「次男のジャンと結婚してもアトリー家当主夫人の座は手に入らないからしたくない」というのが本当のところだろう。
清々しいほど身勝手な言い分に絶句していると、ジャンの反応が悪いことに業を煮やしたのか、兄の婚約者は握ったジャンの手を自らの胸に押し付けた。
柔らかな感触に不覚にも気をとられると、兄の婚約者は空いている方の手でジャンを突き飛ばした。
完全に油断していたジャンは、ソファーのアームで背を打つ。
さほど痛みはないが、衝撃に思わず天井を仰ぐと、下腹部に重みを感じた。
慌てて態勢を戻そうとするも、足が動かない。気付いたときには兄の婚約者はジャンの上に跨っていた。そしてこともあろうか両手でジャンの頬を包み、口づけた。
柔らかな感触と、先程まで飲んでいた紅茶の味。
別に初めてなわけではない。貴族令息の嗜みとして、そこそこの場数は踏んできた。
けれど今この場でのキスは、どうしようもなく嫌だと感じた。
何をするんだと思わず突き飛ばす。彼女が女性だということも、兄の婚約者だということも、このときのジャンの頭の中からは消え失せていた。
突き飛ばされてソファーから落ちた兄の婚約者は、床に座り込んだまま、信じられないというような表情でジャンを凝視した。
信じられないのはこちらの方だ。
ジャンが受け入れるとでも思ったのか。
ジャンが同じ気持ちだなどと思ったのか。
ジャンが兄を裏切ると、本気で思っていたのか。
だとしたら、酷い侮辱だ。
ジャンの瞳に浮かぶ軽蔑の色に気付いたのか、兄の婚約者の顔が朱に染まる。
怒りのためか、羞恥のためか。あるいはそのどちらともか。
ジャンが判断するよりも先に、兄の婚約者はジャンを射殺さんばかりに睨みつけた。
清楚な淑女のはずが、とんだあばずれで恥知らずだ。
内心罵るジャンの前で、兄の婚約者は自らの服の胸元をリボンごと引き千切る。
ジャンがぎょっと眼を剥くのと兄の婚約者が大声を上げるの、そして応接室の扉が開くのはほとんど同時だった。
部屋に入って来たのは、帰宅したばかりらしい兄だった。
愛しい婚約者の来訪を聞かされうきうきと扉を開けたのだろう。
しかし中にいたのは口元に赤い口紅が付いた弟と、胸元を乱したまま床に座り込んで悲鳴を上げる婚約者。
兄は立ちつくしたまま呆然とジャンを見た。
やがて兄の婚約者の悲鳴を聞きつけた家の者たちが続々と集まって来た。
そこからもう、予想通りの展開。
ジャンに無理やり乱暴されたと訴える彼女の言葉を信じた父に殴られた。
お前はいつもそうだ。いつも兄の物を欲しがり、兄の邪魔をする。そんなに兄が憎いのかとなじられた。
ジャンがいつ兄の邪魔をし、兄の物を欲しがったというのか。
兄さえいれば、ジャンは他に何も要らなかったのに。
アカデミーで勉学に励んだのも外国語を覚えたのも社交界でうまく立ち回るよう努めたのも、すべては将来家を継ぐ兄の役に立ちたかったから。
兄に取って代わろうなんて一度だって考えたことなかった。
双方の家でどのような話し合いがなされたのかわからないが、彼女の誕生日を待たず、兄と彼女は結婚することとなった。
式にも宴にもジャンは出席することを許されず、分家の叔父の家に預けられた。
アカデミーにもそこから通い、卒業した。以来一度も実家には帰っていない。
身の潔白を訴えても、家の者は誰も信じてくれなかった。
自分は何もしていない。兄の婚約者に恋慕するような不埒な男ではない。
事の顛末を正直に書きしたためた手紙を兄に送ると、そのまま返ってきた。
持って来たアトリー家の執事によると、兄は「罪を逃れたいからと言って妻を侮辱するな」と大層ご立腹らしい。
兄はジャンではなく彼女を信じたのだ。
今まで兄に尽くし、兄のために生きてきたのに、ジャンの想いは何一つ届いていなかった。
アカデミーを卒業したあと、ジャンは文官候補生として城に上がった。
兄の婚約者―――妻となった彼女と一緒に住まわせるわけにはいかなかないと、要するに厄介払いだ。
家を継がない貴族令息の次男や三男が成人後城仕えをすることは珍しくない。
そのまま文官や侍従として勤める者もいれば、経歴に箔を付けて他家に養子を入る者もいる。
おそらくはジャンは前者だ。
もう、兄の元には帰れない。
「……ケビンだって、今は頭に血が上っているだけだろ。もう少しすれば、前のように戻れるさ」
気休めを言うエリオスを鼻で笑う。
エリオスだけが、ジャンの潔白を信じてくれた。
ケビンはのぼせ上がっているみたいだけれど、あんなたいしたことない女にお前が血迷うわけないだろう、と。若干失礼極まりないことを言いながら。
けれどエリオスが信じてくれても、ジャンにとっては何の意味も無い。
「無理ですよ」
「ジャン……」
「私の言い分を信じるなら、アトリー家は夫以外の男に懸想し身体を許すようなふしだらな女を妻に迎えたことを認めることになる。そんなの父上が許すはずがない」
「……」
「それに、自分が愛されていないことを、兄上は認めなければいけない」
本当は、それでもいいから、兄が傷付いてもいいからジャンのことを信じてほしかった。
兄のプライドよりも、ジャンの兄への想いを守ってほしかった。
そんな身勝手なことを願った罰が、今のこの状況なのだろうか。
「……つらいな」
それはジャンのことか、それともケビンのことか。
安っぽい同情に、うんざりした。
「……もうよろしいでしょうか、ルトビウス様。あまり特定の新人を構っていては、稚児趣味を疑われますよ」
「あぁ、大丈夫。お前のことは幼い頃から目をかけている私の特別な子だから全力で特別扱いするけど、つまらない嫉妬でちょっかいなど出さないようにと皆にはあらかじめ言ってあるから」
「は?」
「それより今、手は空いているかい?アトリー」
今何かとんでもないことをサラッと言われたような気がするが、家名で呼ばれたことでジャンは無理やり気持ちを切り替える。
ここからは仕事の話だと、エリオスも上司の顔になっていた。
「……空いておりますが」
「さすが今期№1の期待の新人。仕事が早い。では新たな仕事を任せよう。今から『宮廷』の庭園を散策される皇子殿下の護衛を頼む」
「は?」
「まぁ護衛と言っても侍女殿もいらっしゃるし、付かず離れず後ろを付いて回ってくれればいいよ」
「いえ、あの……」
「私ができればいいんだけれどね、今から会議なんだ。他の新人は自分の仕事が終わっていないようだし。
いやぁ、ジャンがいてくれてよかった」
「あの、ていうか、皇子の護衛って、皇子って『後宮』出ていいんですか……?」
皇帝の妻子は城の最奥に位置する「後宮」で暮らしている。
そこに自由に出入りできる人間は、皇帝ただ一人。
皇妃や身の周りの世話をする侍女や侍従も、入るに限らず出るためには皇帝の許可がいるはずだ。
「ん?あんまりよくないけど、陛下がいいっておっしゃってるらしいし、いいんだろ」
「いいんだろって……」
なんだそのテキトーぶり。
皇子って、あの皇子だろう。皇帝の一人息子の皇子のことだろう。
その護衛がジャンのような新人でいいのか。
「ほら、わかったら早く行く。身分証は持っているな?あ、ちなみに侍女殿のお名前はレベッカ=エイミス嬢。怖い人だけど、……まぁ、頑張れ」
じゃぁ会議入ってくるわーと、エリオスは去っていった。
ジャン視点の番外編内での登場予定のキャラクターについて簡単に。
年齢は今回更新時点のものです(レオンはまだ生まれてませんが、のちのち登場する予定です)。
ジャン=アトリー(16)
・文官候補生→第二皇子付教育係
アデルバート=セイルヴ=ジュエリアル(4)
・第一皇子
マリアンヌ=ランス=ジュエリアル(19)
・第二皇妃
レオンハルト=ランス=ジュエリアル
・第二皇子
ステラ=ミーリック(ステラ=ランドール)(10)
・第二皇子付侍女
ケビン=アトリー(21)
・アトリー家長男→当主 髪:褐色 瞳:鉄色
エリオス=ルトビウス(22)
・文官 髪:蜂蜜色 瞳:碧色
レベッカ=エイミス(24)
・第一皇子付侍女
カーティス=ディルク(24)
・皇帝付近侍




