E.C.1009.08-2
ある暑い夏の日。
レオンハルトは城の最奥の「後宮」から、馬車に乗って「外」を目指していた。
皇家の紋章を掲げた馬車に乗ることが許されているのは、皇族の他にはごくわずか。主との同乗が許されている臣下も、侍女頭と近侍、それから近衛騎士に限られている。
レオンハルトの場合はまだ近侍も近衛騎士もいないため、正面には教育係のジャンが、その隣には侍女頭のステラが座っていた。
ステラは濃い灰色の髪と榛色の瞳をした端正な顔立ちの美女だが、ジャンとは対称的に、口数も表情の変化も少ない。必要最低限のことしか話さず、常に影のように主であるレオンハルトにつき従う。
またいつもは軽口を叩き回ってうるさいことこのうえないジャンも、これからの長旅に備えてできるだけ主を疲弊させないという配慮なのか、今日は静かだ。
ジャンは常に飄々としてレオンハルトのことをおちょくってばかりだが、そういった配慮ができないわけではない。
できないのではなく普段はしないだけだということがまた、レオンハルトを苛立たせる要因であるのだけれど。
そのような臣下の配慮もあって、馬車の中は至極静かで、外の小鳥のさえずりや風のざわめきが穏やかに耳をくすぐり、心地よい時間にレオンハルトは身を置いていた。
しかし「宮廷」を出て城の門へと向かう途中、急に馬車が止まった。
急停止というわけではなかったため座席から転がり落ちるような無様なことにはならなかったが、謎の停車にレオンハルトは軽くつんのめり、正面に座るジャンに抱きとめられた。
『大丈夫ですか。殿下』
『あ……あぁ……』
『何事ですか、マドック』
レオンハルトの無事を確認すると、常よりも少しの厳しさの混じる声でステラが御者に問う。
しかしそれに対しての返事より先に、甲高い少女の声と男の声が聞こえた。
『ですから!今から殿下はお出かけになるのです!!そこをお退きくださいませ!!』
『誰に対してそのような口を聞いておるかこの小娘!貴様こそ退がれ!!いいからそこをどけ!!』
『……何やらもめているようですね。あれは……アルフォート卿でしょうか』
馬車の小窓から様子を伺うと、馬車の正面で数人の男女がもめているのが見えた。
こちら側に背を向けて立っているのは、レオンハルトの侍女のメリエルのようだ。
その彼女に対峙しているのは、三十半ばほどの蜂蜜色の髪の男だった。
後ろに数人の男女を従えるその男の顔にはレオンハルトも見覚えがあった。アルフォート侯爵家の当主だ。
アルフォート侯爵家は宰相を何人も輩出している名門の一族で、式典や宴の席などで何度か見かけ、言葉を交わしたこともある。
また彼自身は「宮殿」はおろか「宮廷」の出入りも許されている数少ない人物の一人だ。
そんな男がメリエルと何をもめているのか。
状況がつかめないまま見守っていると、御者見習いの少年が駆け寄ってきて、窓の下で跪いた。
『恐れながら、殿下』
『ロッド。何をもめているのですか、騒々しい』
『は……それが……アルフォート卿が皇子殿下にお目通り願いたいと……』
『私に?』
『東国の珍しい宝玉が手に入ったので、ぜひ殿下に献上したいとの仰せで……』
ロッドと呼ばれた御者見習いの少年に非は無いのだが、下を向いていてもレオンハルトの表情が徐々に険しくなっていっているのがわかるのだろう。どんどん声が小さくなる。
剣呑な空気のなか、そんなことをおかいなしなのはこの男だけだ。
『まったく、侯爵閣下にも困ったものですね』
のほほんと、あくまでも普段の緩いスタンスを崩さずにジャンが言う。まったく感情が籠っていないが、正直、レオンハルトもそれに同意見だ。
アルフォート侯爵は為政者としては優秀なのだが、如何せん人格に少々問題がある。
自尊心が高く傲慢で、他の者を軽んじる傾向がある。しかしそれを裏付けるだけの実績も家柄もあるため、他の貴族たちも何も言えない。
将来的には大臣や宰相の座も確実と囁かれているほどの有力者で、できれば波風立てず敵に回したくない相手だ。
どう切り抜けるのが一番得策か。思案にくれるも、事態はレオンハルトが良案を思いつくのを待ってなどくれない。
『いいえどきません!!どくものですか!!
大体御面会の御約束も無くいきなり訪ねてくるとは非常識ではございませんか!!』
『な……っ』
二十も歳下の娘に「常識」を説かれ、アルフォート侯爵の顔が朱に染まる。
しかしそれは羞恥のためというよりむしろ、憤りのためだった。
――あぁ、まずい。
そう思ったレオンハルトは、ついとジャンへと視線をやる。それだけで主の思惑を察したジャンは、馬車の扉を開けた。
『貴様、たかが侍女の分際で……ッ』
『どうかされましたか』
『殿下……っ』
『私の侍女が何か不手際でも?アルフォート卿』
『……ッ。これはこれは……皇子殿下』
馬車から降りてきたレオンハルトを見て、アルフォート侯爵は一瞬うろたえたような表情を見せるも、すぐに取り繕うように慇懃無礼な笑みを浮かべる。
嫌な目だ。
そう思った。
『いえ何、誠に恐縮ながら本日殿下に珍しき宝玉を献上いたそうと参ったのですが、そこの侍女が道をあけてくださいませんでな。往生していたところなのです』
『そうでしたか。御心遣い、感謝します。
さぁ、どうぞ『宮廷』へ。紅茶でも飲みながら、自慢の御品をごゆるりと見せてくださいませ』
容姿の愛らしさを存分に振り撒く笑顔でアルフォート侯爵を促すとレオンハルトは馬車に乗りこみ、来た道を引き返す。
そしてレオンハルトは一旦「後宮」まで戻って旅着を着替え、アルフォート侯爵と共にティータイムを「楽しんだ」。
アルフォート侯爵が話すのは、若い頃の自分の業績や武勇伝、他の貴族への「諫言」、国の情勢、レオンハルトより一つ年上だという息子とその息子より三つ下だという娘の話。どれもレオンハルトにとっては興味の湧かないものばかり。
しかしレオンハルトはそれらのすべてをにこやかに「受け流した」。
およそ二時間ほどのティータイムが終わると、アルフォート侯爵は満足そうに帰っていった。
『殿下』
『……何だ』
『大丈夫ですか?』
『……うるさいぞ、ジャン』
気遣うようなジャンの声も、レオンハルトはぴしゃりと切り捨てる。
ジャンは、ずるい。
普段ひょうひょうとしてレオンハルトのことをおちょくってばかりいるくせに。どうしてこんなときだけ、そんなにも優しい声で呼ぶのか。
ずるい。
『……ステラ。ステラはどこだ』
ジャンを退がらせ、代わりにステラを呼ぶ。鉄仮面の侍女は、教育係と入れ替わるように室内へと入ってきた。
『お呼びでございますか、殿下』
『メリエルをここに』
『メリエルを……で、ございますか』
『そうだ』
『……かしこまりました』
レオンハルトを見つめるステラの瞳には一瞬躊躇うような色が見えたが、有能な侍女頭が主に口答えするわけもなく、一礼して部屋を出る。
しばらくして戻ってきたときには、後ろに泣きそうな表情をしたメリエルを従えていた。
『来たか、メリエル』
『……殿下……』
ステラに促され、レオンハルトの眼前に跪くメリエルの声は可哀想なほど震えていた。
おそらくアルフォート侯爵との一件で咎められるために呼ばれたのだと思っているのだろう。
『申し訳ありません……殿下……』
『……どうしてメリエルが謝る?』
『……わたくしが……余計なことを申しあげてアルフォート侯爵を怒らせてしまったばかりに……、殿下はわたくしをかばうために折角の兄君との大切なお時間を……』
消え入りそうなメリエルの言葉に、レオンハルトは眉根を寄せる。
確かにアルフォート侯爵の相手をしているうちに時刻は昼を回ってしまっていた。
早馬は半日、馬車ではほぼ一日かかる離宮には、午後から出発したのでは間に合わないため、結局離宮行きは一日見送ることとなった。
けれどそれは、メリエルのせいではない。
『……それを決めたのは、私だ』
『え……?』
『卿の機嫌をとること、本日の離宮行きを取りやめたことは私が決めたこと。メリエルが気に病む必要など無い』
『でも……』
『わかったら、この件はもう気にしなくていい。仕事に戻れ』
それ以上の抗議は受け付けない、と言わんばかりにレオンハルトは話を打ち切る。
確かにメリエルは軽率だった。
あの場でアルフォート侯爵の不手際を指摘すれば、プライドの高い彼が逆上するのは明白だ。
他の者――たとえばステラならば、あの場をもっと穏便に収めることができただろう。
しかしあのとき、レオンハルトがアルフォート侯爵の訪問を受け入れたのは、メリエルをかばってのことだけではない。
あれは「第二皇子」としての選択だ。
あそこでアルフォート侯爵を敵に回すのは得策ではないと判断してのことだ。
弱冠十歳にしてレオンハルトは「第二皇子」としてどう振る舞い、どうあるべきかということを理解している。
しかし理解できても納得できるかということはまた別の話で。
メリエルの手前、主として、第二皇子として「ああ」は言ったものの、レオンハルト個人としてはやはりどうにも腹が立って仕方なく、昨日のことを思い出してはぶちぶちと思い出し怒りしていた。
「さぁ殿下。
いつまでも執念深くねちねちとへそを曲げていらっしゃらず、そろそろ機嫌を直されてはいかがです。
もうすぐ離宮に到着いたしますよ。そのような御顔で兄君とお会いになるおつもりですか」
「……お前に言われるまではほとんど直っていたんだがな」
相変わらず主を主と思わぬ不敬発言にレオンハルトの眉間の皺はいっそう深くなるが、確かにジャンの言うとおりだ。
レオンハルトがぷりぷりしている間に、馬車は野を越え川を越え、いつの間にかセイレーヌの城下町に入っていた。離宮まであと半刻というところだろうか。
離宮に着けば、兄に会える。
もうすぐ兄に会える。折角兄に会えるのに、いつまでも怒っていてはもったいない。怒っているところなど、兄に見せたくはない。
四つ年長の異腹の兄であるアデルバートは、レオンハルトの憧れだった。理想だった。優しくて大好きな兄の前では、いつも「いい子」でいたい。
少しでも兄に近付きたくて、「理想の弟」でいたくて、そのためにレオンハルトは努力を積み重ねてきた。
品行方正な第二皇子を演じ、学問も武芸も、歴代の皇子で最も優秀と言われるほどになった。
髪の色になぞらえた「金の皇子」の二つ名をもつ、レオンハルト=ランス=ジュエリアル。
その名にも、帝位にも興味は無い。
ただ、アデルバート=セイルヴ=ジュエリアルの弟として生まれてきたことだけが、レオンハルトの誇りだった。