E.C.1020.03-1
扉を開けて中に広がっていたのは、レオンハルトの知らない光景だった。
寝台の中、ヘッドボードに立てかけたクッションに背を預けて座る父と、その父の傍で並んで眠っている弟妹たち。
父は左手に本を持ち、右手で亜麻色の長い髪を撫でていた。
慈しむようなまなざしを注がれながら、姉弟は健やかな寝息を立てる。
それはレオンハルトにとって、物語の中でしか知らない世界だった。
「……レオンハルト?」
部屋の中に入って来たのがレオンハルトだということに気付いた皇帝が、不思議そうにレオンハルトを呼ぶ。
セレスティアやクリスティーナはレオンハルトとアデルバートの声がよく似ていると言うけれど、レオンハルトはやはりアデルバートと皇帝の方が似ていると思う。
優しい兄の声をまだ覚えていることに、安堵した。
「……ご機嫌麗しく存じます、皇帝陛下。本日の会議の報告に上がりました」
「会議……。そんなもの、いつものようにカーティスに任せればいいのに」
「……陛下のお顔を拝見したくて私が参りました。……お邪魔でしたか」
「いや……」
皇帝が視線で命じると、傍に控えていたセシルがクリスティーナを揺り起こす。弟と並んで丸くなっていたクリスティーナは小さく唸ったあと、身を起こした。
亜麻色の髪がさらりと肩から零れ落ちる。
クリスティーナの髪は、色は父親譲りだがまっすぐで滑らかな手触りは母親と同じだった。
「おとうさま……?」
「おはよう、ねぼすけさん。眼は覚めたかい?」
「あ……ごめんなさい……わたくし……眠って……」
皇帝に優しく囁かれ、眠たげに目をこすっていたクリスティーナはカッと頬を染める。
寝癖がついてしまっているよ、と髪を撫でる皇帝の手を当然のように受け入れる幼い妹に、胃の底から湧き上がってくるような熱い何かを感じた。
「姫様。陛下はお仕事のお時間です。殿下と一緒にお部屋に戻りましょう」
「お仕事……?あ……っ」
セシルの言葉にクリスティーナは部屋の中を見回し、レオンハルトの姿を見つけて小さく声を上げた。
「ご……ご機嫌麗しく存じます、皇太子殿下……」
「……ごきげんよう、クリスティーナ」
「お邪魔して申し訳ございません……。失礼いたします……。
お父様、どうかご無理なさらないでくださいね……」
「あぁ。ありがとう、クリスティーナ」
慌てて寝台から下りたクリスティーナはレオンハルトに一礼する。
自分は「皇太子殿下」で皇帝は「お父様」なのか。
そんなことを考えているうちに、未だ起きないロベルトを抱き上げたセシルとともにクリスティーナは退室した。
ここ一月ほど、皇帝が「宮廷」の自室に毎日のようにクリスティーナを呼び寄せていることは、レオンハルトの耳にも入っていた。
こんなときでもないとゆっくり過ごすこともできないのでしょう、とセレスティアはこともなさげに言っていたが、その話を聞いたとき、レオンハルトは心中穏やかではいられなかった。
実際にその姿を目の当たりにすると、余計に。
「クリスティーナに絵本を読んでもらっていたら、ロベルトが眠ってしまってね。
あの子はクリスティーナのことが本当に好きなようだ。彼女の膝を離そうとせず、仕方なく二人でベッドに寝かせたら、結局二人とも眠ってしまったよ」
「……そうなのですか」
言いながら、皇帝は手に持っていた本をサイドテーブルへと置く。子ども向けの可愛らしい絵が描かれたそれは、きっとロベルトのための物なのだろう。
「ああしていると、クリスティーナは本当にアデルに似てきたね。……幼い頃のアデルを見ているようだ。母親が違っていても、やはり兄妹だ」
兄のことをそんな表情で語る父を、レオンハルトは初めて見た。兄のことを愛称で呼ぶところも、初めて聞いた。
まるで懐かしむような表情の皇帝に何と返していいかわからず、知らず唇を噛む。
「すまないね、レオンハルト。さぁ、報告を聞こうか」
「……はい」
促され、レオンハルトは手に持っていた報告書を読み上げる。
こんなこと、レオンハルトでなくとも誰もできる。皇帝の言う通りカーティスに任せておけばいい。
皇帝に他意があるのかどうかわからない。
だがレオンハルトはまるで、「邪魔」なのはお前の方だと言われた気がした。父娘の時間を邪魔されたと。
「……以上です。何か気になる点は御座いますか?」
「いや……大丈夫だ……。万事そなたに任せるよ」
「かしこまりました。……では、私はこれで」
「待ちなさい」
「……?」
「私の顔を見に来てくれたのだろう?こちらへ」
柔らかな、けれど決して拒否を許さない口調で言われ、レオンハルトは命じられるまま皇帝の方へと近付く。
カーティスが寝台のすぐ傍に用意した椅子に腰掛けると、寝台の中の皇帝も姿勢を正した。
「……御加減はいかがですか、父上」
「あぁ……。随分といいよ」
そう答える声には、けれど言葉とは裏腹に覇気が無い。齢を重ねても衰えることのない美貌も病には勝てないのか、顔はどことなくやつれ、肌や髪にも艶が無かった。
皇帝が床についてもう三ヶ月。
少しずつ、けれど確実に死神の足音が近付いてきていた。
昨年の暮れ、公務中に皇帝は倒れた。
今は起き上がるまでに回復したが、一時は昏睡状態に陥り、命も危うかった。
医者の見立てでは、流行病などではなく長年の激務によるものだろうとのことだ。
おそらく倒れる前から身体は少しずつ弱ってきていたのだろう。パーティーを中座するようになったのもそのためだった。
現帝に限らず、歴代の皇帝は短命な者が多い。皆若くして即位し、五十を迎える前に崩御する。
稀に齢六十や七十を越える者もいたが、四十八代続いた歴史の中でも、おそらく両手の指の数にも満たないだろう。
そしてその夭逝ほとんどが、事故や戦争のせいではなく、病のせいだった。
代々の短命の理由は、その血筋にあった。
皇帝の正妃の多くは、皇爵家の娘が迎えられる。
つまり先代、あるいは先々代の皇帝の血縁者だ。
そしてその正妃が産んだ皇太子が帝位につき、また自らの血脈に近しい者を妻に迎える。
そういった血族婚を繰り返すうちにどんどん血は濃くなり、短命―――あるいは病弱な者が生まれやすくなる。
アデルバートがその最たる例だ。
彼の生母であるアンジェリカは皇爵家の出身であり、夫である皇帝とは再従兄妹同士に当たる。
一方皇帝の生母もまた皇爵家の生まれで、先代の皇帝とは従兄妹同士だと聞いた。
先々代の皇帝夫妻についての詳細は覚えていないが、おそらく似たようなものだったはずだ。
そうした原因がわかっているのに未だに正妃の血統に皇族の血縁者が求められるのは、それだけ皇家の血が特別であり、神聖視されていることを意味していた。
神の血を引く、神秘の一族。
だからこそ民は皇帝を畏れ、敬い、崇める。
けれどその一方で、神の血―――神聖を求めるほどに、永遠から遠ざかる。
何という皮肉だろう。
それとも、早々に神の元へと呼び戻されることこそ、選ばれた者であるという証なのだろうか。
「すまないね、私のせいでそなたの婚礼式を延期にしてしまって」
「とんでもございません。私もアルフォート嬢も、父上が一日も早く御回復されて式にご出席してくださることを一番に願っております」
「公務も私の代わりをすべてそなたが引き受けてくれているのだろう?
カーティス。レオンハルトの働きぶりはどうだ?」
「目覚ましきご活躍で御座います。古参の大臣方も、皇太子殿下の辣腕ぶりには皆舌を巻いておいでです」
「そうか。よくやってくれているのだね。ありがとう」
「そんな……」
「これでいつでも私のあとを任せられる」
「……陛下」
たしなめるような近侍の声に、皇帝は薄く笑う。
それはまるで自らの命の期限を知っているかのような笑みだった。
「レオンハルト……。そなたは今……いくつになった?」
「……二十一にございます」
「……そうか」
レオンハルトの答えを聞いて、皇帝は亜麻色の睫毛を伏せる。髪と同じ色をしたそれはレオンハルトのものよりも淡く、柔らかな色をしていた。
レオンハルトの髪が眩いまでの真夏の太陽だとしたら、彼の髪は降り注ぐ春の木漏れ日だ。
光の加減で金にも銀にも見える不思議な色は、レオンハルトの一番好きな色だった。
けれどその奥から現れた銀灰色の瞳は、先ほどまでの熱が幻のように、冴え冴えと凍る冬の空のように冷たい。
あるいは研ぎ澄まされた白刃のように、レオンハルトを捉えて射抜く。
「マリアが死してから、もう二十一年も経つのか」
「……ッ」
温もりも感情も何も無い無機質なまでの麗しい声に、レオンハルトは息の仕方さえ忘れそうになる。
皇帝の第二皇妃であり、レオンハルトの生母であるマリアンヌ=ランス=ジュエリアル。
「太陽の女神」と謳われた、輝かしいほどの美貌の持ち主であったマリアンヌは、レオンハルトを産んで間もなく天上の神々の元へと召された。
だからレオンハルトは、母のことを知らない。
父と母がどのような夫婦であったのかも。
母が父をどのように愛していたのかも、何も知らない。
「……父上」
「何かな?」
「……母上は……どのような御方だったのですか……?」
父の口から、母の話を聞いたことはない。訊いてはいけないと、子供心にわかっていた。
今日に限ってその禁忌を自ら破ったのは、今このときを逃せばもうこんな機会は二度と訪れないと、無意識のうちにわかっていたからなのかもしれない。
「……不思議な女だった」
「……」
「明るくて、奔放で、突拍子もないことばかり言って、いつも驚かされてばかりいた。
けれど共にいると不思議と心安らぐ。……あのような女、後にも先にも彼女だけだったよ」
初めて父から聞く母の話は、今まで聞いた誰がしてくれた話とも違っていた。
それは父だけが知る母の話。
父が愛した母の姿。
父の話を聞いて、ふたりは確かに夫婦だったことを知る。
ふたりには、誰も知らないふたりだけの時間があった。
皇帝はマリアンヌを確かに愛していた―――今もなお、愛しているのだということを思い知る。
「レオンハルト」
今となっては記憶の中でしか聞こえない、彼の長子、アデルバートとよく似た声で、皇帝はレオンハルトのことをそう呼ぶ。
兄や弟妹、養母のセレスティアが使う愛称である「レオン」で呼ばれたことは、一度もない。
「こちらへおいで、私の可愛いレオンハルト。もっと顔をよく見せておくれ」
「……おおせのままに」
促されるまま椅子から立ち上がり、皇帝の枕元に近付き、膝をつく。
似ている、と思った。
兄の死の間際にも、レオンハルトはこうして彼の一番傍で彼を看取った。
膝をついて、次第に熱が失われていく手を握っていた。
けれど、あのときとはまるで違う、とも思った。
「……レオンハルト」
「……はい」
「そなたは本当に、マリアに似ている」
銀灰色の瞳を愛おしそうに細め、皇帝はそう告げる。否、呟く。そしてそっと手を伸ばし、まるで宝物でも扱うようにレオンハルトの頬に触れた。
大きく、冷たい手だった。
対照的に、レオンハルトへと向けられた眼差しはどこまでも温かだ。
―――否。
その温もりは、レオンハルトへと注がれたものではない。
いつだって皇帝は、レオンハルトのことなど見ていなかった。
レオンハルトを通して、レオンハルトの中に、マリアンヌの面影を求めていた。
「そなたのその髪も瞳も顔も、マリアと本当によく似ている。まるで同じだ」
「……」
凍るように冷たいと感じたはずの手が、今はさほど冷たく感じない。
それは彼の手に温もりが戻ったからではなく、自らの頬から熱が失われていったせいだと気付くのに、時間がかかった。
逃げ出したい。それができないのなら、耳を塞いでしまいたい。そう思うのに、指先一つ動かせない。
銀灰色の眼差しが、それを許さない。
「なのになぜ、そなたはマリアではない?それほどまでにマリアとよく似ていて、そなたの顔も髪も眸もマリアと同じであるのになぜそなたは……」
「ちち……うえ……」
「私からマリアを奪ったお前が、どうして今、私の傍にいる?」
囁くように投げかけられた父の問いに、世界が凍る。
そんな錯覚を覚えるほど、皇帝の声は冷たかった。
今は亡き第二皇妃に生き写しの第二皇子。寵妃であった彼女の忘れ形見である金の皇子を皇帝陛下は最も寵愛されている。多くの皇子皇女の中で、陛下に誰よりも愛されているのは、金の皇子だ。
幼い頃から臣下たちの間で交わされる囁きを、幾度となく聞かされた。
けれどレオンハルトは、その囁きが真実でないことを知っている。
皇帝は、レオンハルトを愛してなどいない。
だってレオンハルトは、皇帝にあんな瞳で見つめられたことなどない。
頭を撫でてもらったことも、抱き上げてもらったことも。
愛されていると感じたことなど、ただの一度もなかった。
彼がレオンハルトに向けているのは、愛情ではなく憎悪。
この男は、レオンハルトのことを誰よりも憎んでいる。
冬の氷柱に似た銀灰色の瞳に宿るのは、二十一年の時を経てなお鮮やかな憎しみ。
愛する妻を死に追いやり、日に日にその妻に似てくる息子のことを、この男は二十一年間ずっと憎み続けてきたのだ。
「どうしてお前なのだ。どうして今、ここにいるのがマリアではない?アデルではない?私からマリアを奪ったお前が……ッ」
「陛下、落ち着いてください」
「―――うるさい!」
なだめようとするカーティスの腕を振り払い、その拍子に皇帝の爪がレオンハルトの頬をひっかく。
赤く腫れた頬に、痛みなど無い。ただ俯いて胸を抑え肩で息をする父を、呆然と見ていた。
いったいこれは誰なのだろう。
ルーカス=ジュエリアル。この国の皇帝。この国で最も美しく、気高く、尊い男。それがレオンハルトの父だ。
目の前の病魔に侵され呪言にも似た言葉を吐き出す男など、レオンハルトは知らない。
「……父上に、お伺いしたいことがございます」
寝台の傍に跪いていたレオンハルトは、立ち上がる。
俯いたままの皇帝の顔は、レオンハルトからは見えない。
ずっと、この男のことが怖かった。
畏れていたのではない。怯えていたのだ。
皇帝と顔を合わせるときはいつも、真綿で首を絞められるかのような息苦しさを感じていた。
獲物を捕らえる蛇のようにじわじわと迫り来る束縛から逃れられず、ただ恐怖に耐えていた。
けれどそんな日々も、きっともうすぐ終わる。
胸の中に生まれた感情が歓喜なのか寂寥なのかはわからない。
ただ一つ確かなのは、この男の呪縛から逃れられたとしても、絶望の日々は決して終わることはないということだけだった。
この苦しみはきっと、レオンハルトが生きている限り永劫に続く。
いっそ死んでしまえた方がどれほど楽だろうかと、何度思ったか知れない。
それなのにまだ、レオンハルトはこうして生きている。
皇帝が愛したマリアンヌはもういないのに、レオンハルトはまだ生きている。
「四年前、父上が私を罰されなかったのは、生かしてくださったのは、兄上がもう長くないとご存知だったからですか?」
「皇太子殿下。陛下は疲れておいでです。本日はお引き取りください」
「父上、教えてください」
「殿下……ッ」
「下がれ、カーティス」
前のめりになって荒い呼吸を繰り返していた皇帝は息を整え、再び姿勢を正す。
ずっと謎だった。
わからなかった。
皇妃を辱めた罪を知りながら、レオンハルトに罰を与えなかったこと。その罪を隠したこと。第六皇妃よりもレオンハルトの命を選んだ理由。
わからないまま怯えた日々を過ごした。
もしかしたら今日、皇帝の気が変わってしまうかもしれない。皇帝を守る騎士たちの剣が、次の瞬間にはレオンハルトに向けられるかもしれない。
そんなことを考えながら何食わぬ顔で以前と変わらず過ごす日々が、恐ろしくて仕方なかった。
けれど三ヶ月前、シャーロットの話を聞いたとき、一気に謎が解けたような気がした。
アデルバートが身罷るまでの「時間稼ぎ」が必要だとしたら、身罷ったあとの「代わり」も必要なのではないか、と。
レオンハルトが今日まで生かされてきたのは、アデルバートの代わりにするためだったのではないかと。
「……あぁ。そうだよ。アデルの即位を望めない状況で、そなたまでに失うわけにはいかなかった。ウィリアムは、王の器ではない。アデル亡きあとを務められるのはそなただけだ」
「……」
「そうでなければ、何度お前の首を絞めてやろうかと思ったことか……ッ」
「陛下!」
「下がれと言ったはずだ。カーティス」
咎める近侍を、三度制する。
カーティスはレオンハルトのことをかばおうとしているのかもしれないが、はっきり言って邪魔だ。
レオンハルトが欲しいものはもはや、優しさでもいたわりでもない。真実だけだ。
たとえそれが、死刑宣告のような言葉だったとしても。
本当は、心のどこかで勝手な期待をしていた。皇帝がレオンハルトを生かしたのは、レオンハルトを愛しているからではないかと。
皇子としてではなく息子として、レオンハルトを失いたくないと思ってくれているのでは、と。
なんて身勝手で傲慢な期待を抱いていたのだろう。
「……では、第六皇妃殿下を皇妃に迎えたのはなぜですか」
「何……?」
「本当は、妃殿下は皇太子……兄上の妃となるはずだったのでしょう?そのために兄上と共に離宮へと送った。それなのに二年も経ってからどうして『皇妃」に……」
「……わからないのか?」
「……」
「どうして私がローズマリーを妃にしたのか、本当にわからないのか?」
「―――ッ」
この男の口から彼女の名を聞くたび、レオンハルトの胸は千切れそうな痛みを覚える。
それは未だ消えない彼女への愛しさゆえなのかそれとも、自らの犯した罪のせいなのか。もう考えることさえ疲れてしまった。
考えたくないのに。
真実はいつも泣きたいくらい単純で、笑ってしまいたいほどに残酷だ。
「……私が、あの御方を愛してしまったからですか」
「……」
「私があの御方を愛したから、私に何よりも深い苦しみを与えるために、父上は……ッ」
レオンハルトの問いに、皇帝は何も言わない。それが何よりの答えのように思えた。
「……のですか」
「……」
「そんなにも、父上は私のことが憎いのですか……。私を苦しめるためだけに、あの方と兄上を引き裂かれるほど……っ」
「あぁ。憎くてたまらないよ」
「……ッ」
「私からマリアを奪った者のことが、憎くて仕方ない」
それでも。
レオンハルトは、愛されたかった。
クリスティーナの誕生パーティーで、今日この部屋で、クリスティーナに触れる皇帝を見たとき、はっきりとわかった。
本当はレオンハルトは、この男に愛されたかった。抱きしめてほしかった。
その願いが叶わないと悟ったから、満たされない渇望をアデルバートへの思慕へと摩り替えた。
どうしてあんなにも兄のことが好きだったのか。兄に愛されたかったのか。
それは彼が、この男とよく似ていたから。
父によく似たアデルバートを慕うことで、自らの中の父への慕情をごまかしていたのだ。
兄から注がれる愛情で、自分の中の満たされないものを埋めていた。
そして皇帝に息子として愛される代わりに、皇子として必要とされたくて「完璧な皇子」を演じるようになった。
自らの存在がアデルバートを苦しめていると知りながらも演じることをやめられなかったのは、それらの努力がすべて兄のためではなく、父に必要とされるためのものだったから。
結果的にそれが自らの身を守ることになったのだから、何という皮肉だろう。
「……貴方は……狂っている……」
「……」
「ただそれだけのために兄上とあの方を引き裂くなど、貴方は……ッ」
四年前の夜―――ローズマリーの葬儀のあと、皇帝は彼女のことを「愛する者の元を去り」と表した。
レオンハルトはずっと、その「愛する者」を彼女が祖国に残してきた人々のことだと思っていた。
けれど違った。
違うということを知った。
皇帝も、レオンハルトよりもずっと先に―――その言葉を口にしたときから気付いていたはずだ。気付かないはずない。
ローズマリーの「愛する者」がアデルバートであったこと。
知っていて、知っていたからこそふたりの仲を引き裂いたのだ。レオンハルトを苦しめるためだけに。
何よりも深い絶望を、レオンハルトに与えるために。
「そなたがそれを申すか」
「……ッ」
「そなたに私を責められるのか?父を欺き、皇妃たる女と通じたそなたに」
嘲るように、蔑むように皇帝は艶を失くした唇で嫣然と笑う。
人民を束ね、国家を治める皇族の人間は皆、その宿命ゆえ人の心を惹きつける秀でた容姿を持って生まれてくる。
ならばまさしくこの男は「王」たる者に相応しい。
やつれてなお輝きを失わぬその美貌は、いっそ魔的に美しかった。
「あれが産んだ皇子は、ロベルトは、私の子ではない。お前の子であろう、レオンハルト」
この世で最も美しい声が、この世で最も恐ろしい真実を告げた。
それは嵐の夜に犯したレオンハルトの罪。
皇帝とレオンハルトのたった一つの共有する秘密。
五年前の夜、レオンハルトは一夜の夢を見た。
初恋の姫君をこの腕に抱き、傷付いた彼女を慰め、愛を語った。
誰も知らない、知られてはいけない一度きりの甘い夢。
けれどたった一度の過ちで姫君はレオンハルトの子を身籠り、産んだ。
第四皇子―――皇帝の息子として。
皇帝は、その罪に気付きながら、レオンハルトに甘く囁いた。
このことは私とそなたの秘密だよ、と。
いっそ殺してくれと懇願するレオンハルトに神々しいまでに微笑み、そっと抱きしめた。
生まれて初めて感じる父の温もりに、腕に、レオンハルトは怯えた。恐ろしくて仕方なかった。
「我が妃、ローズマリーは哀れな女だったよ。愚かな父王のためにその身を差し出し、愛する者と引き裂かれ、愛してもいない男の子を産み、そして果てた。……本当に、哀れな女だ」
「―――ッ」
まるで他人事のように言う皇帝に、レオンハルトは頭が真っ白になった。
いまだかつて感じたことのないほどの怒りが、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
すべて、この男が招いたことなのに。
「敗国の人形姫」はこの男の気まぐれに翻弄され、命を落としたようなものなのに。
どうしてこの男がそんなことを言う?
信じられなかった。
けれど自分にはこの男を責める資格など無いということも、レオンハルトはわかっていた。
「だが彼女には、覚悟があった。王家の姫としての誇りと、人質としての覚悟。彼女は生涯『アメジアの王女』として生きる覚悟とともにこの国へやってきた。だからこそアデルの元を去り、『皇妃』として子を産んだ。
そんな彼女の誇りをそなたが穢した。祖国を愛し、気高く誇り高い彼女を追い詰めたのは、そなたであろう、レオンハルト」
「……ッ」
「なぁ、レオンハルト。私は以前に一度、そなたに言ったことがあったな。懐妊がわかると、あれが私に胎の子ごと殺してくれと懇願してきたことがあった、と。
あれが畏れていたのは、自分が咎められることではない。『プリンセス・アメジア』としての役目が果たせなくなること……愛する者の元を去ってまで祖国のために生きることを選んだのに、自らの愚かさで祖国を危うくしたことだけ。
あれはそなたのことなど、一度として顧みたりはしなかったよ」
皇帝の告げる真実に、レオンハルトは気が狂いそうだった。狂ってしまえばよかった。けれど狂うだけの純粋さを、レオンハルトは持っていなかった。
「なぁ、レオンハルト。どのような心地だい?愛した者を死に追いやった気分は。愛する者の幸せを、命さえも奪った気分は」
レオンハルトがローズマリーに恋などしなければ、皇帝は彼女を皇妃に迎えることはなかっただろう。
アメジアから訪れた「敗国の人形姫」は「傀儡皇子」の元で傷付いた心を癒し、ふたりで寄り添い、幸せな未来を築いたはずだ。
その未来を、レオンハルトが奪った。
未来だけではない。
レオンハルトの愚かな恋情と身勝手な激情は、ローズマリーの命さえも奪った。
アデルバートも、愛したひとを想いながら死んでいった。
そしてレオンハルトだけが残された。
罪を犯した―――すべての悲劇を招いた自分だけが、のうのうと生きている。
何という喜劇だろう。
「なぁ、レオンハルト」
呼ぶ声は、泣きたくなるほど優しくて、笑ってしまいたいくらい冷たい。
「お前など、生まれてこなければよかったね」
次回で完結です。




