E.C.1019.12
父の姿を思い浮かべるとき、いつも隣には正妃アンジェリカの姿があった。
この世で最も尊く、強く、美しく、微笑みひとつで他者を魅了し、まなざしだけで他者を威圧する皇帝と唯一渡り合える女性。それが正妃だ。
どれほど美しくともどんなに皇帝からの寵愛を受けようとも、側妃は所詮側妃。
アンジェリカだけが、皇帝の正当な妃だった。
その証拠に、公の場で皇帝が伴うのは必ずアンジェリカだった。
皇太子代理はいても、正妃代理はいない。
彼女だけが皇帝の、唯一無二。
誰も教えてくれないけれど、誰もが知っていた。
皇帝にとって「特別な女性」はマリアンヌなのかもしれない。けれど「唯一絶対」の存在はアンジェリカだと。
いずれはレオンハルトにとってディアナも「そう」なるのだろうか。
他の女性に心を残したまま彼女を妃に迎えることに、罪悪感が無いわけではない。
けれどレオンハルトはもう、その道しか選べない。
「結局あれは、解消を前提とした婚約だったんです」
少女特有の甘さなど感じられない落ち着いた声で、目の前の少女は淡々とそう告げた。
父親譲りの金の髪と蒼い瞳。薔薇色の頬に影を落とす長いまつげ、すらりとつり上がった知的そうな眉、すっと通った鼻梁。
美少女と称して申し分ない父親譲りの華やかな貌は、レオンハルトともよく似ている。
それもそのはず。彼女の名は、シャーロット=ランチェスター。マリアンヌの兄の娘で、レオンハルトにとっては従妹にあたる。
そして今年で十六歳になったシャーロットは、前皇太子アデルバートの元婚約者でもあった。
つまり本来ならば次期皇太子妃となるはずだった少女だ。
アデルバートの逝去によりその婚約は解消となったが、幼い頃から皇太子妃教育を受けてきた彼女は、十六歳という年齢にそぐわない落ち着きと気品を備えていた。
レオンハルトとディアナの結婚式を三ヶ月後に控えた十二月某日。
公務のため城を訪れていたレオンハルトは、父親であるユリウス=ランチェスター公爵と共に登城していたシャーロットと偶然鉢合わせた。
従兄妹同士積もる話もあるだろう、とユリウスにサロンでのお茶を薦められ素直に従ったのだが、従兄妹と言ってもそう親しいわけではない。
互いにとって祖父母である前公爵夫妻の近況を聞けば、共通の話題もほとんど無い。
年頃の女の子――たとえばディアナが好きそうな話題をふってみても、シャーロットの趣味ではないのか反応が薄い。
おざなりにあしらわれているわけではないが、興味が無い話題を膨らませたりはしないようだ。
それでもどうにも弾まない話に気を遣ったのか、シャーロットの方からレオンハルトの結婚話をふってきた。
レオンハルトが立太子して半年が経ったが、ディアナとの結婚がまだ成立していないのは、皇太子妃としての彼女の適性を再審査するため、そして皇太子妃教育のためだ。
レオンハルトとの婚約が決まったときからディアナは皇子妃教育を受けていたが、それと皇太子教育はまるで違うらしい。
「らしい」というのはレオンハルトも受けたことがないので詳細を知らないからだ。
とはいえ将来皇爵夫人になる皇子妃と、正妃となる皇太子妃では求められる基準が違うであろうことくらいは想像できる。
何でも皇太子妃教育はアンジェリカ直々に講師を務めることもあるらしい。
受け始めて一月、会うたび憔悴しているディアナからその厳しさが窺い知れる。
それでもレオンハルトのために頑張るディアナの健気な姿に、皇太子妃教育とはそんなにも厳しいものなのかと経験者に問うと、シャーロットはこともなさげに「当座しのぎだったからあまりよくわからない」と答えた。
仮にも皇帝の正妃となるための皇太子妃教育を「当座しのぎ」とはどういう意味なのか。
勤直な彼女らしからぬ答えに困惑するレオンハルトに、補足するようにシャーロットが返したのが先程の言葉だ。
アデルバートとの婚約はいずれ解消される予定だった。だからシャーロットは皇太子妃になることはない。そのため皇太子妃教育も本腰据えて受ける必要はなかった。
筋は通っているが、そもそも前提からして不可解だ。
「どういうことです?」
「アデルバート様があまり長くは生きられないこと、陛下はご存知でした。
少なくとも、殿下が御存命のうちに代替わりは果たされない、アデルバート様は次期皇帝にはなれない。
だから当座をしのげるよう、時間稼ぎが必要だったのです」
「時間稼ぎ……」
「アデルバート様がご即位される前に身罷られる。そうすれば次の皇太子になられるのは、通常レオンハルト殿下です。
けれどもしそのときにアデルバート様に御子君がいらっしゃれば、どうなると思います?」
「……」
順当にいけば第二位帝位継承権をもつレオンハルトが立太子するだろう。
けれど皇太子妃――子どもの母の生家が口を出してこないともかぎらない。
今までも第二皇子が即位した例が無いわけではないが、その場合、第二皇子の生母が正妃であったことが多い。
ましてやアデルバートの場合、生母が正妃にして皇爵家の出。血統の正統性を主張されたら本格的な世継ぎ争いに発展しかねない。
「そんな不要の争いの火種を生まぬよう、白羽の矢が立ったのがわたくしです。わたくしが成人するまで、きっとアデルバート様は生きられない。
万が一間に合ったとしても、わたくしが産む子もレオンハルト皇太子殿下もランチェスター公爵家の血筋の人間。ならば公爵家も無理に御子を擁立しようとはしないでしょう」
淡々と自らと元婚約者の「なれそめ」を語る従妹に、レオンハルトは言葉を失う。
五年前の兄の婚約の際何かあるとは思っていたが、そのような思惑だったとは予想もしていなかった。
「……そのようなこと、よくサルヴァドーリ家が許しましたね」
アデルバートの子を諦めるということは、皇室内でのサルヴァドーリ皇爵家の存続を諦めるということだ。
多くの貴族が皇家との繋がりを求める中、サルヴァドーリ皇爵家の――アンジェリカの反発はなかったのだろうか。
「当然ですわ。だってすべて、正妃殿下のお考えですもの」
「え……」
「恐ろしい御方ですわね、正妃殿下は」
シャーロットの言っていることが本当ならば、アンジェリカは自分の子の死を前提として政を進めていたということになる。
恐ろしいというよりも冷酷という表現が相応しいだろう。
けれどレオンハルトは、こともなさげに言うシャーロットにこそ空恐ろしいものを感じた。
どこか皮肉げに微笑むシャーロットは、きっとレオンハルトよりもずっと頭がよく、理性的なのだろう。
「……シャーロット嬢は、そのことをいつ?」
「婚約のお話を頂いたとき、お祖父様に言われました」
「……貴女はそれでよかったのですか」
子どもを作らせるわけにはいかない。けれどいつまでも婚約者の座を空席にしておくわけにもいかない。
そういった複雑な事情がある中、シャーロットの存在は実に都合がよかったのだろう。
事前に話を聞いていたということは、祖父も了承済みだったということにほかならない。
貴族の娘に生まれた宿命と言えばそれまでだが、実の祖父にも政の駒のように扱われることに、不満はなかったのだろうか。
「よかったも何も、八歳の子どもが当主の決めたことに逆らえるとお思いですか?」
「……」
「まぁ、普通は無理でしょうけれど、レオンハルト皇太子殿下もご存知のように我がランチェスター家前当主のお祖父様は言いくるめやすいところがありましたから、本気を出せばどうとでもなりましたけれどね」
「は?」
「そもそも、八歳の幼子に『皇太子殿下と結婚できないけど一旦婚約してくれるかな』と尋ねるような当主が、どうして四大公爵家を名乗り続けていられるのか、不思議でなりませんわ」
レオンハルトとシャーロットの祖父であるギルベルト=ランチェスター前公爵は、四大公爵家ランチェスター家の前当主であり、現皇帝の舅でありながらどこかおっとりとしたところがある。
太陽の女神と謳われたマリアンヌの父だけあって若い頃社交界をにぎわせた美貌は健在だが、はっきりいって威厳はあまり感じられない。
公務以外で会うと隙あらばレオンハルトを可愛がろうとする好々爺だ。
穏やかで野心家とは程遠いが、なぜか彼の代でランチェスター公爵家はますますの繁栄を誇ったという。
「それにわたくしにもメリットが無いわけではございませんでしたし」
「メリット……?」
「あくまでもあの婚約は陛下と祖父、祖父とわたくしの取引の上に成り立っていたものでした」
だから同情される謂れも無いし、されたくもない。
レオンハルトと同じ色をした蒼い瞳はそう語っているようだった。
「仮にも婚約者であったのに、冷たい女だと思いますか?」
「……いえ」
「……冷たい女のままいられたらよかったのにと、思うこともあります」
「……?」
「わたくしはわたくしの願いを叶えるためにアデルバート様と婚約いたしました。アデルバート様がどこまでご存知だったかはわかりませんが、あの御方もまた、皇太子としての役目を全うするために婚約を受け入れてくださったにすぎません。
……それなのに……」
林檎色の唇から、ため息に似た吐息が零れ落ちる。愁いを帯びた長い金糸のまつげが、酷く艶めいて見えた。
「アデルバート様は、形ばかりの婚約者でしかない小娘に、とても優しくしてくださいました。セイレーヌから何度もお手紙を下さり、帝都に滞在されている際には毎日のように会いに来てくださいました。
今思うと当然ですけれど、お会いするときのアデルバート様はいつもお元気そうにしていらっしゃったから、もう長くないというのは何かの間違いではないかと期待するようになりました。もしかしたらお祖父様は結婚を嫌がるわたくしを言いくるめるために嘘を吐かれたのかと、このままアデルバート様と結婚してもかまわないと、……御傍にいたいと思うようになりました。
……けれど、やはりアデルバート様は身罷られた……」
それは形ばかりの婚約者を悼む表情には見えなかった。
始まりは、打算だったのかもしれない。いくつかの策略と思惑が重なり合って結ばれた形ばかりの婚約者だったのかもしれない。
けれど、シャーロットは。
「シャーロット嬢は兄上のことを想ってらっしゃったのですか……?」
「麗しくお優しく博識で理知的で誠実で非の打ち所のない年上の男性に心ときめかない令嬢がいましたらここに連れてきてくださいませ」
回りくどい言い方だが、要はそうだったのだろう。そっけない口調も照れているだけかと思うと、初めて従妹の年相応な一面を見た気がする。
「お慕いしていたのかと訊かれると今となってはもうわかりませんが、アデルバート様はとても素敵な御方でしたわ」
「……」
「そしてとても、酷い方。
最後に頂いたお手紙には、自分のことは忘れてほしいと書いてありました。
『貴女の大切な時間を奪ってしまって申し訳ない。もうすぐこの婚約は解消される。そのときにはどうか気に病まず、新しい幸せを掴んでほしい。貴女の幸せを祈っている』と。
……なんて残酷なの方なのだろうかと思いました。けれど、だからこそ……幸せになっていただきたかった……」
すべてを知るシャーロットは、その手紙でアデルバートの命が残りわずかだということを悟った。
「契約」の終わりが近付いてきていると知りながら、諳んじて言えるほどその手紙を何度も繰り返し読んだのだろう。
幼いシャーロットにとってアデルバートへの思慕が「初恋」だったのか、今もまだ彼を想っているのか、レオンハルトには訊けないしわからない。
ただひとつ言えるのは。
「……きっと、兄は幸せでしたよ」
「え……?」
「最期に言っていました。『幸せだった』と」
生まれつき身体が弱くて、できないことも多かった。才能をもてあまし、臣下たちに『傀儡皇子』と揶揄され、想いを交わした女性の手を離すことしかできなかった。
それでも彼は、この世界を恨んだりはしなかった。
人を愛し、人に愛された。
そんな彼の人生を不幸だったと決めつけることは、彼に対する侮辱でしかない。
レオンハルトにこんなことを言う資格など無いことはわかっているけれど、兄が生きた人生を誇りに思う。
「……それを聞いて、安心いたしました」
アデルバートが最期に呼んだのは、シャーロットではない女の名前。
そのことは決して教えられないけれど、きっと知っても彼女の微笑みは曇ることはないのだろうと思えた。
「……シャーロット嬢は今年アカデミーを卒業される年ですよね。今後のことはもう決まっていらっしゃるんですか?」
通常貴族の令嬢は十代前半で婚約者を決め、卒業後数年のうちに結婚する。
前皇太子の元婚約者とはいえ、破棄されたわけではない。
アデルバートが亡くなってもう七ヶ月。
ランチェスター公爵家の力や格を考えれば引く手数多だろう。次の婚約者が決まっていてもおかしくはない。
「卒業後はトピアスに留学するつもりです」
「え!?」
予想外の答えにレオンハルトは驚く。
トピアスは東大陸にあるジュエリアルの同盟国で、世界第二位の医療大国だ。
といっても、便宜上「第二位」といっているだけで、医療技術は世界第一位のジュエリアルに勝るとも劣らない。
ことに医療制度に関してはジュエリアルを凌ぐという話もあるし、何より西大陸で主流の治療法とはまったく異なるアプローチの医療が発展しているらしい。
「あちらで医学や医療制度の勉強をしたいと思っております」
「医学の……」
それはアデルバートが病に命を散らしたことに関係しているのだろうかと思ったが、無粋な質問だと、訊くのは諦めた。
「ランチェスター卿……伯父上がよくお許しになりましたね」
「卒業後しばらく自由にさせること。それがアデルバート様との婚約の交換条件でしたから」
先程彼女の言っていた「メリット」とはこのことだろう。
八歳にして成人後の人生設計を立てていたというのだから、末恐ろしい。
アデルバートが存命ならば、シャーロットはもしかしたらアンジェリカを凌ぐほどの優秀な正妃になっていたかもしれない。
今となってはすべては絵空事でしかないけれど。
「今日登城いたしましたのは、留学の許可を陛下に頂くためです。万事滞りなく手続きも済みましたので、年が明ければ晴れて留学生です」
「……期間は?」
「二年です。さすがにそれ以上は嫁き遅れてしまうから、とお父様に泣きつかれてしまいましたけれど、二年のうちに必ず何らかの成果を出してまいりますわ」
「それは……頼もしいことですが、寂しくなりますね……」
「そう言っていただけて光栄ですわ」
女性が学を究めることをよしとしない貴族社会で、彼女が進むのはきっと荊の道だ。
それでも毅然としてレオンハルトを見つめる瞳には、未来への希望と期待に溢れていた。
それから二人は紅茶一杯分の会話を楽しんだあと、帰るシャーロットをエスコートするためそろって部屋を出た。
「あ!兄様!城にいらっしゃるなんて珍しいですね!」
「ウィル」
「宮廷」と「宮殿」の門へと続く廊下を歩いていると、向こうからレオンハルトの異母弟、ウィリアムが歩いてきた。
未成年のウィリアムは現在もに「後宮」で暮らしているが、どこかに出かけていたのだろう。
それにしても、ウィリアムはレオンハルトの幼少期に比べ自由がすぎるような気がする。
レオンハルトはアカデミーへの通学以外の外出はめったに許されなかったが、十六歳となるウィリアムはしょっちゅうほいほい出歩いている。
皇太子教育が忙しくてそんな暇も無かったが、それにしても不公平すぎやしないか。
そんな不満おくびにも出さず、レオンハルトは微笑む。
「ごきげんよう、ウィル。お前こそ珍しいね。今日はアカデミーは休みだろう?」
「友人たちと市街に出かけていたんです。
ごきげんよう、シャーロット嬢。城に来るならお声をかけてくれればいいのに」
「……御機嫌麗しく存じます、皇子殿下。どうしてわたくしの登城をいちいち皇子殿下にお知らせしなければなりませんの」
「え?それはもちろん僕がシャルに会いたいからだよ?」
「……」
こともなさげに言うウィリアムは、将来大物になりそうだ。言われた方のシャーロットはぴくりと片眉を動かしただけで、まったく色めき立つ様子もないが。
それにしても、二人がアカデミーでの同級生だったことは知っていたが、愛称で呼ぶほどの仲とは知らなかった。
「兄様と何のお話してたの?」
「……皇子殿下の御耳を煩わせるほどのことではありませんわ」
「そんな気を使わなくていいのに」
「……相変わらず御耳が遠くていらっしゃるようですわね」
「そんなことないよー。この間ヴァイオリンの先生に耳がいいって褒められたもん」
「…………」
レオンハルトを挟んでの噛み合わないやりとりに脱力しそうになる。
わざとなのか天然なのかわからない弟は、アカデミーでも通常運転のようだ。
「ウィル。帰って来たばかりですまないが、シャーロット嬢をお送りしてくれるかな」
「殿下!?」
「かまいませんよ!行きましょう、シャル」
「その呼び方やめてください!」
シャルは照れ屋だなーとシャーロットの手を引くウィリアムは、やはり将来大物になりそうだ。
失礼いたします、と慌てて頭を下げたランチェスター公爵家の付き人が主に続いて去っていった。
「ウィルはシャーロット嬢のこと、すきなのかな」
「どうでしょう。皇子殿下はどなたに対してもあのような感じだと聞きますから」
もしそうだとしても、兄の元婚約者というだけでもしがらみがあるし、何より数ヶ月後にシャーロットは異国へ旅立つことを考えると、前途多難だろう。
そんなことをグレイスターと話していると、「宮廷」の奥から侍女服の女が駆け寄ってきた。
レオンハルトより幾つか年上に見える侍女は、皇帝の傍に侍っているところを何度か見かけたことがある。
どんなときも冷静に、優雅に。ましてや主人たる皇族の前で走るなどという不作法、皇城の侍女としてあるまじき行為だ。
けれど走ってくる侍女は、そんなことを注意する余裕さえ与えないほど鬼気迫る表情をしていた。
そして青ざめた顔のまま、レオンハルトに向かって叫んだ。
「皇太子殿下!皇帝陛下が……ッ」
あとに二回で本編終了の予定です。
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