E.C.1019.11-1
煌びやかな装飾が施された「宴の間」の扉の前で、幼い少女は可哀想なくらい緊張していた。
光の加減で金にも銀にも見える亜麻色の髪を結い、皇女の証であるティアラを頭上に戴き、瞳と同じ色のドレスを纏った姿はどこに出しても恥ずかしくない立派な皇女なのだが、明らかに顔色が悪い。
病がちであまり陽に当たることのない雪のように白い肌はいっそ蒼いほどだ。
「クリスティーナ……大丈夫かい?」
「…………はい」
今にも消え入りそうな声で返事する妹姫は、どこからどう見ても大丈夫そうには見えない。今にも倒れてしまいそうだ。けれどレオンハルトにはどうしてやることもできない。
今日の主役は彼女で、扉を一枚隔てた広間の中で行われているのは彼女の誕生日を祝うための宴なのだから。
冬の気配が日を追うごとに深まる十一月の某日、ジュエリアル城内の「宮廷」の一室では、第四皇女の誕生パーティーが開かれていた。
社交界デビュー前ということもありそう大きな規模ではなかったが、今日で七つになったばかりのクリスティーナにとっては初めてのことで、見ているこちらが心配になるほど緊張しているようだ。
幼い頃から皇太子代理として式典や自らの社交界デビューもソツなくこなしてきたレオンハルトからすれば妹姫がどうしてこんなに緊張しているのかわからないけれど、とにかく今にも息絶えてしまいそうで、心配で仕方ない。
「姫様、落ち着いてくださいませ。深呼吸ですよ、深呼吸」
「……ありがとう……セシル……」
「あぁ……御労しい……」
「クリスティーナ……そろそろ……」
「はい……申し訳ございません……」
美しき主従のやりとりにやんわりと割り込み、野に放たれた仔ウサギのようにプルプルと震えるクリスティーナにそっと手を差し出す。
兄としてはこのまま自室に返してやりたいが、後見人としては彼女をエスコートし、玉座の前まで連れて行かなければいけない。
レオンハルトだって幼い妹をいじめたいわけではないのに、人でなし、とでも言いたげなセシルの視線が突き刺さる。
「さぁ、行くよクリスティーナ。ファンファーレが鳴ったら扉が開くから、鳴り止んだら右足から歩き始めるんだよ」
「はい……」
消え入りそうなクリスティーナの返事を掻き消すように、ファンファーレが鳴り響く。「ひ……ッ」と小さな悲鳴が聞こえたが、レオンハルトの指示通りクリスティーナは歩き出した。
クリスティーナをエスコートしながらレオンハルトが思い出すのは、自らの社交界デビューでも婚約披露パーティーでもない。
ローズマリーの歓迎の宴でのアデルバートとローズマリーの姿だ。
母国の装束に身を包みジュエリアルの皇太子にエスコートされるアメジアの王女を見たとき、レオンハルトの心を支配していたのは、彼女に対する嫉妬だった。
最愛の兄の隣に立つ少女のことが気に入らなかった。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
あのときはまさか、彼女の娘をエスコートする日がくるなんて思ってもみなかった。
そんなことをレオンハルトが考えているうちに、二人は玉座の前にたどり着いた。
レオンハルトの役目もここまでだ。
差し出していた手を引き、一礼してクリスティーナの傍から離れる。
残されたクリスティーナは銀の刺繍があしらわれた紫のドレスの裾をつまみ、優雅に礼をした。淑女として完璧な礼だった。
「顔を上げよ、クリスティーナ」
齢を重ね更に艶を増した声が広間に響く。集った貴族たちが皆一様に感嘆の息をこぼす中、命じられた通りクリスティーナは顔を上げた。
「誕生日おめでとう、クリスティーナ」
「ありがとうございます、皇帝陛下。本日はわたくしのためにこのような宴を開いてくださり、恐悦至極に存じます」
何度も繰り返し練習した奏上を震える声で述べた。皇帝は満足そうに微笑んだ。
やはり顔色は良くないが、クリスティーナは皇帝の前で堂々としていた。
また髪型のせいか、いつもより大人びても見える。
きちんと受け答えする姿は、ジュエリアル帝国第四皇女として恥ずかしくない立派な佇まいだ。
「今宵の主役はそなただ。思う存分楽しみなさい」
「はい……。ありがとう御座います……」
「レオンハルト」
「はい」
「小さなプリンセスをエスコートしてあげなさい」
「は……」
皇帝に命じられ、レオンハルトは再びクリスティーナに近付き手を差し出す。
クリスティーナは再び皇帝に対して一礼し、兄の手に自らの手を重ねた。
「おめでとう、クリス。とても素敵な淑女で驚いたよ」
皇帝の前から退くと、ウィリアムがにこやかに近付きながら声をかけてくる。
いつから愛称で呼ぶようになったのかと思いつつも、ウィリアムの姿にクリスティーナがほっと息を吐く姿を見て、あとは彼に任せることにした。
後見人といっても、クリスティーナとレオンハルトの距離は以前とまるで変わっていない。
きっとめったに会わない後見人より、人懐っこくて朗らかなウィリアムといる方が心休まるだろう。
小さな皇女に祝いの言葉を述べようとする招待客に囲まれたクリスティーナを遠目で眺めながら、レオンハルトは壁の方へと移動する。
「御機嫌麗しく存じます、皇太子殿下。本日はお招きくださり光栄にございます」
「ごきげんよう、皇太子殿下。本日はありがとうございます」
「アルフォート小侯爵。ディアナ嬢」
給女から受け取ったグラスを手に一息ついていると、同じくグラスを持ったダニエルとディアナが近寄ってくる。
ダニエルはアルフォート侯爵家の長男として、ディアナは皇太子の婚約者として招待されていた。
通常のパーティーでは婚約者のレオンがディアナをエスコートするのだが、今日はクリスティーナのエスコート役だったため、兄妹二人での入場だった。
「ごきげんよう、御二方。こちらこそ、お越しくださり感謝いたします」
「本日はおめでとうございます、殿下」
「ありがとう、と言いたいところだけれど、今日の主役は私ではなくクリスティーナだよ」
「えぇ。でも皇女殿下には近付けそうにもありませんので」
人波が引いたらご挨拶させてくださいいね、と微笑むディアナは、未来の義妹となるクリスティーナと顔を合わせるのはこれが初めてだった。
社交界デビュー前の皇子や皇女も早い時間までの公的なパーティーになら出席することもあるが、昨年末まで帝都を離れて暮らしていたクリスティーナは、宴らしい宴には今日初めて出席する。
セイレーヌの田舎で育ったクリスティーナの瞳に、華やかな都はどのように映っているのだろう。
「皇女殿下、堂々となさっていてご立派ですわね」
「……そうだね」
「近くで拝見するのは初めてですけれど、陛下によく似ていらっしゃいますわ」
一般的に子は異性の親に似ることが多いと言われるが、実際にクリスティーナは父親似だ。
髪の色も同じなためか、同様に父親似といわれていた異母姉のキャロライナよりも、皇帝によく似ている。
先程向かい合う二人を見たばかりということもあり、ディアナの発言はごく自然なものだろう。
レオンハルトも二人がよく似ていると思った。
けれどある一定の年齢を越えた者のなかには、別の言葉を口にする者もいる。
決して大きな声は出さず、囁くように。
けれど不確かな悪意に似た何かをもって。
「いや、陛下よりもむしろ、アデルバート前皇太子殿下のお小さい頃によく似ていらっしゃるね」
「……え?」
妹の言葉を穏やかに否定したダニエルの言葉に、耳を疑う。
思わず息を呑む声が聞こえたかどうかはわからないが、ダニエルはにこやかに続ける。
「皇女殿下は七つになられたんでしたね。そのくらいの頃の前皇太子殿下によく似ていらっしゃいますよ。今日なんか、髪を上げていらっしゃるから特に」
悪意も好奇も、かといって好意も感じられない、静謐の水面のように穏やかな口調のダニエルが今、何を思ってそう発言しているのかはわからない。
下手なことは言えないが、何も言わなくても不利になる。
レオンハルトは声が震えないよう意識しながら問い返す。
「……小侯爵は、兄の幼い頃をご存知なのですか?」
「えぇ。私と前皇太子殿下は同じ歳ですから、幼い頃は父に連れられ何度か城を訪ねたこともございます。
幼い頃の殿下は本当に可愛らしくて、初めてお会いしたときは女の子かと思うほどで、本当に可愛らしかったんですよ」
「お兄様。可愛らしいを二回おっしゃってますわ」
「だって本当に可愛らしかったんだ……!」
「……」
拳を握って力説するダニエルを見て、たぶんこの男に他意は無いのだろうと結論付け、ひとまず警戒を解く。
だが貴族の中には、クリスティーナの出生について邪推する人間がいるのもまた事実だ。
その理由は、クリスティーナがアデルバートに似すぎているためだ。
特にアデルバートの幼い頃を知る老臣たちは、口をそろえて言う。
「皇女殿下は皇子殿下に不思議なくらいよく似ていらっしゃる」と。
とはいえ、父を同じくする兄妹が似ていることに、何も不思議なことはない。
キャロライナだって、同母弟のウィリアムよりも異母兄のアデルバートの方がよく似ている。
貴族たちの囁きは、あくまでも好奇心の域を出ない。
それでもレオンハルトだけが「まさか」と思ってしまうのは、自らが犯した罪のせい。
アデルバートも同じ罪を犯しているのでは、と疑うのは、兄に対する侮辱に他ならないとわかっているのに。
「殿下の愛らしさときたら、まさに天使と見紛うほどで……。後にも先にもあんなにも愛らしい方に会ったことないね」
「……もしかして、お兄様がいまだに結婚されてらっしゃらないのって……」
滔々と語るダニエルに、ディアナが頬を引きつらせるが、真相は闇の中だ。
「……ディアナ嬢。よろしければ一曲踊っていただけますでしょうか」
「え……えぇ。喜んで」
遠い世界に旅立ってしまった未来の義兄から目を逸らし、レオンハルトはディアナに手を差し出す。
会場に流れる音楽はいつの間にかワルツへと変わり、センターホールではゲストたちが踊り始めていた。
ディアナをエスコートし、その輪へと加わる。
「今日のドレスもとてもよくお似合いだね。花の妖精が現れたかと思ったよ」
「まぁ、お上手ですわね」
踊りながら歯の浮くような賛辞の言葉をかけると、ディアナは淑女らしくさらりとかわした。
冷静な対応だが、よくみると耳が赤い。小さな口も端の方が少し上がってしまっている。喜びを隠しきれない様子に、なるほどこれはわかりやすい、と一人感心する。
「その首飾りは以前私が贈った物かな?」
ディアナの付けているサファイヤの首飾りには見覚えがあった。
数年前にアカデミーの女生徒の間で婚約者の瞳の色の装飾品を付けることが流行していたときにレオンハルトが贈った物だ。
正確には、キャロライナからその話を聞いたセレスティアによって贈らさせられた物、だが。
「えぇ。大切に仕舞っておいたんですが、久しぶりに付けたくなりましたの。よく覚えていらっしゃいますね」
「君のことはすべて覚えているよ」
さらりと言うと、喜ぶと思ったのにディアナは少し寂しそうに微笑んだ。
ディアナとのダンスを終えたレオンハルトはその後数人の令嬢と踊ったあと、再び壁に戻る。
ディアナもまたアカデミー時代の友人と話に花を咲かせているようだった。
シャンパンを飲みながら、自分は幼女趣味でも同性愛者でもないというダニエルの主張を聞き流していると、急に玉座の近くからざわめきが聞こえた。
何かあったのか何となしに玉座の方へ視線をやったレオンハルトは我が目を疑った。
玉座に座る皇帝は、その膝にクリスティーナを乗せていた。
それは、信じられない光景だった。
皇帝は今まで、皇子や皇女を抱いたことなどなかった。
少なくともレオンハルトと対峙するときは、公式の謁見の際はもちろん共に食事をとるときも一定の距離をとり、近付こうとしない。
優しい言葉をかけても決して抱きしめることはない。
それなのに、どうして。
レオンハルトの位置からは、二人が何を話しているのかは聞こえない。
けれどクリスティーナに話しかける皇帝が微笑んでいるところは見える。
クリスティーナの話に耳を傾け、髪を撫で、腰を支え。
それはまるで、仲睦まじい父娘のようだった。
「父上も、あのような表情されるのですね」
「―――ッウィル」
立ちつくすレオンハルトの隣に、いつの間にかウィルアムが来ていた。
「クリスの声が小さくて聞こえなかったから、こっちへおいでって。……兄様、父上の膝に乗ったことあります?」
「……いや」
「僕も無いです。……『こっちへおいで』って言われたことも、一度も」
第三皇子であり、セレスティアの第二子であるウィリアムは、レオンハルトよりもずっと父と過ごした時間は短いだろう。
世継ぎとして期待されていない分母や異母兄に甘やかされて育ったけれど、同時に父とはほとんど交流したことないはずだ。
「ウィル……」
「あ、シャルだ。兄様、ちょっと話してきますね」
「あ、あぁ……」
何と声をかけていいのか口ごもるレオンハルトにはかまわず、ゲストの中に知人を見つけたウィリアムは寂しげな雰囲気から一転、軽やかに立ち去った。
いくつになっても無邪気で甘え上手な弟。
本当は、レオンハルトがそう思いたかっただけなのかもしれない。
人垣の中に消えていったウィリアムから玉座へと視線を戻すと、ちょうどカーティスが皇帝に何かを耳打ちしていた。
皇帝は頷き、クリスティーナを抱えたまま立ち上がる。
そしてそのままクリスティーナを連れて中座した。きっと未成年のクリスティーナの退場時間がきたのだろう。
それに最近の皇帝は公式のパーティー以外、最後までいることはめったにない。いつも一時間ほどで退席する。
皇帝がいなくなった空の玉座をレオンハルトはぼんやりと見やる。
皇家の紋章が刻まれたその席が、途方もなく遠く感じた。




