E.C.1019.08-4
「あのような軽はずみな約束をなさるなど、どういうおつもりですか」
アルフォート侯爵家から皇太子宮へと戻る馬車の中、グレイスターが口を開く。寡黙で朴訥な男だと思っていたが、今日は随分とおしゃべりだ。
「……別に、絶対に側妃を迎えなければいけないというわけではないだろう。先帝陛下も正妃殿下しかお迎えにならなかった」
「先帝陛下は第一子が皇子……現帝陛下だったためです。もしも御世継ぎが生まれなかったらどうなるさおつもりですか」
「……」
皇帝が複数の妃を娶るのは、彼らが色を好むためではない。
必要なのは皇妃よりもむしろ皇子と皇女だ。いずれ皇帝となり次の世を治める皇子と、皇家と国内の貴族或いは他国の王家を繋ぐ架け橋となる皇女は、国家にとって必要不可欠な存在。
しかし一人の妃が産める子の数には限界があるし、一つの家に権力が集中することも好ましくない。
側妃とは国家を安定させるために必要な制度なのだ。
もちろん帝国の歴史を遡れば、側妃を迎えなかった皇帝も皆無ではない。
しかしそれは別に、彼らが一途だとか正妃に対して誠実だとか、そういう類の話ではない。
レオンハルトが言ったように先帝―――レオンハルトの祖父が正妃しか迎えなかったのは、生まれつき身体が弱く、皇太子以外の子を望むことが難しかったためだ。
また先帝の時代はまだ戦争が多く、「後宮」内に気を配る余裕も無かったのだろう。
つまりあくまでも先帝は「例外」だ。必ずしも側妃を迎える必要はないが、単婚にこだわる必要もない。
レオンハルトだって、側妃の必要性も重要性もわかっている。
けれどあんなディアナを前にしたら、他に何が言えただろう。
その場しのぎでしかないとしても、彼女の望む言葉をかけてやりたかった。
しかしすべてを知る近衛騎士は、主を静かに糾弾する。
「……殿下」
「なんだ」
「もしやと思いますが、ロベルト皇子殿下をお世継ぎにされるおつもりですか」
不敬とすら思えるほど無遠慮な問いに、けれどレオンハルトはそれを咎めなかった。
しかし非難に満ちたグレイスターの瞳を正面から受け止めることはできず、目を逸らす。
グレイスターには、レオンハルトを責める権利がある。少なくともレオンハルトはそう思っている。
あの嵐の夜から、レオンハルトとグレイスターはただの主従でも単なる友人でもなくなった。
秘密の共有者であり、共犯者だ。
「……私はディアナ嬢に対し、誠実でありたいと思っているよ。それが私の、君に対する贖罪だ」
質問と噛み合わない答えに、けれどさすがにそれ以上食い下がることはできないのか、グレイスターはそれ以上の追及はしなかった。
帝位継承権を授かる条件としては、男子は十歳以上、女子は十三歳以上の「皇族」であることが挙げられる。
「皇族」とは皇帝、または皇子の妃、それから彼らの子として生まれた皇子・皇女が該当する。
しかし彼らも永久に皇族を名乗れるわけではない。臣籍降下、或いは降嫁すれば皇籍から除外される。
皇女は婿をとることはないため結婚すれば問答無用で降嫁し除籍となるが、皇子の降下のタイミングは婚姻には左右されない。結婚後も皇籍に身を置く者もいれば成人してすぐ独身のまま降下する者もいる。
期限についての定めはないけれど、皇太子以外の皇子は二十五歳までに皇籍を離れるのが一般的だ。
ちなみに未成年皇族の場合、皇子である父が降下すると同様に除籍となる。
現在帝位継承権を持つ者は四人。
皇女二人はあと十年もすれば降嫁するだろうし、第三皇子であるウィリアムにも帝位を継ぐ気はない。
彼は常々政よりも芸術に触れる生活がしたいと言っていた。おそらくあと五年もすれば臣籍に下るつもりなのだろう。
そうなったとき、レオンハルトに次ぐ帝位継承者はロベルトになる。
ロベルトが成人するまであと十五年。
もしそれまでに代替わりが行われ、レオンハルトに男児が生まれなければ次の皇太子はロベルトになるだろう。
皇帝に皇子がいない場合、帝位継承権さえ持ったままにならば、先帝の皇子でも皇太子になれる。
だがたとえ代替わりしたとしても、レオンハルトにとってロベルトは「先帝の皇子」などではない。
ロベルトこそが正真正銘レオンハルトの第一子だ。
グレイスターが懸念しているのは、ロベルトが即位することではない。
レオンハルトがロベルトを―――ローズマリーの産んだ皇子を即位させようとしているのではないか、ということだ。
グレイスターが杞憂であり邪推でもある疑念を抱くのも、仕方のないことだろう。
彼はすべてを知っているのだから。
四年前の第六皇妃暗殺未遂事件が起こった夜、医師の診断を受けた後のローズマリーとそれに付き添うレオンハルトを、グレイスターはずっと扉の前で警備していた。
部屋の中で何が起こっているのか知らず、主をただひたすら待ち続けた。
一時間ほどして部屋から出てきたレオンハルトは、グレイスターにステラを呼んでくるよう命じた。
どこか気だるげな主に不穏なものを感じたのか、近衛騎士たる自分はレオンハルトの傍を離れるわけにはいかない、と頑に聞き入れようとしなかった。
出逢った頃から変わらない融通のきかない生真面目な態度に思わず笑った。
親愛の笑みではなく自嘲のような笑みを浮かべ、もうすぐその任も解かれるよ、と告げた主に今度こそただならぬ気配を感じたのか、グレイスターは部屋の中に押し入ってきた。
そして寝台の中、身を覆う物は掛けられたシーツだけというあられもない第六皇妃の姿を見つけた。
青ざめて絶句したグレイスターの表情を、レオンハルトは一生忘れないだろうと思った。
どうして、とかすれた声が何を問い質したかったのかはわからない。だからただ、愛しているんだと答えた。
皇妃であるローズマリーのことを愛してしまった。皇妃となる前から愛していた。もはや隠し通すことなどできない。罰は受ける。死罪さえも受け入れる。ただ報告する前にローズマリーを着替えさせてほしい。そのためにステラを呼んでほしい。
抑揚の無い声で淡々と命じるレオンハルトの肩を、グレイスターは強く掴んだ。
喰いこむほどに強く掴まれた肩には後で確かめると痣ができていたけれど、そのときのレオンハルトには、どうでもよかった。
もうすぐ訪れる自らの死を受け入れた人間は、肌に傷が付こうとかまいはしない。
けれど。
―――死を覚悟したというのなら、生きる覚悟をしてください。
レオンハルトの肩を掴んだまま俯いたグレイスターは、震える声でそう告げた。
彼が何を言っているのかレオンハルトが理解するより前に、グレイスターはステラを呼びに行き、眠るローズマリーを着替えさせるよう頼んだ。
正体を失くしたローズマリーの身体を拭いて服を着せシーツを整えるステラを部屋の外で待ちながら、グレイスターはレオンハルトに今宵のことは決して口外しないよう言い含めた。
父を、皇帝を欺けと。そうしなければローズマリーも処罰される。彼女を愛しているのなら決して知られてはいけないと。
ステラがどう言いくるめたのかはわからないが、ローズマリーもあの夜のことを皇帝に告発したりはしなかった。
あの夜に起こったのは第六皇妃暗殺未遂のみ。
そうやって幕が引かれたことで、レオンハルトの肩には自らとローズマリーの他、グレイスターとステラの命もかかることとなった。
皇妃との姦通罪はもちろん、隠蔽に加担した二人も露見すればただではすまない。
あの瞬間、レオンハルトの命はレオンハルトの一人のものではなくなった。
命がけで主に尽くそうとする二人を守るため、レオンハルトは生きるしかなくなった。
グレイスターに言われた通り自らの罪を隠して生きる日々を過ごしながらも、レオンハルトは、ずっと不思議だった。
どうしてそうまでしてグレイスターがレオンハルトを生かそうとしたのか。
「……グレイスター。君は知っていたのか?」
「何をです?」
「ディアナ嬢が……私のことを……」
「妹が殿下のことをお慕いしていることなど、侍女たちも皆存じておりました。むしろなぜ殿下がお気付きならないのかと皆不思議で仕方ありませんでした」
「……」
グレイスターの話によると、ディアナは元々おっとりしているものの貴族の令嬢、それも末っ子らしい我儘で気まぐれなところがあったらしい。
それがレオンハルトに出逢ってからは人が変わったように淑女教育に取り組むようになったのだという。
だが出逢ったばかりの頃、ディアナはレオンハルトに対して大層そっけなかった。
他の令嬢のように猛アピールやアプローチをしてくるわけでもなく、レオンハルトが話しかけても当たり障りのない受け答えをするだけで、端の方で微笑んでいた。
あれはまさかレオンハルトの気を引くための作戦で、レオンハルトはまんまとその術中にはまったのか。
そう尋ねるレオンハルトに、グレイスターは否の答えを返す。
そもそもディアナは我儘なところがあるものの典型的な内弁慶で、皇子妃候補選定のための茶会のときもわざと気のないそぶりをしていたわけではなく、他の令嬢の勢いに気圧されて押し負けていただけだった。
婚約してからも恋い慕うレオンハルトを前にすると何を喋っていのかわからず、「とりあえず笑っとけ」精神で乗り切っていたらしい。
そのたびにディアナ自身は今回もうまく立ち回れなかったと落ち込んでいたらしいのだが、その態度をレオンハルトは「自分に気が無い」「ガツガツしていない」「役目を全うしようとしている理想の淑女」と判断したのだから、人生何が好機に転じるかわからない。
それでも正式に婚約が決まってからは彼女なりに距離を縮めようと奮闘していたらしい。
「……婚約して間もない頃、ディアナ嬢に『名前で呼ばせてほしい』とお願いされたことがあったんだ」
本来皇族を直接名前で呼んでいいのはごく親しい者に限られる。身の周りの世話をする侍女でさえめったに呼ばない。
皇族から直接許しをもらえて初めて呼ぶ権利を得る。
「二人きりのときは名前で呼ばせてほしいと。……あれはそういうことだったのかな」
「むしろどうしてそうまでされて気付かれなかったのですか」
「……」
無表情なのに呆れているとわかるグレイスターの言葉に、ぐうの音も出ない。
思い返せば返すほど思い当たる節がありすぎて、つくづく今までいかに彼女のことを見ていなかったということに気付かされる。
「……ディアナ嬢は、私の何がよかったんだろうな」
初めて会ったときからすきだったと告げられた。
彼女はろくに話したこともないレオンハルトに恋し、「皇子」として「婚約者」として接するレオンハルトにその想いを強めていった。
けれどレオンハルトが「皇子」であることを重要視していない。
レオンハルトがレオンハルトであればそれでいいと。
いっそ滑稽で、憐れにさえ思えた。
本当のレオンハルトのことなんて、何も知らないくせに。
「……誰かを愛するために、すべてを知る必要などございません。それは殿下が一番よくご存知なのでは?」
「……ッ」
グレイスターが言うと、このうえない皮肉に思えた。だが彼に他意は無い。そのことが余計苦しい。
レオンハルトに、ディアナを嘲る資格など無い。
レオンハルトもまた、名前と顔しか知らないローズマリーに恋をした。
彼女のことを何も知らないのに、たった一度言葉を交わした想い出にすがり、彼女を想い続けた。
そしてその想いのまま、彼女を辱めた。
彼女が何のために皇妃となったのか知ろうともせず、彼女の誇りを穢し、命さえも奪った。
悔いることさえ許されない愚恋は、レオンハルトを永遠に苛み続けていくのだろう。
「貴族の結婚に愛情など必要ないということ、それは妹もわかっております。殿下が気に病む必要はございません。殿下は、殿下の責務を全うなさってください」
「……今日はよく喋るな」
愛が無くとも結婚はできる。子どもも作れる。それは貴族社会の常識だ。
けれど愛は無くとも、情は生まれる。家族として過ごした時間は絆を作る。政略結婚として結ばれた夫婦がいつまでも不幸だとは限らない。
人の心は、いずれ変わるものだから。
止めることのできない時間の中で、変わらないものなど何も無い。
「お前、本当は妹君のことが可愛くて仕方ないだろう」
「……いけませんか」
「いや……」
否定しないグレイスターに、レオンハルトは小さく笑みをこぼす。上手く笑えているかどうかはわからない。
愛する妹の愛した男だからだからグレイスターはレオンハルトを生きかそうとしたのか。
そう尋ねることに、何の意味があるだろう。
皇子だから、婚約者だから、兄だから、息子だから。
愛するための理由を暴き立て、自らの価値がそこにしかないことに嘆いて何になるというのか。
だって、「皇子としてではなくレオンハルト自身を愛している」。ディアナにそう言われても、レオンハルトの心は少しも救われなかった。
ないものねだりは、もうやめよう。
満たされないまま生きていくことしかできないのだから。
「……そうだな。妹や弟は可愛いんだ。私も、いくつになってもキャリーやウィルが可愛くて愛しくて仕方ない。……もちろん、ロベルトも。私があの子を可愛がるとしたら、あの子が私の弟だからだ」
「……左様でございますか」
父と名乗ることも息子として抱きしめることも許されない。そんなこと、願ったことすらない。
ロベルトは、レオンハルトの罪の形。愛したひとを辱め、苦しめた証であるロベルトのことを、愛することなどできるわけない。
愛されることも愛することも諦めたレオンハルトにとって生きることは罰であり、償いだった。
そんなレオンハルトの人生にディアナまで付き合わせることを、申し訳なく思った。
【本編にも出てきてる設定の補足⑭】
ジュエリアル帝国では皇女も帝位継承権を授かりますが、今まで女帝が誕生したことはないです。
皇子と皇女で継承権授与の年齢も違い、れっきとした(?)男尊女卑国家なので。
そのため基本的に皇太子は第一皇子がなります。
第一子が皇女の場合、皇帝の兄弟(前帝皇子)が皇太子となり、皇女の皇位継承順位は第二位以下になります。
その後第一皇子が生まれると前帝皇子と順位が入れ替わり、第一皇子が皇太子、第一皇女は第二帝位継承者となり、前帝皇子は臣籍降下します。
皇子が生まれなければそのまま前帝皇子が即位しますので、名ばかりの帝位継承権です。




