E.C.1016.05-2
葬儀も埋葬も済み、すべてが終わった後、レオンハルトは皇帝に呼ばれた。
通された「玉座の間」では、彼の側近のカーティスもおらず、またグレイスターの入室も許されず、部屋の中には二人きりだった。
こんなことは今まで一度とてなかったため、レオンハルトを妙な緊張が襲う。
それでもレオンハルトは自らを奮い立たせて跪き、臣下としての礼をとり、皇子としての哀悼の言葉を述べた。
「この度は、第六皇妃殿下の御逝去、お悔やみ申し上げます」
思えば、皇帝に向かって彼女のことを「皇妃」と呼ぶのは、これが初めてかもしれない。
今まで無意識に避けていた。認めたくなかったから。彼女が「皇妃」―――この男の妻であることを。
認めるのがこんなにも辛いだなんて、思わなかった。
「……『皇妃』……か」
レオンハルトの言葉を受け、目の前に座す男の双眸がスッと細められる。
その瞳は、レオンハルトが敬愛してやまない最愛の兄、アデルバートと同じ色をしていた。
けれど宿す光の鋭さがまるで違う。
アデルバートの眼差しが降り注ぐ月の光のように柔らかなものであるとしたら、皇帝のそれはまるで刃の輝きに似ている。
白刃の如き鋭い眼差しに、射抜かれた心地がする。
無意識のうちに唾を呑みこむレオンハルトに、皇帝は穏やかに語りかける。
「あれが『皇妃』だったことは一度もない。最期の最期まであれは『姫』だった。愛する祖国のため、愛する者のためその身を差し出し、ただただ国を案じながら果てた。
……それがどういうことか、わかるかい?レオンハルト」
「……『どう』とは……」
恐る恐る問い返すレオンハルトに、しかし皇帝はその問には答えず、淡く微笑む。
それは妻を亡くしたばかりの夫が浮かべる表情にしては、あまりにも不自然に思えた。
けれど微笑む皇帝に対し部屋の雰囲気が張り詰めたままなのは、レオンハルトに注がれる眼差しが冷たいままなせいだろうか。
「なぁ、レオンハルト。先程そなたは『お悔やみ』と申したな。
けれど真に悔やまねばならぬは、そなたではないのかな?」
「え……?」
「どのような心地だい?初恋の姫君を死へと追いやった気分は」
「は……?」
一瞬。
何を言われたのかわからなかった。言葉の意味をレオンハルトが理解するより先に皇帝は再び口を開く。
「あれが死んだのは、産後の肥立ちのせいなどではない。心の病だ。
一年ほど前から、あれは心を病んでいった。ちょうどあれの侍女として『後宮』に潜り込んだ女に命を狙われた頃と同じ時期だったため、そのせいかと思っていた。
けれど違った。あれは自らの懐妊を知ると、私に懇願してきたよ。胎の子ごと自分を殺してくれ、と」
「な……」
「当然だろう。
あれとて王家の姫として育てられたのだ。皇帝の血を引かぬ『皇子』を産むこと、それがどれほどの大罪であるのか、わからぬはずがない」
「皇帝の……血を引かぬ……」
皇帝の言葉を繰り返す唇が震える。心臓が早鐘を打つ。
彼が何を言おうとしているのか、思考が拒否する。
けれどそれを、皇帝は許してくれない。
―――赦されるわけがない。
「いや、引いてはいるのかな。しかしそのようなことはどうでもいい。重要なのは、あれが産んだ『皇子』が私の子ではないということ……。
ローズマリー=アメジア=ジュエリアルの産んだ男児、ロベルト=アメジア=ジュエリアルの父は、そなたであろう?レオンハルト」
「―――ッ」
確信を持って紡がれた言葉に、今度こそ息を呑む。
なぜ、そのことを。
そう問おうとした唇が空回る。瞬きすら忘れ、目の前の父たる男を凝視する。
愛息の懐疑の眼差しを受け、皇帝はその形のよい唇に親愛の情など欠片も感じられない酷薄な笑みを刷いた。
その微笑に圧倒させられながらも、レオンハルトは震える唇を無理やり開く。
「……何をおっしゃっているのです、陛下……。お戯れを……」
「戯れと申すか。往生際が悪いな、レオンハルト。見苦しいよ。
そなたは私が何の確証も無くこのような戯れを申すと、本気で思っているのかな?」
「……」
いっそ楽しげに笑う皇帝に、レオンハルトはただ、戦慄する。
ごまかせるわけがない。
微笑みひとつですべてを圧倒してしまうこの男に、レオンハルトが敵うがわけないのだ。
麗しき白刃の双眸に射抜かれたレオンハルトになす術など無い。
「懐妊のさ中、あれは何度も懇願してきた。胎の子ごと殺してくれ。自分はどうなっても構わない。だからどうか、祖国には咎が及ばぬように、と。
……思えばあれが、最初で最後の『頼みごと』だった」
そこまで言うと、皇帝はふっと、眼差しを和らげた。口元に浮かぶのは、苦笑のようにも自嘲のようにも見えた。
あの嵐の夜から三ヶ月経ったあと、ローズマリーの懐妊の報せを聞いたとき、まさかとは思った。
皇帝の寵愛も薄く、「後宮」の片隅で忘れられた華としてひっそりと暮らす第六皇妃が今更子どもを身籠るなどおかしいと、恐ろしい考えが過ぎった。
けれど恐ろしい考えに怯えて暮らすレオハルトとは対照的に、「後宮」の日々は以前と変わらず穏やかだった。
だから恐ろしい考えは単なる杞憂でしかなかったのだと、安堵していたのに、どうして。
なぜ皇帝があの夜のことを知っているのか。知っていてどうして、レオンハルトを咎めなかったのか。今になってレオンハルトの罪を暴こうとする理由は何なのか。
いくつもの疑問がレオンハルトの頭の中を駆け巡る。
「……いつから……気付いていらっしゃったのですか」
「最初からだよ」
「最初……とは……」
「私はあれが姫を産んでから、指一本触れておらぬ」
「……」
「それなのにあれは今度は皇子を産んだ。不思議な話だとは思わないかい?レオンハルト」
いっそ楽しげに問う声は、レオンハルトの答えなど求めていない。
では一体、この男は何を望んでいるのか。
レオンハルトをどうしたいのか。
目の前で嫣然と笑う美しいこの男の考えていることが、まるでわからない。
「生まれた子が姫であったなら、まだ救いはあったかもしれない。だがあれは、皇子を産んだ。
皇帝の血を引かぬ『皇子』を産むこと。これがどれほどの罪であるのか、あれも王家の姫として育てられたのだ。わからぬはずがないだろう。
自らの犯した罪の重さにとうとう耐えられなくなったのか、子を産んで間もなく息を引き取った。
ただただ祖国を案じ、祖国のために身を差し出したあれをそれほどまでに追い詰めたのは、他でもないそなただ」
そこには妻と通じた男への怒りも妃を辱めた臣下への憤りも無い。
ただ淡々と、レオンハルトの罪を暴いていく。
皇帝による断罪に、レオンハルトは項垂れる。
今日まであの夜のことを、後悔したことはなかった。
あの夜、初めて彼女に触れた夜、あの瞬間、レオンハルトはあのまま死んでもかまわないと思った。
このまま二人で死ねるのなら、いっそ幸せだとさえ。
彼女の部屋を後にし、夜が明け、再び城内が騒がしくなると自分のしでかしたことに恐ろしくなるも、後悔は無かった。
自分は彼女を愛している。自分だけが彼女を愛しているのだからと、そんな身勝手な論理を掲げた。
もう二度と触れ合えなくても、あれが最後だったとしても、誰にも言えない、知られてはいけない二人だけの秘密を胸に生きていこうと決めた。
けれど。
「……私は、どうなるのですか」
乾いた声は、まるで自分のものではないかのように聞こえた。温度も抑揚も無い、恐怖と畏怖に満ちた声だった。
「『どう』……とは?」
「皇妃と通じた罪で帝位継承権剥奪ですか。それとも帝都追放ですか。あぁ、それならばいっそ死罪にしてください。私は……」
「落ち着きなさい、レオンハルト」
優しい声がレオンハルトを呼ぶ。
けれどレオンハルトを見下ろす瞳は、どこまでも醒めている。
しゃら……という衣擦れのあと、靴音が「玉座の間」に響いた。
レオンハルトの頭に、影が差す。俯いたままのレオンハルトはそれに気付かない。
「顔を上げなさい、レオンハルト」
「……」
「レオンハルト」
項垂れたままのレオンハルトの顎の下に形のよい指が入れられる。
そのままついと持ち上げられ、抗う気力も無いレオンハルトがされるがままに顔を上げると、目の前に皇帝の顔があった。
他者を魅了し、時には畏怖すら抱かせる美貌。
この世で最も美しい男と対峙し、レオンハルトはただ息を呑む。
「私の可愛いレオンハルト。そんな哀しいことを言わないでおくれ」
「……」
「大丈夫。このことは私とそなたの二人だけの秘密だよ」
「……ちち……うえ」
「だから安心なさい、レオンハルト」
―――あぁ。
いっそ、殺してくれ。
艶やかに微笑む男を見て、レオンハルトは強く思った。
あの日。
嵐の夜。
レオンハルトは、一夜の夢を見た。
幼き日に恋し、今なお焦がれてやまない愛しい女性をこの腕に抱き、愛を語った。その愛を、彼女も受け入れてくれたのだと思った。
けれどそんなものは、レオンハルトの幻想でしかなかった。彼女は、レオンハルトのことなど愛してはいない。
彼女はただ愛する祖国のために生き、死んでいった。
美しく、気高く、かなしい女性。そんな彼女を、レオンハルトが追い詰めた。
そのことを知った今、レオンハルトは初めて自らの行動を悔いた。
そして同時に、心の底から絶望と恐怖が湧き上がってきた。己の犯した罪に、震えが止まらなかった。
いっそ、このまま絶望で息絶えることができたらどんなに楽だろう。彼女の元へ逝けたら、どんなにいいだろう。
けれど目の前の男は、そんなことを許さない。
決して逃げられない。
この日から、レオンハルトの地獄は始まったのだった。
第四章終了です。




