E.C.1019.06-3
時間は戻って、再びレオンハルト20歳の話の続きです。
「わたくしの実家、ブライトナー家の女は代々王家の女性に仕えてまいりました。そのためわたくしは生まれる前から姫様にお仕えすることが決まっておりました。
またわたくしの母が姫様の乳母を務めさせていただいたこともあり、本当の姉妹のように育ってまいりました」
キャロライナによって部屋に招き入れられたセシルは、レオンハルトに着席を促されるも頑として譲らず、扉の近くに立ったまま語り始めた。
今となっては亡き第六皇妃ローズマリーのことを知る唯一の人物の話に、レオンハルトは黙って耳を傾ける。
「姫様は、とてもお優しい御方でした。思いやりと慈悲の心に溢れ、王家の姫君でありながら下々のことも考えてくださる御方でした。
また争いごとを嫌い、アメジアと帝国の戦争に誰よりも心を痛めていらっしゃいました。終戦後、ご自身が帝国に行かれることで国が救われるのならばと、『人質』となることを、自ら国王陛下に進言なさいました。
……十三歳の姫君がなさるには、あまりにも重い御覚悟です。
けれどそういう姫様だからこそわたくしは、どこまでもお供しようと思えたのです」
今から十年程前、ジュエリアル帝国とアメジア王国は武力を交えた。数ヶ月の交戦の末勝利した帝国は、「戦利品」として一人の姫君を手に入れた。
それが彼女のかつての主である亡き第六皇妃だ。
ローズマリーが「人質」となりこの国に送られてくることとなった経緯を、レオンハルトは知らされていない。
まさか彼女自身が言い出したことだなんて、思ってもみなかった。
「姫様は、わたくしの誇りでした。姫様にお仕えできることが、わたくしの幸せでした。
姫様のためならばこの命を捧げることも厭いません」
主のためならば、命さえ惜しくない。その言葉が真実であると、彼女はかつてレオンハルトの目の前で証明したことがある。
「慣れぬ異国での、それも『人質』というお立場での生活は、気苦労が絶えませんでした。日に日に憔悴していかれる姫様に、わたくしはどうして差し上げることもできませんでした。
けれどそんな姫様の支えになってくださったのが、アデルバート……皇子殿下でいらっしゃいました」
「……兄上が……」
「殿下は誠実でお優しく、姫様のことをいつも気遣ってくださいました。……大切に、してくださいました。
ただそっと、寄り添ってくださった殿下に姫様がどれほど救われたことか……。
ともに日々を過ごされるうちに、次第に姫様も心を寄せられるようになっていかれました」
在りし日を思い返すように、恍惚にすら見える表情でセシルは滔々と語る。
偽りを申すな。嘘も大概にしろ。
そう叫んでしまいたかった。
けれどそれが嘘や偽りでないことは、レオンハルトが一番よく知っていた。
死の間際にアデルバートが声ならぬ声で呼んだ「ロゼ」という名。
彼を一番近くで看取ったレオンハルトだけが声を聴いたそれは、ローズマリーの愛称だった。
最愛の兄が最期に呼んだのは、敗国の人形姫の名前だった。
それがどういう意味を持つのかなんてそんなことは、考えなくてもわかった。
アデルバートは、ローズマリーを愛していた。そして敗国の人形姫もまた、敵国の皇太子に恋をした。
まだ少年と少女であったふたりは運命に翻弄されるように出逢い、心を通わせた。
いつか訪れる幸せな未来を夢見て、ふたりはともに寄り添い生きていた。
けれど。
「けれど……幸せな日々は、長くは続きませんでした」
ふたりが想い描いた幸せな未来が訪れることはなかった。少年と少女の夢の時間は、ある日突然終わりを告げた。ローズマリーが第六皇妃に迎えられることが決まったからだ。
「帝都からの使者が伝えた勅宣は、あまりにも残酷なものでした。
どうして殿下以外の……それもよりによって殿下の御父上の元に嫁がなくてはいけないのか。
決して口に出されることはありませんでしたが、あの頃の姫様の御憔悴ぶりは痛々しいほどでした。
わたくしどもに隠れて毎日お泣きあそばし、お食事も喉を通らず、日に日にお痩せになられていく姫様を見ていられませんでした」
突然訪れた夢の終わりに、ローズマリーは絶望したことだろう。戦争による心の傷をアデルバートと過ごす日々の中で少しずつ癒してきたローズマリーは、今度こそ、生きる希望を失った。
けれど、結局ローズマリーは「プリンセス・アメジア」として生きることを選んだ。
そうすることしか、選べなかった。
そうすることが、アデルバートを守る術でもあったのだ。
「……姫様は、本当にお強い御方です。
儚げでたおやかでありながら凛として美しく、そしてとても、お優しい御方。
御自身の心一つで祖国を、何より愛しい御方の命を危険にさらすことなど、できるはずがなかったのです」
「人質」として帝国に送られてきたローズマリー。そのローズマリーが帝国の長たる皇帝に背けば、祖国がどうなるか、そんなことは考えずともわかる。
また、その原因がアデルバートとなれば、彼も無事ではすまないだろう。
だからこそローズマリーは、アデルバートの元を去った。
そしてアデルバートもまた、そういった彼女の境遇や葛藤を、すべて理解していた。
アデルバートは自らの運命を受け入れ、ローズマリーの使命を受け止めたうえで、彼女を愛した。愛しているがゆえに、彼女の手を放した。
それほどまでに、アデルバートのローズマリーへの愛情は深かったのだ。
そしてレオンハルトが考えていたよりもずっとふたりの絆は強く、哀しいまでに美しいものだった。
話を終えたセシルが口を噤むと、部屋の中に静寂が落ちる。息遣いさえも聞こえるのではないかと思うほどの沈黙を破ったのは、キャロライナだった。
キャロライナはセシルに退室を命じ、セシルもまたそれに従う。
扉が閉められる音はそう大きなものではなかったが、その前後の静寂があまりにも静かすぎたためか、やけに耳に残った。
「……わたくしは、あの御方のことが嫌いでした」
二人きりになった部屋の中で、キャロライナは以前大聖堂でレオンハルトに告げたことと同じことを口にする。
あれはいつのことだっただろうか。
ほんの数週間前のことであるはずなのに、もう随分と経ったような気がした。
「だって、お兄様はあの御方の御傍にいらっしゃるときが、一番嬉しそうにしてらしたから。幸せそうだったから。
誰よりもあの御方のことを大切にしていらして、わたくしたちには決して見せてくださらない笑顔をあの御方だけにはお見せになって……」
「……」
「それがずっと、羨ましかった……。誰よりもお兄様に愛されたあの御方が、妬ましかった……ッ」
「……キャリー……」
「くだらない、妹の嫉妬だとお思いになりまして?わたくしも、自分でもそう思いますわ。けれど……ッ」
「……」
「お兄様がわたくしたちには決して見せてくださらない笑顔をあの御方に向けるたび、寂しくて仕方なかった……」
ぽたり……と膝の上で握られた白い手の甲に、透明な雫が落ちる。
それは、紛れもない涙。
キャロライナは、泣いていた。
それはもう会えない兄を悼んでいるわけでも、最愛の兄の心を奪った女への嫉妬のためでもない。
己の幼さと愚かさを悔いる涙だ。
自らの感情のままに、一番大切な兄の一番大切なひとを傷付けたことを。
気丈な妹姫が涙を流す姿をただ見つめながら、レオンハルトは理解した。
彼女が何も変わっていないこと。
キャロライナの清廉さも理不尽も、すべてはたったひとつの想いに、単純なまでに帰結していた。
彼女の高潔さ傲慢さも、すべてはアデルバートのため。最愛の兄に相応しい妹でありたかったから。
言葉にしなくてもわかったのは、レオンハルトも同じだったからだ。
レオンハルトとキャロライナは、哀しいまでによく似ている。二人とも兄のことが大好きで、兄のことが何より大切で、兄の一番になりたくて、兄に自分より大切なものがあることが許せなかった。妬ましかった。
けれど。
似ているのに、違った。
それはレオンハルトが男で、キャロライナが女だったということ。
だからこそ兄に寄り添う少女をキャロライナは憎悪し、レオンハルトは、恋をした。
そう。
九年前、十一歳のレオンハルトは、「敗国の人形姫」に恋をした。
誰も見たことのない「人形姫」の笑顔が自らに向けられた瞬間、心を奪われた。
けれど。
『……有難う、ございます』
あれは、レオンハルトに微笑んだのではない。大切な物―――アデルバートから贈られた首飾りを見つけたことへの安堵の笑みだったのだ。
あの日あの瞬間、ローズマリーはレオンハルトのことなど見ていなかった。
その真実を知った瞬間、レオンハルトは目の前が真っ暗になった。自らの犯した過ちに、いっそ恐怖さえ覚えた。
けれどこれで、すべて繋がった。
「でも、だからって、あんなことしていい理由にはならなかったのに、わたくし、とても酷いことをしました……。
大切なものを壊していいはずがなかったのに……」
「……キャリー」
言葉を途切れさせ、涙を零す妹姫に手を伸ばし、華奢な身体を抱きしめる。
けれど本当は、抱きしめたかったのではなく、すがりついたのかもしれない。
そうしないと、自分保てそうになかった。
もう、何も聞きたくなかった。知りたくなかった。こんな、あまりにも残酷な真実。
けれどもう、引き返せない。
失ったものは、何一つ戻らない。
「……もういい。もういいよキャリー。君は、何も悪くない。そんな風に自分を責める必要なんて無い」
「兄様……」
悪いのはすべて、レオンハルトなのだから。
――――レオンハルト。
――――どのような心地だい?
――――最初からだよ。
頭の奥で、声がする。
いくつもの散らばった罪の欠片が繋がり、そして残酷な真実が暴かれる。
幾重に塗り固められた偽りが剥がれ落ち、そうして現れた罪はもう、償うことさえ許されない。




