E.C.1011.07-5
「今……何と言った……?」
聞こえなかったはずはない。むしろ、聞こえたからこその言葉だ。
けれどレオンハルトは、問わずにはいられなかった。
そして問われた皇帝の近侍は、先程と同じ言葉を一言一句違わず繰り返す。
「プリンセス・アメジアことローズマリー=ヴィヴィアン=ルシア=シャムロック王女殿下が、皇帝陛下の第六皇妃となられることが決定いたしました」
離宮へと発つアデルバートを見送ったレオンハルトは自室へと戻った。
次の講義までの空いた時間、ステラの淹れてくれたお茶を飲んでいると、部屋の扉がノックされた。
こんな時間に来客なんて珍しいな。そう思いながら視線でステラに命じる。無言で扉へと向かったステラが連れて戻ってきたのは、皇帝の近侍、カーティス=ディルクだった。
褐色の髪に藍色の瞳をした精悍な顔立ちの近侍のもってきた驚くべき報告に、レオンハルトは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「―――そんなばかげた話があるか!!」
思わず声を張り上げる。そこにはいつもの冷静さも、「品行方正な第二皇子」もなかった。
皇家に仕える者として教育された人間が、このような性質の悪い冗談を言うわけはない。
けれどそれが真実とわかっていながら、レオンハルトは怒鳴らずにはいられなかった。
信じられるわけがなかった
信じたく、なかった。
「かの姫君は兄上の……皇太子殿下の妃となるために訪れたのだろう!?それが、どうして第六皇妃になど……ッ」
「それは周りの者の憶測にすぎません。陛下もアメジアの国王陛下もそのようなことはひとこともおっしゃっておられません」
「だが……っ。現に姫君は兄上と共に離宮で暮らしていらっしゃっただろう!今日だって、おふたりで離宮に発たれたばかりだ!それなのになぜ……ッ」
ローズマリーがこの国に訪れてから、もう一年半が経った。
その間彼女はずっと、アデルバートとともにセイレーヌの離宮に身を寄せていた。
身体があまり丈夫ではないため空気がよく気候も穏やかな離宮で療養している、というのがその理由だが、そんなものは単なる建前でしかないということは、公然の秘密だ。
いずれ皇太子妃となるであろう姫君をアデルバートの傍に置いておくための口実だということは、もはや国中の知るところだ。
この国にやって来た当初はまだ十四歳だったローズマリーも今年で十六歳になる。アデルバートは十七歳になっていた。
皇帝が十七歳で正妃を迎えたことをふまえると、遅くとも二年以内には婚姻を結ぶことになるだろうと、誰もが思っていた。
おそらく、当事者であるふたりも。
それなのに、どうして「皇妃」なのか。
この国において唯一複数の妻を娶ることが許されている皇帝には、現在四人の妃がいる。
第二皇妃を筆頭に側妃たちはいずれも四大公爵家と呼ばれる家の出身で、彼女たちの生家の当主は皆、政においても重要な地位に就いている。
男児も皇太子のアデルバートをはじめとし、三人の皇子に恵まれた。今更新しい妃など必要ないはずだ。
また今年で十六歳になるローズマリーに対し、いくら齢を重ねてなお若く麗しい容姿を失わないとはいえ、皇帝はもう三十六。親子ほど――親子以上に歳が離れている。
もちろん皇族や貴族の婚姻など政治的思惑が絡んでいることが常なのだから、倍以上歳の離れた相手や顔も知らぬ相手との結婚など珍しくもない。
いつだったか、セレスティアが言ったように、想う相手と結ばれることの方が稀有だ。
けれどやはり、ローズマリーが皇妃に、という話には必要性を感じない。
近くにもっと適任がいるのにどうして、と疑問を抱かずにはいられない。
しかしそのような諸々の「不自然な」事情を有してなお。
「何とおっしゃろうと既に決まったことにございます。すべては皇帝陛下の御意志なのです」
無慈悲なまでに無表情に、カーティスは告げる。
その言葉が絶対であり、すべてだった。
「それに離宮へと発たれたのは、皇太子殿下だけです。王女殿下はこのまま『宮廷』に留まられ、半年ほどの皇妃教育を受けていただいたのち御婚姻となります」
「……ッ」
「では、確かにお伝えいたしました」
レオンハルトの激昂も動揺もまったく気に留めず、自らの役目を終えたカーティスは優雅に一礼して退室した。
「……殿下……」
主のただならぬ気配を察したのか、心配そうにステラが呼ぶ。
けれど今のレオンハルトには平静を装う余裕もなく、今口を開けばあらぬことを口走ってしまいそうで、ステラに退室を命じた。
一人残されたレオンハルトは、知らず唇を噛む。
帰都以来、アデルバートの様子がおかしかった理由はこれか。どこか物憂げだったのも、城に滞在中一度もローズマリーを訪ねなかったのも。
きっと彼はセイレーヌにいる間に、ローズマリーの処遇を聞かされていたのだ。
(第六皇妃……だと……?)
いったい何を考えているのか、あの男は。
よりによって息子の婚約者候補とされていたはずの少女を妃に迎えようとするなんて、どうかしている。正気の沙汰とは思えない。
圧倒的な美しさと威厳をもつ父を胸中で罵る。
けれどレオンハルトの心を何よりも乱しているのは、皇帝が新たに妃に迎えることではなく、ローズマリーが皇帝の妃になる、ということだ。
これがもしもローズマリー以外の誰かなら、こんなにも動揺したりしなかっただろう。
今更皇帝が何人妃を迎えようとかまわない。
親子とは名ばかりの二人だ。新しい「義母」の出現により父の関心が奪われると嘆く歳でもない。
レオンハルトがローズマリーが皇妃になることにどうしても納得できない――嫌だと思うのは、胸の中にある邪な想いのせい。
誰にも言えない。知られてはいけない。けれどどうしても消えてくれないこの想いの正体は、恋心だ。
レオンハルトはずっと、いずれは兄の妃となるはずだった異国の王女――「敗国の人形姫」のことを恋うてきた。
十一歳の夏、彼女を一目見た瞬間レオンハルトは恋に落ちた。
たった一度だけ、初めて逢ったときに見た幻のような微笑みに心を奪われた。
だから本を読む横顔に心をときめかせた。彼女から届いた何の変哲もない手紙に心を躍らせた。彼女が何を考え、レオンハルトのことをどう思っているのか、気になって仕方なかった。
誰かの言動であんなにも心が動くことを、ローズマリーに出逢って初めて知った。
日に日につのっていく彼女への想いに、自分でもどうしたらいいかわからなかった。
どうしたらいいかわからないけれど、狂おしいほどに惹かれていた。
けれどそれは、決して許されない想いだった。
だからこそあってはならないことだと、幾度となく自らを戒めてきた。
だって彼女は、最愛の兄の婚約者候補。
いずれは兄と結ばれ、妃となり、国母となる女性。
本来ならばレオンハルトには触れることも、想うことさえ許されないひと。
だから必死に気付かないふりをしていた。どうすれば彼女を手に入れられるのかということに。
気付かないふりをすることで、甘えていたのだ。
ふたりの未来を壊すつもりなんてないから、想うことだけは許してほしいと。
会えなくても、触れられなくても、彼女が兄のものになっても、どうか、と。
それなのに。
―――アデルバート殿下でなくともかまわないのですよね
ジャンの言葉は、あまりにも恐ろしい、けれどどうしようもなく甘美な誘惑だった。
あのときのジャンが何を考えていたのかは、今となってはもうわからない。
けれど彼がレオンハルトに自らの本心を、そしてローズマリーを手に入れる方法を気付かせたことは確かだった。
皇太子になればローズマリーを妃に迎えることができる。
皇太子になれば――アデルバートさえいなければ、ローズマリーを手に入れることができる。
ほんの一瞬よぎった考えに、愕然とした。
あんなにも優しくてあんなにもレオンハルトのことを愛してくれるアデルバートを邪魔に思う日がくるなんて。
兄のことが大好きで、兄の役に立つことが、兄のために生きることが一番の願いだったはずなのに。
そんなことを考える自分が信じられなくて、恐ろしくて、それまで以上に兄に尽くそうとした。
「ふたり」のことを気にかけ、ふたりの婚約や成婚を急かすようなことばかり言った。
自分は決して兄を裏切らないと、自分に言い聞かせるように。
けれどきっとそんな考えが頭をよぎったこと自体が、兄への裏切りだったのだ。
ならばこの結果こそが、レオンハルトへの罰なのだろう。
初恋の君が最愛の兄でなく、この世で最も恐れる男のものになる。愛も情も交わさずに。
いったい何の悲劇――或いは喜劇だろう。
(……姫君)
胸の中で、想いびとを呼ぶ。愛しすぎて、心の中で名を呼ぶことさえできない、恋しいひと。
そのひとが、他の男のものになる。
その事実に、気が狂いそうだった。
けれどもはや、レオンハルトにできることなど何もない。
『すべては、皇帝陛下の御意志なのです』
カーティスの言葉が、耳の奥で蘇る。子守歌のように優しく、呪言のように残酷に。
嘆いても喚いても、レオンハルトは皇帝の言葉に逆らうことなどできない。それはレオンハルトが彼のことを恐れているからではない。
幼い頃は、父のことが大好きだった。母がいない分、肉親の愛情を父に求めた。
褒めてほしくて勉強を頑張ったり、気を引きたくて駄々をこねてみたり、抱きしめてほしくて甘えてみたり。
そのどれもが徒労に終わった。
父は何も返してはくれなかった。
抱擁も、叱咤も、愛情も。レオンハルトが欲しかったものは、何も与えてはくれなかった。
だからレオンハルトは父の愛情を得ようとすることは諦めた。
父に対しもう、何も望まない。求めない。もはやあの男はレオンハルトにとって父ではなく、「皇帝」でしかない。
ならば息子ではなく「第二皇子」として生きるレオンハルトには、彼に従うことしかできない。
たとえそれが、涙が出るほど意に沿わないことであっても。
「姫君……」
もはやその名を呼ぶことは叶わないと知りながらも、思わず声が零れた。
同時に、白い頬を涙が伝う。
何ひとつ思いどおりにならないこの世界で、こんなにも苦しいことがあるのだということを、レオンハルトは知った。




