E.C.1011.07-3
白く華奢な手から放たれた矢が、的の真ん中を射貫く。弦のしなる音と、矢の刺さる音が庭園に響いた。
「お見事です。兄上」
姿勢と呼吸を整えて一礼したあと振り返るアデルバートに駆け寄る。
いつもは青白い兄の肌が珍しく上気しており、頬から顎にかけてのなだらかなライン上を汗が滑る。
光を受けて輝く亜麻色の髪は、太陽の下では金に見えた。
アデルバートはここのところ体調がいいらしく、「後宮」の中庭で武芸の稽古に勤しむ姿がよく見られた。
赤と黒の弓術着に身を包み、まっすぐに弓を放つ姿は弟の目から見ても凛々しく、また若かりし頃の皇帝に似ているという姿に、取り巻く侍女や侍従も感嘆の息を漏らしていた。
「ありがとう、レオン。弓は久しぶりだけれど、腕がなまっていなくて安心したよ」
「そうなのですか?久しぶりとは思えないほどお上手でした」
もともとアデルバートは剣よりも弓の方が得意らしいが、それを差し引いても見事な腕前だ。
以前、アデルバートの教育係だった男に聞いたことがある。
アデルバートは勉学においても武芸においても一度教われば何でもこなしてしまうのだ、と。
レオンハルトが一月かけてようやく乗れるようなった馬も初日に乗りこなしてしまったし、難しいステップのワルツも一度で覚えてしまう。
ただ激しい運動をすると必ず体調を崩してしまうから控えているだけで、本当は誰よりも優秀なのだと。
あのときはアデルバートが優秀なのは当たり前だと誇らしく思うだけだったが、もしかしたら教育係なりの牽制の意もあったのかもしれない。
アデルバートの地位を脅かすレオンハルトに対する。
そんなことを考えていると、アデルバートは弓を従者に渡し、代わりに汗をぬぐうハンカチを受け取った。
「もうおやめになるのですか?」
「あぁ……。あまり長くやると、また熱を出してしまうからね」
そう言ってアデルバートは口の端を片方だけ上げる。初めて見る、自嘲のような笑みだった。
「……兄上……?」
呆然と呼ぶレオンハルトに、アデルバートははっとしたように目を見開く。
帰都以来、アデルバートはどこかおかしい。ぼんやりしていることも多いし、何か思い詰めているようにも見える。
今も何でもないよと微笑む表情は、以前のアデルバートは決して見せなかったものだ。
何が兄を悩ませているのか。兄を煩わせているものは何なのか。
レオンハルトには心当たりがあった。
けれどそれを指摘することができない。
もしもレオンハルトの予想が当たってしまったら――アデルバートにとっての憂いがレオンハルトだとしたら。
そんなの、耐えられない。
「……兄上、また遠駆けに参りませんか?シディアの海がとてもきれいですよ。
それともまたオペラ参りましょうか。来月から新しい演目が始まるみたいです」
「……レオン」
「あ、そういえばセレス様からエルドリナの紅茶を頂いたんです。それにあうお菓子も……」
「すまない、レオン」
謝罪とともに、アデルバートはレオンハルトの頭をそっと撫でる。そんな言葉が聞きたかったわけではないのに。
女性と見紛うほどに白く美しい手は、レオンハルトの頬にかかった髪を耳にかける。
優しいこの手を独り占めしたいと願うことがどれほど罪深いことなのか、レオンハルトはわかっている。
だからこそ、こんなにもうしろめたい。
それなのに願わずにはいられない。
何て不毛な堂々巡りなのだろう。
もどかしさに知らず唇を噛むと、アデルバートは困ったように微笑み、顔を背けた。
「さぁ、もう中に入ろうか」
「……待ってください、兄上」
「レオン……」
「私の弓の稽古を見てください」
「え……?」
「そして私も兄上のようにあの的すべてを射貫くことができたら、私の願いごとを聞いてください……っ」
懇願するレオンハルトに、アデルバートは困惑の表情を見せる。
今まで我儘らしい我儘など言ったことのないレオンハルトの頑なな態度に戸惑っているのだろう。
今回の兄の帰都の目的はわからないけれど、きっとアデルバートは来月を待たず、離宮に帰るつもりなのだ。
だからキャロライナの誘いにもレオンハルトの誘いにも首を縦に振らなかった。
「……願いごと、とはどんな?」
「離宮に帰らないでください」
こんなことを言ってもアデルバートを困らせるだけだとわかっている。
それでも。
「セイレーヌには帰らず、ずっと帝都に……レオンの傍にいてください……」
【本編にも出てきてる補足的設定⑨】
アデル兄様は天才型で、レオンは秀才型です。
同じ年齢でもポテンシャルそのものは兄様の方が高いですが、レオンが努力で追い越してます。
というか兄様は努力すると大抵寝込むのであんまり努力できません。
そのためレオンの方が「一番優秀な皇子」と言われてます。




