E.C.1010.02-2
レオンハルトの自室は「後宮」内の東の塔にあり、「朝陽の間」と呼ばれている。
城の中で最初に朝陽が差し込むことがその由来だ。
その「朝陽の間」の隣には、三分の一ほどの広さの部屋があり、二部屋は扉一枚で繋がっている。その小部屋の主はレオンハルトの教育係のジャンだ。
有事の際にはいつでも駆けつけられるよう、皇子や皇女、皇妃の部屋の隣には近侍の部屋が設けられている。
レオンハルトとジャンの場合はレオンハルトが嫌がるため、普段は二つの部屋を隔てる扉が開けられることはなく、ジャンも廊下に面した大扉の方から出入りするが、基本的には二つの部屋の行き来は自由にできる。
「ジャン!」
大声で名を呼びながら扉を開けて部屋に入ると、ジャンは窓際のデスクで何やら書き物をしていたようだ。
「ようだ」というのは、レオンハルトが部屋のドアを開けるときには既に入り口の方へと体を向けていたためだ。
机の上に並べられた洋紙や万年筆から、おそらくデスクワークをしていたのだろうと推察した。
「いかがされました、殿下。
そのように怖い顔をなさっては、折角の愛らしい御尊顔が台無しにございますよ」
「ジャン、お前知っていたな」
「何をでございますか?」
「アメジアの王女殿下が、兄上の婚約者となられることをだ」
レオンハルトの言葉に、ジャンの顔から表情が消える。瞬きひとつの間に、いつもの優男風の軽薄な笑みは一切消え失せた。
「……だから殿下には、あれほどお一人で出歩かれませんよう、再三申しあげておりましたのに」
「お前……ッ」
「どなたから、何をお聞きになりましたか?第三皇妃殿下ですか?それとも第四皇妃殿下でございますか」
「訊いているのは私だ!」
「……何をそんなに怒っていらっしゃるのです」
「―――ッ」
揶揄するように問われ、レオンハルトの頭に一瞬で血が上がる。
そのことに気付いていないはずないのに、ジャンはレオンハルトを挑発するかのようになおも続ける。
「我が国において皇太子妃となられる御方の御血筋は、伯爵家以上の家の御令嬢か或いは他国の王族の姫君と定められております。
ならばアメジアの第一王女であられるかの姫君は、皇太子妃として申し分無いでしょう」
「……ッ」
確かにジャンの言う通り――またもう少し付け加えるのならば、ジュエリアル帝国において他国の王族を妃に迎えることができるのは皇帝、或いは皇太子に限られている。
それは、不要な争いの芽を生まぬためだ。
他国が帝国に王家の姫を差し出すことは、「忠誠」の証だ。
決して逆らわず、裏切らず、帝国の繁栄の礎となるという意思の表れ。
その代わり帝国側は差し出された姫君の安寧と、生まれてくる子の地位を保証する。
皇帝の子として生まれた子はもちろん、皇太子の子として生まれた子もいずれは皇子、或いは皇女となる。
もしかしたら皇太子――皇帝になる未来もあるかもしれない。
だからこそ王家は大事な姫君を差し出すのだ。
万が一、帝国の皇家の外戚となる可能性に賭けて。
そのようなこと、レオンハルトにだってわかっている。
けれどレオンハルトが言いたいのは、そう言うことでない。
けれど何ひとつ、言葉にならない。
唇を噛み、レオンハルトはジャンを睨みつける。主の憤りを正面から受け止めていた教育係は、しかし不意に視線をそらす。
ただしそれは、レオンハルトの怒りに気圧されたためではない。
「そう言えば……こんな噂をご存知ですか?アルフォート卿がご自分のご息女を第二皇子妃に召し上げようと画策なさっていらっしゃることを」
「は!?」
「今年で九つだと聞いていますから、年の頃もちょうどよろしいのでは?」
「冗談じゃない!誰がそんな噂を!?」
「えぇ。冗談などではございませんよ」
「―――ッ」
皇族の教育係を務める者の条件には、家柄や学識の他に容姿の美しさも求められる。
第二皇子の教育係に選ばれたジャンは、その点においては申し分ない。
特に普段のへらへらした軽薄な笑みが影を潜めこうして感情が消え失せたときが最も彼の美しさを際立たせることを、レオンハルトは知っていた
「皇族の方の婚姻など、当人の御意志などはあってなきようなもの。
ましてやいくら皇太子殿下にとって大切な弟君であられる殿下とて、『他人』の御婚姻に異を唱えることなど、どうしてできるとお思いです?」
「……ッ」
「ご理解なされませ、殿下」
まるで赤子をあやすような口ぶりに、レオンハルトは憤りで全身の血が沸騰するかと思った。
けれどそれが、何に対する怒りであるのかわからない。
主を主と思わぬジャンの不遜な態度に対してなのか、アメジアの王女を兄の婚約者候補として定めた皇帝に対してなのか、或いは、何もできない自分自身の無力さに対してなのか。
「……ジャン」
「はい」
「もうひとつ訊きたいことがある」
「何でしょう」
「『傀儡皇子』とはどういう意味だ」
「……はい?」
兄の婚約に対する追究を諦め、レオンハルトは別の問いを口にする。
問われたジャンは予想外だったのか、珍しく声を裏返した
「第四皇妃殿下が言っていた。『傀儡皇子と人形姫とはお似合いだ』と。どうして兄上がそのような言われ方をされるんだ」
「……」
レオンハルトの問いに、ジャンはゆっくりと瞬きする。
有能な教育係の選んだ言葉は、レオンハルトにとって到底納得のいくものではなかった。
「……そろそろ殿下も現実を現実として見定めねばならないお年頃なのかもしれませんね」
「……どういう意味だ」
「今まで殿下の目に触れることのなかった現実、御自身の目でお確かめくださいませ」
そう言ってジャンは優雅に微笑む。
レオンハルトは知っている。
ジャンがこういう表情をしたら、もう決して、何も教えてはくれないということを。
ジャンの言う「現実」とは何なのか。それを知ったとき、「今まで」がどうなってしまうのか。
それはきっと、レオンハルト自身が確かめなければいけないことだった。




