E.C.1010.01-1
つまらないな。
それが玉座のすぐ隣に侍るレオンハルトの正直な感想だった。
皇子として生まれたレオンハルトは社交界デビューこそまだではあるものの、皇室に身を置く者として、幾度となくこのような宴には参加してきた。けれど今までも一度も楽しいと思ったことはない。
そもそも上流階級の人間の集う宴など、名目は違えど目的は同じだ。
宴はいつも盛者のために開かれる。浮世離れしたその空間で、ある者は自らの力を周りに知らしめ、ある者は美しく着飾り、今宵の恋のお相手を探す。
しかしどちらにしろ、勝利の美酒も恋の駆け引きの楽しさも知らぬ弱冠十一歳のレオンハルトにとっては、宴など退屈なものでしかない。
豪奢に着飾り扇の陰でホホホと品よく笑う貴婦人や今宵のパートナーを探す紳士を見ても、何ら心踊るものなどない。
早く帰って、ジャンとチェスの続きがしたい。
そんなことを考えていることなど、この男にはお見通しなのだろう。
「退屈かい、レオンハルト」
隣から聞こえてきた声に、レオンハルトは華奢な身体を硬くする。
レオンハルトの隣の席――つまり玉座に座ることが許されている者は、ただ一人。
この国で最も尊い身分の男。レオンハルトの父、ジュエリアル帝国皇帝ルーカス=ジュエリアルだけだ。
「は……い、いえ、そのようなことは……」
「仕方あるまい。私もそなたくらいの年の頃は、このような格式ばった宴など退屈で仕方なかったよ」
「……」
穏やかな笑みを添えての優しい――理解ある父の言葉に、レオンハルトの背を、嫌な汗が流れる。
「……いいえ。退屈など、とんでもございません。このような晴れがましい宴に出席させていただけること、身に余る光栄にございます。
……しかし……」
「うん?」
「皇太子たる兄上を差し置いて、私などがこうして陛下のお隣に侍ってもよろしいのでしょうか……」
本来このような公の場では、皇帝の傍には正妃と皇太子が侍るのが通常だ。今宵も玉座の右隣の妃の席には、正妃であるアンジェリカが座っている。
玲瓏ときらめくシルバーブロンドの髪とブルーサファイアの瞳をもつ正妃アンジェリカは、彼女の夫である皇帝と同い年のはずだが、夫同様年齢を感じさせないほど若々しく、けれど身体から気品と威圧感が滲み出ている。
それは皇妃と言うよりもむしろ女帝然としていた。
その容姿と雰囲気から「氷華の女帝」の異名をもつ彼女は、他の側妃たちとは一線を画する存在だった。
まず第一に、出自からして別格だ。
皇帝の正妃となれるのは、高位貴族のなかでも侯爵家以上の令嬢に限られる。側妃となれば伯爵家まで可能だが、現皇帝の側妃たちは亡き第二皇妃を筆頭に、皆四大公爵家と呼ばれる家の出身だ。
四大公爵家は権力、財力、格式、伝統において他の貴族の追随を許さず、過去何人もの皇妃を後宮へと送り込み、皇子や皇女、次代の皇帝を産み出してきた。
しかしアンジェリカの生家である「皇爵家」と呼ばれるサルヴァドーリ家は、それらの四大公爵家のどの家よりも格上だった。
皇爵家とは、帝位に就かず臣に下った皇子が爵位を与えられて新たに興した家のことを指す。
サルヴァドーリ公爵家の初代当主は二代前の第四皇子で、アンジェリカと現在の皇帝ははとこ同士に当たる。
アンジェリカは生まれたときから皇妃となることが決まっていて、幼い頃からそのための教育を受けてきた。
また皇妃でありながら帝王学にも通じており、為政者としても有能だった。
皇帝が不在の際は他の大臣や宰相たちと共に政を執り仕切るほどで、「後宮」の一切を任されているセレスティアと共に、「表のアンジェリカ、奥のセレスティア」と並び称されている。
そんな彼女の産んだ皇子であり、皇帝の第一子であるアデルバート以上に皇太子に相応しい者などいない。
だから本来ならば今宵レオンハルトが座っている席には、アデルバートが座っていなければおかしい。
それなのにこの宴が行われている広間に兄の姿はどこにもなく、なぜかこうしてレオンハルトが皇太子席に座っていた。
これまでも、身体の弱い皇太子の名代を第二皇子たるレオンハルトが務めることは幾度もあった。
しかしここのところアデルバートの体調はすこぶる良好で、今宵の宴にも出席すると聞いていた。
それなのにこの場にいないのは、いったいどういうわけなのか。もしやレオンハルトの知らないところでアデルバートの体調が悪化し、床に臥せってしまったのだろうか。
そんなレオンハルトの不安と焦燥を察したのか否か、今年で御歳三十五になる皇帝は、年齢不詳の美麗な貌に、穏やかな笑みを刷く。
「そなたは本当に兄想いだな」
「は……いえ……」
「心配には及ばない。アデルバートが今ここにいないのは、今宵のあの子には何よりも重大な使命があるからだ」
「使命……ですか……?」
「そう。……ほら、ごらん。今宵の主役のお出ましだ」
皇帝がそう言った瞬間、ワルツの音楽が止み、代わりにファンファーレが鳴り響く。同時に、大広間の扉が開かれた。
現れたのは、皇太子としての正装に身を包んだアデルバート。
そしてもう一人。
アデルバートにエスコートされているのは、長い黒髪を背へと垂らし、濃い紫のドレスに身を包んだ少女だった。
しかし一言でドレスといっても、ジュエリアルの貴族が纏うようなドレスとはつくりが異なる。
首周りを覆う襟は高く詰められ、中央で合わせて止められた胸元には大輪の薔薇の刺繍が施されている。
また大きく広がった袖にも同じような刺繍があしらわれていて、見るも艶やかだ。
そして着物以上に見慣れぬ物を彼女は身につけていた。薄絹のような生地でできた黒いヴェールをかぶり、完全に顔を隠していたのだ。
それらはレオンハルトにとっては文献の中でしか目にしたことのない、一目で異国の装束だとわかるものだった。
ファンファーレが鳴り止むと、会場の中は水を打ったように静まり返る。
恋の駆け引きに囁き合う男女の声も止み、衣擦れの音さえも聞こえるのではないかと思うほどの静けさだった。
大広間中の人間が息を詰めて見守るなか、一対の男女は並んで歩みを進める。
そして玉座の前まで来ると、少女はアデルバートの手を解き、胸の前で手を合わせ、両膝をつく。
その礼も、この国の作法に則ったものではない。
しかし彼女が異国の装束を纏うのも異国の礼をとるのも、当然と言えば当然のことだ。
彼女はこの国の人間ではないのだから。
「アメジア王国より参りました。ローズマリー=ヴィヴィアン=ルシア=シャムロックと申します」
皆が息をひそめて見守るなか、少女はそう奏上する。決して大きな声ではないが、空気を震わせて伝わる、鈴の音のような声だった。
彼女が今宵の宴の「主役」、遥か東方の島国より訪れた姫君だ。
アメジアとの終戦から約五ヶ月。かねてから皇帝が言っていた通り、アメジアから第一王女が訪れた。今宵の宴は、その姫をもてなすための歓迎の宴だった。
「顔をお上げ」
「……」
「遠いところから遥々ようこそ、プリンセス・アメジア。歓迎するよ」
顔を上げても、ヴェールを被る少女――ローズマリー姫の顔は見えない。
けれど皇帝は、それを咎めたりはしない。銀灰色の瞳をスッと細め、笑みを刻んだ唇で麗しの美声を響かせる。
「今宵の主役はそなただ。心ゆくまで楽しんでおくれ、プリンセス」
「……もったいなき御言葉に存じます」
「さぁ、アデルバート。プリンセスをエスコートしてさしあげなさい」
「は……」
皇帝に促され、アデルバートは再びローズマリーへと手を差し出す。ローズマリーは黙ってそれに応じた。
白い手袋をつけた二つの手が重なり合う。
社交場において淑女をエスコートするのは紳士として当然のこと。
それなのに、並ぶ二人を見てなぜだかわからないけれど、レオンハルトは胸がざわめいた。まるで心臓をザラリとひと撫でされたような、言いようのない焦燥感にも似た感情に襲われた。
もしも一瞬でもアデルバートがレオンハルトの方へと視線を向けてくれたら何事もなかったかのように落ち着けたかもしれない。
けれどアデルバートは必死に視線を送るレオンハルトには少しも気付かず、ローズマリーと共に皇帝に向かって一礼した。
そして二人は人垣の中へと消えていった。
【本編にはたぶん出てこない設定 その③】
帝国の皇妃のミドルネームは生家の略称で、皇子・皇女は生母のそれを引き継ぎます。
例)サルヴァドーリ(Salvadori) →セイルヴ(Salve)
ランチェスター(Lanchester)→ランス(Lance)
また皇帝として即位するとミドルネームは返上して◯◯=ジュエリアルとなり、臣籍降下した場合はミドルネームも皇家名も返上して新たに姓を与えられます。
皇女が降嫁した場合もミドルネームは返上し、他国の王家に嫁いだ場合はミドルネームが「ジュエル」となります。
なのでキャリーの今の名前は「キャロライナ=ジュエル=ジムナスティ」です。




