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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 皇帝は荊冠を戴く
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ⅩⅧ.ルーカス=ジュエリアル


 前回更新分より数年後、第六皇妃殺人未遂事件の二ヶ月後のお話です。

 なんかもう…どういえばいいかわからないほど救いがありません。

 全員もれなく可哀想なので、覚悟できた方はおつき合いください。



 第六皇妃殿下がご懐妊されました。


 城医からの報告を聞いてルーカスは、何を言われているのかすぐには理解できなかった。


 「第六皇妃」とはローズマリーのことで、「ご懐妊」とは子を身籠ったということで――誰の子を?どうして?

 単語一つ一つの意味はわかるのに、どうしてもそれらがイコールでつながらない。

 なぜなら彼女の夫であるルーカスには、身に覚えが少しも無いからだ。

 ローズマリーとは、彼女が娘のクリスティーナを身籠って以来一度も褥をともにしていない。


 第六皇妃のローズマリー=アメジア=ジュエリアル。

 父娘ほどに歳の離れた彼女を妃に迎えたのは、今から四年前のこと。

 互いに惹かれ合い、想い合って結ばれたわけではない。

 ジュエリアル帝国の属国となったアメジア王国の第一王女であった彼女に、皇帝の子を産んでもらう必要があっただけだ。


 結婚から一年後、彼女はきちんと役目果たした。

 冬の気配がする霜月の中頃、ローズマリーは彼女と同じ紫の瞳をした娘を産んだ。第四皇女のクリスティーナだ。

 それ以来――否、そのずっと前から、ローズマリーは表舞台に姿を現すことなく「後宮」の最奥でひっそりと暮らしてきた。


 公務に励むでも遊興に耽るでもなく日々を淡々と過ごす彼女は、端から見れば(ルーカス)に放置された可哀想な側妃に見えたかもしれない。

 けれどルーカスは決して彼女のことをないがしろにしていたわけではない。

 軽んじたつもりもない。

 すべては彼女の身の安全のためだった。


 他国の――属国出身の皇妃は、帝国内の有力貴族家出身の皇妃に比べると立場が弱い。

 強力な後ろ盾は無いし、もともと敵国出身というだけで国民たちからは悪感情を抱かれている。

 そんななかルーカスが寵を与えれば、嫉妬ややっかみを向けられるのは火を見るより明らかだ。

 特に第四皇妃のジャスティーンなどは何をしでかすかわからない。

 側妃一人の手綱も握れないのかと眉をひそめられようと、彼女の暴走は「後宮」内でも悩みの種だった。


 皇帝の妻子が暮らす「後宮」は「表」の干渉を受けない独立した特殊な領域と思われているが、実際には政におけるパワーバランスも十分反映されている。

 もちろんその逆も然りだ。まさに表裏一体。切り離すことなどできない。

 「寵妃」となるためには、皇帝からの寵愛だけでは成り立たない。

 本人の才覚と強固な後ろ盾となる家門の存在等、「後宮」内での揺るぎない立場が必要なのだ。

 ルーカスにとっての最初の寵妃、第二皇妃のマリアンヌはその点において申し分なかった。


 そして現在その座には、マリアンヌと同じ四大公爵家出身でルーカスの子を二人産んだセレスティアがある。

 かつて自らを愚者と称した少女は、今や「後宮」内の全権を掌握する名実ともに立派な寵妃と成った。

 彼女をその座から追い落とすなど、ブラッドリー公爵家をはじめとするブラッドリー派と呼ばれる貴族たちが許すはずがない。

 ましてやその座にローズマリーを据えようとするならば、他の派閥の貴族たちも黙っていないだろう。


 そういった無用な争いを防ぐため、ルーカスはローズマリーを「後宮」の奥深くに閉じ込めた。

 誰にも傷付けさせないように。誰の目にも触れないように。

 彼女が煩わしい思いをしないよう大切に大切に仕舞い込んだ。

 それに何よりローズマリーはルーカスの顔など見たくないだろうという、ルーカスなりの配慮だった。


 己の処遇に、ローズマリーは文句ひとつ言わなかった。

 ルーカスに言われた通り隠れ暮らすようにひっそりと過ごしていた。

 公の場に出ることもなく、「後宮」内でもセレスティア以外の側妃とは交流をもたない。

 話し相手は身の周りの世話をする侍女くらいで、さぞ退屈だっただろう。

 けれど何か欲しい物は無いか、行きたいところは無いかと尋ねても、首を横に振るばかりで何も望みは言わなかった。


 きっと、彼女の本当の願いは皇帝であるルーカスの力をもってしても叶えることはできなかったのだろう。


 彼女はいつも遠くを見ていて、それがもう二度と戻れない祖国なのか、或いは二度と名を呼ぶことすら叶わない愛する男なのか。ルーカスにはわからなかった。

 どちらだったとしても、そのことを咎める権利など、ルーカスには無かった。

 彼女がルーカスを恨むのは、当然の結末であり権利だ。それだけのことをルーカスはしたのだから。

 それなのにローズマリーはこれまで一度も怒りや憎しみをあらわにすることはなかった。

 彼女は骨の髄まで「王女」だったのだ。


 うらみごとひとつ言わない彼女に、ルーカスの中で勝手に罪悪感が積もっていった。

 いっそ責めてくれれば少しは気が晴れたかもしれないのに。

 ローズマリーは何も言わず、ただ恭順の意を示す。


 あれが地獄でなくて何だというのだろう。

 否、本当につらいのはルーカスではない。これはルーカスが受けるべき罰なのだ。

 そんなことを自らに言い聞かせながら、心の通わぬ夜を重ねた。

 互いの役目を果たすためだけに。


 だから彼女の最初の懐妊を知ったとき、歓喜よりも安堵が勝った。

 もうこれで無機質な夜から解放されるのだと。


 きっとそれは、ローズマリーも同じだったのだろう。

 子を身籠ったローズマリーに、ほんの少しだけ笑顔が増えた。

 膨らんでいく腹を撫でる穏やかな表情は、かつてルーカスの子を身籠った妻たちを想起させた。

 生まれた娘を抱いてやってくれとルーカスを促す姿に、涙が出そうになった。


 ずっと、恨まれていると思っていたから。

 恨まれても仕方ないことをした。

 否、きっと今も恨んでいるだろう。憎くて仕方ないだろう。

 それでもすべてを受け入れて、ルーカスの子を産んでくれた。

 ルーカスを子どもの父と認めてくれた。

 それだけで十分だった。救われたような心地がした。


 けれどやはり、ルーカスが救われていいわけがなかったのだ。


 罪にまみれた穏やかな日々に終わりを告げたのは、二ヶ月前の嵐の夜だった。

 ルーカスが不在のなか起きた第六皇妃殺人未遂事件。

 厳選に厳選を重ねたはずなのに第六皇女付侍女の中に、アメジアに恨みをもつ女が紛れ込んでいた。

 アメジアとの戦争で婚約者を喪ったというその女に、ローズマリーは殺されかけた。

 幸い命に別状はなかったが、侍女に斬りつけられて傷を負った。

 よほどの衝撃だったのか、傷が癒えてからも笑顔は戻らず、床に伏しがちになった。

 気丈な彼女をそこまで追い詰めたことが許せなかった。

 ルーカスがもっと気を付けていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。


 つみほろぼしにもならないことは重々承知で、病床のローズマリーの元に足繁く通った。

 彼女のことが心配だったのもあるし、周囲へのアピールの意味もあった。

 属国出身だろうと彼女は皇妃であり、ルーカスの大事な妻なのだと。


 とはいえ、「通う」といっても本当にただ訪ねているだけだ。

 病人に無体な真似などできないし、弱り切ったローズマリーを前にしてとてもそんな気にはなれない。

 公務の合間を縫っての純粋な見舞いだった。


 枕元のスツールに座り、眠るローズマリーを黙って見つめていた。起きているときも何を話せばいいのかわからなかった。

 今日はよく晴れているとか、庭園の花がきれいに咲き始めたとか。

 そういう他愛もない話でよかったのだと、毎回部屋を出たあとで思い至る。

 彼女の前ではいつもうまく話せなかった。


 ローズマリーの元で過ごす時間が増えると、同時にクリスティーナと過ごす時間も増えていった。

 半年程前に二歳になったクリスティーナは人見知りも物怖じもしない性格なのか、時折自分からルーカスの膝に上ってくることもあった。

 まだ上手く話せないながらも一生懸命おしゃべりして、うーだのあーだの言いながらルーカスに甘えてくる。

 握りつぶせそうなほど小さな頭を撫でてやると、嬉しそうに笑う。

 この世に哀しいことなど何ひとつ無いかのような笑顔を見るたび、たまらなくなった。

 無邪気な笑顔に、アデルバートの面影が重なったからだ。


 クリスティーナは、アデルバートの幼い頃によく似ていた。瞳の色以外は生き写しといっていいくらいだ。

 母が違っても兄妹ならばこれほどまでに似るのかと驚いたほどだ。

 第一皇女のクリスティーナもルーカスに似ているが、母親(セレスティア)譲りの緋色の髪のせいか、異母兄(アデルバート)に似ているという印象はあまりない。


 ローズマリーの産んだアデルバートにうりふたつの我が子を抱き上げるたび、思わずにはいられない。

 いったいこれは、何の罰なのだろうかと。


 罪悪感とか、後悔とか、寂寥とか、郷愁とか。

 様々な感情を抱きながら、それでもルーカスはその穏やかな時間が心地よかった。

 親子三人で過ごす時間に愛着を覚え始めていた。


 それなのに、彼女が懐妊?

 なぜ?誰の子を?


 カーティスに秘密裏に調べさせると、容疑者(・・・)はすぐに割れた。

 皇妃の暮らす「後宮」に出入りできる男などごくわずかだし、皇妃の傍には常に侍女が控えている。その目を盗んで密通など、不可能だ。

 ――あの夜(・・・)を除けば。


 ローズマリーを問い詰めると、蒼白になりながら白状した。

 震える彼女に絶望したのは、ルーカスを裏切ったからではない。

 彼女の「密通」の相手がレオンハルトだったからだ。

 また(・・)お前なのかと、怒りが湧いてきた。

 それは自分の妻を寝取った(オス)への怒りでも、不実を犯した息子に対する失望でもなかった。


 泣き崩れるローズマリーを問い詰めた。レオンハルトと情を交わしたのか、想い合っているのかと。

 だとしたら、とんだ茶番だ。

 いったいいつから通じていたのか。セイレーヌにいた頃か、「後宮」に入ってからか。

 どちらにしろそんな簡単に心変わり(・・・・)するくらいなら、妃に迎えたりなどしなかった。

 周囲に非難されても最愛の息子に恨まれても「皇妃」に迎えたのは、いったい何のためだと思っているのか。


 次から次へと疑問と怒りがこみあげてくる。

 だがこのときのルーカスの頭の中を一番に占めていたのは、ローズマリーへの怒りではなくレオンハルトへの怒りだった。

 どうしてあの男はアデルバートから何もかも奪うのかと、憎悪すら覚えた。

 ルーカスからマリアンヌを奪うだけでは飽き足らず、アデルバートのものをすべて奪っていくレオンハルトのことが、憎らしくて仕方ない。

 あの子さえいなければと、何度思ったかしれない。

 こんなこと思うなんて父親失格だ。どうかしている。

 けれどルーカスはレオンハルトが関わると、いつも正常(まとも)ではいられない。


 アデルバートと同じくルーカスの血を引く息子でありながら、いつしかルーカスはレオンハルトのことを愛しいと思えなくなっていた。

 愛する妻の命と引き換えに生まれてきたレオンハルトは、ルーカスにとっての十字架。

 罪の証だった。


 最初は、罪悪感だった。

 マリアンヌと同じ顔同じ瞳をした幼いレオンハルトが笑うたび、可愛いと思う気持ちはあった。

 けれどそれと同じくらい苦しかった。

 責められているような心地がした。


 マリアンヌを死に追いやったルーカスに、レオンハルトを愛する資格などあるのかと。

 彼女がレオンハルトと過ごすはずだった時間を奪っておいて、ルーカスだけがレオンハルトの傍にいていいはずがないと、幼い息子を遠ざけた。

 それが知らぬ間に誤解を生み、「後宮」内でのレオンハルトの立場が危うくなったこともある。

 彼の祖父でありルーカスの舅であるランチェスター公爵の忠告もあって、歩み寄る努力はした。

 せめてもの贖罪に、マリアンヌの忘れ形見を守ろうと心に決めた。


 けれど共に過ごす時間が増えても、傍にいればいるほど、愛情はねじれていった。

 愛しいと思えば思うほど、罪悪感は募り、いつしか憎らしさが生まれていった。


 彼に対する憎悪をはっきりと自覚したのは、アデルバートに代わってレオンハルトを皇太子に据えようという声が出たときだった。

 その瞬間、レオンハルトは脅威となった。

 アデルバートの立場を脅かす存在。

 アデルバートに勝るところなど一つもないのに、ただ健常だというだけで、愛する息子(アデルバート)から皇太子の座を奪おうというのかと。


 許せなかった。

 何食わぬ顔でルーカスを苦しめ、ルーカスから、アデルバートから、大事なものを奪っていくレオンハルトのことが。

 そのうえ今度はローズマリーまで奪おうというのか。


 激昂するルーカスの言葉を、けれどローズマリーは震えながら否定した。


 突然愛していると告げられ、身体を暴かれた。何が何だかわからなくて、怖くて抵抗できなかった。抵抗したはずが、どうしても力では敵わなかった、と。


 それが真実なのかその場しのぎの嘘なのか、ルーカスにはわからなかった。

 裏切ったのがどちらなのか、本当はもう、知りたくなどなかった。


 それでも真実を明らかにしなければいけないと考える、妙に冷静な自分もいた。

 今だけじゃない。

 もうずっと前から、心がいくつもあるようだった。

 この世界はつらいこと哀しいことが多すぎて、怒りやかなしみで心が千々に砕けてしまっていたのかもしれない。


「……どうして今日まで黙っていた」

「……」

「なぜ言わなかった。子どもさえできなければ隠し通せるとでも思ったのか?」

「……っ」

「かばっているのか?レオンハルトを。かばうのは、本当はあの子を想っているからか?ならば今の話はすべてあの子をかばうための嘘か?」

「違……」

「じゃぁどうして隠そうとした!?」

「……陛下が……哀しむところを見たくなかったから……」

「―――ッ」


 色も艶も失くした唇が紡ぐ言葉に、ルーカスは声を失う。

 一瞬だけ、怒りも失望も消え、頭の中が真っ白になった。


「知れば……陛下は哀しむでしょう……?御自分をお責めになるでしょう?……陛下は……何も悪くないのに……」

「何を……勝手な……」


 自らが辱められたことよりも、罪が露見することよりも、ルーカスの心を案じるなんてそんなこと、あるはずがない。


「……うぬぼれるなよ……」

「……」

「私が悲しむ?そなたの裏切りで?自分にそれだけの価値があると思っているのか?私が、私は、ただ……っ」

「陛下は優しい御方だから」

「―――っ」

「優しくて……寂しい方。本当は誰より愛情を求めていらっしゃるから……」

「―――黙れ!!」


 その華奢な身体を組み敷いて、細い首を絞めてやりたい。

 わかったようなことを言う口を塞いでやりたい。


 そう思うのに、ルーカスにできるのは駄々をこねる子どものように声を荒らげることだけだった。


「わかったようなことを言うな……そなたに何がわかる……?そなたは私を恨んでいるのだろう……?憎んでいるのだろう?私は……そなたを……」

「……お慕いしております……」

「―――ッ」


 初恋の君の父親であり、祖国を焼き父を辱めた敵国の長であり、腹を痛めて産んだ我が子の父親であり、周囲の悪意から守り慈しんでくれたルーカスのことを愛しているのだと告げた。

 男としてなのか夫としてなのか、依存なのか共鳴なのか保身なのか隷属なのかわからない。ただ憎むほどに愛しさは募り、かなしいくらいいとしいのだと。


 そう言って、ローズマリーは泣いた。


 これが嘘なら、どれだけよかっただろう。

 苦し紛れの命乞いなら、きっと今すぐにでもその白い喉に手をかけることができた。


 けれど彼女がそんな嘘を吐く人間ではないことも、きっとそれが彼女にとって口にしたくなかった真実であることも、わかってしまった。

 わかるくらいには、二人は夫婦だった。

 ローズマリーがルーカスのことを理解しているのと同じくらい、ルーカスもローズマリーのことを理解していた。


「……殺めてください」

「何を……っ」


 額を床にこすりつけ、伏して請うローズマリーに目を剥く。

 いったい何を言い出すのか。どうしてそうなるのか。華奢な肩を掴み、無理やりに頭を上げさせる。

 元々線の細かった身体は、ここ二ヶ月の間にますます痩せてしまっていた。

 毎日のように顔を合わせていたはずなのに、気づきもしなかった。

 どうしてルーカスはいつも、大事なものが見えていないのだろう。


「陛下を裏切ったわたくしに、生きる資格はございません……。この腹の子ごと殺してください……」

「ばかを言うな!!そんなこと……っ」

「この子は、わたくしの罪の証。生まれてきてはいけない子です。……だからわたくしが連れて逝きます。ただどうか、御慈悲を頂けるのでしたら、クリスティーナの命はお助けくださいませ。この罪は、わたくし一人の罪。どうか娘にも祖国にも咎が及びませんよう、お取り計らいいただきたいのです」

「……ッ」

「勝手なことを言っているのはわかっております。ですが、あの子は陛下の子なのです。いずれ我が祖国と帝国をつなぐ架け橋となりましょう。いつかきっと、陛下のお役に立つはずです。だから……」


 ローズマリーがこんなにも長く話しているところを初めて見た。

 そんな場違いなことを考えるルーカスに、ローズマリーは必死に娘の有用性を説く。

 情ではなく利に訴える。それは彼女の本心ではなく、ルーカスがそういう人間だと思っているからでもない。

 ルーカスが国のために情を切り捨てることができると知っているからだ。

 皇帝として己を殺し、国のために生きる姿を見てきたから。


 けれど、ルーカスは。


「……できない……」

「……」

「そんなこと……できるわけない……」


 アメジストに似た瞳が、ふっと遠くなる。

 光が失われたこの瞳を、知っている。

 何かを諦めた人間がする眸だ。


 アデルバートが、こんな眸をしていた。

 生きることを諦めた、寂しくてかなしい眸。

 ローズマリーに出逢う前の、アデルバートの瞳。


「……君を死なせない……」

「え……?」

「君を守ると、アデルと約束したんだ」

「―――何を、おっしゃって……」


 ローズマリーはかつて皇太子妃候補――ルーカスの長子、アデルバートの妻となる予定だった。

 ルーカスも、本人たちも、皆口に出さずともそのつもりだった。

 たとえ政治的思惑が絡んでいるとしても、最愛の息子には幸せな結婚をしてほしい。

 互いを真に想い合う相手と結ばれてほしい。


 それはきっと、ルーカスの我儘だ。

 自分が叶えられなかった願いを、アデルバートに託した。

 そのために、ふたりが心を通わせる猶予を与えた。

 それがすべての間違いだった。


 結局ルーカスは、自らが結んだふたりの縁を断ち切った。

 寄り添い想い合うふたりを引き裂いたのだ。


 アデルバートが十五歳になった頃に受けた検査で、あと十年生きられるかどうかもわからないと医師に告げられた。

 生きられたとしても、皇帝になったとしても、その激務にアデルバートの身体は耐えられない、命を縮めるだけだと。


 皇帝になれないアデルバートとローズマリーが結ばれることは許されない。

 結ばれたとしても、その未来(さき)に待つのは地獄だ。

 彼女の幸せをなにより願うアデルバートは、だからこそその手を離した。

 自分の傍でなくても、自分がいなくなったあとでも、愛するひとに幸せでいてほしいと。

 そう願ってローズマリーをルーカスに託したのだ。

 それは最初で最後のアデルバートの願いごとだった。


「君に罪など無い。皇妃が皇帝の子を産むのはごく当然のことだ。もしかしたらまた少し『後宮』が騒がしくなるかもしれないが、君は何も気にしなくていい。無事に子を産んでくれれば」

「へい……か……」

「君が産む子は、私の子だ」




―・-・-・-・-




 きっと、どうかしていた。

 あの頃のルーカスは異常(おか)しくて、ローズマリーが正常(まとも)で、罪を隠し真実を歪めた結果、ローズマリーもまた少しずつ異常(くる)っていった。


 罪の意識に耐えられなかったのか、ローズマリーは日に日に精神を病み、次第に夢うつつをさまようようになった。

 ルーカスを愛したことも二人の子どもを産んだことも忘れて、想い出の中に逃げ込んだ。

 十四歳の少女に戻り、ルーカスのことをアデルバートだと思い込んだまま、天上の神々の元へと旅立った。


 壊れたように美しい最期の笑顔を見て、思い知った。

 間違えたのだ。

 ルーカスは、あのとき、選択を。

 ルーカスの欺瞞がローズマリーを追い詰め、死へと追いやった。


 否、レオンハルトの子を宿したあのときから、ローズマリーの辿る道は死しか残されていなかった。

 罪を暴いても隠しても、免れなかった。

 それが早いか遅いかだけの違い。


「……なんだ、じゃぁやっぱり全部、レオンハルトのせいじゃないか」


 ローズマリーが死んだのは。


 ならば結局、マリアンヌが死んだのもレオンハルトのせいだったのかもしれない。

 アデルバートの皇太子としての立場が危うくなったのも、ジャスティーンの傲慢さに日に日に拍車がかかっていくのも、ウィリアムが不真面目なのも、ロベルトがルーカスにちっとも懐かないのも。

 全部、レオンハルトのせいだ。


 一人きりの部屋に、乾いた笑い声が響く。


 くだらなすぎて、涙さえ流れなかった。


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