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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 皇帝は荊冠を戴く
109/114

ⅩⅦ.レベッカ=エイミス


 前回更新分から数年後のお話です。



 彼との付き合いはもう二十年近くになるけれど、その間に、声を荒げて怒るところなど見たことなかった。


 否、「付き合い」などと称するのは少々おこがましいかもしれない。

 互いの存在を認知し言葉を交わしたことがあるからといって友人などとは名乗れないし、言うつもりもない。

 少なくとも彼にとってのレベッカは、「カーティスの幼馴染の伯爵令嬢」程度の認識でしかなかったはずだ。

 或いは「アンジェリカの取り巻き」の一人か。

 彼の人生において自分が重要な人物でないということは自覚していた。

 皮肉でも卑屈でもなく、それは揺るぎようのない事実だ。

 端から見れば親しくしているように見えたかもしれないが、彼にとってのレベッカは「その他大勢」のうちの一人にすぎない。


 レベッカが彼に出会ったのは、十二歳のときだった。

 レベッカたちから遅れること二年、彼――ルーカスがアカデミーの初等科に入学してきて間もない頃のことだ。

 ルーカス=カレン=ジュエリアル。当時の帝国唯一の皇子であり皇太子であった彼を、友人だと言ってカーティスに紹介された。

 学年は違うため授業は別々だが昼食時や行事等顔を合わせる機会も多いだろう、と。

 幼馴染のカーティスが幼い頃から侯爵令息としてルーカスと交流していたことは知っていたが、まさかレベッカまで巻き込まれるとは思わなかった。


 初めて間近で見たルーカスは、この世のものとは思えないほど美しかった。

 単に造作が整っている、というだけではない。

 ただそこに存在しているだけで他者を圧倒する気品や、なにものにも穢されることのない不可侵の気高さを、十歳にして彼は既に備えていた。

 光の加減で金にも銀にも見える亜麻色の髪や、皇族の中でも至極稀少な月夜できらめく白刃のような銀灰色の瞳も、彼の神秘性を高めていたように思える。

 あまりにも美しいモノを前にすると人は畏れを抱くのだと、レベッカは彼に出会って初めて知った。

 彼を前にすると跪かずにはいられないような、祈りを捧げたくなるような、それはある種の信仰に似ていた。

 どうして皇家の人間が「神の血を引く一族」と崇められているのかわかった気がした。


 だがそんな幻想的でどこか超然とした美しさをもちながらも、ルーカスはその外見からは想像できないような温厚で穏やかな人物だった。

 当時この国で二番目に高貴な身分であった彼は、けれど決して地位や権力をひけらかすこともなく、勤勉で理知的で冷静で、他者を慈しみ周囲と調和する公平な人格者だった。

 黙って佇んでいると他者を寄せ付けない抜身の刃のような美貌をもちながら、ひとたび微笑むとガラリと印象が変わる。

 彼の微笑みは他者を魅了し、世界を彩る。

 吟遊詩人も恥じらうほどの麗しい声で話しかけられれば聞き入らずにはいられない。

 銀灰色の瞳で見つめられればそれだけで皆骨抜きにされてしまう。

 美しく、気高く、賢く、分け隔てなく誰にでも優しい彼は、文字通り理想の皇子様だった。

 アカデミー中の人間が彼のとりこだった。

 「完璧」なその姿が、彼のかぶった仮面であることも知らずに。


 本当のルーカスは、彼らが思っているような聖人ではない。

 マイペースで、気まぐれで、奔放だ。

 アカデミーの学友の前では品行方正に振舞っていたルーカスは、幼い頃からの「友人」であるカーティスに対してだけその本性をあらわにする。

 傍若無人に振舞い、わがままを言って振り回す。

 まるでそれが当然の権利のように。


 初めて彼の本性を知ったときは驚いたなんてもんじゃない。

 白昼堂々夢でも見ているのかと我が目を疑った。清く正しく美しいみんなの皇子様はどこへ行ったのかと。

 レベッカがルーカスの本性を知ってしまったのは本当に偶然で、以来開き直ったのか彼はレベッカの前でも猫をかぶることはやめたようだった。

 きっとレベッカなど、物の数にも入らなかったのだろう。

 実際たかが伯爵令嬢のレベッカが皇太子の悪童ぶりを告発したところで信じてもらえないだろう。むしろ嘘つき呼ばわりされるのがオチだ。

 それにレベッカ自身はルーカスのワガママの被害を受けたことはなかった。

 ルーカスがレベッカに対して理不尽を言うことはなく、あくまでも彼のワガママの対象はカーティスだけだった。


 些細なワガママから結構な理不尽まで、カーティスに対してルーカスはやりたい放題だった。

 あまりの無法ぶりに何度も文句を言ったこともある。

 皇太子だからといってあんな我儘を許していいのか、駄目なことを駄目だと教えることも本人のためになるのではないか、と。


 そのたびにカーティスは少し困ったように眉を下げながら、レベッカは優しいな、と微笑んだ。

 私のために怒ってくれるんだね、ありがとう、と。

 宥めるようなその笑顔だけは、どうしてもすきになれなかった。


 優しいのはカーティスの方だ。

 侯爵令息だからって、未来の近侍候補だからって、ワガママ皇太子に振り回されてばかりで可哀想だ。

 カーティスが大切にされないことが嫌だった。カーティスを自分のもののように扱うルーカスのことが許せなかった。

 自分がカーティスを守らないと、と息巻いたこともある。

 そう思っていたのがレベッカだけだと知ったのは、随分あとになってのことだった。


 いつだったか、カーティスがルーカスをかばって怪我をしたことがあった。

 命に別状はなかったが動揺して泣きじゃくるレベッカとは対照的に、ルーカスは淡々と「君は私のものなのだから、勝手に死ぬなんて許さないよ」とのたまった。

 静かな怒りを瞳に湛えて微笑みながら告げた言葉は、死刑宣告のようにも愛の告白のようにも聞こえた。

 誰のせいだと思っているのかとレベッカは怒りを覚えたが、ルーカスの「命令」を受け、カーティスは微笑んだ。

 小さく、けれど確かに。

 藍色の瞳には満足と愉悦が滲んでいて、傍若無人なその言葉は、間違いなくカーティスにとってはねぎらいであり褒章だった。

 そのとき初めてカーティスがルーカスのものであるのだと、他でもないカーティス自身が受け入れているのだと知った。


 くやしい。

 ルーカスが現れるまで、カーティスは何よりレベッカのことを優先してくれていたのに。一番レベッカのことを大切にしてくれていたのに。カーティスのことは、レベッカが一番よく知っているのに。

 カーティスの一番はもう、レベッカではないのだ。


 そのことに気付いたと同時に思い知った。

 気に入らなかったのは、ルーカスがカーティスを振り回すことじゃない。

 ルーカスがカーティスに、レベッカよりも大切にされていることだ。

 レベッカのことを一番に優先してくれていたカーティスは、いつの間にかレベッカよりルーカスを優先するようになっていた。

 レベッカが嫌がっても、泣いても、ルーカスが望むならカーティスはその命さえルーカスのために差し出すのだ。


 そのことが、許せなかった。

 妬ましかった。


 自分勝手なのは、レベッカも同じだ。


 そんなこと誰にも――当のカーティスにでさえ言えるわけもなく、醜い嫉妬と独占欲を抱えたまま、ルーカスに尽くすカーティスのことを傍で見ていた。

 カーティスの一番がレベッカでなくなっても、レベッカの一番はカーティスだったから。

 傍にいたかった。

 これ以上ルーカスがカーティスに無体を働かないよう目を光らせておく意図もあった。


 共に過ごす時間が増えるにつれて、ルーカスが思った以上に複雑な人間であることに気付いた。

 ワガママで奔放な面が彼の本性であり、完璧な皇太子の姿はすべて演技なのだと思っていた。

 けれどどちらも彼の一部なのだ。周りを気遣う優しさも、カーティスを振り回すマイペースなところも、皇族として残矜持に則った行動も、彼にとってはすべて真実なのだ。

 そのことを誰より理解していたのが、カーティスだった。


 かなわない、と思った。

 ルーカスからカーティスを奪い返すことなどできないのだと悟った。

 この先ずっと、カーティスの一番はルーカスなのだ。

 たとえルーカスの一番はカーティスじゃなくても。


 誰からも愛されるルーカスが誰よりも愛する相手。それは彼の婚約者のアンジェリカだった。

 カーティスにアンジェリカを紹介されたとき、一目でわかった。

 この子もまた、「特別」なのだと。選ばれた人間なのだと。

 まるで大聖堂の壁画の中から出てきたように美しいアンジェリカは、レベッカの知る誰よりも素敵な「理想の淑女」だった。

 ルーカスと違い、彼女の完璧さは演技ではなかった。

 常に凛として美しく正しく、彼女には清廉という言葉がよく似合う。


 幼い頃からの婚約者である彼女のことをルーカスは、けれど政略が絡む婚約者としてではなく、一人の女の子として大切にしていた。

 完璧な理想の皇子様が、彼女の前だけでは年相応の少年になる。

 一生懸命彼女の気を引こうとして、彼女に気に入られたくて必死になる。

 誰が見てもわかる。

 恋をしているのだと。

 アンジェリカを見つめる瞳は、アンジェリカを呼ぶ声は、いとしさに満ちていた。

 アンジェリカはみんなの皇子様だったルーカスの、たった一人のお姫様だった。


 レベッカとカーティスの在学中は、学園内での余暇時間は四人で過ごすことが多かった。

 伯爵令嬢のレベッカが皇太子、皇爵令嬢、侯爵令息といった皇族や高位貴族と交流をもつなんてエイミス伯爵家の家格を考えればあり得ないことだが、アカデミー内においては身分の隔たり無く皆平等を謳っていたのだ。

 表立って文句を言う者など誰もいなかった。

 学年が違うこともあって四六時中一緒にいたわけではないけれど、それなりに濃密な時間を過ごしていたと思う。

 ルーカスのカーティスへの態度について思うところはあれど、彼の人格まで嫌悪していたわけではない。

 むしろ嫌うことなど不可能だった。

 この国に、彼に惹かれない人間などいない。

 愛でもなく恋でもなく、ただ強烈に魅入られる。

 流れる血が、抗うことを許さない。


 それにカーティスとアンジェリカが絡まなければ、ルーカスはレベッカにも優しく親切だった。

 四人で過ごす時間は純粋に楽しかった。

 卒業後ルーカスとは疎遠になってしまうとわかっていたからこそ、短い青春時代を楽しむことができた。


 それが成人後、正妃となったアンジェリカに仕え彼らの息子の侍女頭を務めることになるなんて思ってもいなかった。

 皇帝となったルーカスと昔のように気安く話すことはできないが、アンジェリカやアデルバートの傍に控えているときに昔のよしみか声をかけられることはあった。

 超然とした美貌は歳を重ねてなお失われることはなく、むしろ年々輝きを増していっているように思えた。

 皇太子の仮面から皇太子の仮面を付け替えて、この国の頂点に君臨するルーカスは、この世で最も美しく、気高い。


 そんなルーカスが今、アデルバートへと激情を向けている。


 隣の部屋に控えていたレベッカは、二人が何を話していたのか、どうしてルーカスが怒っているのかわからない。

 隣室まで響くルーカスの怒声に驚いて、慌てて部屋に飛び込んできたのだ。

 アデルバートの寝室内では、ベッドの中で上半身を起こすアデルバートと、ベッドのすぐ傍に跪くルーカスが対峙していた。

 レベッカの位置からでは、ルーカスがどんな表情をしているのかは見えない。

 ただ父を見つめるアデルバートの瞳は、冬の空のようにしんと静かだった。

 怒鳴られたことに対する怯えも反抗心も窺えなかった。


「……二度と、そんなことを言うな」

「……」

「……言わないでおくれ……お願いだ……」


 アデルバート、と名を呼び、ルーカスは愛息を抱きしめる。

 先ほど声を荒げたとは思えない、まるで母親とはぐれた幼子のように頼りない声だった。


 ルーカスの腕の中、アデルバートはごめんなさい、と小さく答える。


 抱き合う父子の姿を見て、まるでルーカスの方が叱られているみたいだと思った。




ー・-・-・-・-・-




「殿下がそんなことを……」


 もうすぐ今日も終わろうとしている夜半、レベッカは皇帝付近侍であるカーティスの部屋を訪ねていた。


 色っぽい意図などは何も無い。そもそも今更二人の間に「何か」など起こりようもないのだ。

 タイを取り、日中よりは少し寛いだ姿のカーティスは、人目を忍ぶように訪れてきたレベッカを、何も言わず招き入れた。


 客人のために設えた部屋は、仮初の主の性格を反映するかのように無駄な物がほとんど無い。

 毎日侍女が取り替えている花瓶が出窓に飾られているくらいで、暇つぶし用の本なども無い。

 そもそも暇など無いのだろう。

 今だってきっと、レベッカが訪ねて来るまで執務机で仕事をしていたのだ。

 几帳面な彼にしては珍しく、机上には書類が広げられたままだ。

 それでも訪ねてきたレベッカのために作業を中断したのだから、カーティスも昼間のルーカスとアデルバートのやりとりを深刻にとらえているのだろう。


 数日前からルーカスは、カーティスを含む数人の供を連れてセイレーヌ宮に滞在していた。

 アデルバートがセイレーヌに移り住んで以来、ルーカスは年に数回訪ねてくるようになった。

 訪問の理由は、表向きは視察とされている。だがおそらくは単にアデルバートと過ごしたいだけだろう。

 帝都にいた頃からルーカスはアデルバートのことを溺愛していた。

 忙しい公務の合間を縫っては二人で過ごす時間をつくっていた。


 滞在中、城下を散策したり二人で狩りや遠駆けに出かけたり湖で日がな一日釣りをしたりアデルバートの育てている草花の世話を二人でしたり、愛息子と過ごすルーカスは本当に楽しそうだ。

 大臣や側妃たちの目が無い分、思う存分アデルバートと過ごせることが嬉しいのだろう。

 随分と羽を伸ばしているようだ。


 とはいえ仮にも視察とうたっているのだから、それらしいこともちゃんと行っているようだ。

 一応城下の散策も市井調査の一環らしいし、遠駆けついでに新しく建設中の橋を見に行ったりもしている。

 今日もアデルバートが懇意にしている孤児院と教会の視察に出かける予定だった。


 ところが朝方になってアデルバートが熱を出したため、視察は急遽取りやめになったのだ。

 寝込んでしまったアデルバートが動けないのはもちろん、そうなるとルーカスもまたアデルバートの傍から梃子でも動かない。

 昔からルーカスは、アデルバートが寝込むと公務も何もかも放り出して愛息の傍から離れようとしなくなる。

 熱に浮かされるアデルバートの手を、祈るように握り続ける。

 今回も、氷嚢を取り換えたり汗を拭いてやったりとつきっきりで甲斐甲斐しく看病していた。

 夕方頃になって容態が落ち着くと手ずからリンゴを剥いてやった。

 皇帝が果物用ナイフを持つなんて普通なら考えられないが、元々刃物の扱いは得意だし、アデルバートのためなら何でもやる男なのだ、ルーカスは。

 やんわり拒否しなければ手ずから食べさせてやっていただろう。

 子どもの頃から知っているルーカスの「父親」の表情を見るのは、いつまで経っても慣れない。微笑ましくもあり、くすぐったくもある。

 年々マイペースさが増していくルーカスだが、結局、情の深い男なのだと思う。一度懐に入れた相手にはとことん甘い。

 ただし、カーティスを除く。


 などと考えていると、ノックのあと、当のカーティスが室内に入ってきた。

 手には書類の束を持っている。大方ルーカスの放り出した公務の尻ぬぐいをしていたのだろう。

 ルーカスに何事かを耳打ちし、鬱陶しそうにあしらわれていた。

 大の男のじゃれ合いに呆れながら、レベッカはアデルバートの額に乗せている氷嚢がほとんど解けてしまっていることに気付いた。

 そろそろ着替えもさせた方がいいかもしれない。

 容態も安定しているし、ルーカスの御守り(・・・・・・・・)もカーティスに任せて構わないだろう。

 新しい氷嚢と蒸しタオル、着替えを用意するためレベッカは一時退室した。


 その間の出来事だった。


 ルーカスが声を荒げたとき、寝室には二人の他にカーティスもいた。

 ならば一部始終を見ていたはずだ。

 あのあとルーカスは部屋を出ていき、残されたアデルバートに何があったのか尋ねても、教えてくれなかった。

 何でもないよと微笑むばかりで、けれど笑っているのにその笑顔はそれ以上の追及を拒んでいた。


 主が秘密にしたいことを暴くのは当然褒められた行為ではない。

 けれどこれは好奇心などではない。侍女として、主と皇帝の不和の原因を把握しておく義務がある。

 カーティスもそう思っているからこそ、夜中に尋ねてきたレベッカを追い返さなかったのだろう。

 人目を忍んだのは、皇太子付侍女頭と皇帝付近侍が二人きりで話していることを見られると、何事かと思われ他の臣下たちの動揺を招くと思ったからだ。


 そうしてカーティスからことの真相を聞いたレベッカは、彼の言うことをにわかには信じられなかった。

 現場を目の当たりにしたカーティスも、ルーカスさえも同じ気持ちだろう。

 信じられるわけない。

 健気でひたむきで責任感も強く常に自分より周りを気遣うことのできるアデルバートが、他でもない父に向かって「きっとそう永くない自分の代わりに(レオンハルト)を皇太子に立ててくれ」だなんて。

 アデルバートを目に入れても痛くないほど溺愛しているルーカスにとって、その願いはあまりにも残酷だ。


「皇太子殿下がそんなことをおっしゃる理由に何か心当たりはあるか?ここ最近は御体調も安定されていたと聞いているが……」

「まぁ……確かにここ最近は、ね。でも長い目で見ればよくなってる、とは言えないわ。それこそ、いつ何があって悪化してもおかしくはないわ。今日だって、運がよかっただけ。いつもだったらもう少し長引くもの」


 セイレーヌに来て以来、確かに滞在中の発作の頻度は減ったが、その分帝都との移動後必ず発症するようになった。

 しかも以前より長期化重篤化している。

 歳よりも大人びた容貌や物言いで忘れてしまいそうになるが、アデルバートはまだ十三歳。

 そのくらいの多感な年頃の少年ならば、長い闘病生活に将来を悲観しても仕方ないのかもしれない。

 特に彼は幼い頃から利発で空気を読むことにも長けている。

 両親や弟妹、臣下たちにまで気を遣い、普段は気丈に振る舞っていただけなのかもしれない。

 大人として侍女頭として、もっと彼の心情に気を配っておくべきだった。


「……そうか……」


 レベッカの返答に相槌を打ったカーティスは、深く息を吐く。

 普段からあまり表情を変えないカーティスにしては珍しく渋面だ。

 だがそれはただ単純にアデルバートの心身を案じている、というだけではないのだろう。

 カーティスにとって何より優先すべきはルーカスだ。

 きっと彼が一番に心配しているのはルーカスの精神状態だ。

 そんなに心配ならレベッカなんかと話していないで今すぐルーカスの元に飛んで行って一晩中手でも握って慰めてやればいいのに。

 ――なんて、やはり夜はいけない。余計なことまで考えてしまう。


「……最近、陛下は御心を乱されることが多いんだ」


 床を見つめ、カーティスが小さく呟く。

 話が済んだら出て行けと言われると思っていたから少し驚いた。

 絞り出すような呟きの内容にも。


「……そう」

「こちらに滞在中は随分落ち着かれているようだったが、やはり皇太子殿下に関することとなると……どうしても、な」

「相変わらずの親バカね」

「……そういう言い方はよせ」


 茶化すようなレベッカの言葉に、しかしカーティスは渋面のままだ。

 以前なら、困ったような気まずげな表情で窘めていたのに。

 今のカーティスはレベッカを見ていない。藍色の眸は床を見つめたままだ。


 だからこそレベッカは無遠慮なほどカーティスを見つめることができる。

 こんなにも近くでまじまじとカーティスの顔を見るのはいつぶりだろう。

 レベッカが皇城にいた頃から、近侍と侍女として業務上必要な会話をすることはあった。

 ルーカスがアデルバートと過ごす間、必ずと言っていいほど二人もその場に控えていた。


 けれどそれだけだ。

 軽口を叩いたり笑い合ったり、今更そんなことをする必要なんて本当はないのだ。

 レベッカの胸中で燻る寂寥に似た諦念など気付いた様子もなく、カーティスは暗い表情のまま続ける。


「城内では、アデルバート殿下の代わりに第二皇子殿下を立太子させるべきだという声が上がっている」

「え……」

「だから陛下は余計に過敏になっていらっしゃるんだ」


 皇城内の噂は、セイレーヌにいるレベッカの元には届いていない。

 教育係のポールは把握しているのかもしれないが、少なくともレベッカは知らない。

 「声」がどの程度の大きさなにかはわからないが、カーティスの口ぶりからするとそう楽観視できるものではないのかもしれない。


 もしかしたらアデルバート自身もその噂を知っているのかもしれない。

 賢い子だ。知っているのだとしたら、噂の理由も利点にも気付いていてもおかしくはない。

 皇太子の交代も、すべてわかったうえでの進言なのだろうか。


「それ……正妃殿下は何て?」

「……正妃殿下は第二皇子殿下を立太子させることに賛成らしい」

「そんな……」

「だから陛下は余計に意地になっていらっしゃるのかもしれない」

「……」


 ルーカスがアンジェリカと距離を置くようになって久しい。

 原因はルーカスの心変わりだとかアンジェリカの嫉妬だとかいろいろ噂されているけれど、そう単純な話ではないのだろう。

 少年時代のルーカスを知っている身としては、あの男がそう簡単に心変わりなんてするはずがないと思っていた。

 むしろ彼女への執着は、口や態度に出さない分年々酷く、複雑になっている気がする。

 俗な言い方をすれば「こじらせている」。

 自分は若い側妃を迎えて好き勝手しているくせに。

 だがその側妃さえも初めはアンジェリカへの当てつけのために迎えたようなものだった。

 そうやってアンジェリカのことを振り回してばかりいるところ、レベッカはずっと気に入らなかった。


 それでもふたりの間に何があったのか、ふたりのことはふたりにしかわからない。

 たとえどれほど敬愛し、どれだけ傍で尽くしたとしても。


「……正妃殿下の御実家……皇爵家は何と言っているの?」


 通常皇族の結婚は政略によるところが多い。

 皇家は国内外の有力貴族や他国の王族とのつながりを求めて。そして妃の生家は次代の皇帝を生み出す可能性を欲して。

 アンジェリカの生家であるサルヴァドーリ皇爵家もそのつもりだったはずだ。

 そしておそらくそれは、カーティスも望んでいることなのだと思っていた。


 カーティスが当主を務めるディルク侯爵家は、サルヴァドーリ皇爵家とは縁戚関係にあたる。

 そのためカーティスとアンジェリカには幼い頃から交流があり、その縁でカーティスはルーカスの近侍候補に名前が挙がったのだ。

 このままアデルバートが帝位につけば、カーティスは――ディルク侯爵家は皇帝の外戚となる。

 「皇帝付」近侍という役職上、カーティスはあくまでも中立を保ちどの皇妃、どの皇子皇女にも肩入れするようなことはない。

 だが本心ではアデルバートに帝位についてほしいと思っていてもおかしくない。

 そうなればきっとディルク侯爵家の――カーティスの地位はますます堅固なものとなるのだから。


 そんなふうに、いつの間にか打算でしか物事を測れなくなっている。

 だが侯爵となったこの男のことを、レベッカはもうよく知らないのだ。


 幼馴染だった。

 子どもの頃からいっしょにいた。

 いつだってレベッカの一番はカーティスだった。

 一度は将来を誓い合った。


 けれど今はもう、ふたりの間には何も無い。


 何ひとつ、残っていない。


「……ディートリヒ公は、陛下の御判断に従うと」

「……」

「元々公は権力に執着されるような御方ではないからな。正妃殿下をその座に据えたいと望んだのも、アマーリエ皇爵夫人の方だったようだ。ブラッドリー公爵が皇帝の外祖父になるようなことがなければ、誰が即位しても構わないんだろう」

「……そう」


 では、皇爵家何のためにアンジェリカを皇室へと嫁がせたのだろう。

 アンジェリカに何をさせたかったのか。


 正式な発表はルーカスが十の祝いを迎え立太子してすぐだったが、はとこ同士であるふたりの婚約は幼少期から内々に決まっていたらしい。

 先帝にはルーカス以外に子どもはおらず、よほどの問題がない限り彼の即位は確実と考えられていたはずだ。

 そんなルーカスの婚約者ともなれば次期正妃、ひいては皇太后となる未来も前提とされていただろうに。

 アンジェリカによく似たおもざしのサルヴァドーリ皇爵の考えていることが、わからなかった。


「……意外だな」

「え?」

「君はもっと怒るかと思った。どうしてアデルバート殿下を廃太子しようとするのか、と。……やはり君にとって、正妃殿下の御意志が最優先か?」

「……そんなんじゃないわ」


 問う声は平坦で、揶揄や皮肉は感じられなかった。

 それでも責められているように思うのは、レベッカ自身のうしろめたさのせいだろうか。

 あのとき選べなかった(・・・・・・)こと、今更責めてほしいのだろうか。


「わたしはもう、正妃付侍女じゃない。皇太子付侍女頭なの。だったら殿下の御意向に従い、その御心に添うことがわたしの務めよ」

「……そうか」


 レベッカの言葉に素直にただ頷くだけのカーティスに、無性に腹が立った。

 何が気に入らないのか、自分でもわからない。

 けれどその鉄仮面のような表情を崩したい。

 もっと、レベッカのことで困ればいいのに。

 そう思う衝動が抑えられない。


「だってもう、わたしには殿下しかいないんですもの」

「何……」

「あなたも正妃殿下も、わたしのことなんてもう要らないんでしょう」

「―――っ」


 ほら、やっぱり。息を呑むカーティスを見ても、気分は少しも晴れなかった。

 自分の愚かさを思い知らされただけだった。


 それでも止まらない。後悔するとわかっているのに。


「正妃殿下には感謝しているわ。あなたに捨てられたわたしを取り立ててくださったんですもの。その御恩を返すためにも誠心誠意お仕えしたわ。あの御方の傍にいられるなら、何も要らなかった。……それなのに……っ」


 あの日の絶望は、今も覚えている。

 忘れられない。


 アンジェリカが正妃となって以来、正妃付侍女として彼女に仕えていたレベッカは、アデルバートが五つになった頃第一皇子付侍女頭へと係替えになった。

 表向きには昇進だ。侍女頭となれば一代限りの「レディ」の称号も与えられる。

 けれどレベッカにとってそれは、死刑宣告にも等しかった。

 これからは、アンジェリカの侍女ではいられない。彼女のために生きることはできない。

 カーティスと袂を分かってまでアンジェリカに尽くしたのに、どうしてそんな、レベッカの想いを踏みにじるような真似をするのかと、恨みさえした。


 あの頃のレベッカにとって、アデルバートなんてどうでもよかった。

 息子などではなく、アンジェリカの傍にいたかったのに。

 アンジェリカがレベッカのすべてだったのに。


「……何を言っているんだ」


 子どもみたいな八つ当たりをされても迷惑だと怒られるかと思った。

 けれどカーティスが怒ったって、レベッカは少しも怖くない。

 どうせ口に出した言葉は戻らないのだ。こうなったらとことん醜態を晒してやる。


 だがそう思ったレベッカを見つめるカーティスの瞳は、困惑に満ちていた。


「私を捨てたのは君の方だろう……?」


 レベッカの知らない声色で、知らない表情で、カーティスは思いもよらないことを言った。

 どうしてそんなことを言うのか少しもわからなかった。


 捨てたのは、他の女と結婚したのはカーティスなのに。

 侯爵夫人の役目を果たせないなら、レベッカなど要らないと。

 だからレベッカはあのとき―――。


「城仕えを始めるときも正妃殿下の侍女を続けると決めたときも、君は私に何も話してくれなかったじゃないか……」

「カーティス……?」

「侍女を続けるか結婚するか決めてくれと言ったときも、君は私を選ばなかった……。選んでくれなかった」

「……っ」

「あのとき私がどんな気持ちで……っ」


 声を荒らげたカーティスはけれどすぐに我に返ったのか、ハッとしたように表情を強張らせて口を閉じる。

 痛みを耐えるように唇を噛むのは、幼い頃の彼の癖だ。

 言いたいこと、思っていることを胸の内に仕舞い込む。


 幼い頃からカーティスは温厚で口数の少ない子どもだった。

 レベッカの兄たちのようにいたずらや意地悪なんてしてこない、優しい子だった。

 常にレベッカの願いを優先してくれて、喧嘩をしても絶対にカーティスの方から折れてくれた。

 カーティスに要望を訊いても「レベッカがいい方でいいよ」と譲ってくれた。

 カーティスに優しくされることが幼い頃は単純に嬉しくて、けれどもどかしいと思うようになったのは、いつからだっただろう。


 長じるにつれて、いろんなことがわかるようになった。

 アカデミーに入学し、レベッカたちの世界は広がった。

 カーティスは、レベッカだけに優しかったわけじゃない。彼は誰にでも優しいのだ。

 優しくて、まじめで、責任感が強くて、自分より他人を尊重できる人。

 他人を思いやるがゆえに、自分の願いを口にできない。

 僕は大丈夫だよと困ったように微笑む。


 それがレベッカは本当は嫌だった。

 カーティスには、自分のことをもっと大事にしてほしかった。

 だからカーティスの代わりに、カーティスの分も、レベッカが怒ってきた。

 感情を吐露することが苦手だとカーティスが言うから、代わりにレベッカが怒ってあげた。泣いてあげた。

 全部、カーティスのためだった。

 そのつもり(・・・・・)だった。


 けれど本当は逆だったのかもしれない。

 レベッカが先に泣くから、怒るから、カーティスは思っていることも何も言えなかったのかもしれない。


 今更もう、答え合わせに意味はないけれど。 


「……わたしが正妃殿下の侍女になったのは、あなたに相応しい人間になりたかったからよ」


 驚いたようにカーティスの表情が強張る。

 カーティスはレベッカが何でもかんでも馬鹿みたいに思ったことをすぐ口に出していたと思っていたかもしれないけれど、レベッカにだって、カーティスに言えなかったことはある。

 いつまでも、幼いままではいられなかった。


 ずっと言えなかった。言わなくてもわかってほしかった。知られたくなかった。知られるのが恥ずかしかった。


 今となってはもう、どれが自分の本当の気持ちだったのかわからない。


 どうして人は忘れてしまうのだろう。

 どうして忘れられないのだろう。


「婚約者でもないたかが伯爵令嬢じゃ、皇太子殿下の友人でもある侯爵令息のあなたには相応しくないって、みんな(・・・)が言うから……」

 アカデミーにいた頃、いくら平等を謳っていたからといって、貴族社会の縮図であるあの場所で何のしがらみも隔たりもなく生きることは不可能だった。

 ただの伯爵令嬢でしかないレベッカが侯爵令息であったカーティスといることで、中傷や嫌がらせを受けることは少なくなかった。

 皇太子たるルーカスや皇爵令嬢のアンジェリカと交流するようになってからは、更に。


 まとわりつく密やかな、けれど確かな悪意に負けたくなかった。

 カーティスの隣にいて誰にも文句を言われない自分でありたかった。

 何よりレベッカのせいでカーティスまで侮られてしまうことになるなんて耐えられなかった。

 後宮侍女を志願したのは、数年後、アンジェリカが正妃になったときに専属侍女に取り立てもらえるかもしれないという目論みもあったためだ。

 正妃付侍女となれば社交界においても一目置かれる存在になれる。いずれカーティスと結婚し侯爵夫人となったときも、きっとその経歴は役に立つ。

 そんな独りよがりで浅はかな打算だった。


「誰がそんなことを……」

「みんな言っていたわ。気付いてなかった?……仕方ないわよね。あなたはいつも、陛下に夢中だったもの」

「……っ」

「あなたはもう、わたしに興味なんてないんだと思ってた」


 いつの間にかカーティスがレベッカに口うるさく言わなくなったのは、レベッカのやりたいようにさせてくれるようになったのは、レベッカのことがどうでもよくなったからなのだと思っていた。

 レベッカよりもルーカスの方が大切だからなのだと。


 それでも結婚するつもりでいてくれたことは嬉しかった。

 城仕えに猛反対する両親を説得してくれたことも。

 それが同情とか、幼馴染のよしみとか、腐れ縁とか、そういった類のものだとしても。レベッカだけがすきで、一緒にいたいと思っていたのだとしても。


「そんなわけないだろう……っ」

「……」


 たったひとこと、言えばよかった。訊けばよかった。すきなのだと、すきなのかと。

 そうすれば、ふたりで話し合えたのに。今と違う未来を見つけられたかもしれないのに。

 もうなにもかもが遅すぎた。


「君は……私よりあの子を選んだ……。あの子の傍にいる方が君にとっては大事だったんだろう……?だから私は……」


 まるでそうあってほしいかのように呟くカーティスを見て思い知る。

 あのときの報いを受けるべきときが今なのかと。


 カーティスの言っていることは半分正しくて、半分は間違っている。


 始まりは、確かに打算だった。彼女の厚意を利用しようとした。

 けれどそんなものは、彼女の傍で仕えているうちにすぐに吹き飛んでしまった。


 アンジェリカは、レベッカの女神だった。

 美しく気高く清廉な彼女に魅入られた。

 彼女のために生きたいと、そう思わせる『何か』が彼女にはあった。

 アンジェリカがレベッカを大事にしてくれればくれるほど、主人への敬愛は募っていった。

 正妃付侍女になった時点でレベッカの当初の目的は達成されたはずなのに、彼女の元から離れたくないと思うようになっていた。

 いつか(・・・)カーティスと結ばれる未来を描きながら、永遠にアンジェリカの傍にいたいと願っていた。


 アンジェリカが身籠ったタイミングで結婚するつもりだったのは、嘘じゃない。

 カーティスとの約束だったし、彼女と似たようなタイミングで身籠れば、乳母は無理でも生まれた子を遊び相手にできるかもしれないという打算もあった。

 そうすればもっと、カーティスの役に立てると。

 けれどルーカスが出兵で不在のなか、初めての妊娠で不安を抱えるアンジェリカのことを一人にはできなかった。


 常に凛として決して弱さなど見せなかったあのアンジェリカが、泣いていたのだ。

 不安で仕方ない。けれどこれは自分の役目だから。

 ルーカスが皇帝としての責務を果たしている今、自分は皇妃としての役目を全うしなければ彼に顔向けできないと、必死に不安を押し殺していた。

 彼女が妊娠をルーカスに知らせなかったのは、戦場にいる彼に心配をかけたくなかったからだ。

 知らせたところで帰れるわけではない。

 気をとられてもしものことがあってはいけないと、臣下たちに難く口止めした。

 それはルーカスへの愛情であり、彼女自身の誇りだった。

 まだ十九歳の少女だったアンジェリカは、骨の髄まで皇妃だったのだ。


 そんな彼女を支えたいと思った。自分の打算より、彼女の方が大切だった。

 あのときのレベッカは間違いなく、カーティスよりもアンジェリカを選んだのだ。

 アンジェリカのためにカーティスとの「約束」を破った。

 当時戦争中という国内の情勢を考えるとカーティスが強く言えないことをわかってうやむやにした。

 第二子が生まれるまで、と勝手に期間を引き延ばした。

 カーティスなら、わかってくれるはず、と何の確認もせず確証も無く自分を誤魔化して。


 そして二度目は、選べなかった。

 カーティスと結婚して侯爵家に入るか、カーティスと決別してアンジェリカの侍女として生きるか選択を迫られたとき、答えられなかった。


 アンジェリカもカーティスも同じくらい大事で、傍にいたくて、傍にいてほしくて、どちらかなんて選べなかった。だからカーティスに選ばせた。


 もしもあのときカーティスがレベッカじゃなければ嫌だと言えば、アンジェリカではなく自分を選べと言ってくれれば、レベッカはきっとその手をとった。

 だけど現実には、カーティスは侯爵夫人の役目を果たせる別の女性を選んだ。

 侯爵夫人になれないレベッカはもう要らないのだと悟った。


 けれどカーティスは、レベッカが彼を捨ててアンジェリカを選んだと思っていたのだと言う。

 あの日からずっとすれ違ったままだったとことに、ふたりは今日まで少しも気付いていなかった。

 当然だ。

 お互い何も言わなかったのだから、気付くすべもない。


 いつもそうだ。


 お互いのこと、わかったつもりになって、勝手に通じ合えている気になって、肝心なことは何も伝えられないからこうしてすれ違う。

 すれ違いだと気付くには、もう何もかも遅すぎる。


「……違うって言ったら、あなたはどうするの?」

「―――っ」


 カーティスの藍色の目が戸惑いに揺れ、表情が歪む。

 そのことでこんなにも胸が震える。

 満たされていく。


 そんなレベッカは、カーティスの傍にいてはいけない。


「どうして今更そんな……惑わすようなことを言うんだ……」


 前髪をくしゃりと握りつぶしうなだれるカーティスに、謝る以外に何が言えただろう。

 けれど謝りたくなんてなかったから、結局何も言えなかった。


「……私には……妻と娘を裏切ることなどできない」

「向こうがあなたを裏切っていたとしても?」

「―――っ」


 最低な侮辱を口にした。

 ディルク侯爵夫人の奔放さ(・・・)は、社交界でも有名な噂話だ。


 もうすぐ十二歳になる侯爵令嬢が夫人に似ていることで、夫人はさぞや安堵したことだろう。

 次に生まれる侯爵夫人の子は、何色の瞳をしているだろうか。


 そんな品の無い噂話を、カーティスも知らないわけないのに。それでもふたりは夫婦を続けている。

 それがすべての答えだ。ふたりのことは、ふたりにしかわからない。


 レベッカの言葉に、カーティスは怒らなかった。

 けれどレベッカを見つめる藍色の眸には、確かな失望が滲んでいた。


 それでいい。

 そんなカーティスだから、すきだったのだ。

 真面目で融通が利かなくて主君に忠実で自分より周りを大切にする誰より優しいカーティスに、レベッカは相応しくないのだ。


「……そんな怖い表情しないで頂戴」」

「……」

「冗談よ。気に障ったなら謝るわ」

「……変わったな、君」

「今更ですわ、ディルク卿(・・・・・)


 名前ではなく、公称を口にした唇を歪めて微笑う。

 きっと今自分は、世界で一番醜い表情をしているのだろうと思った。


「……ついつい長居をしてしまいました。遅くまで申し訳ありません。そろそろ失礼します」

「……あぁ」

「御滞在中の陛下の御様子には、わたくしの方でも気を配るようにしておくので、また何かございましたら教えていただけると助かります」

「……あぁ。よろしく頼む」


 カーティスは急に態度を改めたレベッカに何か言いたげな表情を見せながらも結局は口を噤んだ。

 賢明な判断だ。これ以上踏み込んでも、どうにもならない。

 ふたりで堕ちていくことができたとしても、それがレベッカにとっては幸せだとしても、きっとカーティスは幸せになれない。


 まずカーティスが扉を開け、廊下に人がいないことを確認し、レベッカは退室した。

 疚しいことなど何もないのに、悪いことをしているみたいだ。


 扉が閉まりきるのを待たず、足早に立ち去る。

 誰かに見られる前に、一人になりたかった。



【本編に出てこない設定】 


レベッカと別れたあと、カーティスは五つ歳下の侯爵令嬢 (エリアーデ)と結婚。エリアーデは優秀で侯爵夫人としては申し分なく、翌年長女も生まれて順風満帆に思えたが、側妃が増えたり減ったり皇子が生まれたりルーカスが使い物にならなくなったりで「後宮」内が混乱し、カーティスは次第に家庭を顧みなくなる。帰ってこない夫への当てつけのように火遊びを繰り返すエリアーデ。夜会に出ては若い男を侍らすように。そのときの相手の一人がジャン。社交界でも噂になり、レベッカの耳にも入るように。当初レベッカのジャンへの当たりが強かったのはそのため。ジャンのことを「カーティスの家庭を壊す不埒者」だと思っていたから。カーティスも噂は知っていたけれど、公私混同はせず文官としてのジャンを正当に評価していた。ある意味カーティスの方がやべぇ。ちなみにエリアーデはミゲル兄様にもちょっかい出そうとしてましたが、相手にされませんでした。


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